表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ひとりぼっちの莉子  作者: 深瀬静流
18/18

最終話

 孝太郎に病院に行けと何度もいわれたが、結局莉子は強情をとおして行かなかった。孝太郎は莉子の我の強さに辟易したが、それくらいでなければ生きてこられなかったのだろうとおもって受け入れた。そのかわり、傷口は孝太郎が手当して治り具合を確認した。五日もすると肉が盛り上がってきて、一週間たったころには傷口はふさがった。傷跡が残らなければいいがと孝太郎は心配したが、莉子は気にしていないようだった。たとえ痕は残らなかったとしても、心の傷は残るだろうとおもった。

 谷村家にたくさんのお歳暮が届きだして、莉子は受け取りにおわれた。品物は全部仏間に置いた。仏間は贈答品でいっぱいになっていった。部屋の掃除と仏壇の手入れは波子がしているので莉子は手を出さないが、波子は仏壇に花と水を絶やさなかった。古い家なので、位牌が多く、孝太郎の母の位牌も並んでいた。孝太郎の母は、どんな思いを残して旅立ったのだろう。母を亡くした幼い孝太郎と、子を残して逝かなくてはならなかった女性をおもって手を合わせた。

 孝太郎から車の中でその当時のことを聞いたときには、自分とは関係ない話として聞き流したが、いまは違っていた。自分のことのように孝太郎の悲しさを理解できた。金持だろうが、貧乏人だろうが、悲しいのは一緒だ。寂しいのだって一緒なのだ。どうしてそれが以前はわからなかったのだろう。莉子は自分の愚かさが悲しかった。やさしくされるばかりで、わたしは孝太郎さんに、なにもしてあげていていないとおもった。

「孝太郎さんのお母さん。孝太郎さんは、お見合いを断ったそうです。孝太郎さんには幸せになってほしかったのに。お母さん。孝太郎さんをお守りください」

 悲しい気持ちで孝太郎の母の位牌に語りかけた。目を閉じて手を合わせると、気持ちが落ち着いた。孝太郎が見合いをことわったと聞いたときは、残念におもったものだが、今はほっとしている自分がいた。孝太郎まで結婚してしまったら、きっと寂しくてならないだろうとおもった。

 仏壇の前に座って如来様のお姿をぼうっと見つめていた。波子がいっていたが、仏壇は本来、寺院にあるお仏壇(内陣)を小型にして、厨子と一体化して箱型にしたものだそうで、仏壇とは、家の中にあるお寺ということらしい。だから、手を合わせるのは、お位牌ではなく、中心に安置されているご本尊様なのだといわれたが、莉子にはそんなことどうでもよかった。

 仏壇にはご先祖様の位牌も並んでいた。過去から現在にバトンタッチされた命のリレーをみているようだ。でも、莉子の母親が死んだあと、祖父からも捨てられた莉子にはご先祖様がいなかった。母親から生まれて、ひとりぼっちになった自分。唯一の希望だった準哉とも終わってしまった。

「これからどうしよう。どうしたらいいですか。孝太郎さんのお母さん」

 莉子は孝太郎の母の位牌に呼びかけて涙をこぼした。

 途方にくれていた。なにもかも、どうしていいかわからなかった。谷村の家にいてもしかたがないような気がした。いっそ、この家を出て、アパートを借りて、ちがう仕事をみつけようかとおもった。違う環境に自分を置いて、がむしゃらに働いたら、よけいなことを考えなくてすむだろう。疲れ果てて眠れば一日が終わり、目が覚めれば一日が始まる。そうやって一日一日をやり過ごしていけば、やがては元気な自分に戻れるだろとおもった。

 再び元気をなくしてしまった莉子のことを、谷村家の人々は気づかないふりをして見守っていた。お歳暮が一段落すると、今度はクリスマスだった。彩華は学校の友人達と遊ぶ計画をたくさんたててはしゃいでいた。

 塾に通っている涼は、来年の三月まで塾で基礎学力を充実させ、四月のきりのいい時期に予備校に通うといって、勉強を頑張っていた。

 義足に慣れて、活動範囲が大幅に広がった栄一郎は、日ごとに体力がついていってアクティブな生活をおくっていた。よく笑うようになったのが意外だった。

 波子は相変わらず文句をいいながら年末の買出しのことを心配しているし、大人達の都合など関係ない雅巳は、クリスマスのサンタさんが持ってきてくれるプレゼントのことばかり話していた。

 莉子の周りで谷村家の人々は、そてぞれの毎日を騒がしく過ごしていた。それらの日常は莉子にとって、朝のすずめの囀りのようであったり、午後に表通りを走り抜けていくトラックの騒音のようでもあったり、また、夜のしじまに吹き渡る物悲しい木枯らしのようでもあった。

 光を失った莉子の瞳に、孝太郎だけが明るく映っていた。孝太郎の内側から温かい光が放射しているようだった。孝太郎に微笑まれると莉子ははっとした。一瞬意識が戻ったように頭がはっきりした。声をかけられると、止まった時計がまわりだすようだった。しかし、孝太郎が出勤してしまうと、また莉子の時計は止まるのだった。

 クリスマスイブの日は、彩華はおしゃれをして出かけていった。遅くならないように帰って来いといって莉子は彩華を送り出した。遅くなったら、げんこつだからな、といってやると、彩華は笑いながら逃げるように家を跳び出して行った。

 雅巳には、ちゃんとサンタクロースがプレゼントを持ってきてくれたが、残念なことにサンタさんに会うことはできなかった。莉子にもサンタさんはプレゼントを置いていってくれた。クリスタルでできたシンデレラ城のような美しい置き時計だ。たぶん雅巳が、準哉の目覚ましボイスをおもしろがっておもちゃにしていたのを、サンタさんがどこかで目にしたのかもしれない。何年も使い込んだキャラクターの目覚まし時計は、色は剥げ傷だらけだった。その時計を捨てるとき、莉子は涙が止まらなかった。何年も準哉の声で目を覚まし励まされてきたのだ。でも、それもお終い。ベッドの横のサイドテーブルには、夢のように美しいクリスタルの置き時計が置かれ、毎朝やさしいメロディーが時を告げるようになった。

 莉子もサンタさんにプレゼントを置いておいた。肌触りのいいウールのマフラーだ。サンタさんは気に入ってくれたようで、毎朝そのマフラーをして出勤する。

 クリスマスが終わり、街は正月の飾り付けに替わった。波子が運転する車に同乗して、大型スーパーに買出しに行き、食材や正月用品をどっさり積んで帰ってきた。

 あと二日で二十八日だった。莉子は憂鬱だった。正月の休みを、どこで過ごそう。谷村家は、家族水入らずで正月を過ごしたいはずだ。他人は邪魔だ。でも、どこに行ったらいいのだろう。伊坂の父のところなど行きたくないし、向こうだって来られては困るだろう。転がり込む友人もいないし、どうしたらいいかわからない。莉子は切羽詰っていた。とにかく、正月はビジネスホテルにでも泊まろうとおもった。でも、これからも連休はあることだし、そのつど行く当てがなくてホテル泊まりでは同じことの繰り返しになる。用事をすませるついでに不動産屋に寄って物件を覘いてみた。1LDKで給料の半分以上がなくなる家賃だった。でも、これからは自分ひとりが生きていけばいいのだから、なんとかなるとおもいなおした。

 夜、雅巳が眠るのを待ってから、ホテルに泊まるための荷物をスポーツバッグに詰めていたら、誰かがドアをノックした。出てみると孝太郎だった。

「いま、いいかな」

 帰ってきたばかりらしく、ネクタイは取っているがスーツ姿だった。

「なんでしょう」

「僕の部屋で話そう」

 莉子は頷いた。以前なら、けして男性の部屋で二人きりにはならなかったが、孝太郎への警戒心は、今では信頼にかわっていた。孝太郎の部屋には莉子のドールハウスがあったし、入るのに抵抗はなかった。

 孝太郎はベッドに腰をおろし、莉子は机の前に座った。

「きょう、不動産屋を覗いていたみたいだけど、この家を出るの?」

 孝太郎にきかれて、莉子は肩をすくめた。

「不動産屋にいたことを、なんで知っているんですか」

「涼が参考書を買いに行って見かけたと言っていた。部屋を借りるの?」

「ええ。そうしたほうがいいとおもって。とりあえず、年末はビジネスホテルに泊まります」

「どういうこと」

「どういうことって、だって、わたし、二十八日から休みですから。父のところには行けないし、ほかにいくところもないし、だから」

「僕としたことが! なんという失態だ。申し訳ない。きみの事情はわかっていたはずなのに」

「いえ、べつに」

「どこにも行かなくていいよ。ここにいればいい」

「だって。家族の中に他人がいたんじゃ、嫌でしょ?」

「嫌じゃないよ。ちっともかまわないよ」

「孝太郎さんがよくても、ほかの人がなんとおもうか」

「いいんだ。そんなこと。僕がいいといえばいいんだ。だれもきみを邪魔にしたりしないよ」

「孝太郎さん……」

 めずらしく孝太郎の強い調子に莉子は口をつぐんだ。

「でも、ここにいたら、こきつかわれるよ。正月の二日あたりから年始のお客が来るからね。叔母さんは手伝いがいたら喜ぶよ。助けてくれるよね」

「はい。もちろんです」

 莉子が笑うと、孝太郎も笑った。

 翌朝、出勤前の食卓で、孝太郎は波子に話をしてくれた。波子は喜んだ。ほんとうは、家にいて手伝ってくれないかと、よっぽど頼もうとおもっていたといった。しかし、正月だし、無理をいってはわるいとおもって黙っていたという。

 栄一郎も、休日手当てを弾んでやろうと、冗談ともつかないことをいった。雅巳はもちろん、彩華と涼まで、莉子が家にいるのは当然だとおもっていたようで、なにをいまさらというような顔をしていた。莉子ひとりだけが取り越し苦労をしていたらしい。

「心配事があったら、なんでもいいから言いなさい」と孝太郎にいわれて、これからはそうしようとおもった。相談できる相手がいるというのは、いいものだなとおもった。

 孝太郎の愛情に支えられて、莉子はしだいに自分を取り戻していった。どこから勇気がわいてくるのか、莉子には自覚がなかったが、それは孝太郎によるところが大きかった。

 いつも後ろには孝太郎がいて、背中を守ってくれている。前を向けば孝太郎が先を歩いていて待っていてくれる。横を向けば孝太郎が隣にいて手を伸ばしてくれていた。




 三月は、春をうけとめる季節だった。風は冷たいが桜のつぼみは赤くふくらみ、樹木の枝は一雨ごとに新芽を萌黄色に染めていった。

 莉子はすっかり落ち着きを取り戻して暮らしていた。長かった髪はショートカットに変わり、ジャージは箪笥の奥にしまわれ、いまでは近所の人たちから、谷村さんのところのジャージの家政婦さんと呼ぶ人はいなかった

 さっぱりとした服装で、風に髪をなびかせて洗濯物を干している莉子は、若さのなかに落ち着きがでてきて、美しい女性に成長していた。

 洗濯物を干し終わり、ランドリーバスケットを洗濯室に置いてきて、莉子は雅巳を呼びに二階に行った。きょうは幼稚園の開園記念日で休園だったので、雅巳をつれて銀座の玩具店に連れて行くと約束していたのだ。

 雅巳に薄手のコートを着せて、莉子は若草色のスプリングコートを着た。波子に出かけてくると声をかける。雅巳にスニーカーを履かせてから、シューズボックスからハイヒール出した。雅巳の手をひいてバス停に向かった。

 銀座に出て、雅巳の歩調に合わせて歩いた。ビル風が吹いて、莉子の髪を乱した。街はエレガントな華やぎに彩られ、ショーウインドのディスプレーには世界各国のブランドが飾られていた。

 雅巳は風船ガムをくちゃくちゃかみながら歩いていた。息を吹き込んでは潰して遊んでいる。何回も繰り返すうちにガムが顔についてしまったので、しゃがみこんでティッシュで取ってやった。新しいガムをほしがるので、バッグから出して口に入れてやった。立ち上がって歩き出そうとしたときだった。

 有名な宝石店から出てきたカップルを見て、莉子の顔色が変わった。準哉と彼女だった。莉子は雅巳の手を掴んで、慌てて横の路地に身を隠した。心臓がドキドキしていた。

 準哉を見たとたん、かつての感情が一気にぶり返してきた。青ざめていくのが自分でもわかった。足が震えた。このまま路地の奥に逃げ込んで準哉をやり過ごそうとおもった。顔を合わせるのが怖かった。

「おばちゃん。どうしたの」

「雅巳」

 雅巳が、ふくらんだガムをぱちんと潰した。かわいい顔だった。無心に見つめてくる雅巳の瞳を見つめているうちに、波立っていた胸が静かになっていった。莉子は、決意のようなものをうかべて雅巳の手を握りなおした。

「行こう。雅巳」

 通りに戻って、真正面から準哉に向かって歩いていった。準哉は気がつかないで、隣の婚約者に向かって話しかけていた。準哉は幸せそうだった。これでよかったのだと、莉子はおもった。準哉が選んだ幸せなのだから。

 準哉が目の前に迫ったとき、莉子は足を止めた。

「太田君。お久しぶりね」

 莉子に声をかけられて準哉はきょとんとした。「太田君」とよんだのが、莉子だとわかったとたん、さっと顔色が変わった。莉子の洗練された雰囲気にも驚いたようだったが、準哉ではなく「太田君」と呼ばれたことがショックでもあるようだった。

「高校の卒業以来ね。太田君だって、すぐにわかったわ。わたしのこと、わかる? 同じクラスだった北尾莉子よ」

 伊坂の姓にかわったのは、伊坂達郎と対面した後だったので、わざと旧姓を名乗った。高校までは北尾莉子だったからだ。準哉は声もでないらしく、まじまじと莉子を見つめた。準哉の婚約者が腰を屈めて雅巳の頭を撫でた。

「かわいいお子さんですね。ぼく、いくつ?」

「よんさいです。ことしは、ねんちゅうさんになります」

「そう。ほんとう可愛いわね」

 彼女はそういって莉子に向かって微笑んだ。

「ええ。父親似なんです。ねえ。雅巳」と、莉子がいうと、「うん。ぼくのパパはね、かっこいいんだよ」と雅巳がいった。

 莉子はじっと準哉を見つめた。何かいうかとおもったが準哉は瞬きもせずに莉子を見つめたままだった。

「それじゃあ」と、準哉にいって、莉子は彼女に会釈して歩き出した。準哉たちも歩き出した。

「高校のクラスメイトなの?」と後ろに遠ざかりながら彼女がいった。準哉がなんと返事をしたのかは聞こえなかった。涙がこみ上げてきた。頬をつたう涙は顎の先から滴った。

「おばちゃん。どうしたの。どうしてないているの」

 雅巳が心配そうに見上げてくる。莉子は声もなく泣いた。涙がぽろぽろこぼれた。とっくに整理がついたとおもっていたのに、実際に準哉の顔をみてしまうと、こんなに辛いものなのかとおもった。

 涙は出尽くしたとおもっていた。苦しみは終わったとおもっていた。しかし、ふしぎなことに嫉妬はなかった。宝石店から出てきた準哉の、幸せそうな様子を見れば、嫉妬して当然とおもうのに、幸せそうでよかったとおもっただけだ。

 莉子はバッグからハンカチを出して涙を拭った。なにかが吹っ切れていた。

「雅巳。おばちゃんの子供にならないか?」

 歩きながら雅巳にきいてみた。

「いいよ。ぼく、おばちゃんのこどもになる」

「そうか」

 雅巳の返事をきいて、また涙がこぼれた。しかし、莉子の唇は微笑んでいた。

「雅巳。おもちゃを買いに行くのは、また、今度にしよう。行くところができたから」

「えええ。いやだよ。おもちゃやさんにいくんだもん」

「もっといいところにつれていってあげるよ」

「どこ?」

「雅巳が大喜びするところだよ」

「ふう~ん?」

 それはどんなところだろうとおもったようだった。雅巳を連れて、東京メトロ丸の内線の改札をくぐった。

 大手町で降りて内堀通りに向かった。皇居を見ながらこの道を歩くのは十年ぶりだった。三月の青空は、十年前の三月の空と同じに澄みわたり、真っ白なうす雲が吹き流したように一筋浮かんでいた。十年前と違って皇居の堀にはハクチョウの姿がないのが少し寂しかった。

「おばちゃん。まだなの」

「もうすこし」

 雅巳をなだめて歩いた。孝太郎が勤務している本社ビルが見えてきた。今回は、竹刀の替わりに雅巳の手を握っていた。莉子は落ち着いた足取りで受付に向かった。受付で、秘書室の孝太郎に面会を求めた。

「お名前をいただけますでしょうか」というので、「伊坂莉子と雅巳が来ていると伝えてください」と答えた。

「面会のご予約は……」

 パソコンで確認したのだろう。受付の女性は伺うように莉子と雅巳を交互に見た。

「パパのかいしゃ? ここ、パパのかいしゃなの?」

 雅巳が莉子の手を振りまわした。

「そう。パパに会いにきたのよ」

 応対していた女性の横に、もう一人いた女性が、内線電話で小声で話し始めた。電話を終えた女性が笑みを浮かべ、莉子に会釈した。

「ただいま、谷村秘書室長がおいでになるそうです。あちらのソファでお待ちください」

 手で示されたほうには、面談用のロビーがあった。自動販売機も何台か置かれているし、奥にはパウダールームもあった。自動販売機で雅巳にジュースを買ってやって、窓側の明るい席で待つことにした。

 受付の並びにある八基のエレベーターのうちの一基から孝太郎が下りてきた。ロビーのほうに目を走らせ、驚いたように近づいてくる。莉子は立ち上がって孝太郎を迎えた。

「お仕事中、もうしわけありません」

 改まったようすで一礼する莉子に、孝太郎はますます驚いたようだった。

「パパ!」

 ジュースをテーブルに置いて、雅巳が孝太郎の腰に抱きついた。

「雅巳」

 わけがわからないというように雅巳から莉子に目を戻す。

「あのね。パパ。ぼくね。おばちゃんのこどもになるんだよ」

「え?」

 何のことだというように目を白黒している孝太郎に、莉子は真剣な面持ちで一歩前に出た。

「谷村孝太郎さん。突然ですが、結婚を申し込みに来ました。息子さんからは、わたしの子供になるというお返事をいただいております」

「急だなあ」

 呆れて物も言えないようだった。

「嫌でしたら、遠慮なくことわってください。一生のことですから、お返事は今すぐでなくていいです。わたしは、孝太郎さんを尊敬しています。あなたを、心から愛しています」

「なにかあったの」

「はい。さっき、偶然銀座で準哉に会いました」

「そう」

「それでわかったんです。わたしは準哉を、もう愛していないと」

「そう。ほんとうに終わったんだね? きみの恋愛」

「はい。終わりました」

「では、僕とはじめよう。結婚の申し込みを、謹んでお受けします」

 孝太郎は深々と頭を下げた。莉子も慌てて頭を下げた。そして孝太郎は、莉子を抱きしめたのだった。雅巳が飛び跳ねながら抱き合う二人の周りを回っていた。


「ぼくね。おばちゃんのこどもになるんだよ」

 家に帰って、雅巳はそういってまわった。

 波子は自分にいっているのだと思って、「なにを言っているの。この子は」と呆れ、彩華は、「いまさら叔母さんの子供になってどうするのよ。なるなら孫でしょ」と相手にせず、涼は「そうか。よかったな」と笑った。

 栄一郎は怪訝な面持ちだったが、孝太郎が帰宅するのを待って、自室に孝太郎を呼んだ。

「雅巳がそう言ったんですか」

 苦笑して、孝太郎はテーブルの前に腰をおろした。栄一郎はすでに話を聞く体制になっていた。

「莉子さんと結婚します」

 孝太郎は単刀直入にいった。

「ほう。決めたのかね」

「はい。彼女が僕を受け入れてくれるまではとおもって待っていましたが、今日、会社に雅巳とやってきてプロポーズされました」

「おまえがか」

「はい。僕がです。謹んで申し込みを受けました」

 栄一郎が笑いだした。

「伊坂の娘と波子を呼んできなさい。応接間で話をしよう」

「はい」

 二人は応接間に場所を替えた。孝太郎は暖房を入れて四人分のお茶の支度をしてから波子と莉子を呼んで戻ってきた。

「なんですか。改まって」

 応接間にとおされたので、波子は何だとおもったのだろう。莉子は、どんな話しか予想がついていた。ドアの向こうでは、彩華と涼がドアに耳をつけていた。雅巳が騒ごうとすると慌てて彩華が口を押さえた。

 子供たちが聞き耳を立てていることなど知らず、孝太郎が居住まいを正してきりだした。「突然ですが、僕と莉子さんが結婚することになりました」

「結婚ですってえ」

 孝太郎の言い方も唐突だが、のけぞって驚く波子の驚き方も大げさだった。

「そんなに驚くことですか」

 心外だというように孝太郎が顔をしかめた。

「驚きますよ。だって、莉子さんは家政婦でしょ」

「それは職業ですよ。職業と結婚するのではなく、伊坂莉子さんと結婚するんです」

「波子。落ち着けよ」

 横で莉子がそんなことを囁くものだから、かえって波子は感情的になった。

「んん、お黙りなさい! なんですか。その口のきき方は。わたしは断固反対です」

 孝太郎が目で莉子を叱った。そして、とりなすように穏やかに波子に話しかけた。

「叔母さん。雅巳は莉子さんの子供になるそうです。僕も彼女の夫になります。家族が増えることを喜んでください」

「彼女の夫になるって、逆でしょ。それじゃあ、孝ちゃんが婿養子になるみたいじゃないですか」

「いいえ。彼女が僕の籍に入ります。ただ、結婚の申し込みをされたのは、僕のほうなんでね」

 おかしそうに孝太郎が笑うと、ドアの向こうで聞いていた彩華と涼が驚いて顔を見合わせた。

「孝太郎さんは、ずっとわたしを励まし、支えてくれました。孝太郎さんを愛しています。孝太郎さんのご家族も、大切におもっています。結婚を、祝福してください」

 莉子は波子と栄一郎に深々と頭を下げた。

「僕からもお願いします。莉子を家族に迎えてください」

「いいえ。反対です」

 波子の瞳が異様な光かたをしていた。孝太郎は嫌な予感がした。こういう目をした波子は、半ば理性を失って、子供のころにはずいぶん怖かったものだ。波子が莉子を攻撃してくるのではないかと孝太郎の肩に力が入った。波子は上ずった声でしゃべりだした。

「絶対に嫌です。こんな人は孝ちゃんの奥さんにふさわしくありません。孝ちゃんの妻になる人は、家柄もよくて、教養があって、学歴も自慢できる、立派な女性でなくてはならないのです。孝ちゃんは、やがては会社を継ぐ人で、この家の跡取りです。だから、高卒ではだめなんです。こんな、無教養な、恥ずかしい人!」

 波子は莉子が施設で育ったことを知らなかった。栄一郎も孝太郎も、波子にはそのことを話していなかったから、波子が反対する理由は高卒だけですんでいた。もしも、うっかり莉子の生い立ちを話していたら、もっとやっかいなことになっていただろう。孝太郎は、波子を説得するべく身を乗り出した。口を開こうとしたとき、それまで黙っていた栄一郎が、待てというように、手で孝太郎を制した。

「波子。私はこれまで、たくさん過ちをおかし後悔してきた。だが、いまさら後悔しても元には戻らない」

 なにをいうつもりなのかとおもって、波子は神経質そうに口の辺りを動かした。

「その後悔の中に、おまえのことも含まれている。昔、おまえが若かったころ、好きな人ができた。その人と結婚したいといってきたことがあった」

 みるみる波子の目が見開かれていった。

「なにを言うつもりなの。兄さん」

「あのころ、波子は三十歳だった。男のほうは二十二歳だったな」

 聞き耳を立てていた彩華と涼が、驚いて口を開けた。

「やめてください。そんな大昔のこと」

「おまえは博士課程まで進んだ秀才だった。若いころは美人で、自慢の妹だった。波子には、私がこれぞと思う相手と結婚させるつもりだった。ところがどうだ。研究室に出入りしている業者の男と恋愛してしまった。八歳も年下の、高卒の男とだ。なにもかも気に入らなかった。だから、二人の仲を裂いた。汚い手を使ってな」

「兄さん! なにをしたの。あの人に」

「彼の家は零細企業の板金工場だった。資金繰りに困っていた。期限までに入金しなければ、不渡りをだすという状況だった。不渡りを出したら倒産だ」

「お金を渡したのね」

 波子がわなないた。

「そうだ。彼は痛ましいほど若かった。しょせん、波子と人生をともにできる大人ではなかった」

「勝手なことを言わないで」

「私には、結婚したあとのおまえの苦労が見えるようだった。だから、二人を裂いた。その結果、おまえは一生結婚しないで歳を取ってしまった。これが、私の後悔だ。あのとき、よけいなことをしなければ、たとえ、のちのち離婚することになったにせよ、それは波子自身の選択だったのだからな」

 すまなかったと、栄一郎は波子に向かって頭を下げた。

「兄さん……。いまさら、いまさら!」

「そうだ。いまさらだよ。だから、孝太郎が結婚したいというのなら、祝福してやりたいんだよ。いいじゃないか。高卒でも。伊坂の娘を好きだというのだから。なあ。孝太郎」

「ええ。莉子と結婚できないのなら、僕も一生、独身をとおしますよ。叔母さんみたいにね」

「孝ちゃん」

 波子は、がっくりと痩せた肩を落とした。廊下の彩華と涼も、長いため息をついて床にへたり込んだ。雅巳が彩華の腕の中でとろとろ眠っていた。




 風が吹いている。

 五月の風だ。

 若葉は柔らかく茂り、空気まで甘い。

 莉子が谷村家にやってきたのも五月だった。自転車に乗って、大きな荷物を前と後ろに山積みにして谷村家の玄関の前に立った莉子を、波子は意地悪そうに値踏みした。

 栄一郎は仕事をすることだけが自分の在り方だとおもっているようで、子供たちのことなど考えることもしなかった。

 彩華は不幸を一身に背負ったように反抗的で問題を起こすし、涼は怯えたウサギのように自分の部屋から出なかった。

 雅巳はかまってもらえない寂しさからおねしょを繰り返し、孝太郎は閉ざした心で毎日を送っていた。

 一年前を振り返ると、さまざまなことが思い出される。でも、それは、みんな思い出。懐かしい思い出。


 莉子は、純白のベールの中で微笑んだ。孝太郎の腕に手をのせバージンロードをゆっくり進んでいく。右側の席には栄一郎と波子が座っている。左側には伊坂達郎とその妻が座っていた。雅巳は彩華と涼のあいだにいる。身内だけの挙式だったが、莉子は幸せだった。

ベール越しに孝太郎をみると、孝太郎は緊張で硬くなっていた。

「あ。パパ。パパ」

 雅巳が孝太郎を指差して声を上げた。彩華が慌てて口を押さえる。まわりの大人達が小さく笑った。

 司祭の前で止まると、パイプオルガンの演奏が始った。全員で賛美歌を合唱する。司祭が聖書の十三章を朗読したのち黙祷した。

 黙祷がおわって、孝太郎がベールに手を伸ばした。上げたベールの中から現れた莉子は、輝くように美しかった。悲しみも、苦しみも、憎しみも、嫉妬も、すべて心の中に押し込んで、それでも前に向かって強く生きていこうとする莉子の、決意に満ちた瞳を見つめて、孝太郎は感動に震えた。

――すこやかなときも、そうでないときも――。

――この人を愛し、敬い、なぐさめ、助け――。

――命の限り、かたく節操を守り――。

――ともに生きることを誓いますか――。

「誓います」

 司祭の言葉に孝太郎は力強く答えた。

「誓います」

 莉子も答えた。神への誓いであり、生涯を共にする伴侶への誓いでもあった。

 指輪の交換が行われ、孝太郎が莉子の頬にキスをした。司祭が差し出した聖書に二人が手を置き、感謝の祈りをささげる。

「この男女が夫婦であることを、ここに宣言いたします。アーメン」

 司祭が二人の結婚を宣言した。

 莉子の頬に涙がこぼれた。一生、孝太郎を愛していこうとおもった。孝太郎と一緒に幸せになろう。たがいを大切にしようとおもった。

 清らかな賛美歌が流れていた。

 はじまったばかり。わたしと孝太郎さんの人生は、はじまったばかりだと、莉子は美しく微笑んだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 読み終えました! 莉子が幸せになれて良かったです。 プロポーズシーンにはじーんとしました。
2024/04/07 22:15 退会済み
管理
[一言] 某ニュースサイトのコメント欄で何度も読み返す大好きな作品とのコメントとタイトルに惹かれやってまいりました。 コメント欄に書いてくれた人にお礼を言いたいです。 読んでみて最初は想像を裏切る莉…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ