第7話:泥濘(でいでい)に沈む白銀の死神
帝都の権力者さえも跪かせた、七歳の天才パティシエ・ルカの「甘露」。
その対価として、赤髪の商人ヴィクトリアが泥濘の村へ持ち込んだのは、あまりにも眩すぎる「富」の山でした。
最高級の白麦粉、宝石のように澄み切った岩塩、そして村には不釣り合いな巨大な鉄のオーブン。
それはルカが勝ち取った正当な報酬であり、同時に、飢えに飢えた村人たちにとっての「凶刃」でもあります。
「明日、夜が明けりゃ、俺たちは全員殺されるぞ……!」
父ジャックの悲痛な叫びが、雨の夜を切り裂きます。
光り輝く白銀の物資が、泥にまみれた村で異様な存在感を放つとき、一体何が起きようとしているのか。
ついに禁忌の扉が開かれます。
緊迫の第7話、どうぞお見逃しなく。
降り続く冷たい雨が、村の輪郭を泥の中に溶かしていくような深夜。
すべてが泥にまみれたこの村に、その黒塗りの馬車は、まるで死神の棺のように音もなく滑り込んできた。
馬車から降り立ったヴィクトリアの合図で、黒ずくめの私兵たちが重い木箱を次々とルカの家の納屋へと運び込んでいく。
木箱が泥の床に置かれるたびに鳴る鈍い音が、父ジャックの心臓を不気味に叩いた。
「開けてみなさい。これが、ルカが勝ち取った『力』よ」
ヴィクトリアが木箱の蓋を蹴り開けた瞬間、ジャックは息を呑み、思わず数歩後ずさった。
――白い。あまりにも、白すぎる。
月明かりすら濁るこの貧村において、それは凶暴なほどの純白だった。
帝都の貴族だけが口にすることを許される、不純物が一切混じっていない極上の麦粉。宝石のように澄み切った岩塩。黄金色に透き通る動物脂。
そして納屋の最奥にどっしりと据えられた、冷たく重厚な光沢を放つ『鉄のオーブン』。
「……ヴィクトリア。これ、全部、白麦か……?」
ジャックの喉から絞り出された声は、ひゅうひゅうと風を切るように掠れていた。
「ええ。ロッシュ侯爵がルカの技術に屈服した証よ。帝都の料理ギルドすら青ざめるほどの最高級品を手配したわ」
ヴィクトリアは誇らしげに胸を張った。だが、ジャックの目には、その眩いほどの富が、家族の喉元に突きつけられた「凶刃」にしか見えなかった。
「……殺される。明日、夜が明けりゃ、俺たちは全員殺されるぞ……!」
ジャックは頭を抱え、ガタガタと震え出した。
「どういうこと? これは正当な報酬よ。誰にも文句は言わせないわ」
「アンタは分かってねぇんだ! 飢えって化け物がどれほど恐ろしいかを!」
ジャックの血走った眼が、ヴィクトリアを睨みつけた。
「こんな匂いのするもんが村にあるとバレりゃ、正当な報酬だのなんだの、理屈なんか一瞬で吹き飛ぶ! 泥水を啜って生きてる連中が、鎌や鍬を持って押し寄せてくる! 俺たちは八つ裂きにされて、一粒残らず奪われるんだ!」
ジャックは狂乱したように麦の袋に手をかけ、外の泥濘へ放り出そうとした。
「今すぐ持って帰れ! 俺はエマや子供たちを死なせたくねぇ! こんなもん、ただの猛毒だ!」
だが、その震える太い腕を、小さな両手がぴたりと押さえた。
「父さん。隠して、独り占めにするから殺されるんだよ」
暗がりの中、ルカの静かな声が納屋に響いた。
ジャックが視線を落とすと、七歳の息子が、まるで夜の湖面のように波立たない、冷徹な瞳で父を見上げていた。
「捨てる必要なんてない。この粉の『形』を変えて、村の連中の胃袋に叩き込んでやればいい。……奪うよりも、僕たちを『守る』方が、自分たちの腹が満たされると思わせるんだ」
「……形を変える? ルカ、お前、何を言ってるんだ……?」
「この鉄の箱を使うんだよ」
ルカは黒光りするオーブンを指差した。
「粉のままじゃただの『富』だけど、焼いて誰も食べたことのないものに変えれば、それは『命綱』になる。……でも、父さん一人じゃ、この粉を練り上げる力も、村を抑え込む力も足りない」
ルカは、ジャックの手を強く握り返した。
「……バルカスおじさんを呼んできて。父さんが、一番背中を預けられる人を。……あの人を共犯者にできなきゃ、僕たちに明日の朝日は見えないよ」
ジャックは息を呑んだ。
この小さな息子は、目の前にある「死の恐怖」すらも盤上の駒として計算し、村全体を支配しようとしているのだ。
脳裏に、去年の冬、餓死しかけたルカのために自分の家族の食い分を削って麦を届けてくれた巨漢の親友の顔が浮かぶ。
あいつを、この恐ろしい企みに巻き込むのか。
ジャックは白麦の山を一度だけ強く睨みつけると、決意を固めたように泥だらけの外套を羽織った。
「……待ってろ。引きずってでも連れてくる」
ジャックは、降りしきる土砂降りの闇の中へ、獣のように駆け出していった。
背後では、ルカが静かに鉄のオーブンの扉を開け、静寂の中で一人、火を熾し始めていた。
第7話『泥濘に沈む白銀の死神』を最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ロッシュ侯爵を屈服させた対価としてルカたちが手にしたのは、あまりにも眩すぎる「富」でした。
帝都の貴族が慈しむ白麦や鉄のオーブンは、この極限の村において、ただの物資ではなく「周囲の嫉妬を買い、殺し合いを誘発する凶器」そのものです。
「富を得たからといって、この泥の底から抜け出せるわけではない」という、本作が持つ過酷なリアリティを改めて描かせていただきました。父ジャックの恐怖もまた、この村で生き抜くための正常な生存本能といえるでしょう。
次回、第8話『泥の盟約と、魂を撃ち抜く一粒』へと続きます!
白麦とオーブンの持ち込みを目撃した、村で一番の力自慢・バルカスが、疑心暗鬼の果てに斧を手にルカたちの納屋へ踏み込みます。「村を火の海にするつもりか」と激昂する彼に対し、七歳のルカがとった行動は、言葉による説得でも、暴力による対抗でもありませんでした。
ルカはただ、小さな手のひらに一つの「琥珀色の塊」を乗せ、バルカスの前に差し出します。
飢えに支配された男の脳髄を、かつて帝都の侯爵すら狂わせたあの味が、再び粉砕します。
それは、明日を生き残るための「暴力的なまでの美味しさ」。
ついにルカが村の大人たちを屈服させ、その掌中に収める瞬間を、どうぞ見届けてください。
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それでは、第8話にてまたお会いしましょう!




