第七章 赤と黒 エピローグ
ある夜、セリカを伴ったシルヴァがアルフリートの私室を訪れる。並んでソファーに腰を下ろし、なにやら深刻そうな表情の二人が話を切り出す前に、彼はこう言った。
「間違ってたらごめん、…親父の事?」
「……!……陛下、ご存じで…」
「アルフ!…なんで知ってるの!」
驚いて腰を浮かせるシルヴァとセリカに、アルフリートは独り言のようにつぶやく。
「ああ…やっぱり。……それで妙に機嫌が良かったのか。……え?今でもそうなの?」
何から話せば良いのか戸惑い、顔を見合わせ口をつぐむ二人に、アルフリートはバツが悪そうに告げた。
「俺いっぺん見ちゃってさぁ…六年ぐらい前だったと思うけど。執務室で親父とセリカが、…その、抱き合ってキスしてるとこを……。ごめんね〜」
アルフリートのその台詞に、耳まで赤くなったセリカと彼女を庇って睨み付けるシルヴァ。テーブルに手を付いて、国王は上目遣いに謝るのであった。
アルフリートは子供の頃から良く王宮に忍び込んではあちこち歩き回っていた。もちろん衛兵達は知っている事であり、母親に先立たれた少年が寂しさのあまり、多忙な父王に自分から会いに来るのだろうと考え、不憫な気持ちになって大目に見ていたのである。アルフリートは確かに母を亡くした事は悲しく思ってはいたが、王宮に来るのはアンドリューが目的では無く、単に面白かったからである。顔見知りの侍女や下働きの老人など知り合いも出来、市内では聞けぬ色々な話が耳に入る宮廷は、好奇心旺盛な彼の格好の遊び場だった。昼でも夜でもお構い無しの彼の行動が、執務室でのアンドリューとセリカの隠れた逢瀬を目撃してしまったのである。
その頃アルフリートは十四歳であったが、手の早い事に既にシルヴァと初体験を済ませており、親父もなかなかやる物だと見直し、やもめ暮らしの父親がついに再婚するのかと考えていた。しかしその後何の進展も見せない二人に、覗きで事実を知ってしまった自分から、あれはどうなったのだと尋ねる訳にもいかず、そうこうする内に自らが国王になってしまっていたという訳である。
王位に就いた後、セリカに父親の素性を明かさぬ小さな娘が居る事を知ったアルフリートは事情を悟り、彼女が自ら身を引いたのだろうと漠然と考え、今に至る迄誰にもその事を話したりはしなかった。
既に宰相職にあったユーストは、二人の雰囲気からおおよその事を察してはいたが、特に証拠を握っている訳では無く、互いに独身である事から何も知らぬ振りをして放っておいたようだ。シルヴァが事実を聞かされたのは軍務長官に就任した後であり、剣を捧げた主に隠し事は出来ないとセリカから言い出した物だった。
当時三十八歳のアンドリューは妻を失って後の数年を仕事一筋に打ち込み、毎晩深夜まで執務室に残り、時にはそのまま夜を明かす時もあった。十歳年下のセリカは早くも宮廷騎士団の要職にあり、王宮で国王の警護を指揮する事も良くあった。ソファーで眠りこけるアンドリューに毛布を掛けてあげたり、コーヒーを差し入れたりと細かな気遣いを見せるセリカを彼は好ましく思い、親しく言葉を交わすようになっていった。
数年来の恋人であった同期のロベルトと別れて一年以上が経ち、セリカもようやく新たな恋愛をする心の余裕が出来ていたのか、二人の距離は急速に縮まって行く。最愛の妻を亡くした寂しさを、仕事にのめり込む事で忘れようとするアンドリューの痛々しい様子が、彼女の母性本能をくすぐったのか、それともロベルトやアンドリューといった、どちらかといえば知性派の男性が彼女の好みだったのか、セリカが彼とベッドを共にするようになるのに、さほど時間は掛からなかった。
だが、やがて自分が国王の子供を身籠っている事に気付いた時、セリカは事態の重さに愕然とする。アンドリューには既にアルフリートという男子がおり、彼が王位を継ぐのはほぼ間違い無いだろうと王宮では考えられていた。王位継承に柔軟な考えを持つトランセリアといえど、自分が妾腹のような子を産み落とせば、国が乱れる元になるとセリカは考えた。かといって愛する人の子供を堕胎するなど彼女自身が絶対に許せず、恋人に打ち明ける事も出来ぬまま、短い手紙をアンドリューに残し、セリカは逃げるように彼の元を去った。
除隊願いを提出し、軍を辞めた彼女は父母にも父親の素性を明かさず、女の子を出産する。ふしだらな一人娘の行為に怒り、嘆き悲しんでいた両親は、可愛らしい赤ん坊をひと目見た途端、それまで吊り上がっていた目尻が一気に下がり、夫婦して赤子の世話を取り合う有り様であった。
『もう二度と会う事はありません、どうか私の事は忘れて下さい』それだけが書かれた手紙にアンドリューは呆然自失となり、しばらくは全く仕事が手に付かなかった。何通も手紙を出し、一度はセリカの住まい近く迄行った彼であったが、結局彼女に会う事は叶わなかった。
やがてアンドリューは再び仕事中毒へと戻って行く。風の便りにセリカが女児を出産した事を耳にし、さすがに心が揺れ動いたが、同時に彼女が何故、突然自分の元を去って行ったかが彼にも理解出来た。アンドリューは最後の手紙をセリカに送る。アリアと名付けられたその子供を祝福し、困った事があったらいつでも力になると記し、そして今後自分からは連絡を取らない事を約束した。結局セリカからの返事は一度も無かったが、アンドリューはそれでけじめを付け、それから国王退位の日迄、以前にも増して職務に邁進するのである。
二十年の任期のほとんどを、ただひたすら働きに働いた彼は、王立図書館の館長に就任して読書三昧の日々を過ごす事により、ようやく心の平安を得たのであった。彼にとっては不幸な出来事であったが、結果としてトランセリアは大いに繁栄し、国民は以前より豊かな暮らしを手にする事が出来たのである。
乳飲み子を抱えるセリカの元に二人の人物が訪れる。彼女の上官であったシルヴァと、かつての恋人ロベルトだった。当時准将のシルヴァは将軍位への昇進を間近に控えており、セリカの提出した除隊願いを手に、ぶっきらぼうにこう告げた。
「長期休暇の手続きを取ってある。セリカは今でも騎士団員のままだ。子供の手が掛からなくなったらいつでも戻って来い」
ロベルトからも思わぬ事を言われる。
「父親が必要なら俺の名前を出せばいい、どうせもう結婚するつもりもないからな」
事の次第を尋ねようともしない二人の暖かなその言葉に、小さなアリアを抱き締めたままセリカは涙をこぼす。何度も礼を繰り返す彼女を見つめ、シルヴァの瞳も涙で潤む。セリカの涙を見たのはこれで二度目であった。一度目はシルヴァの眉間に消えぬ傷を残した敗戦の際、多くの部下を失った彼女が血まみれになって国に戻った時である。出迎えたセリカはシルヴァを抱き締め、声を上げて泣きながら無事を喜んだ。そして三度目を、シルヴァはアルフリートと共に目撃する事になる。
黙ってセリカの話に耳を傾けていたアルフリートは、肝心な事を聞くべきかどうか迷っていた。『で、結局今はどうなってるの?』そう口にするのは簡単だが、子供を産み、軍に復帰し、シルヴァの副官として騎士団を率いて来た六年の間、セリカは固く口を閉ざして来たのだ。事情を知っていたのはシルヴァ一人であり、彼女ですら二年前まで知らされていなかったのである。ここに至ってアルフリートに話をしたという事は、最近になって事情が変わったのだろうと推察されたが、男女の仲に口出ししないと決めている彼は、なかなか疑問を切り出せなかった。
セリカは心を固めていた。アンドリューと一夜を共にしたあの晩、彼女は国王に全てを打ち明けようと決心した。
六年の歳月は彼女の気持ちを落ち着かせ、愛した男への思いも消える事は無かったが幾分穏やかな物になっていた。しかし日毎に成長するアリアの笑顔は、年を経るにつれアンドリューの面影と重なる。髪はセリカににて栗色で、柔らかなウェーブが掛かっていたが、大きな青い瞳や愛らしい微笑みが、驚く程彼の息子、国王アルフリートに似ていた。職務上ほとんど毎日顔を合わせる若き王の、にこにことした笑みやちょっとした仕種が、彼女の胸に小さなしこりを残すようになった。
アルフリートが王位に就いて二年、国王としての才覚や彼の人格を知れば知る程、セリカは尊敬の念を覚えていた。(陛下なら事実を知ってもけして間違った判断をなさらない筈だ)そう考え始めた彼女の後押しをしたのがシルヴァであった。
アリアに会いに良くセリカの家を訪れていた彼女は、おしゃべりでおしゃまなこの少女が、子供の頃のアルフリートにそっくりである事をセリカに告げる。こうまで似ていてはちょっと隠し果せないかもしれないと考え、妙な噂の立つ前にアルフリートに告白してしまった方がいいだろうと提案した。「あれで意外と頼り甲斐があるのよ」シルヴァはそう言って微笑む。そして当のアンドリューも似たような事を言ったのである。
あの夜以来彼に会ってはいなかった。裸の胸にセリカを抱き締め、アンドリューは優しく囁いた。
「……こうなってしまったからといって君を縛るつもりは無い、…ただ私の気持ちが、あの頃と何も変わっていない事が伝えたかっただけだから。…娘さんの顔を見たいとは思っているけど、無理に会おうとは考えていないから。……もし何か困っているのなら、アルフに相談するといい。あいつは私よりずっと頼りになるからね」
そう言って微笑む彼は、アリアの名前すら聞き出そうとはしなかった。
アルフリートがプロタリアから帰国して数日経ち、首都の厳戒体勢も解除され、宮廷もすっかりいつも通りに落ち着きを取り戻している。セリカはシルヴァと共に国王の私室を訪ねるのだった。
「……正直迷っています。私は今迄通りに騎士として国に仕え、アリアを立派に育てていけさえすればいいのですが…。……本来国を守るべき立場の騎士の身でありながら、このままではあの子の存在が国の乱れる元になってしまうかもしれないと思うと…。陛下、このような事になってしまって申し訳なく思います。…もし、国を出て行けとおっしゃるのなら、二人で何処か他所の国へ行く事も…」
「セリカ!」
怒りの表情と共に叫ぶシルヴァをやんわりと手で押しとどめ、アルフリートは全く関係の無さそうな事を聞いた。
「ふーん……、ねぇセリカ、俺のばあちゃんには良く会うの?」
「は?……い、いえ。……一、二度お目に掛かった事があるぐらいですが…」
きょとんとして答えるセリカ。シルヴァがアルフリートにまくしたてる。
「何の話をしてるのアルフ、真面目に考えてっ!」
「……あのさ、…たぶんばあちゃん知ってると思うよ。俺前にぽろっと言っちゃったんだよ、『親父再婚するかもしんねぇ』って…」
「……ア〜ル〜フ〜っ」
この男はどこ迄口が軽いのかと、シルヴァの目が吊り上がる。それを見て慌てて言い訳をするアルフリート。
「いやいや待ってよシルヴァ。俺はセリカの名前なんか出して無いんだよ。でもなんか怪しいんだよなぁ、……編み物とかしてるんだけど、小さな女の子用の服だったりするし、聞いても耳が遠い振りしてとぼけるし…。じいちゃんによると時々なんか上機嫌で出掛けて行くって言うしさぁ…。決定的なのは、こないだその服にアリアの頭文字が縫い込んであるのを見ちゃったもんだから……」
アルフリートの祖母、先々代の王妃であるシャーロットはアーロンの幼馴染みであり、貧しい農家の七人兄弟の長女として生まれた。子供の頃から兄弟の面倒を見つつ家業の手伝いで山羊や馬の世話をし、朝から晩までくるくると走り回る生来の働き者であり、国王となったアーロンのプロポーズを受けて王妃となってからも、それは変わる事は無かった。
良く陽に灼けた顔にはそばかすが残り、小柄な身体で大男揃いの騎士達を叱り飛ばしては、国王と共に国中を駆けずり回った。彼女は自分専用の馬車に鍋釜と山ほどの食材を積み込み、出向いた先で炊き出しをしては多くの貧しい子供達に食事を与えた。結婚当初から『トランセリアを子供が飢えて死ぬような国にだけは絶対にしない』と、固く心に誓ったシャーロットは、目の前の人物が誰であろうとお構い無しに、いくらでも料理を作っては奨めるのだ。当時の閣僚や騎士達にも「どんなに忙しくても腹一杯ごはんを食べてちゃんと眠りなさい。お天道様が昇ったらまた起きて精一杯働けばいいんだよ。人間が他に何をするっていうんだい」そう言って次から次へと料理をこしらえるのである。
国中のおかみさんたちの先頭に立って、文字通り国民を『食わせて』きた彼女には、戦の最前線に出向いて騎士達はおろか敵兵にまで食事を分け与えた。とか、一度だけ出席した隣国の晩餐会で料理が無駄になる事に腹を立て、厨房に飛び込んで市内の子供達に炊き出しを始めた。とか、信じられない逸話がいくつも残されている。
農家の出で王妃となっても庶民そのままのシャーロットは、自前の割烹着を着て出先のおかみさん達に混ざると、全く見分けがつかなくなってしまい、同行の騎士や侍女達を混乱させた。
若い人を見るや「あんたごはん食べた?これ持っていきな」と、有無を言わせず弁当を持たせる。鍋底をがんがんと叩いて食事時を知らせ「飯が出来たぞーっ!今すぐ食いに来ないと、こっちから口に突っ込みに行くよ!」そう叫んで騎士達の間を飛び回る。そんな彼女を、トランセリアの人々は心から愛してやまなかった。彼女の行為で命を繋いだ子供達は数えきれぬ程おり、大人になった彼等がシャーロットの元に礼を言いに訪れ、やっぱり彼女に腹一杯になる迄ごちそうされるのである。
六十を幾つも越えたシャーロットだったが、今だにかくしゃくとして毎日元気に働いており、市内の学校や教会の孤児院を巡っては今日も食事を与え続けている。子供が大好きな彼女は、実の孫であるアルフリートや親戚筋のシルヴァやユーストは言うに及ばず、リーベンバーグ一族の全ての人間を食わせてやるのが自分の使命だと考えているようであり、ことによれば国中の子供を自分の孫か何かだと思っているかもしれなかった。
そんな肝っ玉母さんなシャーロットが、新たな自分の孫の噂を放っておける訳も無く、彼女は王宮に甥っ子のユーストを訪ねる。王宮内にある食堂の裏口からひょっこりと顔を覗かせた老婆を、若い料理人達はどこの婆さんが紛れ込んだのかと皆不思議に思った。古株の料理長はその顔をひと目見るや、仰天して叫ぶ。
「シャーロット様っ!……ごごごご無沙汰を致しており…」
「ちょっくら通らせておくれよ。……ほらあんた、オーブンから目を離しちゃ駄目だろ。…スープのアクはマメに取るんだよ。手を掛ければ掛けた分、料理はおいしくなるんだからね」
呆然と彼女を眺めている料理人達にあれこれと注文を付けながら、シャーロットは厨房を通り抜けて行く。慌ててその後を追う料理長を見送り、彼等はやっと先々代の王妃の名が『シャーロット』であった事を思い出すのである。
彼女の時代にはまだ建築されていなかった王宮を、何故か迷う事も無くシャーロットはすたすたと歩いて行く。料理長が知らせたのか宮内局のサイモン局長がすっ飛んで来る。何事かと訊ねる彼に、シャーロットは言った。
「ちょっとユースト坊やに用があってねぇ。…あんたも忙しいんだろ?あたしゃ一人で行けるから案内はいらないよ」
そう言われてはいそうですかと放っておく訳にもいかず、彼は宰相の執務室まで丁重に彼女を送り届ける。突然現れた元王妃に、ディアナとエレノアは慌てふためき、散らばった書類を片付けお茶の用意に走りとてんやわんやである。
ユーストの執務室は、書類のファイルがぎっしりと詰まった本棚で壁面全てが埋め尽くされ、いくつも置かれたデスクの上にも紙の山が積み重なっている。王宮の最も奥まった位置にあるそこは、トランセリアの最重要機密が保管されている場所でもあった。
驚いて椅子から立ち上がったまま、しばらくぱくぱくと口を開け閉めして言葉の出て来ないユーストの様子を、二人の美しい副官は珍しい物を見たと目を丸くして見つめている。その視線に気付いたユーストは傍らにあったお茶を一息に飲み干すと、どうにか笑顔を浮かべて礼儀正しくシャーロットを迎え入れた。
「シ……シャーロット様、突然どうなさいましたので?…どうぞお掛けになって」
きょろきょろと部屋を見回していた彼女は、ソファーに腰掛けるなりまくしたてる。
「あんたこんなとこにばっかり閉じこもってないで、少しは表に出て身体を動かさなきゃダメだよ。馬車にはちっとは慣れたのかい?…まったく昔っからあんたって子は本ばっかり読んでて、ちっとも外で遊びやしないし。大体三十過ぎの男がその髪はなんだい、いい加減ばっさりやったらどうなのさ。そろそろお嫁さんの一人ももらって子供を…」
「おーおーおー叔母さん、そ…それはまた後で聞くから。突然どうしたの?」
いきなり始まったお説教をさえぎり、片手でディアナとエレノアを下がらせると、ユーストは素で訊ねた。テーブルの上に大きな包みをどかりと置き、シャーロットはじっと甥っ子の目を見て言う。
「………ユースト、あんたあたしに隠してる事があるだろ」
思い当たる節が多すぎてどれの事だかとっさに判断がつかず、しばらく黙りこくっていたユーストであったが、シャーロットがわざわざ現れた事から察しを付ける。しかしその件を自分から口に出す事は出来ず、取り敢えず誤魔化しにかかった。
「敬愛するシャーロット叔母様に隠し事なぞ一つもございませんよ。何の事やらさっぱり…」
「なに調子のいい事言ってるんだい。……お腹へってないかい?お弁当こさえて来たんだよ。…言わないと全部食べるまであたしゃここを動かないよ」
ぽんぽんと包みを叩き、ユーストを脅しにかかるシャーロット。包みを見た時から嫌な予感のしていたユーストであったが、この叔母の言う事が間違い無く本気であると身に滲みて分かっている彼は、一つため息をついて小声で切り出した。
「………アンディの事?」
「なんだやっぱり知ってるんじゃないか!どうして孫が出来た事あたしに内緒にしとくんだ…」
「わあっ!叔母さん声がでかいっ」
「耳が遠いんだからしょうがないだろ。……男の子?女の子?相手は誰?……言わないと…」
「言う言う言う、…言うから。けど俺だって確証がある訳じゃないからね」
観念したユーストが彼の知っている全ての情報をシャーロットに伝える。話を聞き終えた彼女は用は済んだとばかり立ち上がり、上機嫌で執務室を後にする。ぐったりとソファーに身を沈めるユーストに代わり、見送りに立つディアナとエレノアをしげしげと眺め、シャーロットは言った。
「二人ともお尻がおっきくていい子を産めそうだねぇ。どっちでもいいからユースト坊やの子種を搾り取ってやっておくれよ。仕事が忙しいんならあたしが立派に育ててやるからさ」
セクハラまがいのその発言に二人は顔を見合わせ、もう搾り取っていますとも言えず、曖昧な笑顔を浮かべる。シャーロットは部屋の中から恨めしげにその様子を見つめるユーストにも声を掛けた。
「ユースト、お弁当は残さず食べるんだよ!…はいお邪魔様」
来た時と同じようにすたすたと去って行くシャーロットの後ろ姿は、今にも踊り出しそうな程楽しげであった。残された弁当は大変に美味しい物であったのだが、ユーストと二人の副官が巨大なそれを食べ尽くすには、三人掛かりでもその日の夜中まで掛かったのである。
ユーストからほとんど脅しでセリカの情報を入手したシャーロットは、アリアの顔を見る為にセリカの実家を訪れる。驚きと共に前王妃を迎え入れたセリカの母親は、事実を知り、娘の苦悩の理由を知って涙を浮かべた。
シャーロットはこれからも何も知らない振りをするべきだと彼女に忠告する。セリカには訳など聞かずとも支えてくれる味方が必要だと告げ、自分もシルヴァも、そしてアルフリートも、もちろんそうである事を約束した。
シャーロットもいつかはアリアの血筋を公表する時が来るかもしれないと思ってはいたが、国王の妹になる孫の将来を心配する母親に、そんな事はアルフリートに考えさせればいい事だと彼女は言う。すっかり親しくなったセリカの母親と二人で、ただひたすら孫を可愛がる日々が続いた。
「ウチの亭主にだって出来たんだから、王様なんて誰がやったっておんなじだよ」
耳が少し遠いせいか、大きな声でそう言い放ち、からからと笑うシャーロットばあちゃんであった。
「そういう訳だから現在アリアの父親を知っていると考えられるのは、ここに居る三人と親父。多分ユーストとばあちゃん。それからセリカのお袋さんも知ってるんじゃ無いかなぁ…。七人か、結構居るよね」
のんきに言い放つアルフリートに、シルヴァは今にも掴み掛かりそうに言う。
「居るよね。じゃなーいっ!アルフの責任が大きいわよ、なんとかしなさい!」
力無くうなだれ、俯いたセリカの口から小さなつぶやきが漏れる。
「……母は、…知っていて。……アリアが生まれてからは、…一度も父親の事を言い出さなかったのに。…あんなに…可愛がって…くれて。……私はずっと…逃げていたのに、……あの子の事しか…考えられなくて。………母さん」
セリカの瞳からこぼれ落ちた涙が絨毯に吸い込まれて行く。それに気付いたシルヴァはそっと彼女の肩を抱き締め、優しく背中を撫でる。静かな部屋にセリカの押し殺した泣き声だけが小さく響く。やがてアルフリートが静かに問い掛けた。
「……セリカは、親父の事を今はどう思ってるの?」
ゆっくりと顔を上げたセリカは涙を拭い、かすかに頬を赤らめて答える。
「……お見苦しい所を、申し訳なく……。アンドリュー様の事は……今でも……愛しています。……でも、私の気持ちなどより、国の将来の方が…」
「違うよセリカ」
彼女の言葉を遮るようにアルフリートが言った。
「あなたが今考えなくちゃいけないのは、自分の正直な気持ちと、アリアの事だけだと思うよ。国の将来を考えるのは俺の仕事だよ。……親父とは最近話をしたの?」
「……はい」
「親父の方にもまだ未練があるんじゃないの?」
「……………は…い」
セリカのその返事を聞いたアルフリートはさらりと言ってのけた。
「じゃあ問題無しだろう、結婚しちゃえば?…いやあんなくたびれた中年の所にわざわざ行かなくても、セリカなら他にいくらでも相手がいてててて」
「ふざけないの」
シルヴァの手が素早く伸びて婚約者の頬をつねった。双刀の魔女の攻撃はかわせない。
「アンドリュー様はくたびれてなどいません、今でも逞しくていらっしゃ……」
つい口にしてしまった台詞の意味に気付いたセリカの顔が、これ以上無いほど真っ赤になる。肩をすくめるアルフリートは微笑みながら告げた。
「別段今俺の妹が現れた所でトランセリアがどうこうなったりはしないと思うよ。それに例えば十八年後にアリアが王位に就いたって、それはそれでいいじゃないか。俺だって二年前は王様になるつもりなんか無かったんだし、その時点で最も国王にふさわしい人物が王位を継げばいい話なんだから」
セリカは戸惑って言う。
「けれどお二人の御子息が王位を継ぐのが、正しいあり方ではございませんでしょうか」
「そんな事ないない。大体まだ俺達は結婚だってしてないんだし、産まれてもいない子供の事で、今のあなたの人生を犠牲にするなんておかしな事だろう。仮に将来俺の息子がアリアと王位を争う事態になったとしても、俺が生きている内は国を傾けさせたりはしないよ。死んじまってたら分かんないけど…、あの世に行ってまで国の面倒なんか見てられないしさぁ…。ひいじいちゃんとじいちゃんの作った王位継承システムは、そんなに簡単に崩れやしないよ。良く出来てるんだよあれは。……ふーん、妹かぁ。きっと可愛いよね、今度連れて来てよ」
嬉しそうに話すアルフリートを、セリカは何も言えずに見つめていた。今までずっと悩んでいた事が、彼の言葉を聞いていると大した問題では無いように感じ始めていた。困難から逃げ出した自分を恥ずかしく思い、六年の空白の日々を後悔した。ただ、他の誰が同じ事を言ったとしても、こう感じたりはしないだろうと思っていた。アルフリートの言葉だからこそ説得力があるのだと考え、自分がそれ程までに国王の事を信頼している事を、彼女は改めて実感し、頭を下げて言った。
「……ありがとうございます陛下。…私はもう何も隠したりは致しません。アリアも父親の事を知りたがる年頃ですし、アンドリュー様に引き合わせようかと考えています。……ただ、結婚するかどうかは…今はまだ決められません。……これで、よろしいでしょうか?」
「うん、セリカの好きなようにするといいよ。……親父はアリアの事はほとんど知らないんだよね?」
「はい、…名前もご存じないようでした」
「ふーん、会った時に親父がどんな顔するか見てみたいなぁ」
興味津々なアルフリートの様子にシルヴァが口を挟む。
「よしなさいよ、そんな事。……正式に公表するの?アリアの事」
「いや、御前会議で報告すれば十分だろう。元々ウチは国王と王妃しか表に出ないから、わざわざ発表までする必要はないよ。これからも基本的には身内だけの事で、内密にするべきだとは思ってるよ」
その言葉にセリカとシルヴァは安堵の表情を浮かべる。二人はアリアの暮らしがいきなり変わってしまうのではないかと心配していた。アルフリート自身が幼い頃はそうであったように、ごく普通の市民として生活をさせてやりたいと考えていた。現在の国王には今まで兄弟が居なかった為、そんな配慮は不要であったが、例えばアンドリューの三人の姉達は、それなりの気配りの元に育てられた。三人共ごく普通の相手と恋愛をしてそれぞれ結婚しており、既に多くの子供を授かっていた。
国内の各地に居るアルフリートのいとこ達は、姓が変わってしまっている為に、王族とはほとんど知られずに暮らしている。彼等自身も普段はそのような事を忘れて日々を送っており、たまに親族が集まる時などに、自分が王族であると気付かされるのだ。仮に彼等の中の誰かが王位に就こうと目論んだとしても、トランセリアの政治システムがそれを許さないであろうし、その人物が国王に相応しいのであれば、承認されるというだけの事だった。
アンドリューの時代から、幾度も閣僚の手によって検証を繰り返されたそのシステムは、国法を変えない限り現時点で最良の方法だと結論が成されていた。アルフリートもユーストらと様々な事態を想定したシミュレーションを行ってみたが、特に改良すべき点も見当たらず、国王は「完璧ではないけれど、現状これ以上の物は作り出せない」と太鼓判を押した。アルザスとアーロンの達見が、彼等の孫によって証明された形となったのである。ただ、トランセリアの国王は苦労ばかりで何一つおいしい事など無いと、国民の誰もが知っている事であったが。
後日、局長クラスまでに出席を限定した御前会議で、アルフリートは自分の妹の存在を公表する。閣僚は皆驚きをあらわにし、同席したセリカは頬を染め、深々と頭を下げた。アンドリューはその会議に出席せず、セリカの希望により、三人の新しい家族はこれ迄と変わらぬ暮らしを送る事となった。一つだけ、仕事を終えて帰宅するセリカが、毎日のように宮廷図書館に立ち寄る所が今迄と違う点であった。
休日のある日、セリカの自宅をアンドリューが訪れる。床に手を付いて六年間の非礼を詫びる前国王に、セリカの両親は慌てふためき、互いに平伏しあってはなかなか頭を上げようとはしなかった。膝を付いて我が子と対面したアンドリューに、アリアは愛らしく小首を傾げてこう言った。
「はじめまして。……お母さんのカレシ?…いがいと渋いしゅみだったのね。でもちょっといい男かも」
アンドリューは固まったままたっぷり十秒は沈黙し、声を上げて笑い出すとこう切り返した。
「お褒めに与って恐縮でございますアリア姫。……と、いう事はお母さんの恋人と認めてくれるのかい?」
「うーん、……まあ合格かな。でもあたしはシルヴァ様みたいに、しょうらいせいのある彼をつかまえるから。ね、お母さん」
アンドリューは腹を抱えて笑い出し、セリカは頭を抱えて立ちすくむ。アリアはさらに追い討ちをかける。
「お金もちでいい男でやさしくて背の高いだんな様とけっこんしてたまのこしに乗るの。そしたらお母さんにう〜んと楽させてあげられるもの」
笑いの止まらないアンドリューを呆然と見つめ、セリカは彼がトランセリアの前国王であると、とても言い出せなくなってしまった。アリアがその事実を知るのは、母親に連れられて王宮のアルフリートに会いに行った時である。
にこにこと微笑む国王を前に、アリアは幾分緊張しながらも礼儀正しく挨拶をし、アルフリートから父親の事を聞かされてこう言った。
「………そうだったんだ。…でもお母さんあんまりいいくらししてないから、やっぱりつかまえるんなら外国のおうさまじゃないとダメなのね。…うちの国ってびんぼうだもんね、アルフリート様」
シルヴァから聞かされていたアリアのおませっぷりを、直に耳にしたアルフリートは手を叩いて大笑いをし、小さな妹を焚き付ける。
「いいぞいいぞアリア、その意気だ!今度一緒にグローリンドへ行ってレオンを引っ掛けてやろう。あいつはまだ独りもんだから、うまくすりゃ超玉の輿だぞ」
「うん、がんばる!」
元気良く返事をするアリア。彼女が帰った後、アルフリートがユーストとシルヴァに「ふざけるにも程がある」と、たっぷりお説教をされるのは言うまでもなかった。
◆
数週間の後、プロタリアでのアルフリートの活躍が噂として広まり、コインのペンダントがトランセリアで流行し始めた。市内のあちこちの土産物屋で、銅貨を半分に割ったペンダントが縁結びのお守りとして売られる事になる。飾り物の職人達は真面目に王宮にそのアイデアの使用許可を願い出る。当初アルフリートは別に許可など不要だと考えていたが、思い立ってペンダントにわずかながらも税金を掛けた。売り上げは好調で、納められた税金を使い国王は大通りの改修工事を行う。冬の間に降り積もる雪が道路を痛めつけ、でこぼこになった道は毎年馬車の事故を必ず何件か起こしていたからだ。
名物が一つ出来、売上げも増え、道路もきれいになって言う事無しのセリアノート市民達は、アルフリートを口々に褒め称えるのである。ただ、誰も彼もがコインのペンダントを首に掛けている事に、シルヴァ一人が不満げであった。ほっぺたを膨らませる彼女をなだめ、アルフリートは自分の首に掛かるコインを持ち上げて言った。
「これは特別。なんたって王立工匠特製なんだからね。……その証拠に、親父とセリカの仲まで元に戻してみせただろう?」
納得出来ない表情のシルヴァは、セリカの胸にまでそのペンダントがぶら下がっているのを見つけてしまう。彼女の誕生日にアリアがプレゼントしてくれた物だと言い、嬉しそうに微笑むセリカ。もちろんその片割れはアンドリューの首に掛かっているのである。
大陸は新年を迎え、やがて雪が溶け始める頃、アルフリートとシルヴァの結婚式が催される。トランセリアの誰もが春を待ち望んでいた。




