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青の時代 4  作者: 森 鉛
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第七章 赤と黒 第五話

 翌朝、アルフリートはメレディスら閣僚と共に朝食を取っていた。彼が手に入れた情報が全て公の物となった以上、アルフリートの生命が脅かされる可能性は格段に低くなっていたが、メレディスはそれでも警戒を弛める事は無かった。前日の様に足の踏み場も無い程騎士達が雑魚寝する所まではいかなかったが、国王の寝室にソファーを運び入れ、数人の騎士達が軍装を解かず眠りについた。控えの間にも不寝番が待機し、交替で夜を明かしたが、襲撃の恐れが少なくなった事で、他の者は皆ぐっすりと休めたようであった。それまでぴりぴりとした雰囲気を漂わせていたロベルトやタウンゼントにも、ようやく笑顔が戻って来ていた。

 戴冠式や除幕式など、公式のスケジュールは全て午後からとなっており、一同はのんびりと朝の食事を楽しんでいた。不寝番の騎士の話によれば、昨夜もプロタリア閣僚は忙しく働いていたらしく、廊下からは小さな話し声や足音が朝まで聞こえて来たとの事であった。急な予定の変更は彼等に眠る時間も与えてはくれなかったようだ。

 ぽっかりと開いた時間をどうしようかと、ぼんやりと考えていたアルフリートがふいに思い出す。

「あ、フランクに小遣いを貰ってたんだっけ。…どうしようかな」

 内務長官フランク・ハーバートは主計局長に働きかけ、アルフリートの為に臨時の私費を捻出してくれていた。出立の前日、彼はわずかな金貨を国王に手渡しながら、「これでシルヴァ様に何か土産でもお求めになっておやりなさいませ」と囁いた。世話焼きのおばさんのような振る舞いではあるが、そういった細かな気配りの出来るフランクは、婚約者の身が心配でならぬシルヴァの様子を見て不憫に思ったのだろう。

 アルフリートは有難くそれを受け取ったが、プロタリアに入ってからのゴタゴタ続きにすっかり忘れてしまっていたようだ。その話を聞いたメレディスとヴィンセントは口を揃えて言った。

「午前中に街に買物に出ましょう。必ずお土産をご用意下さい、絶対にです」

 強くそう主張する二人に気押されて、アルフリートはあいまいに頷く。ヴィンセントは元より、それなりの恋愛経験のあるメレディスもロベルトも、国王が思い出してくれた事にほっと胸を撫で下ろしていた。シルヴァはアルフリートが無事で戻りさえすれば、何も不満など無いであろう事は分かっていたが、そこは女心というヤツである。ヴィンセントは余計な事だとは思いつつもさらに付け加える。

「お帰りになったらシルヴァ様に『ずっと君の事ばかり考えていたよ』とかなんとかおっしゃってあげて下さいね。ああそんな顔をなさらないで、お気持ちは分かりますけれど、女性とはそういった物なんですからね」

 有無を言わせぬヴィンセントの台詞に複雑そうな表情を浮かべるアルフリート。乳兄弟として長い付き合いのある二人は、そういったあからさまな愛の言葉など今さら交わす事は少なかった。アルフリートは口が達者であるから、幾らでも歯の浮く台詞を並べられただろうが、あらためて考えると幾分恥ずかしい気持ちになって来ていた。そんな国王にお構いなく、ヴィンセントらはさっそく市街の地図を広げ、買物の計画を練り始める。リサや二人の侍女も加わり、何やら大騒ぎになって来た彼等を眺め、アルフリートは行儀悪くコーヒーをすすっていた。


 帝都の繁華街はにぎわいを見せていた。プロタリア全土が喪に服している中、恐らくはそれでもいつもよりは静かなのであろうが、トランセリアの人々からすれば大層な人出だと感じられた。

 アルフリートはメレディスとレイナードら数人の護衛を従え、にこにこと嬉しそうに通りを散策する。セラとシンシアも割り符の保管のお礼にと、何かアクセサリーなどを買って貰える事になり、若い女性らしく忙しく道沿いの店を覗きながら着いて来ていた。

 各国の訪問団に同行した騎士や従者達も、家族や恋人に土産など買い求めに来て居るのだろう、あちらこちらに他国の人間がひと固まりとなって歩いているのが目に入った。彼等はトランセリアの国王がこのような下町を歩いて居る事に気付くと一瞬ぎょっとした表情を見せ、続いて道を開けて静かに目礼をする。確かに王族や貴族が買物に出向くような場所では無かったが、アルフリートにしてみれば、街の規模は違えどそれは幼い頃から慣れ親しんだ風景であった。

 一行は通りにリグノリアのウォルフとクレアの姿を見つける。生っ粋のお姫様育ちであるクレアはしっかりと夫の腕に掴まり、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していたが、その表情はとても朗らかで、あれこれとウォルフに話し掛けてはその度に彼の大きな身体を屈めさせていた。

 アルフリートに声を掛けられたウォルフは幾分照れ臭そうに挨拶を交わす。プロタリア生まれの彼が新妻の為に何か贈り物をしようと連れ立ったのだろう。貧乏なトランセリア同様、戦後の緊縮財政の最中にあるリグノリアでは王族と言えど懐具合は寂しいらしく、庶民の出歩く下町での買い物となったようだ。現に大国グローリンドのレオン王子は、王宮で高級な宝飾店から出向いた商人相手に、三人の姉妹達の土産の品定めをしている真っ最中であった。

 クレアはセラやシンシアと店先に並ぶ服や小物などを手に取ってははしゃいでいる。その姿を眺めながら、ウォルフは顔馴染みのメレディスに胸の内を漏らす。

「今、前の妻の墓参りをして来た所です。…ようやく胸のつかえが取れたような気がしています。自分はこれでやっとリグノリアの人間になれたと思えます」

 その言葉にメレディスの柔和な瞳がさらに細められる。笑顔ではしゃぐクレアの明るい様子からも、二人が仲睦まじい夫婦である事が伺えた。


 一行がヴィンセントの紹介した宝飾店に到着すると、ちょうど店の中から当人がリサと共に出て来た所だった。アルフリートに気付いた二人は明らかに動揺しており、別行動を取った理由がついにプロポーズ用の指輪を買う為だったのかと皆一様に考えた。しかし次の瞬間にその予想は打ち消される。続いてシンの大きな身体が店の入口から現れたからだ。目の前に居る一同に彼はヴィンセント以上に驚き、あやうく手に持った小さな包みを取り落とす所だった。

 シンは熱を出して寝込んでいるアイリーンを王宮に残し、彼女の為に指輪を買いにやって来ていたのである。結婚式の際に妻に何も贈ってやる事の出来なかった彼は、毎月支払われるわずかな給料のほとんどに手を付けず、いつか指輪をプレゼントしてやろうと貯金をしていた。ヴィンセントとリサは彼に相談を受け、三人でこっそりとこの店を訪れたのだった。ヴィンセントが小さくぼやく。

「だから早くしないと陛下が来ちゃうって言ったんだよ…」

 リサの手にも買い物をした袋が握られ、彼女もしっかりとヴィンセントにおねだりをしたようであった。アルフリートは笑いを堪えながらシンに告げる。

「早くアイリーンの所に戻ってあげなよ。きっと寂しがっているだろうから」

「も…申し訳ありません陛下。お先に失礼します」

 生真面目にそう言って立ち去るシンを、ヴィンセントとリサが照れ笑いと共に追う。小さいが品数の豊富なその店で、アルフリートはなんとかシルヴァの気に入りそうなアクセサリーを見つけ出す。セラとシンシアもそれぞれ褒美の品を手に入れ、クレアもいつの間にかウォルフに指輪を買ってもらう事に成功していた。上機嫌の女性達とは対照的に、並んで支払いをするアルフリートとウォルフは、幾分気疲れした様に小さくため息をついていた。



 王宮の裏手にある歴代の皇帝の墓地に、一際大きく真新しいハウザーの墓碑が建てられている。各国の来賓がその除幕式を見守り、続いて父の墓前でエリザベートの仮の戴冠式も行われた。正式な儀式はいずれ盛大に執り行われるであろうが、まずは混乱する国内をまとめる為の新皇帝が、何を置いても必要であった。

 プロタリアの歴史上初の女帝の誕生であり、うやうやしく彼女の頭上に差し出された王冠は男性用で大きく、かつ重く、エリザベートはよろけそうになっていた。皇帝の重厚なマントが華奢なその肩に掛けられ、物理的な重量と責任の重大さとで彼女の顔は紙の様に白く、青ざめているようにさえ見えた。居並ぶ列強の来賓達に向かいエリザベートがか細い声で挨拶をする。

「……た、只今、…わたくしエリザベート・フローレンス・ディヒト・プロタリアスは、プロタリア第四十六代皇帝に即位致しました。……女の身であり、様々な特例を以てしての皇帝ではございますが、閣僚の皆と手を携え、プロタリア帝国を繁栄へと導き、国土と国民の末永い安寧をここに誓います。御列席の各国の皆様のお力添えを、合わせてお願い致します。若輩で未だ至らぬ身ではございますが、全力を持ちまして大陸の平和と共栄へと邁進する所存でございます。どうか御協力を願い上げたく存じ上げます」

 短かな挨拶を終え、エリザベートはよろよろと歩いて椅子に腰掛けると小さく息をついた。

 続いて来賓を代表してアルフリートが墓前に進み出た。事前の予定では除幕式典の挨拶は彼では無かったのだが、ミハイルの陰謀を無事に防ぎ、混乱の場を取り仕切ったトランセリアの国王に、何の名誉も与えずに帰す事などプロタリアの閣僚には出来なかった。今回の葬儀の主役はハウザー以上にこの若き王である事は、誰の目から見ても明らかであり、最後の公式行事であるこの式典のいわゆる『締め』の役目を、エリザベートは彼に依頼した。

 アルフリートは突然の要請に慌てる事も緊張もせず、(どうせイグナートの主賓にでも頼んであったんだろうさ…)と内心思いながら、真面目な面持ちで型通りの祝いの言葉を新皇帝に述べた後、懐から小さく折畳んだ紙を取り出し、言った。

「突然の御依頼でございましたので、亡きハウザー皇帝陛下の墓前に捧げるべき言葉を用意致しておりませんでした。幾分異例とは存じ上げますが、祖父アーロンより墓前に手向けるようメッセージを預かっておりますので、ここに読み上げたく存じます」

 小さくざわめく場を前に、アルフリートの声が人々の耳にはっきりと届く。

「プロタリア帝国第四十五代皇帝、ハウザー・ベルンハルト・ダーグ・プロタリアス陛下の御崩御にあたり、ここに哀悼の意を表すると共に、故人の類い稀なる才覚と情熱とを惜しむ物也。彼こそがまさに一片の疑いも無く、最もプロタリア国土と国民を愛した人物であり、大陸史上稀に見る傑物であった。いつか天上のその御許へと向かい、再び相まみえ、共に美酒を酌み交わせん事を切に願う物也。トランセリア王国第二代国王、アーロン・リーベンバーグ」

 言葉を終えたアルフリートは一同に頭を下げ、エリザベートにも一礼すると静かに自分の席に戻る。遅れて起きた拍手が鳴り止まぬ中、プロタリアの閣僚が深々と頭を垂れる。大陸にも類を見ない弱冠十七歳の女帝が誕生したと同時に、混乱と惨劇の国葬はこうして幕を閉じた。


 用意してあった馬車に挨拶もそこそこにアルフリートは飛び乗り、帰国の途に着いた。予定より一日滞在が伸びてしまい、とてももう一泊していく余裕は彼には無かった。それでもプロタリア閣僚からは丁寧な礼と見送りを受け、幾分時間を取られはしたのだった。

 エリザベートは挨拶を告げた後、小声でこうアルフリートに囁く。

「ここまでお世話になった陛下に、今さら恨み言を申し上げるつもりではございませんが、アルフリート様ははじめからわたくしを引っ掛けるおつもりで、そのペンダントをご用意なさったんですのね。…シルヴァ様に口止めされていらっしゃるというのも嘘だったのでございましょう?」

 かすかに頬を膨らませ、アルフリートの胸元のペンダントを指差すエリザベートに、くすくすと笑いながら彼は答える。

「皇帝陛下に対して大変失礼な事を致しました。おっしゃる通りですが、シルヴァが片割れを持っているというのは本当でございますよ。早く帰って安心させてやらないといけませんので、あまり長くお話が出来なくて残念ですが…」

 話を切り上げようとするアルフリートに、エリザベートは食い下がる。

「そうでございましたか。…陛下、お急ぎの所申し訳ございませんが、もうひとつだけ御相談に乗って下さいませ。その…、ミハイルとオリヴィア様の遺体を同じ場所に埋葬してあげようと考えているのですが…、陛下ならどう御判断なさいますか?」

 アルフリートは一瞬考えてから口を開く。

「……私もそれがいいと思います。ただオリヴィア様はイグナートの公女でいらっしゃいますから、独断で進めるべき事ではございませんでしょうが。…二人の事情を考えれば哀れと思える部分もございます故、そうしてやる事が人の情に適った方法かと存じます。エリザベート様の御厚情の深さには感服致します」

 得心する彼女に暇を告げ、馬車に乗り込むアルフリート。何度も頭を下げるプロタリアの人々を後に、馬車はゆっくりと市街を抜けて行く。窓の外を流れて行く景色をぼんやりと眺めながら、アルフリートはつくづく思い知らされていた。

(人間ってのは会ってみなきゃ分からないもんだなぁ…)

 レオンにせよエリザベートにせよ、事前に聞いていた情報とはやはり印象が異なっていた。レオンはもっと線の細いお坊っちゃんだろうと予想していたし、エリザベートに至っては、彼はほとんど意識してもいなかった。四人の皇女達それぞれの夫に関してはきちんと調べを済ませてはいたが、当の本人達が国政に関わって来るとは考えていなかったのだ。ましてやお転婆でわがままで、いかにもイメージ通りのお姫様であるエリザベートが、プロタリアの皇帝位に昇るなど誰が予見しえたであろう。

 ハウザーが末娘にどれ程の期待を掛けていたかは、最早知る術も無いが、アルフリートはあの新しい女帝は意外に国をまとめ上げる力がありそうだと考えていた。頭の回転が早く、観察力もある。人心掌握にも長けていそうであったし、行動力もなかなかの物だった。今後のプロタリアと自国の関係、そしてグローリンドやイグナートを始めとする大陸各国のパワーバランスに思いを巡らし、馬車から外を見つめたままじっと身じろぎもしない彼に、アイリーンがおずおずと話し掛ける。

「……陛下、少しよろしゅうございますか」

「……何?アイリーン。…あ、ごめん。また怖い顔してた?」

 アルフリートは考え事をしている間、眉間に皺を寄せて不機嫌そうな顔をしているらしい。シルヴァに良く指摘されるのだが当人は無意識でやっている事であり、直そうにも直せなかった。そう返事をした後で彼は、盲目のアイリーンにそんな細かな表情まで分かる訳は無いと気付き、重ねて謝る。

「ご、ごめん。…そうじゃないよね、ちょっと考え事してて……」

「お気遣い申し訳無く存じます。…少々お悩み事かとも思いましたが。陛下、わたくしがお邪魔を致しているようでしたら、御遠慮なくおっしゃって下さいませ」

 アイリーンはまだ熱が残っており、毛布とクッションで簡単なベッドをしつらえた国王の座席で横になっていた。アルフリートとシンシアが向いの席に並んで腰掛けており、彼女は何度も遠慮した末にそこに落ち着いた。

 もう一人の侍女セラはヴィンセントとリサの馬車に乗っており、恋人同士である二人にさぞかし当てられるだろうと彼女は覚悟をしていたのだが、ヴィンセントは馬車が走り出すやいなや居眠りをし始めた。元々多忙な外交行事に加え、プロタリア大使の経験がある彼は、滞在中に頻繁に騎士達から王宮内外の地理を尋ねられ、まともに睡眠を取る事も出来なかったようだ。優しげな眼差しでその寝顔を見つめるリサにも、やがて睡魔が訪れ、馬車の中の三人ともぐっすりと寝入ってしまっていた。

 アルフリートの馬車で身体を横たえるアイリーンの左手には、さっそくシンの贈った指輪が光っている。併走する馬上で手綱を握るシンは指輪をしていない所を見ると、おそらく一人分しか予算が無かったのだろう。もしペアで買ったとしたならばアイリーンが必ずはめさせる筈であり、シンが恥ずかしがったとしても彼が妻のお願いに首を横に振る訳が無いからである。しきりと指輪に触れては嬉しそうに微笑むアイリーンに、アルフリートが話し掛ける。

「良かったねアイリーン、それ…サイズは合ってたの?」

「あ…はい。ぴったりでした」

 頬を染め答えるアイリーンにアルフリートは感心する。彼はシルヴァの指のサイズなど知らなかった。

「ふーん……えらいなぁシンは。俺はヴィンセントやメレディスに言われる迄、お土産の事なんか考えもしなかったよ。店に行っても何を買えばいいのかさっぱり分からないし…」

「シンもヴィンセント様に相談したようでしたから…。それに愛する人から贈られた物なら、女性はどんな物でも嬉しいのですから、きっとシルヴァ様もお喜びになりますでしょう」

 そう言ってますます顔を赤らめるアイリーンを、シンシアが羨ましそうに見つめ、アルフリートは一層感心する。

「今回はアイリーンが居てくれて本当に助かったよ。あなたにも何かお礼をしようと思ってたんだけど…、ごめんねお金が足りなくなっちゃって」

「わたくしは陛下に剣を捧げた身でございます故、そのようなお気遣いなど無用でございます。剣の主の為に働く事がわたくしの喜びでございますから」

 その言葉に照れ臭そうに微笑むアルフリート。彼はまだ剣の誓いをした主従関係に慣れていないようであった。少しの沈黙の後、アイリーンが静かに口を開く。

「……皆が大きな怪我もせず、無事に帰国の途に着けて何よりでございますね。…出立前の陛下は大変厳しいお考えのようでございましたけれども、陛下の御活躍振りは素晴らしい物でございました」

「う〜ん、そうだなぁ……。予定外だったのはエリザベートぐらいかな?あそこまで彼女が表に出て来るとは思って無かったなぁ…。実を言うと今回の件で一番ネックになったのはハウザーのじいさんなんだよ」

「……?どういう意味でございましょう?」

「じいさんがウチにレイナードを差し向けただろ、それで本来プロタリア皇帝対ミハイル、イグナート連合だったのが、トランセリアが一枚噛んでいるって事態になったんだ。ホントならウチは知らんぷりして水面下で動けば良かったのに、ハウザーのじいさんに舞台に引っ張り上げられた形になっちゃった。これが一番ヤバかった。そうじゃなければあそこまで国の守りを固める必要なんか無かったんだよ、最悪の場合全面戦争も想定したからね。まったく最後の最後まで難題を吹っ掛けてくれるもんだと思ったよ。その上ウチのじいちゃんまでたき付けて、俺の尻を叩きに来させやがった。あれは絶対に皇帝から情報が行ったんだよ。いくら元国王だってそこまでの情報網なんか持ってる訳無いんだから」

 まくしたてるアルフリートに、アイリーンはうんうんと頷きつつ答える。

「なるほどそういう事でございますか……陛下の達見にはいつも感服致します。それに、あのお言葉には感激致しました」

「………?」

「ミハイル様に対して毅然と『民を犠牲にした事など一度も無い』とおっしゃられた言葉でございます。わたくしはその時まだ扉の外におりましたが、はっきりと耳に届きました。陛下の家臣である事を心から誇りに思いました」

「あああれ。………え〜と、…ごめん嘘」

「……………え?」

 アイリーンは開いた口が塞がらないという表現の通り、ぽかんと口を開いたまま呆然としてしまっている。アルフリートはバツが悪そうに言う。

「いや、まるっきりデタラメって訳でも無いけど……アイリーン、そんなにものすごく複雑そうな顔をしなくても」

「ど………どういった……こ…ことでしょう…か」

 やっと言葉を口にした彼女は、確かに怒っているのか悲しんでいるのか、なんとも言い様の無い表情を浮かべていた。アルフリートはいたずらっぽい笑顔を浮かべて話し始める。

「そうだなぁ…なんて説明すればいいか。…もちろん俺は国民を裏切ったり踏みにじったりはしていないよ。自分に出来る限りの善政を行っている自信はあるけど、犠牲と言う言葉の意味を突き詰めて考えると、必ずしもそう言い切れない部分はあるかなぁ。まぁあの場ではあれがベストの選択だとは思ってるけれどね。……例えば王宮の廊下で襲撃を受けた時に、兵は俺を守って闘ったよね。運良く被害は小さかったけど、場合によっては死者が出る可能性だってある。俺の命令で戦だってするし、国王の暮らしを支える為に毎日多くの人が働いている。他の国に比べればウチなんか少ない方だけど、王政を維持する為のシステムには、大也小也そうした犠牲が不可欠になってるんだね」

「け…けれど騎士が国王を守って命を落とすのは当然の事です。それが彼等の職務ですし、わたくしとて陛下の為にこの身を盾にする覚悟でおります。…それは犠牲とは言えないのでは無いでしょうか」

 アイリーンもようやく立ち直って反論を口にする。早口の国王につられたのか、普段の彼女からすれば随分とくだけた口調であり、アルフリートは何やら嬉しそうにしている。

「うん、まぁ今言ったのは極論に近いかな。確かに彼等はそれが仕事だからね。……もうすぐ冬が来るだろ、セリア山脈はもう雪で真っ白になってる。毎年冬を越せずに死んで行く年寄りや子供が、トランセリアにはまだ居るんだよ。今年も対策は立ててるんだけれど、それでも無くなりはしない。そこまでの予算は無いし、運不運もある。そんな真冬でも俺は暖かな王宮で暮らす事が出来る。国王としての義務を背負っているとはいえ、彼等の命と天秤に掛けられる程じゃ無いだろう。たとえ王政以外の政治システムを選んだとしても、真の意味での平等は存在しないのだろうと思う事もあるよ」

「それでも…」

 いつの間にかアイリーンは身体を起こしていた。白く美しいかんばせをアルフリートに向け、彼女は強く言った。

「それでも陛下が素晴らしい王である事は間違い無い事です。他国の王族や貴族で、陛下が今おっしゃられた様な事を考えている者など一人とて居りますまい。…わたくしは以前にシンから聞いて感心した事がございます。セリアノートには物乞いや浮浪児が全く見当たらないとの事でした。イグナートでは一本裏道に入れば、親を失って路上で生活する子供がたくさんおりました。陛下はどの国の王よりも善政を為さっておいでです」

「ありがとうアイリーン。……まぁ首都以外の町や村にはまだ幾らか居るんだけど、福祉政策は親父の時代からやってるから、大分効果が上がって来たとは思ってる。それでも二十年以上掛かったんだ、もっと早くから手を着けていれば、今頃立派な大人になっている筈の人間だっていただろう。ウチは人材だけが頼みの綱だからね、まだまだ問題は山積みだよ」

 そう言って微笑むアルフリートは、いつもよりも少しだけ大人びた表情を浮かべていた。


 馬車に揺られながら、アイリーンがぽつりぽつりと自らの思いを語る。

「もしもあの二人が……、ミハイル様とオリヴィア様のどちらかがトランセリアの国民であったら、こんな悲劇は起こらなかったのかもしれませんね。…過ぎてしまった事を言っても、今さら仕方の無い事ですけれど。……彼等とて始めから、あのような陰謀を企てるつもりなど無かったでしょうに…。何処で道を踏み外してしまったのか。ただお互いを愛しただけの二人が、何故あそこまで思い詰めてしまったのでしょうか…」

 アルフリートはじっとその言葉に耳を傾けている。しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと話し始める。

「……人間ってのはいっぺんに二つの物を手に入れる事が出来ないのかもしれないね。皇帝の地位と恋人と…二つを同時に自分の物としようとした時から、彼等の悲劇が始まったんじゃないかな。……ミハイルもオリヴィアも歳は若かったけれど、古い国の考え方しか出来なかったのかな?意味の無い因習や絡み合った地縁、複雑な貴族社会の力関係なんかに囚われたまま、そこから自分達を解放する術に気付かなかったんだろうな。…皇帝だろうと国王だろうと、相手に真直ぐに自分達の考えをぶつけてみれば良かったんだよ。一回じゃダメかもしんないけど、手を変え品を変えて当たって行けばなんとかなったと思うんだけどな。ミハイルは仮にも伯爵家の血筋なんだから、可能性の低い縁談じゃ無いと思うし、本人の実力だってあったんだから。……時間ってのはホントに怖いと思うよ。積み重なった歴史がそうと気付かない内に人の心まで縛っていく。当たり前だと思い込んでいる事が、実はそうじゃないという事に思い当たるのは至難の技だ。今そう話している俺だって例外じゃ無いだろう。思考に枷を嵌めないように気を付けてはいるけれどもね。人は考える事ですら真の自由には辿り着けないのかもしれないなぁ……」

 独り言の様にぼそぼそと考えを口にするアルフリートのその言葉を、アイリーンは不思議な思いで聞いていた。目の前の若い王は、まるで年老いた哲学者でもあるかのように、誰にともなく自らの考えを語っている。普段の行儀が悪く、いたずら好きな少年のごとき振る舞いとのギャップの大きさに、アルフリートの底の知れなさを垣間見たアイリーンは、初めて彼と会ってから何度も味わって来た思いをまた新たに噛み締めていた。

(陛下は…いつか大陸を一つにまとめる事の出来る器でいらっしゃる……)

 そんなアイリーンの心中に気付く訳も無く、窓の外に目をやるアルフリートはまた新たな思索に耽っていた。

 アルフリートはアイリーンやシンとこうして取り留めの無い話をするのが好きだった。あまり政治に詳しく無い二人の素朴な疑問に答える事で、自らの考えをまとめたり、思い掛けない事に気付かされたりするのが楽しみだった。

 何もかも知り尽くしたユースト相手では、聡明過ぎて一瞬で会話が終了してしまい、シルヴァとて軍務長官として政治家の一面も持ち合わせているから、結果は同じような物であった。まして彼女は生まれた時からアルフリートを知っている人物であり、自分の半身とすら言える婚約者はこういった会話には不向きであった。子供の頃、友達や先生を相手に話した事を思い出し、あの頃から自分のスタイルは変わっていないのだと、アルフリートは懐かしく思っていた。


 陽が次第に西に傾き、馬車は今夜の宿である小さな村へと入って行く。往路で泊まったあの村に帰路も宿泊する事になったのは、アルフリートがそう希望したからだった。村の夕食に出された名物料理のパイ包みのシチューを、彼は大層気に入ってしまい、是非もう一度食べたいと言い出したのだ。本来なら警護の都合上、別の宿泊先を選ぶべきだったのだが、事が解決してしまった今となっては暗殺の危険も低く、メレディスはあっさりと了承した。彼もそのシチューは気に入っていたようだ。

 二度も滞在してくれるトランセリア一行を村人は総出で出迎え、村長はこれ以上無い程の満面の笑みを浮かべて挨拶をする。国王の為に腕によりを掛けて作られたシチューをアルフリートは三杯も平らげ、上機嫌で床に就いた。

 慎重なロベルトは以前と違う部屋を国王の寝室に選び、ベッドの位置もわざわざ変えて警護に万全を尽くす。明日の朝には国境を越えられる筈であり、ここまで来て手抜かりをする訳にはいかなかった。トランセリアの騎士達にとって、最後の緊張の夜が更けて行く。



 同日の深夜、トランセリア王宮の国王執務室で、アンドリューも代行として最後の夜を迎えていた。既に事態が解決し、アルフリートが帝都を発った事はユーストより伝えられており、彼も随分と安堵していた。シルヴァの命により、自由国境地帯の街道筋には第三軍の騎士達が分隊単位で細長く配備され、帰路の安全を守っており、明日国境を越えてしまえばもう不安材料は皆無と言って良かった。

 侍女も帰らせ、一人で執務室に残っていたアンドリューの元に、ある人物が訪れる。シルヴァの副官、セリカ・トレディアが甲冑を身に纏ったまま姿を見せた。

「……失礼致します代行閣下。まだ、お休みになりませんので?」

 礼儀正しく敬礼と共にそう問い掛ける彼女に、アンドリューは懐かしそうな表情を浮かべ、彼にしては珍しく、幾分固い口調で返答する。

「ああ、お役目ご苦労様。もうしばらくしたら戻ります、君も休んでくれて構わないから」

「かしこまりました。…控えの間に居りますので、お帰りの際は一言お声をお掛け下さい」

「分かりました。……ああセリカ、今回の代行は特別な事情があっての事だから、明日を過ぎればもう私がこの部屋に出入りする事も無いと思うから。……安心してくれていい」

 その言葉に立ち止まり、長い沈黙の後言葉を発するセリカ。ランプの光が届かぬ薄暗い部屋の隅で、彼女の表情は掴めない。

「……そのような事は、……考えておりませんので。……職務でございますから」

「…そうか、…それならいいけど。……気を遣わせてしまったのかと思って、シルヴァにも迷惑を掛けていないかと…」

「シルヴァ様には……全て……お話ししておりますけれど。…何もおっしゃってはおられませんでした……」

「…そうか、……アルフには?」

「陛下には……何も……」

「…そうか」

 アンドリューがゆっくりと立ち上がり、静かに扉に歩み寄る。セリカは黙ったままじっと佇んでいる。

「……もう戻るとするよ、あまり遅くまで居座っては衛兵も迷惑だろう」

「…それが、我々の仕事で…ございますから」

「……セリカ、…聞いてくれ。……あの時は未練がましくて、申し訳なかったと思っている。……一言、君に…謝りたかった。……済まなかった」

 かすかな笑顔を浮かべてそう言い、セリカに向き合ったアンドリューは、彼女の頬が涙で濡れている事に初めて気付いた。顔を上げたまま身じろぎもせずに彼を見つめるセリカは、いつもの落ち着き払った騎士の顔ではなく、泣き声を上げてしまう事を必死で堪える少女のように見えた。短い栗色の髪が小刻みに揺れ、震える唇が小さく動き、彼女は何かを言おうとしている。

「……セリカ?」

「……あ…アンドリュー様の…せいでは…ありません。……ごめんなさい、……ごめんな…さい。……あれしか選べなくて、……わたしが…迷ったから、……ごめんなさい、…ごめん…」

 ぽろぽろと涙をこぼし、途切れ途切れにそう言うセリカに、アンドリューはそっと近付き、優しい声で言った。

「…セリカが謝らなくてもいいんだ。……私が考え無しだったんだよ。……そんなに君を苦しませてしまった、…本当に済まなかった」

「……いいえ、……いいえ。……逃げたのは…わたしです。……ごめん…なさい」

「……娘さんは…元気かい。……五…六歳になるのか」

「…はい、元気です。……生意気ばかり言って。……お願いです、…それ以上近寄っては…」

 手を伸ばせば触れられそうな距離に、アンドリューの優しい顔があった。懐かしい匂いがかすかに感じられる。何年も忘れようと努力したその人が、今目の前に立っている。床に貼り付いたかのように動かぬ足を、セリカは無理矢理に引き剥がし、長い時間を掛けて一歩だけ後ろに下がった。だがアンドリューは構わずに彼女の前に歩み寄る。

「…セリカ」

 ささやく声と吐息とが、抗えない程の甘美さをもって彼女の身体を縛る。鉄の意志でもう一歩下がろうとするセリカの背中に、アンドリューの長い腕が回り、意外な程広い胸に彼女の顔がすっぽりと埋まった。

「だ…だめ……」

「セリカ」

 その瞬間、彼女の脳裏に過ぎた日々の全てが甦った。自分がどれ程彼を愛していたのか、この腕の中が何よりも居心地が良く、安らぐのかを。六年の歳月を飛び越え、昨日別れたばかりのように何一つ変わらぬ愛しさが全身を駆け巡る。無意識に彼の背中に回していたセリカの両腕は、もう自分の意志では動かす事も出来なくなっていた。懸命に振り絞った彼女の声がアンドリューの耳に届く。

「……お願い…です、……わたしを…突き放して。……もう…自分からは、……お願い」

「……嫌だ。……私からなんて絶対に出来ない。……セリカ…私の気持ちは今でも変わっていない。……あい…」

「ダメ………お願い、……だって、…だって、…………あ」

 ふいに顔に触れたアンドリューの手の平が、涙に濡れたセリカの頬をなぞる。その温もりが必死でせき止めていた彼女の感情を爆発させる。手に負えない程昂った情愛が、真直ぐに見つめるアンドリューの眼差しから目を逸らす事を許さなかった。目の前に迫った彼の唇から漏れる吐息が、彼女の四肢の力を奪い、しっかりと抱きすくめられたセリカにふと懐かしい思いがよぎる。

(…どうしてこの人はこんなにひょろひょろとした身体で、これほど力強くわたしを抱き締められるのだろう)

 その記憶すら今の彼女には甘い誘惑にしかならなかった。唇が重なったらもう引き返せない。そう確信するセリカは、心の中でたった一つの免罪の言葉を繰り返す。

(今だけは何もかも忘れて身を委ねよう…。今だけは…。今夜だけは…)

そっと目を閉じた彼女の耳に、天上よりの祝福とも例えるべき言葉が流れ込む。

「……愛してる」

 二つの唇が重なり合う。薄暗い執務室の片隅で一つとなった影は、長い間離れる事は無かった。




 国境を越えたアルフリート一行に、懐かしい旗印を掲げた一団が手を振る。列の先頭で手綱を握っていたタウンゼントは、その中に見知った顔をいくつも見つけ、あぶみをあおった。自由国境地帯の街道に目立たぬように布陣した第三軍の騎士達が次々と合流し、一同はこれでほぼ全ての役目を無事に勤め上げた事を実感する。

 メレディスも、ヴィンセントも、ロベルトもタウンゼントも、シンとアイリーンも、リサや二人の侍女達までもが歓声を上げ、誰彼となく握手を交わす。何事も無いように一人表情を変えぬレイナードに、アルフリートは小さく手を振り、彼をかすかに微笑ませた。

 日が暮れる頃、大部隊となった一行がトランセリアの大門をくぐり、大通りに並ぶ市民達の出迎えを受ける。窓から市民に応えるアルフリートを乗せ、馬車は閣僚総出で待つ王宮の正面玄関へと到着した。駆け寄るシルヴァにシュバルカやディクスン、フランクが続く。ゆっくりと馬車から降り立ったアルフリートは一つ背伸びをすると言った。

「ただいま、シルヴァ」

「………お帰りなさいませ陛下。…御無事の御帰還を皆心より祈っておりました」

 臣下として礼儀正しくそう告げるシルヴァの態度に笑いを噛み殺しながら、アルフリートは閣僚一人ひとりと握手を交わし、同行した騎士達の労をねぎらった。賑やかな人の輪の中にレイナードが見当たらない事に気付いたアルフリートはメレディスに問い掛ける。

「メレディス、……レイナードは?」

 将軍は済まなそうな表情と共に答える。

「申し訳ございません陛下、大門をくぐる前に彼からこれを預かりました」

 差し出された手紙にはこう書いてあった。自分の役目はアルフリートを無事に首都まで送り届ける事であり、これで任務を完了した事になる。国王に挨拶も無く立ち去る事は心苦しいが、他所者の自分がいつまでも同行するのも迷惑だろう。またいつか依頼を受けた時に、再び会いまみえる事を楽しみにしている。そう書き記され、最後に双刀の魔女によろしく伝えてくれと書き添えてあった。

 手紙を読み終えて苦笑するアルフリートに、メレディスがそっと告げる。

「彼に依頼が必要となった時の連絡方法を聞いておりますが、その時が来る迄私一人の胸にしまっておいてほしいと言われております。…如何致しますか?」

 アルフリートは大きな声で笑い、手を振って答えた。

「じゃあ今のは聞かなかった事にしとくよ。やれやれ、最初から最後迄かっこいいなぁ、あの男は」

 上機嫌で王宮への階段を上る国王に、閣僚が付き従う。どの顔にも笑顔が浮かび、これで全てがいつものトランセリアに戻った事を喜んでいた。


 執務室に一人残ったアンドリューが、にこにことアルフリートを出迎える。

「ああやっと帰って来た、お疲れさん」

「ただいま親父。悪かったなぁ、引っ張り出しちゃって」

「まったくだ、もう勘弁してくれよ」

「はいはい、サンキュー」

「引き継ぎはユーストとフランクに伝えてあるから、それじゃ私は帰るとするよ。…ああ肩が凝った」

 わざとらしく自分の肩を揉みながら執務室を出て行く前国王に、閣僚から口々にねぎらいとお礼の声が掛かる。妙に機嫌良く、ひらひらと手を振って鼻唄混じりに去って行く父親の後ろ姿を眺め、アルフリートはまた何かあったら遠慮なくこき使ってやろうと考えていた。

 アルフリートが執務室の椅子に腰掛け、ユーストとフランクとによって留守中の報告が行われる。いつものその光景に、アイリーンには閣僚達の間にはっきりと安堵の空気が伝わるのが分かった。この若き王の存在そのものが、すなわちトランセリアという国家であるという事を彼女はまざまざと感じ取っていた。


 アルフリートでなければ決済出来ない書類を今夜中に片付けてしまおうと、彼はてきぱきと仕事を進めていく。全ての書類に目を通し終えると、もう夜中になってしまっていた。執務室にユーストと二人きりになったアルフリートは、気になっていた事を訊ねてみた。

「……親父さぁ、なんかあった?」

 すぐには答えず、ソファーに腰を下ろしたユーストは、彼には珍しくさんざん言い淀んだ挙げ句こう答えた。

「………う〜ん、ノーコメント」

「なんだよそれ…」

「俺にだって分からん。お前と同じでなんとなく雰囲気の違いを感じ取っただけだからな。…ただ、原因の予想はついている…かな?」

 回りくどい彼の言い分にアルフリートは肩をすくめて見せる。

「ふ〜ん、その原因がノーコメントって事だよな…。女か?」

 その一言にユーストは口の中で聞こえないように小さく呟く。

「ちっ……勘のいいヤツ……」

「なんだよぉ」

「さぁな…。さぁもう俺は帰るぞ。お前も早く部屋に戻ってやれよ、シルヴァが待ってるんだろ?土産はちゃんと用意したな」

「はいはい。……まったく年寄りは隠し事が多くていけねぇ」

「聞こえたぞ」

 睨むユーストを残し、アルフリートは廊下に出ると足早に自分の私室へと向かう。確かに予定より随分と時間を取られてしまった。シルヴァが帰ってしまう事は無いだろうが、待ちくたびれて眠ってしまったかもしれない。

 次第に駆け足になっていくアルフリートは、小さく息を切らせて部屋に飛び込んだ。

「ただいまっ。ごめんシルヴァ、遅くなっちゃって」

「…お、おかえり。…アルフ」

 ソファーに腰掛けていたシルヴァが立ち上がって歩み寄る。彼女は甲冑を脱いだだけの軍服姿であり、仕事を終えてすぐにここで待っていたのだろう。もじもじと立ったまま自分からは抱き付こうとしない彼女を、アルフリートは両腕でしっかりと抱き寄せ、耳元にもう一度囁く。

「ただいまシルヴァ、待たせちゃってごめんね。なかなか仕事が終わんなくって…。あ、これお土産」

 婚約者とほとんど身長の変わらないシルヴァは、彼の胸でなく肩に顔を擦りつけたまま、しばらくじっとアルフリートを抱き締めていた。やがて顔を上げた彼女の瞳はかすかに潤み、照れ臭そうに微笑んで言った。

「おかえり、アルフ。…ありがとう、開けていい?」

 並んでソファーに腰を下ろし、シルヴァの手が小さな包みを開けていく。テーブルの上にはアルフリートの好きな酒や好物の肴などがきちんと用意され、シルヴァが彼の為に準備を整えてくれていた事が分かった。

 いつもより随分としおらしい態度の原因を、アルフリートはおおよそ察しがついていた。王宮前での出迎えの時も家臣としての対応であったし、おそらく出発前に部下の前で不安げな様子を見せてしまった事を、後から恥ずかしく思っての事だろうと考え、アルフリートはシルヴァを一層可愛らしく思っていた。

 包みの中から取り出された小さな花飾りのペンダントを、嬉しそうに首に当ててみるシルヴァ。その胸にはあのコインを半分にしたペンダントが揺れている。

「嬉しい……ありがとう。選ぶの大変じゃなかった?」

「うん…ちょっと。…良く分かんなくて。コインのペンダントだけじゃ寂しいかなって思って…」

「ううん、これも大事。…両方とも大切にするね」

 そう言って彼を見つめる恋人を胸に引き寄せ、アルフリートは優しく唇を重ねる。ようやく自分の元に戻って来た最愛の人の口付けに身を委ね、シルヴァはこの数日間の不安がみるみる溶けていくのを感じていた。


 浴室に用意された湯につかるアルフリートの髪を、下着姿のシルヴァが楽しそうに洗っている。プロタリアでの出来事をあれこれと話す彼の、背中や腕も丁寧に流し、なにくれと世話を焼く今夜のシルヴァはサービス満点の様子だった。

 浴室から出た彼女が二つのペンダントを手に、またにこにことそれを眺めている。

「ふたつあるからどういう風にしようかな。一日置きに着けようかなぁ…」

「ごめんね、ペンダントじゃない方が良かった?」

 そう言うアルフリートにシルヴァはぶんぶんと首を横に振る。

「ううん、指輪や腕輪だと着けられない時もあるし、髪飾りだと兜がかぶれなくなっちゃうから…これがいいの」

 離れている間のよすがとなっていたそのコインのペンダントに、彼女は随分と思い入れがあるようであった。結局シルヴァは普段はコインのペンダントを身に着け、ちょっとした会食やアルフリートと二人で出掛ける時などに、プレゼントを使う事にしたようだ。元々彼女はそういった装飾品を数える程しか持っておらず、ほとんどの時間を軍装で過ごす為、身に着ける機会も少なかった。シルヴァはその二つのペンダントを、それから長い間大事に使うのである。

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