第七章 赤と黒 第三話
早朝、目を覚ましたアルフリートは一つ伸びをするとそっとベッドから抜け出す。毛布にくるまって眠っている宮廷騎士の間を静かに歩き、挨拶をしようとする不寝番を手で制して黙らせ、控えの間に向う。既にメレディスとレイナード、シンが来ており、騎士達と男ばかりでコーヒーを飲んでいた。アルフリートは唇に人指し指を当てながらそっとソファーに腰掛けると、自分でコーヒーをカップに注いで飲む。小さな声で皆が口々に挨拶をする。
「お早うございます陛下、まだ早いですが良くお休みになられましたか」
メレディスの声にあくびをしながらアルフリートが答える。
「ふわぁ……。うん、良く寝た。みんなちゃんと寝たね?シンは?」
「はい、実は夕べ一旦戻って来たのですが将軍に叱られてしまいまして…、護衛は眠るのも仕事の内だと言われて部屋に戻って寝ました」
少し照れくさそうに話すシンに微笑み掛け、アルフリートは言う。
「そう、今日が正念場だからね。いざって時に寝不足じゃ身体が動かないよ。……ああ、いい天気だな」
窓の外には綺麗に晴れ上がった空が朝日に照らされていた。男達はしばらくの間、無言でその群青の空を眺めていた。
昼食会に出席する支度を終えたアルフリートは、部屋を出ようとして慌てて振り返る。
「おっと忘れてた。セラ、…今日はシンシアだっけ?あれ出して」
「はい、わたくしです。…少々お待ちを」
侍女のシンシアはかすかに頬を染め、くるりと後ろを向くと何やらスカートの中をごそごそと探っている。取り出した小さな袋を恥ずかしそうにアルフリートに手渡すと、メレディスが横から問い掛ける。
「陛下……ひょっとしてそれは」
「うん、例の証拠。セラとシンシアに預かってもらってたんだよ」
その台詞にあきれかえる一同。彼等は皆、割り符はアルフリートかレイナードが持っている物と思っていたのである。裁縫の得意なシンシアがスカートの内側にポケットを縫い付け、その中に割り符を隠した。昨日はセラが、今日はシンシアがそのスカートを履いていたという訳である。国王は事もあろうに侍女のスカートの中に証拠の品を隠していたのであった。
「若い女の子のスカートの中まで探さないだろうと思ってさぁ…。あ、もちろん俺は覗いてないよ、ホントホント」
そういう問題では無いだろうと皆は思ったが、確かに自分達まで裏をかかれた訳だから作戦は成功だったと言える。
アルフリートは協力してもらった侍女の二人にも中味までは伝えておらず、今プロタリアに居るトランセリアの閣僚で割り符の正確な形を知っている者は、メレディスとヴィンセントの二人のみであり、レイナードやミハイルらを含めても十人に満たぬ数であろう。アルフリートはその事も駆け引きに使える材料の一つだと考えていた。
セラとシンシアに礼を言って部屋を出ようとしたアルフリートは、何を思ったかまた立ち止まり、小さな声でこう言った。
「……えーと、…やっぱりシルヴァには内緒に。よろしく」
国王が出て行った後の部屋では、二人の侍女の笑い声がしばらく止まらなかった。
用意された豪奢な広間に各国の賓客が次々と姿を見せる。昨夜のトランセリア国王襲撃事件の噂は瞬く間に伝わったようであり、現れたアルフリートを彼等はどっと取り囲む。レオンやクレアも心配そうな表情で言葉を掛け、アルフリートはひとしきり皆の応対に追われた。
一見にこやかに会話が交わされているように見えても、場の空気は重苦しい緊張感をはらんでいる。プロタリア側からは各国代表を二名に護衛を二名と、参加人数に制限が掛けられており、トランセリアはアルフリートとヴィンセント、それぞれの護衛にメレディスとレイナードが同席していた。
グローリンドはレオン王子とカイン内務大臣が席に着く。ヴィンセントは本職である外務大臣が同席しない事を一瞬いぶかしんだが、カインは下位とはいえ王位継承権を持つ身である事を思い出す。にこにこと会釈する彼の国の内務大臣は、どうもそういった地位や立場を忘れさせてしまう風貌の持ち主であった。
ヴィンセントは用心の為、腰に使い慣れた護身用の細身の剣を吊っていた。貧乏なトランセリアには大陸全ての国に大使館を維持する予算は無く、外務庁スタッフはそれらの国との外交に長旅をして赴く。護身の為彼等は皆剣技を磨き、それはヴィンセントも例外では無かった。
アルフリートは例のごとく武器など一つも持っていなかったが、昨晩のレイナードの闘い振りを知るメレディスは幾分気が楽だった。自分の隣に静かに立つ男なら、こちらが一人敵を倒す間に十人ぐらいは屠ってくれそうであったし、広間を護衛しているプロタリアの騎士達が、全て皇帝騎士団『レッド・ドラグーン』である事も彼は察していた。斜め前にはリグノリアのウォルフ将軍が大きな身体でクレア女王の隣に座しており、彼の鬼神のごとき闘い振りもメレディスは実際に目にしていた。控え室には宮廷騎士団を率いるタウンゼントが控えており、国王の守護は万全であると考えていた。もちろん彼自身も油断などしておらず、この場に得意の獲物を持ち込む事にも成功していた。
プロタリアの皇族と閣僚が着席し、給仕が豪華な食事をテーブルに並べる。和やかな雰囲気の中、アクシデントも無く昼食会は進み、やがてデザートと飲み物が運ばれる段になって、グローリンドのレオン王子が場に一石を投じる発言をする。
「本日は御無理を聞いて頂き、このような懇談の席を設けて頂いた事に感謝致しております。偉大なるハウザー皇帝陛下を失ったばかりのプロタリアの皆様におかれましては、さぞかし御心痛とは存じ上げますが、我々も大陸各国間の将来を危惧しております。この場で貴国の今後の指針を伺いたく希望致しますが、如何でございましょう」
レオンのその言葉に諸外国の代表は一様に頷き、逆にプロタリア閣僚は互いに顔を見合わせる。実を言えばプロタリア側は、昨夜の襲撃事件を理由にこの昼食会を一旦は中止にする意向を示したのだが、各国の来賓は皆首を縦に振らなかった。大規模な使節団を国葬に送り込んで、何の情報も得られず手ぶらで帰国する事など彼等とて出来なかった。長い沈黙の後、第一皇女がおっとりと口を開く。
「皆様のそういった御希望は良く存じ上げているつもりでおりますが、父王陛下のご崩御は突然の事でありましたので、お恥ずかしい話ですがわたくし達皇族も閣僚も、混乱を致しておりますのが正直な所でございます。…本来なら第一位の継承権を持つ、わたくしの夫である公爵が帝位を継ぐのが最も正しい有り様であると考えてはおるのですが…」
その発言に第二皇女と第三皇女が敏感に反応し、口々に抗議めいた台詞を告げる。
「お姉様、このような公式の場で、軽々しくそのように不用意な発言をするべきではありませんわ」
「そうですわ、まだ何も決まっていないというのに。皆様方が誤解をしてしまいます」
二人の皇女の言葉に第一皇女は眉をひそめ、閣僚は頭を抱える。各国の代表の目の前で内輪揉めを披露してしまったプロタリアだったが、それぞれの夫もなにやらぶつぶつと口を開き、場はなかなか収まらない。
笑いを堪えてそれを眺めていたアルフリートは、ミハイルがじっと自分に視線を送っている事に気付き、またもや引っ掛けを施す。胸元からこっそりと小さな半円形の物を取り出し、ミハイルに見えるように二つあるそれを一つに合わせてやった。もちろんそれはアーロンが王立工匠の職人に作らせた偽物の割り符であるのだが、遠目には判別がつかないであろう。一瞬彼の顔に明らかな動揺が走ったのをアルフリートは見逃さず、後ろ手でメレディスとレイナードに合図を送る。それに気付いた二人はさりげなくミハイルの動きを警戒する。
婚約者という立場からか、ミハイルはエリザベートから幾分離れた席に腰掛けており、彼女に確認する事も出来ずなにやらそわそわとし始めている。アルフリートには彼の心の中が手に取るように読めていた。ミハイルとて今見せた割り符がおそらく偽物であると思っているだろう。そうは言っても確証を得られる迄は疑念が残る訳であるから、人間そうそうポーカーフェイスを貫き通せはしない。彼は落ち着こうと飲み物を口にしたり、小さく深呼吸をしたりするのだが、そうすればする程胸の中で疑惑が膨らむ。我慢出来なくなった彼が周囲に小さく会釈をして立ち上がり、広間を出ようとしたその時、アルフリートの良く通る声が響いた。
「ミハイル殿、どちらに?」
プロタリア皇族や閣僚の勝手な発言でざわついていた室内が、一瞬で静けさを取り戻す。人々はトランセリア国王と若い伯爵とを交互に見比べる。立ち止まったミハイルはゆっくりと振り向き、落ち着き払って一礼をすると答えた。
「お気に触りましたらば申し訳なく思います。大変失礼とは存じますが所用を思い出しまして、…一時中座をさせて頂きたく存じ上げます」
アルフリートが幾分芝居がかった口調で問い掛ける。
「所用?このような大事な席以上のご用事がお有りとは…。本当によろしいのですか?この場でプロタリアの第四十六代皇帝が決まってしまうかもしれないのですよ」
その台詞にざわめく声をアルフリートは片手を上げて制してみせ、ミハイルの返答を待った。満座の視線がミハイルに集中する中、ただ一人グローリンドのカインのみがアルフリートをじっと見つめていた。トランセリアの若き王に、これほど迄に場をまとめる力があろうとは彼も考えていなかった。確実に将来のレオンの政敵になるであろうアルフリートの力量を、カインは冷静に観察し推し量っていた。沈黙を続けていたミハイルが口を開く。
「私ごとき若輩者が国政に関わるなどとんでもなき事でございますれば、陛下は何か誤解を為さっておられるのでは?」
「誤解…ではないと思いますよ。あなたがこれから向かうお部屋には、もうお探しの物は無いと存じますが」
先程迄内輪揉めの醜態を晒していた昼食会は、アルフリートとミハイルの一騎討ちの場となり、居並ぶ列強の賓客も、プロタリアの閣僚も、護衛の騎士達や給仕までもが、皆一言も発せず事態を見守っていた。アルフリートの顔からは笑みが消え失せ、冷静さを装うミハイルの額にかすかに汗が光る。
「陛下が何の事をおっしゃっているのか、私には見当もつきませぬが。やんごと無きお方のお考えには私どものような者は戸惑うばかりで…」
「お分かりになりませんか、これは存外。…これの事ですよ」
ちらりと胸元から例の偽物を見せるアルフリート。ミハイルは見事に表情を抑え込み、反応を見せずに言った。
「その皿が何か?どうも陛下の先程からのご発言は私には理解に苦しむ事ばかりでございまして、一体全体何の事をおっしゃられているのかさえも分かりかねます。それにこの場は我が国の将来を話し合う会合でございましょう、私ごときに時間を取られていては皆様にもご迷惑ではございませんでしょうか」
薄く笑う伯爵をじっと見つめていたアルフリートはゆっくりと立ち上がり、テーブルに沿って歩き出す。メレディスとレイナードがその動きに合わせて静かに移動する。テーブルを挟んでミハイルの向い側に立ったアルフリートは、にっこりと笑って言った。
「皿?…皿とおっしゃられましたか。これはそんな物ではありませんよ」
手の平に持ったそれをアルフリートはテーブルの上に落としてみせる。からんと軽い音と共に白い布の上に転がったその二片は、薄っぺらい木の板に模様を描いただけのお粗末な代物だった。大きさも実際の割り符より一回り小さく作ってあり、一つにくっつけたとしてもとても皿には見えなかった。絶句するミハイルにアルフリートはさらに告げる。
「何ゆえに伯爵はこれを皿などとお思いになられたのか。私にはただの木片にしか見えませんが。ひょっとしてミハイル殿はこれに似た皿をご存じなのですか?」
「………」
沈黙するミハイル。明らかな窮地に陥っても彼の視線はアルフリートから逸らされる事は無く、二人の睨み合いが続く緊張のさなか、ふいに立ち上がった皇女に皆一様に驚く。
「……それ…」
今迄一言も発言しなかった第四皇女エリザベートが、そう言いながら豊かなブロンドを揺らして歩み寄り、テーブルに転がる二つの木片を見つめて言う。
「この…模様。……ミハイル様、これは…これは一体どういう事ですの。アルフリート陛下は何の事をおっしゃっているの?…わたくしが頂いたあのさ…」
「エリザベート様っ!」
突然の婚約者の大声に皇女はびくりと身体を震わせる。ミハイルの顔からは余裕が消え失せ、鋭い視線が射抜くようにトランセリア国王を貫く。アルフリートは微塵もたじろがず、広間に響く声ではっきりと告げた。
「ミハイル・ゴーズ・フレーゲル伯爵。敵国に通じ皇帝を弑逆せしめんとした罪であなたを告発します。証拠はこれだ!毒薬の取り引きに使われた割り符が、お前から皇女の手に渡された筈だ、答えろミハイル!」
アルフリートの手に握られた皿の半片は、まぎれも無く本物の割り符だった。ミハイルの額からどっと汗が流れ落ち、エリザベートは蒼白となって叫ぶ。
「…それは、その皿は。…お父様を?…どういうことですかミハイル!…わ、わたくしを、…謀ったのですかっ?」
「……エ…リザベート…様」
「答えなさいミハイル!どういう…きゃあっ!」
のろのろとエリザベートに歩み寄ったミハイルが、懐から短刀を取り出し皇女の細い首筋に押し付ける。瞬時の事であり、さしものレイナードもメレディスも反応が一瞬遅れた。アルフリートはテーブルを挟んでミハイルに対していた事を後悔し、護衛の皇帝騎士達が一斉に剣の束に手を掛ける。ミハイルの近くに居た閣僚が逃げ惑い、広間は騒然となった。アルフリートが叫ぶ。
「全ての騎士は抜刀を禁じる!その場を動くな!…ミハイル、もう終わりだ。全ての証拠は俺が持っている。今さら何をしてももう遅いんだよ」
そう言いながらアルフリートは後ろ手にメレディスに合図を送る。将軍は巧みにレイナードの影に回り、隠し持っていた武器を広げ、背中に構える。ミハイルが絞り出すように口を開いた。
「まだ逃げる事は出来る。…エリザベート様、大人しくしていれば命までは取りません」
真っ青な顔でわなわなと全身を震わせていた皇女は、一度俯くと再び顔を上げ、言った。
「……こ、このような辱めを受けてまで命乞いなどするものですかっ!汚らわしいっ!」
エリザベートの白い手がミハイルの頬を打つ。ぱーんという音が広間に響き渡り、ミハイルは一瞬皇女から手を放した。その隙を見逃さず、メレディスの弓から矢が放たれる。王立工匠特製の精密射撃用の弓と、メレディスの卓越した技術は、わずかな隙き間を縫って正確にミハイルの右手を打ち抜いた。短刀が床に転がり、右手を押さえ呻くミハイルが顔を上げた目の前に、テーブルを飛び越えたレイナードと巨体のウォルフが迫る。大陸最強の剣士と元レッド・ドラグーンの将軍はあっさりとミハイルを床に組み伏せた。
ぎりぎりと歯噛みをし、恨み言を言おうと口を開き掛けた伯爵の顔面に、エリザベートの靴の先端が勢い良くめり込む。ミハイルを押え込もうと駆け寄ったグスタフら騎士達は、怒りにまかせて尚も蹴りを繰り出そうとする彼等の皇女を慌てて引き離した。アルフリートもこれには仰天し、思わず周囲を見回してカインと目が合い、肩をすくめる。どの国も末の姫はじゃじゃ馬なのかとアルフリートは妙なジンクスを発見し、そういえばシルヴァは末っ子だったと思い出していた。
テーブルの上座に立ったアルフリートが熱弁をふるい、事件のあらましを説明している。ミハイルは皇帝騎士団に幾重にも取り囲まれ、縛めこそ受けていなかったものの、厳重に身体検査をされ、がっくりとうなだれて肩を落としたその様は、全てを諦めたように見受けられた。
エリザベートは三人の姉に抱きかかえられ、こちらも一見さめざめと泣いているかのように見えたが、ミハイルに放ったあの平手打ちと蹴りの鋭さは、彼女が意外な程のしたたかさを持ち合わせている事を伺わせ、ヴィンセントやカインなどは嘘泣きではないかと疑っていた。
本来なら昼食会の後はハウザーの墓碑の除幕式典が予定されていたのだが、レオンとクレアから、きちんと決着を付け、皆に納得のいく説明をするべきだと意見が出され、各国もこれに倣った為にスケジュールの変更が決まった。
嫌疑の掛けられたイグナートの代表は少し離れた所にこれも騎士達に取り囲まれており、彼等は不安と憤りをあからさまに顔に出して座っていた。アルフリートはイグナート側の証拠は握っていなかった為に、ミハイルの証言のみが、彼等のこの先の運命を決定付ける物であった。
一通りの説明を終えたトランセリア国王に、ざわめく一同から口々にハウザーの死因に対する疑念の声が上がる。皇帝は自殺では無く毒殺されたのではないかと彼等は言う。アルフリートはグスタフ将軍に、ある人物の召還を依頼した。
程なく広間に白髪も随分薄くなった老人が姿を見せる。現れた彼は亡き皇帝の忠臣、侍従長トマス・ラング男爵であった。ハウザーが帝位に就く遥か以前の幼い頃より彼に仕えたこの老人は、皇帝の死後も忠実にその命を守り、黙々と葬儀の通知や手配を進行した人物であった。
アルフリートの隣に静かに立ったラングは、うやうやしく王に一礼すると落ち着いた声で言った。
「アルフリート陛下、侍従長トマス・ラングにございます。お召しにより参上つかまつりました」
いくつもの皺が深く刻み込まれたその顔を見つめ、アルフリートは優しく声を掛ける。
「ラング男爵、急な呼び出しに応じて頂き感謝しています。先程事態は公の物となりました。早速で済まないけど、あなたの口からじ……ハウザー陛下が自ら命を落とされた事情を話してもらいたい」
ラングはしばらく何かを考えていたが、やがてアルフリートに向ってこう切り出す。
「陛下、一つお伺い致したく存じ上げます。……『時は来た』と、考えてよろしゅうございますか?」
「そうだ。今がまさにその時だよ、ラング」
間髪置かずにそう答えたアルフリートににこりと微笑み掛け、ラングは一同に向け口を開く。皇帝の崩御からこれまで、固く沈黙を守って来た彼がついに全てを語る時がやって来た。
「……まず皇帝陛下の死因についてご説明申し上げます。陛下が自ら命をお絶ちになった事は事実でございます。何故ならば、陛下のお飲みになられた毒薬は、わたくしが用意した物であるからです。陛下はわたくしの目の前で、お好きなワインと共にその毒を呷られました。全てはわたくしの責任であると存じ上げております」
広間に居る全ての人の口から驚きともため息ともつかぬ声が漏れる。ざわざわとざわめく場が幾らか静まると、ラングは言葉を続ける。彼は淡々と事実のみを述べる。
「次に皇帝陛下の御遺言をお伝え致します。今迄遺言は無い物としておりましたのは偽りでございます。陛下はトランセリア国王陛下お三方のいずれかの許可が得られた時に、この遺言を公表せよとわたくしに御下命なされました。アルフリート陛下より今がその時で有るとの御許可を得ましたので、発表させて頂きます。わたくしは書状のような物は持っておりません。陛下がおっしゃられた事を記憶しておりますので、そのままお伝え致します」
場を沈黙が支配する。皇族も、来賓も、騎士も。居合わせた全ての人間が固唾を飲んで年老いた侍従長の次の言葉を待った。
「プロタリア帝国第四十六代皇帝に、エリザベート・フローレンス・ディヒト・プロタリアス第四皇女殿下を指名致します」
一瞬の静寂の後、怒濤のごとき騒乱が沸き起こる。驚きと、祝福と、抗議の声が入り混じる中、人々は皆エリザベートを注視する。何が起こったのか分からぬように、きょとんとした顔で立ちすくむ彼女を取り囲んだ三人の姉が、一斉に抗議の声を上げる。
「お、お待ち下さい!国法により女帝は認められない筈ではありませんの?」
「そうですわ。それに遺言が確かに父王陛下の物であるという証拠がございません!」
「り…理由はなんですの?何故エリザベートなのですか!」
大騒ぎとなった場を鎮めたのはやはりアルフリートだった。彼の良く通る声が広場の隅々迄響き渡る。
「お静かに!まだ続きがある筈です。……男爵、そうですね?」
「はい、仰せの通りでございます。エリザベート様が帝位をお継ぎになる為には幾つかの条件がございます。まず第一に、皇女殿下が御結婚をなされず独身である事。第二に、御子息、御息女のいずれをもをお産みになられぬ事。第三に、在位期間を十年以上二十年以内と限定し、次期皇帝を現在のお三人の皇女の御子息の中からお選び頂く事。そしてこれで最後でございますが、エリザベート様以降、女帝を即位させず、プロタリアの歴史に於いて最初で最後の女性の皇帝である事を明文化し、特例として今回の指名を有効とする事。…以上がハウザー様のおっしゃられた条件でございます」
アルフリートはハウザーの出したその条件に感心していた。これで三人の皇女のボンクラ夫が帝位に就く事は無くなり、彼女達には自分の子供が皇帝になるという希望が残される。そしてそれを指名するのはエリザベートであるから、彼女達も新しい女帝に協力せざるを得ないだろう。皇女の独身が条件であるのは、ミハイルのようにエリザベートに言い寄ってプロタリアの実権を握ろうとする輩を退ける為であろうし、出産を禁じたのは彼女自身が自分の子供を皇帝の地位に就けるのを避ける意味がある。エリザベートにすれば酷な条件かもしれなかったが、十年経てば帝位を譲る事が出来る訳であるから、その時点で二十代後半の彼女になら、まだ十分に子供を産める年齢だった。只、彼女に恋人が出来た場合、その人物が国政に影響を与える恐れがあるが、そんな事まで規制するのは不可能であるとハウザーは考えたのだろう。アルフリートはそこまでは考えの及ばなかった自分を戒め、同時にハウザーの達見に新たに尊敬の念を抱いていた。
ヴィンセントはしきりと頷き、カインは真剣な表情で何か考え込んでいる。極めて優秀な彼の頭脳の内部では、今後のプロタリアと自国とのシミュレーションが恐ろしい速さで進められているのだろう。未だざわめきの消えない広間に、ラングは丁重に一礼すると言った。
「……以上でわたくしが皇帝陛下より賜った御遺言は全てでございます。…レイナード様」
突然意外な人物に声が掛かり、ざわついた広間に再び静寂が訪れる。アルフリートの後ろに少し離れて控えていた傭兵王は、驚く様子も見せず歩み寄る。ラングは静かに問い掛けた。
「皇帝陛下の遺言状をお持ちかと存じ上げます。皆様に御確認頂きますよう、御提出をお願い出来ますでしょうか」
黙って頷いたレイナードは、懐から丁寧にくるまれた包みを出し、中から豪華な封ろうの押された封筒を取り出すとラングに手渡した。プロタリア皇帝の印が押されたそれは、間違い無くハウザーの書き記した物であった。プロタリアの皇族や閣僚が争うようにその確認を繰り返す中、レイナードは小さくアルフリートに囁いた。
「すまぬな陛下。こればかりは明かす訳にはいかなかったのでな」
「……まいったよ。レイナードが持っているとは思わなかった」
アルフリートも遺言状は存在するだろうと仮定していた。ラングも自分は持っていないと言っただけで、『無い』とは言わなかった。恐らくグスタフが持っているだろうと予測し、全ての証拠をアルフリートに渡し、傭兵の契約を結んだレイナードは考えから外していたのだ。若き国王はぽりぽりと頭を掻きながら呟く。
「まったく……じじいどもにしてやられてばっかりだ。煮ても焼いても食えないってのはまさにあのじいさん達の事だよ。…俺なんか可愛い方じゃないか」
亡きハウザーと国のアーロンの顔を思い浮かべ、アルフリートは苦笑いを浮かべていた。
「嘘だっ!」
ふいに広間に大声が響く。それは捕らえられているミハイルの叫びだった。ゆっくりと立ち上がり、騎士達の制止を振り切り、彼は尚も叫ぶ。
「貴様ら本当にこれでいいのか!頭の中味は男の事しか考えていないこんな小娘を皇帝にするなど、正気で言っているのかっ!アルフリートぉっ!」
レイナードとメレディスを従えたアルフリートが、静かにミハイルの前に進み出る。ヴィンセントは抜け目無く、エリザベートの周囲の人間が見える位置に移動し、誰がどう動くのかを観察していた。
警戒した皇帝騎士団の騎士達が、慎重に二人の間に距離を置く。ミハイルはもう王族に対しても敬語など使わず、トランセリア国王を指差し、言った。
「お前はどうなんだ?お前ならばこの人事が如何に馬鹿げた事か理解出来るだろう!…あの滑稽な内輪揉めを見れば、この国の閣僚がどれ程ハウザーに頼り切っていたかが分かった筈だ。この上少しばかり可愛いのだけが取り柄の皇女などを皇帝に持ち上げてみろ、プロタリアはお終いだ。大陸最強の軍事国家が地に落ちるのも時間の問題だぞ。…真剣に国の将来を考えている者など、この国には誰一人おらん!ハウザーが死んだ今、列強によってたかって食い物にされるのがオチだ。ここに居る各国のお偉方を見るがいい。どいつもこいつも禿鷹みたいに屍肉に群がって来やがって…。アルフリート、お前だってそうさ。こいつらと闘ってプロタリアを守れるのは俺だけだ!俺一人がこの国をして大陸に覇を唱える事の出来る唯一の人間なんだぞ、それがどうだ!だいたい…」
「ひとつ言える事は」
それ迄黙ってミハイルの話を聞いていたアルフリートがふいに口を開く。びくりと身体を震わせ、ミハイルは口をつぐむ。
「少なくともお前では駄目だと言う事だミハイル、俺には分かる。確かにお前とて国の将来を憂えていたのだろうさ。だがお前は手段を間違えた。陰謀と策略の上に立てられた権力など砂上の楼閣だ。次から次へと足元が崩れて行くぞ。そうなればお前はまた陰謀を持ってそれを立て直そうとするだろう。国の中枢がそんな事を繰り返しているその時、誰が犠牲になる?……日々をごく普通に暮らしている国民だ。お前に国を動かす地位に就く権利は無い」
言葉を飾らず、静かに語り終えたアルフリートに、ミハイルはあざ笑うように口の端を持ち上げ、言った。
「くだらん綺麗事をぬかすな。貴様といえど王族ではないか、民草の犠牲の上に成り立っている国家の王が、どの口でそんな事を言えるのだ」
「他の国の事など知らんが、我が国ではそんな事は無い。トランセリアの国王は国民の為にのみ存在する。俺は民を犠牲にした事など只の一度も無い!」
真直ぐにミハイルの目を見つめ、アルフリートはそう言い放った。絶対の自信を持って発せられたその言葉に、居合わせた人々は皆驚嘆の視線を若き国王に注ぐ。メレディスは誇らしげに胸を張り、ヴィンセントは少し照れくさそうに微笑んだ。
無言のミハイルに向け、アルフリートは静かに問い掛ける。
「ミハイル、一つ聞きたい。お前はエリザベートの婚約者の身であったし、爵位を持っている。ハウザーのじいさんと言葉を交わす機会も何度かあった筈だ。…お前は自分の意見を、国を憂える意志を、皇帝に伝えた事は有るのか?」
「……いや。……そもそも皇帝が俺の意見などに耳を傾ける訳が無かろう。やつは独裁者だ、あのじじいの意志がすなわちプロタリアの意志なのだぞ」
「それはお考え違いをなさっておいでですぞミハイル様」
人々の中からふいにラングが声を上げた。歩み寄る老人にアルフリートは道を開け、彼を招き入れる。ラングの落ち窪んだ瞳は優しい光をたたえてミハイルを見つめる。
「皇帝陛下は何よりも人の意見を欲しておりました。特に若い人物の率直な話を聞きたがっておいででした。二年前にアルフリート陛下が我が国を訪れた時も、わざわざ御自分からお出向きになって、お話をなさった事もあるぐらいでございました。…そうでございますね陛下」
大きく頷くアルフリートに一礼し、ラングは続ける。
「その夜お戻りになった陛下は随分と楽しそうに、にこにことしていらっしゃったことを憶えております。腹を割って話が出来たと、とても喜んでおられました。もうあのように自分と話をしてくれる者はおらぬと、その後も良くこぼされていらっしゃいました…」
ラングは少し悲しげに顔を曇らせ、ミハイルに一歩近付く。騎士達に緊張が走るが彼は意に介さず言った。
「ミハイル様、陛下はエリザベート様の婚約者としてあなた様が内定した時には、とても喜んでおられたのですよ。大変に優れた見識を持つ男だと、若くして伯爵家を継いだだけの事はあると、お二人の将来に期待しておいででした。……次期皇帝にと、わたくしに漏らされた事すらあったのですから」
その台詞にミハイルの目が大きく見開かれ、言葉にならぬ呻きが彼の口から漏れる。やがて呟きのような声が絞り出された。
「……そ…それは、…俺が多くの貴族達から支持を得ていたから…だろう?」
ラングは首を左右に振り、答える。
「いいえ、そうおっしゃったのはミハイル様が色々と策を弄し出す随分前の事でございます故。あなた様の陰謀にお気付きになってからの皇帝陛下は、口数も減って、とてもお淋しそうであった事を記憶しております」
力無くミハイルが床に膝をつく。俯いた彼は、自らの策略が皇帝へと続いていた道を閉ざしてしまった事を悟った。
誰一人口を開かぬ静寂の中、広間の扉がゆっくりと開く。ロベルトの率いる数人の宮廷騎士達に守られて姿を現わしたその人物は、元イグナート王女、盲目の剣士アイリーンその人であった。傍らに鉄棍を構えるシンが寄り添い、もう一人、喪服に身を包む若い女性を伴っていた。イグナート王弟第三公女オリヴィアだった。
ざわめく人々の間を優雅に進み、アイリーンはアルフリートに歩み寄る。イグナートの来賓が腰を浮かそうとして皇帝騎士達に嗜められる。典雅に一礼した盲目の淑女は、アルフリートに告げる。
「お待たせを致しました陛下。頃合はこれでよろしゅうございましたでしょうか?」
アルフリートはにこにこと答える。
「うん、ばっちり。ご苦労様アイリーン、体調はどう?」
アイリーンは疲労からか少し発熱をしていた。しかしこの役目だけは彼女以外の者が出来るとは思えず、アイリーン自身も他の人に譲る気は無かった。
「お気遣いもったいのうございます。陛下のお役に立てて何よりの幸いと存じ上げます。…オリヴィア様は全ての真実を告白なされました。わたくしがその生き証人でございます」
アイリーンはアルフリートの親書を携え、オリヴィアの元へと説得に向っていたのだった。イグナートの主賓が昼食会に出払っている時を狙って、彼女とコンタクトを取る算段だった。
黒い喪服とは対照的な、美しく輝く赤毛が高々と結い上げられ、白い肌とのコントラストはオリヴィアを一段と妖艶に見せていた。昨夜の陰鬱な雰囲気は随分と消え、若々しさをも取り戻したかに見受けられた。アイリーンに罪を告白した事が、彼女の心を縛る枷を取り払ったのかもしれなかった。オリヴィアは床に手を付いて俯くミハイルに呼び掛ける。
「……ミハイル様、オリヴィアにございます」
力無く顔を上げたミハイルはぶっきらぼうに答える。
「…そなたの事など知らん。会った事も無い」
オリヴィアはかすかに微笑み、自らも床に膝を付くと、そっとミハイルの手を取って言う。
「もうよろしいのです。わたくしは全てをアイリーン様に告白致しました。……わたくし達二人の事も含めて全てをです。……もう…もう隠さなくてもいいのです。……もう…苦しまなくても…いいのですよ」
溢れ出す涙で言葉を詰まらせながら、オリヴィアはしっかりとミハイルの両手を握りしめ、二人は無言のまま見つめ合う。アルフリートは小さく呟く。
「やっぱりか…。ミハイルとオリヴィアは過去に関係が合ったんだ」
アイリーンの鋭い聴覚はその呟きを聞き逃さず、そっと答える。
「はい、五年程前からのお知り合いであったそうでございます。お父上のお供でプロタリアにお出向きになられた時にお会いになったと。……それから、…その、親密な御関係でいらしたとおっしゃられました」
アルフリートだけに聞こえるように声を押さえて話すアイリーン。ミハイルとオリヴィアの関係は、ヴィンセントが指摘した物だった。彼の自慢の外務庁スタッフは宮廷に流れる数多くの噂話をも調査し、二人の接点を探し当て、その可能性を示唆していたのだ。
五年前と言えばミハイルもまだ十代であり、末子である彼が伯爵家を継ぐとは思われず、王族の姫君であるオリヴィアと吊り合う身分では無かった。隠れた手紙のやりとりと、ミハイル自身が貿易の為としてイグナートに赴いた時の束の間の逢瀬が、二人のか細い絆を繋ぎ止めていた。だがオリヴィアに有力貴族との縁談が持ち上がり、伯爵となったミハイルもエリザベートの婚約者候補に挙げられる。悩んだミハイルの選んだ手段は、皇帝の地位と恋人との両方を手に入れる陰謀だった。オリヴィアに夫を毒殺させたのはミハイル自身だったのである。
アルフリートはオリヴィアが夫を殺害する動機がどうも弱いように感じていた。プロタリアの皇妃の地位が、彼女にとって人ひとり殺す程の魅力がある物だとは思えなかったのだ。ミハイルの途切れ途切れの呟きが小さく聞こえて来る。
「……もう…いいのか。……全ては…終ったのか。……もう…誰も…殺さなくても…いいの…か」
「…もうよろしいのです。…わたくしがここにおります。……わたくし達にはもう、お互いだけしか残されていないのですから。……もう…いいのです…」
オリヴィアの囁きに、アイリーンの伏せられた瞳から涙が一筋流れ落ちる。アルフリートが不吉な予感に一歩を踏み出そうとしたその時、開かれたままの扉から大勢の足音と怒声が響き、二十人以上は居るかと思われる賊の集団が雪崩れ込んだ。彼等は侍従や騎士や料理人などてんでばらばらの格好をしており、他にも開いた扉から数人が剣を手に広間の中央に躍り込む。彼等の狙いがミハイルとオリヴィアの口封じであると瞬時に悟ったアルフリートは、即座に命令を下す。
「レイナード!賊を屠れ!ロベルト!アイリーンと二人を守れ!メレディス、タウンゼントを!ヴィンセント!どこだ!」
「御意!」
レイナードがその場から消え失せるように賊に走る。メレディスの呼び子が響き、騒ぎを聞いて既に開いていた扉からタウンゼントの率いる宮廷騎士団が殺到する。ロベルトとシンが騎士と共に円陣を組み、油断無く剣を構える。少し遅れてグスタフの太い声が響く。
「皇帝騎士団抜刀!曲者から皇女殿下をお守りしろ!」
リグノリアのウォルフ将軍はクレアを軽々と抱え上げ、大剣を片手に構える。アルフリートはレオンとカインに手招きし、円陣の中に彼等を守ってやる。ヴィンセントも剣を抜き、アルフリートに駆け寄る。
レイナードが倭刀を抜き放ち、賊の只中に飛び込んだ。すれ違い様に二つの首が血飛沫と共に床に転がり、次の瞬間にそれが倍になる。
悲鳴と怒声と叫び声が交錯し、凄まじい混乱のさなか、アルフリートはメレディスに囁く。
「メレディス、レッド・ドラグーンの動きを見落とすな。ロベルトもだ」
「心得ております」
「ヴィンセント、プロタリア閣僚の動向は?」
「御心配なく。確認済みです」
騒乱の中の小さなやりとりであったが、近くに居たレオンとカインの耳には届いてしまった。彼等はこの緊急事態にあっても、トランセリアの閣僚がプロタリアの力量を観察している事に舌を巻いた。
レイナードの悪魔的な強さと、皇帝騎士団の圧倒的な武力により、賊は次第にその数を減らし、事態は沈静化するように見えた。ほっと息をつくアルフリートはミハイルとオリヴィアに目を移す。二人は周囲の喧騒など耳に入らぬかのように、膝をついたまま手を握り合い、互いを見つめ続けていた。先程感じた予感を振り払い、アルフリートが顔を上げて辺りの様子を見た次の瞬間、アイリーンが叫ぶ。
「陛下っ!」
オリヴィアの隠し持っていた二本の短刀が、今まさに二人の喉を貫こうとする。最も近くに居たアイリーンが、杖でその刀をはじき飛ばそうとするが、体調を崩していた彼女はわずかにふらつき、杖は空を切った。皆が騒乱に集中しており、アルフリートですらそちらに気を取られていた。オリヴィアを気遣っていたアイリーンただ一人が、刀と鞘の触れ合うかすかな金属音に気付いたが、それも遅かった。
アルフリートが、メレディスが、ヴィンセントが、シンが、ロベルトが、レオンが、宮廷騎士が。回りにいたカイン以外の全ての人間が手を伸ばし、それを止めようとする中、短刀は全く同時にミハイルとオリヴィアの喉に深々とめり込んだ。
吹き出した鮮血が二人の身体を赤く染め上げていく。オリヴィアの結い上げた髪がぱさりと解けて、彼女の喪服に絡み付く。黒と赤の混じり合った二人の身体は、しっかりと抱き締め合ったままゆっくり床に崩れ落ちて行く。かすかに微笑んだオリヴィアと、安堵の表情を浮かべたままのミハイルの身体が、血の海の中に横たわった。
アイリーンはシンの胸で泣き崩れ、アルフリートは苦虫を噛み潰したような顔で呟く。
「……しまっ…た。………ちくしょう、……俺のミスだ」
一人立ちすくむカインの目から涙がこぼれ落ちた。彼は小さく何かを祈り、そっと頭を垂れた。後に彼はこの時の事をレオンに謝罪する。
「私は二人がおそらく自害するであろう事を察していながら、それを警告する事を致しませんでした。真相はほぼ判明しておりましたし、どちらにせよ彼等は死罪となったでしょう。仮にそうならなかったとしても、二人がこのまま生き長らえるとは思えませんでした。必ずいつか自ら命を絶ったことでしょう。それならばこの場で、彼等の望む最後を迎えさせてやろうと考えてしまったのです。……私が彼等の立場なら、恐らくそれを望んだでしょうから。私は国政に関わる者としては失格とも言える判断を致しました。いかなる処罰をも受ける所存でございます。誠に申し訳なく思います」
レオンは黙ってその告白を聞き終え、彼を咎める事をしなかった。カインが少年時代より苦労に苦労を重ねて現在の地位に昇り詰めた事を、レオンは良く知っていたし、それ故に情の深い人間である事も分かっていた。果たして自分ならどうしたであろう。結論を出すのには、彼は少し若過ぎた。