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何だか、モヤッとする。
いや、『何だか』っていうのは正しくない。モヤッとしてる原因なんて、本当は分かりきっているんだ。
【遥斗には、本物の想い人がいる】
【俺は多分、その人をすんなり受け入れることができない】
突き付けられた事実を、俺は受け入れられてなくて。知ってしまった真実にモヤッとすると同時に、『受け入れられない自分自身』に関してもモヤッとしてしまっている。
──本当は、正面切って訊いてしまうのが、一番早い。
【遥斗って、実は好きな人がいるんだろ?】
そうやって、正面切って言ってしまえれば、きっとこのモヤモヤも多少はマシになる。『そうなんだよ、実は』って言われれば心の準備ができるし、『は? そんな人、いないけど』って返ってきたら、きっと安心できる。
だけど、それさえ口にすることができないのは……
「なーがれ」
そんなことを今日もグルグルと考えていたら、唐突に視界が遥斗の顔に占拠された。
「うわっ!?」
「俺とデート中だってのに、何をぼんやりしちゃってんの?」
慌てて体を引くも、俺の左手は遥斗の右手に捕獲されている。体を仰け反らせるのが精一杯で、碌に距離なんて稼げやしない。
そんな俺を下から覗き込んだ遥斗は、少しだけ体を引くと拗ねたような顔を見せた。
「気分じゃなかった? 水族館」
そう。今、俺と遥斗は『デート』という名目で水族館に来ている。ちなみに手は恋人繋ぎで捕獲されていた。遥斗曰く、これも『婚約者として振る舞う練習』の一環であるらしい。
「植物園とか、動物園とかも考えたんだけどさ。今の時期はどっちもあっついから」
「いや、嬉しいよ、水族館」
「そう?」
「ああ。来るの、久々だったから」
落とし気味の照明と、展示ガラスの向こうに広がる一面の水。大水槽の向こうでは、イワシがキラキラと身を輝かせながら大きな群れを作っている。
視界も体感も涼やかだし、生物が好きで農学部に進学した身としては、知識欲も満たせる最高の出かけ先だ。遥斗が候補を『水族館・植物園・動物園』で絞ったのも、定番デートスポットという理由以上に、俺の興味関心に合わせた結果なのだろう。
「だったら良かった」
俺が無意識のうちに浮かべていた笑みが自然にこぼれたものだと分かったのだろう。遥斗は言葉以上の安堵を表情にこぼしながら、スルリと俺の前から身を引く。
「最近、何かナガレ、元気なさそうだったから。ちょっとでも元気になってくれたら嬉しいなって」
代わりに、俺の手の甲に触れている遥斗の指先が、スリッと俺の手の甲を撫でた。その動きに深い意味なんてないはずなのに、予期せぬ接触に俺の体は大げさにビクリと跳ねてしまう。
……そう、これは、指の動きにビックリしただけだ。遥斗の言葉に心当たりがあったからじゃない。
──隠し通さなきゃ。
俺は、三ヶ月後……もう同居から一ヶ月が過ぎてるから、正確に言えば二ヶ月あるかないかくらいの期間なんだけども、……とりあえずその期間を、きちんと『婚約者』として乗りきらなきゃいけない。
俺の方にどんな心境の変化があろうとも、一度引き受けたことだ。さらには俺が下手な演技を打って偽物の婚約者だとバレようものなら、遥斗の今後の人生の自由が危うい。俺がモダモダと中途半端に悩んで遥斗の足を引っ張るわけにはいかない。
俺は一度グッと奥歯を噛み締めると、ヘラリとした笑みを浮かべてみせた。
「最近あっついからな。ちょっとへばってたのかも」
だけど、それは悪手であったらしい。俺を見上げた遥斗が、スッと不穏に目をすがめる。
「ナガレ、何かに悩んでるなら、教えてほしいんだけど」
おぉっと。さすがは幼馴染。誤魔化しは効かないってか。
──逃げ切れないなら、逆に……
いっそこれは、正面切って悩みをぶちまけるいい機会なのかもしれない。『お前、実は好きな人、本当はいるんだろ?』その一言を口に出せば済む話じゃないか。
でも、もしも。
もしも遥斗の口から『そうなんだ。実はナガレには秘密にしてたんだけど、本当に気になってる人がいて』なんて切り出されたら、俺は……
「ナガレ、バイトで学会の手伝いに行くって言って出かけた日くらいから、何か様子おかしいだろ」
グラグラと心が揺れる。
だけどピンポイントでそれを言い当てられた瞬間、俺は内心を取り繕うよりも早くバッと遥斗へ顔を向けていた。
そんな俺の動揺を見透かしたかのように、遥斗がグイッと俺の方へ体を寄せる。
「遥斗……!」
「言ってよ」
同じ展示スペースには小さな子供を連れた家族連れもいて、ガタイのいい俺は周囲の視界を遮らないように遠慮して、元から後ろの隅の方に陣取っていた。数歩進めばスタッフ連絡通路の入口前という配置だ。
『STAFF ONLY』の札が掲げられた扉の周囲は、扉自体を目隠しするために壁が配置されている。
遥斗に手を引かれ、さらに体重移動で無理やり体勢を崩された俺は、フラフラとその死角に連れ込まれていた。背中を壁に押し付けられ、手を繋がれたまま遥斗の体を胸元に押し付けられれば、体格的に有利である俺でも簡単に遥斗を振りほどくことはできない。
「ちょっ、はる……!」
「シッ。騒ぐと見つかるよ」
この体勢はちょっと、……いかにも、あれだ。公衆の面前に晒していい状態ではない。いくら俺達が親友で、世間一般には婚約者を詐称しているのだとしても、よろしくないものはよろしくない!
カァッと顔に熱が集まる。だというのに遥斗は、グイッとさらに力を込めて俺の体を壁に押し付けると、表情をなくした顔で俺を下から覗き込む。
「何を隠してるの? ナガレ」
「隠してなんか……!」
「言ってくれなきゃ、ずっとこのままだよ?」
マズい。これは菱木さんの前でも見せた、例の遥斗だ。激オコ遥斗。
今見せているのは、単純な怒りだけじゃないけど、声のトーンが似ている。
あの時よりも怒りは薄めで、代わりに心配と色気が載っているせいなのだろうか。射るように見据えられた俺は、単純に恐怖だけじゃない震えがゾクリと背筋に走っていくのを確かに感じた。
その震えの中に、具体的に『恐怖』以外の何が混じっていたのかは、分からないけれども。
『あぁ、ライオンに目をつけられたウサギって、多分こんな気分なんだろうな』と、いつか思ったことと同じ考えがまた、頭のどこかを転がっていく。
「むしろ、言わなきゃもっとすごいことしちゃうかも」
そんな危機感が俺の頭の中を巡っていると、もしかしたら遥斗は気付いているのかもしれない。
クスリと、不意に遥斗が吐息だけで笑う。その笑い声にも、俺の背筋はビクリと跳ねた。
──何か、……何か、ダメだ! このままじゃ……!!
俺の本能が激しく警鐘を鳴らす。だというのに俺の体はピクリとも動かない。喉は役目を忘れたかのように凍り付いていて、腕も足も細かく震えるばかりで体勢を崩さないように保つだけで限界だ。
まな板の上の鯉。
そんな単語が、脳裏にチラリと過る。
「ねぇ、ナガレ。俺……」
固まったまま動けない俺を見つめたまま、遥斗はゆっくりと唇を開いた。俺だけを見つめた瞳がトロリと蕩けて、……その距離が、妙に、近くなっているような……
「あー! やっぱり!」
だがそれ以上のことが俺の身に降り注ぐことはなかった。
不意に近くから響いた声にビクリと体を震わせた遥斗は、間髪を容れずにスッと体を引く。同時に遥斗が声の方を振り返ったおかげで、俺の体は妙な呪縛から解放された。
「遥斗さん! こんなところで、何をされていらっしゃるんですか?」
──助かった……
思わずホッと全身の力を抜きながら、俺も救世主となった声の主へ視線を投げる。
だがその瞬間、俺の呼吸はヒュッと引き攣れた。
「和泉さん」
見覚えのある、女性だった。
その女性の名前を遥斗が呼んだ瞬間、俺の喉を締めた動揺はさらに強くなる。
「あなたこそ、こんなところで何をしていらっしゃるんです?」
艶のある美しい焦げ茶色の髪。綺麗にセットされた髪型。オンとオフの差はあれども、涼やかでオシャレで、当人にもよく似合った服装。
あの喫茶店で、遥斗の隣に立っていた女性が。俺にこの心境を自覚させた張本人が。
顔を煌めかせながら、遥斗を見つめて立っていた。