シュレディンガーの第一王女
屋敷に戻るまでの記憶は、あまりない。
第五王女フィフィ殿下の私室。
濃すぎる甘い香。
乱れた寝台。
薄い寝衣姿で、ぐったりと横たわっていた第二王女セカリナ殿下と第三王女サーシャ殿下。
そして、フィフィ殿下の声。
フォス殿下とレイアをちょうだい。
終わったらちょうだい。
キャラコンプしたいのよね。
思い出すだけで、胃の奥が熱くなる。
怒りなのか、吐き気なのか、自分でもよく分からない。
ただ、ひとつだけ分かることがある。
あれは駄目だ。
王位継承戦の敵としてどうこう以前に、人として駄目だ。
いや、人として駄目、という表現では足りない。
あの人は、人を人として見ていない。
「コーメイ様」
気づけば、俺は第八王女陣営の屋敷に戻っていた。
目の前には、ハンゾーさんが立っている。
どこから出てきたのかは分からない。
いつものことなので、考えないことにした。
「ご無事で何よりです」
「無事……なんですかね」
肉体的には無事だ。
刺されてもいないし、毒も盛られていない。
たぶん。
ただ、精神的にはだいぶ削られた。
俺は差し出された水を受け取り、一気に飲み干す。
冷たい水が喉を通って、ようやく少しだけ息ができるようになった。
「会談の内容を伺っても?」
ハンゾーさんが静かに尋ねる。
その声は穏やかだが、目は笑っていない。
報告を求めている。
いつもの執事というより、完全に諜報部隊の長の目だった。
「……第五王女殿下は、かなり危険です」
「それは承知しております」
「いえ、そういう意味ではなく」
俺は言葉を探した。
ゲームを知っている。
現代日本からの転生者かもしれない。
マホロバのルートを知っている。
そんなことは言えない。
言えないが、何も伝えないわけにもいかない。
「彼女は、人材を人材として見ていません。人間関係も、忠誠も、同盟も、全部、自分の所有物を増やすための手段として見ている」
「所有物、ですか」
「はい」
あの部屋を思い出す。
第二王女と第三王女。
王女であるはずの二人が、まるで飾られた人形のように置かれていた。
フィフィ殿下の声にだけ反応する目。
あれは、同盟ではない。
支配だ。
「それと、彼女はフォス殿下とレイアを強く欲しがっていました」
「第四王女殿下と、レイアを」
「はい。ですが、エイテ殿下にはほとんど興味を示さなかった」
ハンゾーさんの目が、わずかに細くなる。
「それはまた、妙ですね」
「妙なんです」
俺は椅子に腰を下ろした。
怒りが、少しずつ冷めていく。
代わりに、別の思考が浮かび上がってくる。
フィフィ殿下は、フォス殿下とレイアを欲しがった。
第二王女と第三王女は、すでに手元に置いている。
エイテ殿下には興味が薄い。
リストにいなかった、と言った。
つまり、彼女の中には明確な分類がある。
欲しいキャラ。
そうでもないキャラ。
集めたいキャラ。
どうでもいいキャラ。
なら。
第一王女ファスティナは、どちらだ?
「……なるほど」
背後から、柔らかな声がした。
俺はびくりと肩を跳ねさせた。
振り返る。
そこには、第四王女フォス殿下がいた。
いつからいたのか。
どうして普通に部屋にいるのか。
なぜハンゾーさんと同じくらい気配がないのか。
色々と聞きたいことはあったが、フォス殿下はそんな俺の動揺など気にしていなかった。
優雅に微笑みながら、こちらへ歩いてくる。
「フォス殿下……」
「お帰りなさいませ、コーメイ様」
「あ、はい。ただいま戻りました」
「それで」
フォス殿下は、俺の向かいに腰を下ろした。
微笑んでいる。
いつもの微笑みだ。
だが、目が少し怖い。
「第五王女殿下は、私とレイアを引き渡せ、と仰ったのですね」
「……聞いていたんですか?」
「ハンゾーから報告を受けました」
俺はハンゾーさんを見る。
ハンゾーさんは静かに一礼した。
「必要な共有と判断しました」
「早い」
「情報は鮮度が命ですので」
そういう問題だろうか。
いや、そういう問題なのだろう。
この人にとっては。
「それで、コーメイ様は怒ってくださった」
フォス殿下が言った。
その声は、ひどく柔らかい。
「いや、怒りますよ。普通に失礼ですし」
「ええ。普通に、私のために」
「そこは忘れてください」
「嫌です」
即答だった。
フォス殿下は、頬に手を当てて、うっとりと目を細める。
「私を物のように扱う言葉に、コーメイ様が怒ってくださった。しかも、私がその場にいないにもかかわらず。これは、なかなか……」
「なかなか?」
「胸にきます」
「こないでください」
「無理です」
駄目だ。
この人、完全に楽しんでいる。
ただでさえ第五王女殿下の部屋で精神を削られてきたのに、帰ってきたら帰ってきたで第四王女殿下に別方向から攻められている。
俺の胃に休息はないのか。
「フォス殿下」
ハンゾーさんが淡々と声を挟む。
「お気持ちは分かりますが、今は情報整理を」
「分かっています」
フォス殿下はすぐに表情を切り替えた。
先ほどまでの甘い空気が、すっと消える。
目の前にいるのは、知性で人を惹きつける第四王女だった。
「では、コーメイ様。第五王女殿下の言動から、第一王女殿下の所在を考えましょう」
「……話が早すぎません?」
「コーメイ様が、そう考えておられる顔をしていましたので」
なんで分かるんだ。
怖い。
エイテ殿下といい、フォス殿下といい、この世界の王女は人の内心を読む訓練でも受けているのだろうか。
「可能性の話です」
俺は言った。
「確証はありません」
「ええ」
「ですが、俺は……第一王女ファスティナ殿下は、死んでいないかもしれないと思っています」
口にした瞬間、部屋の空気が変わった。
フォス殿下の目が細くなる。
ハンゾーさんは動かない。
だが、二人とも先ほどより集中しているのが分かった。
「根拠は?」
ハンゾーさんが尋ねる。
「第五王女殿下の人柄です」
「人柄」
「彼女は、欲しいものを殺して終わりにするタイプじゃありません。手元に置きたがる。従わせたがる。自分のものだと確認したがる」
「所有したい」
フォス殿下が、俺の言葉を先に取った。
「はい」
俺は頷いた。
「第五王女殿下は、フォス殿下とレイアを欲しがりました。第二王女殿下と第三王女殿下は、すでに自室に置いていた。けれどエイテ殿下には興味が薄かった」
「第八王女殿下は、彼女の欲しいものではなかった」
「そうです」
言いながら、嫌な気分になる。
エイテ殿下を、欲しいものかどうかで分類すること自体が不快だ。
だが、フィフィ殿下の思考を読むには、その不快な分類に踏み込む必要がある。
「では、第一王女殿下は?」
フォス殿下が言った。
「第一王女ファスティナ殿下は、王位継承戦の最有力候補でした。能力も、血筋も、存在感もある。好き嫌いは分かれるでしょうが、無視できる人物ではありません」
「はい」
「第五王女殿下のような方が、第一王女殿下を欲しがらないはずがない」
「俺も、そう思います」
第一王女ファスティナ。
ゲームでの印象を思い出す。
強く、美しく、誇り高く、厄介。
味方にすれば頼もしいが、敵に回すと面倒なタイプ。
フィフィ殿下の言うところの、キャラコンプ対象に入らないはずがない。
殺せば終わりだ。
もう手元には置けない。
落とすことも、従わせることも、愛でることもできない。
あの女が、それで満足するか。
しない。
しないはずだ。
記憶の奥で、古い攻略情報が引っかかった。
王女ルート。
血の粛清。
敵対勢力の処理。
処刑。
追放。
そして、もうひとつ。
捕虜システム。
メインではない。
むしろ面倒で、普通に遊ぶなら使わなくてもいい要素だった。
敵対王族や敵将を殺さず捕らえ、後から説得、懐柔、転向させる。
成功すれば強力な人材を得られるが、失敗すれば脱走や反乱の危険がある。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
「第一王女殿下は、処刑されたのではなく、捕らえられている可能性があります」
言葉にしてしまえば、もう戻れなかった。
第一王女生存。
それは希望だ。
同時に、最悪の火種でもある。
「面白い仮説です」
フォス殿下が言った。
「面白くはないです」
「いえ、面白い。第五王女殿下の欲望を逆算して、処刑発表の嘘を見抜く。とてもコーメイ様らしい」
「俺らしいですかね」
「ええ。人の嫌な部分を見た上で、それでも人を助ける方向へ考えるところが」
やめてほしい。
そういう言い方をされると、妙に恥ずかしい。
俺はただ、気持ち悪いものを気持ち悪いと思っているだけだ。
「問題は、どこに隠しているかです」
ハンゾーさんが言った。
「第一王女殿下が生きているなら、第五王女殿下は厳重に隠すでしょう。通常の地下牢や処刑場周辺ではありません」
「でしょうね」
俺は頷く。
「第一王女派の旧臣も、そのあたりはまず探るはずです」
「はい。実際、旧第一王女派と思しき者たちは、王宮地下の通常牢や処刑場跡に探りを入れています」
「もう入れてるんですか」
「入れています」
「やっぱり復讐勢力って行動が早いな……」
「早いですが、粗い」
ハンゾーさんの声は冷静だった。
「彼らは怒りで動いています。情報を拾う力はありますが、罠にもかかりやすい」
復讐に燃える旧臣。
敵の偽情報。
暗殺未遂。
鎮圧。
そして、反乱分子として処刑。
嫌な流れが頭に浮かぶ。
やはり、早めに接触する必要がある。
「第一王女殿下を隠すなら、牢ではありません」
フォス殿下が言った。
その指が、机の上に広げられた王宮図へ伸びる。
「牢は罪人を置く場所です。第五王女殿下が欲しいのは、罪人ではないでしょう」
「屈服前の戦利品、ですか」
俺が言うと、フォス殿下は小さく頷いた。
「ええ。第二王女殿下と第三王女殿下は、自室に置ける。すでに手元のものだからです。けれど第一王女殿下は違う。まだ屈していない。ならば、見せびらかせる場所には置けない」
「ですが、遠ざけすぎることもできない」
ハンゾーさんが続ける。
「第五王女殿下が定期的に接触する必要があるからですね」
「その通りです」
フォス殿下の指が、王宮図の北側へ滑る。
王宮の奥。
庭園を挟んだ先。
本宮から少し離れた、古い離宮。
「茨離宮」
フォス殿下が言った。
その名を聞いた瞬間、ハンゾーさんの目が細くなった。
「王族の静養用離宮ですね。現在は使われていないはずですが」
「表向きは、です」
フォス殿下は、優雅に微笑む。
「茨離宮には、古い地下区画があります。王族を、王族のまま隔離するための場所です」
「王族を、王族のまま……」
俺は思わず呟いた。
嫌な言い方だ。
だが、意味は分かる。
牢に入れれば罪人になる。
離宮に置けば、病人にも客人にもできる。
表向きには療養。
実態は監禁。
王族を傷つけず、王族としての体裁を保ったまま閉じ込める場所。
フィフィ殿下には、都合が良すぎる。
「第一王女殿下を隠すなら、通常牢では第一王女派に探られます。遠方の城や砦では、第五王女殿下が会いに行きづらい。自室では抵抗された時に危険です」
フォス殿下の指が、茨離宮の上で止まる。
「茨離宮なら、そのすべてを満たします」
「警備は?」
ハンゾーさんが尋ねる。
「第三王女殿下の軍で固められるでしょう」
フォス殿下は即答した。
「病養中の王族を守る、という名目なら軍を置けます。第一王女殿下を処刑したと発表している以上、表向きには別の名目が必要ですが、静養区画の再整備、あるいは王宮北側の警備強化とでも言えば十分です」
「実際、王宮北側の巡回が増えています」
ハンゾーさんが言った。
「三日前からです」
「早い」
「気にはなっていました」
「もっと早く言ってくださいよ」
「確証がありませんでした」
「俺のも確証じゃないです」
「ですが、コーメイ様がそう仰るなら、調べる価値はあります」
まただ。
また俺の言葉が重く扱われている。
俺はただ、キャラコンプ勢の気持ち悪い思考を逆算しただけなのに。
だが、フォス殿下もハンゾーさんも、すでに動く気になっている。
「茨離宮を調べましょう」
フォス殿下が言った。
「ただし、第一王女派にはまだ伝えない方がよろしいかと」
「暴発しますね」
「ええ。彼らが第一王女殿下の生存を知れば、救出ではなく突撃を選ぶ者が出ます」
「復讐を優先する」
「はい。そして第五王女殿下は、おそらくそれを待っています」
フォス殿下の声が少し低くなる。
「第一王女派が暴発すれば、第五王女殿下は彼らを反乱分子として処理できます。第八王女殿下や私に繋がりがあると匂わせれば、こちらも巻き込める」
「最悪ですね」
「最悪です」
フォス殿下は微笑んだ。
なぜ微笑めるのか分からない。
この人、知性で殴る局面になると少し楽しそうになる。
怖い。
「では、まずは茨離宮の警備配置を洗います」
ハンゾーさんが言った。
「第一王女派の冷静な者にも、慎重に接触しましょう。怒りに呑まれていない者がいれば、処刑当日の情報を持っている可能性があります」
「お願いします」
「それと」
「それと?」
「レイアには、第五王女殿下の発言の詳細を伏せた方がよろしいかと」
俺は少し考え、頷いた。
フィフィ殿下がレイアをどう言ったか。
それを本人に伝える必要はない。
怒るだろう。
当然だ。
だが、今は怒りで動く局面ではない。
エイテ殿下が言っていた。
怒りに呑まれるな、と。
まったく、その通りだった。
「私にも伏せていただいてよかったのですよ?」
フォス殿下が言った。
「知ってるじゃないですか」
「ええ。知っています」
「なら、なぜ言ったんですか」
「コーメイ様が、私に知られたくなかったと思うと、少し嬉しかったので」
「嬉しい要素あります?」
「あります」
即答だった。
この人、本当に手強い。
「コーメイ様」
フォス殿下は、先ほどより少しだけ真面目な声で言った。
「怒ってくださったこと、感謝しています」
「……普通のことをしただけです」
「その普通が、難しいのです」
フォス殿下は微笑む。
「第五王女殿下は、人を所有物として見る。コーメイ様は、少なくともそれに怒る。ならば、私はコーメイ様の側にいた方が面白そうです」
「面白そうで味方されるの、だいぶ怖いんですが」
「では、好ましいから、と言い換えましょうか」
「余計に怖いです」
フォス殿下は楽しそうに笑った。
この人、俺の胃を試しているのではないか。
いや、試しているのだろう。
たぶん。
「ハンゾーさん」
俺は話を戻すことにした。
これ以上フォス殿下に主導権を握られると、俺の精神がもたない。
「はい」
「第一王女殿下を探しましょう」
「御意」
「なんか生き生きしてません?」
「復讐に身をやつし、朽ちていくばかりの余生かと思っておりました。そこに、あなたが現れた」
「え……」
「死に場所とは申しません。生き場所を用意していただいたこと、感謝しております」
ハンゾーさんの姿が、音もなく薄れる。
いや、消えた。
だから怖いって。
部屋に一人残された、わけではなかった。
フォス殿下がまだいた。
優雅に紅茶を飲んでいる。
いつの間に用意したのか。
なぜ、この状況で紅茶を飲めるのか。
王族、強い。
「コーメイ様」
「はい」
「第五王女殿下は、王国を救済したいのではないのでしょうね」
「……そう思います」
「ままごと人形を集めたい」
「はい」
俺は机の上の王宮図を見た。
茨離宮。
その北側に、古い地下区画の印がある。
もし、あそこにいるなら。
もし、第一王女ファスティナ殿下が本当に生きているなら。
フィフィ殿下は、殺したのではない。
集めたのだ。
コレクションの一つとして。
そう考えた瞬間、俺の中で何かが決まった。
あの女に、これ以上誰かを集めさせてはいけない。
誰かを、キャラとして、所有物として、リストの一部として扱わせてはいけない。
完全に次のイベントが始まっている。
しかも、相手は同じ攻略情報を持つかもしれないキャラコンプ勢。
俺は、対人戦なんてやりたくなかった。
ましてや、相手の部屋に入ったら第二王女と第三王女が寝台でぐったりしているタイプの対人戦など、もっとやりたくなかった。
だが、逃げ道はまた一つ塞がった。
第五王女フィフィ。
彼女は、王国を救済したいのではない。
王国そのものを、自分の人形箱にしたいのだ。
だったら。
第一王女ファスティナは、まだどこかで生きている。
そんな最悪で、けれど希望でもある仮説を抱えたまま、俺は茨離宮の名を睨んだ。
童貞をなめるなよ。




