80話 ヘスティアの痛み
夜の海―廃れた古城。
夜空は、燃え盛るような苛烈な星の光で満ちている。炎の明かりが頼りの暗闇に沈む惑星国家が成り立った城下町は、異形の悪魔が占領していた。灰に塗れた黒い怪物が、老朽化した翼を持ち、空を行き来している。
人為が立ち寄らない異形だらけの都市を、二人の女が闊歩する。
大きな紐で髪を一つに束ねる。空色の羽織を着た幼い顔立ちの少女。
紅帝族序列六位―150女”鳳”の元祖大紫蝶。
梔子色の髪に、桔梗のような凛とした紫の瞳。柔らかい印象の麗しい女性。
紅帝族序列十五位―74代玄棟梁杠。
二人の女は武器を携えている。個々にある武器の共通点は、扇。異であるのは、紙か鉄かでできているということ。
他に共通すべくは、只ならぬ気迫に、時空が歪みそうであること。
異様な侵入者に悪魔は徒党を組んで、二人を包囲した。沈黙の彼女らが個々の扇を薙ぐと、一帯の悪魔が砕け散った。
二人に課せられたのは、夜の海に点在する惑星国家の中で、最大規模を誇るウロフタル国家の奪還である。ウロフタル国家は、夜の海統括守護者ライラの代理外交を務める惑星国家であり、七大一族の商人鬼族と直結の貿易関係を結んでいる。そして、ライラの研究結果の一部が共有され、魂に関する研究を国家規模で繰り広げている。
ウロフタル国家を侵略し、住処にしている元祖は魂に特化した才を有している。最悪を懸念したオベロンの指示で、異性の戦力ではなく、同性の戦力を投下した。
「綺麗な魂だこと…」
悪魔を一方的に殺戮していた杠と蝶の耳に、元祖の声が入ってきた。諧声に影響され、悪魔は動きを止め、元祖に平伏した。一匹の侍従が元祖に紅茶を淹れ、礼を尽くす。
「統括の女はどうしたの?」
「ライラは別件じゃ。そちこそ、聖女はどうした?」
「人見知りが激しくって。姉である私がお相手してあげようと思ったの」
ワインレッドの髪。真っ赤に燃える瞳。妖艶な体を黒いドレスで覆い隠した不思議なオーラを纏う美女―嫡流三女”情”の元祖ラミア・ダエモン。
ラミアはカフェのテラスに座り、足を組んで、優雅に茶を嗜んでいる。戦禍を優雅に過ごす姿勢は、感心できない。代わりに、ラミアを主人として敬愛する吸血鬼らは、杠と蝶に殺意を向けている。
ラミアは都市に蔓延る吸血鬼の絶対女王であり、吸血鬼を唯一創り出すことのできる人間だ。元々の肉体のある悪魔と違い、吸血鬼は死者や正者の魂を一定の圧で歪ませた人的生物。魔獣などの魔族とも違い、人の欲が生み出した怪物。過去に、吸血鬼集団は子孫神との戦いに投与され、多くの子孫神を屠る一つの要因となっている。
「七洋に叱咤されたの。嫡流として、吸血鬼を戦具にしろってね。神の血を供給してくれる約束も、美味しい血を与えてくれる約束も、始めは叶えてくれていたのに、今では蔑ろにしている。不待遇の私を扱き使うアザトースも好ましくないし、嫡流を戦禍の材料に知らしめる七洋も美しくはない」
ラミアが感慨深げに、話し始めた。杠は警戒を怠らない。
(ラミアは、人間でありながら、直々にアザトース神の血を分け与えられ、開花させた。直後に、自身の魂を歪ませて、吸血鬼となり、吸血種という新たな人種を確立させた…)
鉄扇に一筋の血が滴る。
「私は不変を追い求めているの。進化し、荒波に呑まれて、否定され、なおも強い存在意義を持つ不変。追い求めているのは」
燃えるような瞳の奥に、熱望があった。
(嫡流として、比較的従順なラミア。戦闘に秀でていないのに、只の人間でありながら、アザトース神に期待され、名立たる傑物に名を列ね、ここまで生き残ることができたのは…)
ラミアがカップを傾け、紅茶を落とした。
「あなた達じゃない」
怒りに歪んだ顔が向けられ、ラミアの諧声に影響され、吸血鬼が急襲してくる。二人は反射的に退いたが、吸血鬼は無尽蔵に増え続けているように、休みなく襲い掛かってくる。吸血鬼は、その命尽きるまで、ラミアに己の意志で服従し、戦っているように見えた。
相手の力量関わらず、限界関わらず、絶望へと叩き落す。そのために、吸血鬼の猛攻を休みなく続けさせ、絶望へと歩かせていく。それがラミアの戦法。前線に立っても、配下に手を下させる臆病な、けれど、徹底した戦略。際限のない吸血鬼だが、動きは単一である。
「母上」
杠は、蝶に呼びかけた。動きを察した蝶は宙に浮いて、一時退却した。
火の粉が降りかからないと判断した杠は、竜名を解放した。
「盤古開天闢地魃────魃────旱魃を齎す」
パキパキッと、杠の両腕から、薄氷の砕ける爽快な音が鳴り響く。そして、半透明な竜の鱗に変化した。鹿の角のような神聖さを持つ龍の角。先鋭化した竜の手は、比にならぬ馬鹿力。持久戦に富んだ踏ん張りの利く竜の足。強靭な肉体が顕わとなる。
燃えるような瞳が、僅かに揺らいだ。
「精悍な女ね」
ラミアの戯言を無視し、杠は両腕をかざして、吸血鬼の生命を吸収し、枯らしていく。簒奪とは違う生命が枯渇する。時が経つにつれ、鮮やかな花が萎れる理を代理として扱う杠の竜名の効果は絶大で、吸血鬼の大群を枯れ木の如く追い込み、戦闘不能にした。
「私の下僕を…不心得者の相手…愉悦ね」
配下の吸血鬼が倒されたにも関わらず、ラミアは人差し指で、宙にくるくると円を描いた。連動して、枯れ木のようにしわがれた吸血鬼に、生命が戻る。だけかと思いきや、元の姿ではなく、体が変形し始めた。ごりごりと鈍い音を立てながら、吸血鬼が異物に代わっていく。
腕が、足が、全てが折れ、歪み、丸く、肉塊へと。ぎちぎちと、肉がこすれ合い、ぶつかり合う音。
杠が倒した吸血鬼の数は、およそ千体に上る。千体の吸血鬼が宙に浮いて、肉同士を衝突させ、奇妙な進化の過程を実現している。それは吸血鬼の意志ではなく、主人であるラミアの判断だ。そして、この奇妙な進化と肉塊になっているのは、ラミアの才が関係している。
”情”の元祖の才”魂礼”。魂を無条件で操作する能力であるが、対象者との相性により、操作程度が落ちたり、術者であるラミアの気分に大いに影響する依存型の才である。
魔法の開祖やレヴィアタン、ロワなど、元祖の中でも特に地位を確立する中では、最も戦い向きの元祖ではない。また、嫡流として選ばれたラミアは、戦闘に特化しているわけではない。彼女が選ばれたのは、魂の実験台に神を求めたほどの、恐ろしく、狡猾なまでの生存本能にあった。
それは他者を顧みず、常識も屠り、ただ新たな進化を求める逸脱した思想を持つ。
「ウロフタル国家初代元首チャールズ・ダーウィンは【進化論】を提唱した。彼は生物の進化では、魂も同様に進化すると思い、魂の研究を始めた。それが今では、国家で行われる大規模実験へと成長を遂げた。幾千の進化実験に共通した課題は、たった一つ、研究者の想像を超える進化を果たした生物が現れたこと。理由のない、偶然だったらしいの。
神聖時代を象徴する哲学の祖である運命の哲学者は、あらゆることには必ず理由があると書き残した。
実験内の生物は何不自由ない、食料もあって、外敵もいない環境で進化こそすれど、劇的な変化を遂げなかった。でも、一部は消化器官を変化させ、より効率よくエネルギーを摂取できるようにし、個体数を急速に伸ばした。何の意味があるのかしら?」
「理由理由と腑抜けた考えじゃのう」
蝶が呆れ半分で、地に足を下ろす。ラミアは微笑んだ。肉塊から音が消え、羽化した。蛹から翅を伸ばし、宙を舞う蝶のように、肉塊から黒々しい肉体。背中を丸めているため、大きくは見えないが、恐らく全長は三メートルに及ぶだろう。背骨から無数の黒翼を生やしているそれには、すべて顔が無かった。
これが進化した吸血鬼の姿なのか。蝶と杠が目を疑っていると、ラミアはやっと立ち上がった。
「私たち研究者は、ダーウィンを進化の哲学者と呼んでいる。環境によって生死が決まる、命の選別が行われることを、かの哲学者は選択圧と呼んだ。
戦争である者は限界を超える時がある。それ即ち進化。外敵という環境要因が揃う中で、人類はどんな結末を辿るのか。私は興味があるの。さあ、準備は整ったわ」
ラミアは一匹の侍従を引き連れて、その場を離れようとした。ありえぬ行動に、蝶が殺気を向ける。
「七洋に叱咤されたの。だから、彼らの望む通り、私は専属以外の吸血鬼は、あなた達に宛がうことにしたわ」
ラミアが背を向けると、主人を守ろうと、まだ進化を遂げていない数万の吸血鬼が姿を現した。
「不待遇な場所で咲き続けるよりかは、裏切って新たな場所で違う姿を咲かせたいわ。内緒だけど、お誘いがあったの。神皇からね」
「!」
「イニティウムは血の実験を続けている。副産物で出る血を飲ませてくれることと、定期的に血を与えることを条件に、私は原初一族に属するわ」
「原初一族の特性を引いておらんお主ができることではない!」
「言ったでしょう? 生物は進化するの。私が配下にしたように、これから千年は魂を歪ませていく。七洋とアザトースの命令を遂行した今、自由なの。それじゃ、いくわね。新しい主人を助けに行かなきゃ」
ラミアが歩き始めると、吸血鬼が一斉に襲い掛かってきた。
「原初一族統制殄戮部隊”始祖”―演者”先哲”。”顕学”の後任として、私はセア・アぺイロンと命盟を結んだ。
これ以上は敵対しないし、原初神打倒に力は貸すけど、この場での戦いに干渉できないわ。また、後で会いましょう。御機嫌よう」
ラミアの気配が完全に消えると、吸血鬼の理性が崩壊し、暴走状態に陥った。
進化した吸血鬼が突進してくる。
(総数が未定。活動規模も帝国都市を覆いつくす。朕が出てもよいが、更地にしてしまう。ウロフタル国家は主要惑星国家。派手には動けん。ならば…)
蝶は、扇子を巨大化させ、一時的に吸血鬼の進行を妨害した。
「杠」
「あいな」
蝶の考えを瞬時に察し、煉瓦造りの地面に手を触れ、才を発動した。それは前任の蠍然が戦死したことで、自動譲渡した”苑”の元祖の才”死灰”。領域内で術者が触れたものや、攻撃したものを灰にする。発動条件や実力に応じて、”死灰”の放出量も大きく異なる。
前棟梁蠍然は、発動条件を変えないことを前提に、放出量を大幅に向上させた。放出量だけで言えば、蠍然は歴代随一である。ノーヴァと交戦した際には単騎に特化することを前提に、放出量を一点に集中させることで、神に至った彼の肉体を灰にした実績がある。
だが、杠は発動条件を大きく変動させた。空間の底辺を定め、どちらかの手で底辺に触れることで、活動域を大幅に向上できる。放出量に制限を設けることで、灰にする対象も指定することができる。
杠は煉瓦造りの地面を底辺と定め、空間の大きさを指定し、活動域をウロフタル国家全土にまで拡張した。長年積み上げた経験から、空間の波動を利用し、制限した放出量を本来の威力まで取り戻し、対象も吸血鬼だけに指定した。
「朽ちろ!」
低い声で言い放った瞬間、吸血鬼の軍勢が次々と灰になっていく。風に乗って、灰は流れてしまった。多くの吸血鬼と進化した吸血鬼を打破することに成功したが、数体の吸血鬼だけは、環境に適応したのか、灰にならず生き残っている。その吸血鬼は、才の拡張使用で痙攣し、動けない杠に殴りかかった。蝶が庇い、強烈な一薙ぎを放って追い返したが、あまり意味がない。
(威力を元の基準まで補填しても、やはり蠍然のようにはいかんなぁ)
杠は痺れる体に鞭を打って、立ち上がった。
「これがラミアの言っておった進化なるものか。厄介じゃのう」
進化という現象は、環境への適応であり、その環境に少しでも耐えられるように、身体機能が変化し、感覚も麻痺する。だが、それはあくまでも耐えられるように、という解釈であり、完璧に無効化することはできない。そのことを知っている杠は、単純な肉弾戦を選択した。鉄扇を腰に巻きつけ、ここからは殴殺だけで仕留める。
「母上、一瞬の隙だけを作ってくれ」
「うむ」
蝶が扇を構えた。彼女の扇は神器布都御魂と呼ばれるアザトース神の一部を材料に創られたものだ。備わる効力は直前で想像した斬撃を実現させるもので、これは、蝶が斬撃だと認識すれば、その全てを無条件で実現させる。
蝶は直前に、暴風の刃を想像し、斬撃と認識した。大きく扇を薙いで、暴風の斬撃を実現させた。かの斬撃は、一直線に進化した吸血鬼に直撃し、神器に対応していなかった吸血鬼らに大きな損傷を齎した。適応しようと魂を進化させ始めた吸血鬼の進化速度よりも早く、杠は猛攻を仕掛ける。一匹の鋼鉄以上の硬さを誇る肉体を一撃の拳で、破壊し、腹に大きな穴を空けた。一匹仕留めると、その勢いを殺さず、竜名の威勢を増築させ、竜の尻尾を新たに露出させた。踏ん張りの利く竜の足で地面を掴み、強靭な肉体を支え、力強く唸り、回った。それ自体が武器となる竜の尻尾が肉体の強い回転に比例して猛威を振るい、近辺にいた数体の吸血鬼を粉砕する。バキバキと薄氷の砕ける音を立てて、地面を蹴って、飛来する吸血鬼に殴りかかった。吸血鬼の頭を掴み、そのまま地面に叩き落す。最後の一匹は、時間の経過とともに、斬撃に適応した個体だった。それゆえに神器布都御魂の援護は期待できなかった。最後の個体は杠に襲い掛かり、獰猛な牙を剥き出しにした。杠は覚悟を決め、両腕を構え、百万に及ぶ拳の殴打を繰り出した。適応しただけあり、その強度は類を見ないほど厄介だった。適応される前に、いや、適応する時間を与えるわけにいかない杠は一方的な戦況に持ち込み、激しく高速な殴打を一分間に千回以上も繰り出した。血飛沫が顔にかかる。
(数でごり押す!!)
至って単純な戦法だった。だが、単純さに勝るものはなく、百万を超え、二百万に達する殴打に耐えきれなくなった最後の吸血鬼が呻き声をあげて、その場に倒れこんだ。僅かに脈打つそれらだが、強大な再生能力は持っていなかったのか、それとも杠の強烈な打撃を癒すだけの思考回路が追いついていないのか、どちらにしても復帰することはない。進化した吸血鬼を避けながら、返り血を拭き取る杠はかつて、人類最強の竜を誇った天花乱墜の面影を取り戻していた。
「杠」
「どうした、母上」
「どうもお主に母上と言われるのは面映い。この体の肉齢は二十代前後じゃし、朕としもお主よりは年下じゃし。偉大な子孫の母に、母と呼ばれるのはのぅ」
蝶は、彼女の面影に心当たりがあり、当時の記憶に浸る。
「お主が全盛に近づいていると複雑な気持ちじゃ。全盛は七洋と互角で、心強くはあるが、素直に喜んでいいのか…」
「悲歎するな。全盛を分け与えたおかげで、子孫に恵まれたのじゃ。妾の可愛い子供たちを屠ったクヴァレは許し難い」
クヴァレ帝国の侵略で一番の被害を受けたのは竜族だ。突拍子な襲撃は過酷で、七洋と元祖最強ロワと、長男ノーヴァの裏切りも重なり、竜族からなる神の国アウグスティヌスの人口が半数近く減少してしまった。蠍然、皓空、雲颯、宇風羽、謝氾。”麒麟”竜王を支える四つの家門の棟梁と次期棟梁の死亡も重なり、一族としての沽券に関わる。杠が玄棟梁になってしまったことも、天花乱墜の面影を取り戻したのも、全盛に近づいていることも、彼女にとっても、竜族にとっても不本意である。杠が全盛に戻りつつある現状と、戦場に戻るということは、白熱する大戦が到来する。
杠は吸血鬼が確実に死に絶えたことを確認し、居場所が掴めぬ聖女を探し始める。
「アグネス! いつまで隠れておるつもりじゃ!」
大きく息を吸った蝶が、国に響き渡る甲高い声で、姿の見えぬ聖女に語り掛けた。
「ラミアは貴様を裏切った! 降参しろ! さすれば、命までは助けてやるっ!!」
恐ろしいことを言う。蝶の声が届いたのか、廃れた古城のバルコニーに人影が現れた。
袖の大きなデザインの白い修道服。鎖柄の刺繍。六望星の髪飾りと半透明なヴェールを身に着ける儚い美女。短命の言葉を起こさせるほど、存在が希薄で、触れてしまえば、簡単に壊れてしまいそうな庇護欲を掻き立てられる美女。五女”狂”の元祖アグネス・カタリナ。通称―魔法の開祖たる狂喜の聖女。
銀色の髪が靡いて、雪の白肌が亡霊さを増し、だが、真紅の瞳で存在が証明されている不気味な女だ。生きているのか、死んでいるのか。
魔法の開祖の一括りで、キルケやソロモン、メルキゼデクと徒党を組んでいたり、他の兄弟とも関係は良好だ。常識は弁えているようで、それぞれの計画や思想を邪魔する行為はしないために、抹殺の相手にはされなかった。だが、蝶からしてみれば、彼女を前にしても敵意が湧かないのだ。精神干渉能力を発動されているような不快感だけが、アグネスから感じられ、どうにも好きになれない。
「アザトースが人類を滅ぼそうとしているのは、貴様とて承知の上じゃろう! 今は争っておる場合ではない!」
聖女は寸ともいわない。二人の視線が聖女に釘付けになる。聖女が手を合わせ、祈った。
「…!」
意味不明な行動に、杠は辺りを見渡すと、己が屠った吸血鬼の死体がなく、血痕だけが残っていた。見上げる前に、老朽化した翼を空から落ちてくる。ひらひらと風に揺蕩って、地面に完全に落ちる前に、杠は蝶を抱え、その場を離れた。
老朽化した翼が地面に触れた瞬間、そこら一帯が謎の力で大きく窪み、一つのクレーターを作り出した。一帯の中心は、さっきまで蝶が立っていた場所だった。クレーターにはあり得ないほどの重量が働いており、謎の力とは質量と重量による不可視の攻撃だった。一部始終を目撃した、一部始終で殺されるはずだった蝶は、交渉の決裂を余儀なくされ、即時、臨戦態勢に移った。蝶が扇を、杠が鉄扇に手を置いた瞬間、上空を純白の光触媒が埋め尽くし、神秘的で非現実的な光景を生み出した。触媒から、無数の高出力な光の散弾が降り注いだ。蝶は才を発動し、速度を上げていく。杠はある程度、算段を引きつけると、鉄扇を強く薙いで、飛来を免れた。光の散弾という攻撃方法には覚えがあった。魔法の大元である三つの魔術のうち、奇跡的要素の高い霊異魔術を一部だけを用いた聖術セレマだ。セレマを本格的に使える人材は数少なく、聖女タチアオイは魔塔主よりも、セレマを使いこなせる。
ただ、降りかかっている光の散弾の出力は、セレマで創出する散弾よりも明らかに高威力だった。
(聖術セレマは、霊異魔術を抑制した魔法。ほんの一部しか奇跡の御業を使えん…じゃが、霊異魔術を完璧に扱える人間がおる。始まりの賢者が二つの魔術を考案したのと同時期に、霊異魔術を完成させた。魔法の潜在能力を見込まれ、神に認められたアザトースの八人の嫡流の一人…魔法の開祖が一人アグネス・カタリナ!)
蝶は散弾飛び交う白に染まる光景の隙間をかき分けて、古城のバルコニーで祈り続ける聖女アグネスを捉えた。扇を仰いで、不可視の斬撃を直前で想像し、実現した。放たれた斬撃は物質法則を一時無視し、距離に比例して高度を上げ、古城に直撃させた。不可視の斬撃に当たると、古城は倒壊した。バルコニーも跡形もなく崩壊し、アグネスもただでは済まない。常人であれば、死に直結する事象。だが、知っていた。アグネスが常人ではない、天才という枠に収まり切らない人類随一の潜在能力の保持者であり、それは未だ健在であり、魔法術式という概念が確立され、魔法の種類が多様化されたからこそ、潜在能力が一層の強さを維持させていること。蝶は油断しなかった。アグネスの死体を見る前では、絶対に手を止めない。
(気配を探る感覚を、空気が振動する感性を…十四代目は浸透の彼方に祈る。
―穢れを探れ)
肉体から放出された透明な数匹の蝶が空気中に紛れ込み、空間の変動を把握し、術者である蝶に伝達する。降りやまない散弾を華麗に避け、即時伝達される目に見えない遥か先の空間の変動を処理し、蝶はアグネスを探した。引っ掛からない。目の中に異物が入ると瞬きするように、空間の変動にアグネスが関わると反応する。目の防御反射、或いは角膜反射と同じ原理を利用している能力に一切の引っ掛かりがなく、無意識の潜在意識の反射的行動が役に立たない。瞬きがいちいち処理されない無意識の生理現象と化している。
(一方的な戦況。有限の無限小。手札を変えるしかない)
蝶は劣勢に立たされていることを再度認知し、才を本格的に発動させた。それに応えるように、杠が竜名の出力を調整し、光の散弾を限りなく吸収した。一定限度を設け、吸収の逆算、放出に舵を切り、散弾の根源を生み出す光柱を標的にして、吸収した散弾を鉄扇に乗せ、大袈裟に薙いだ。鉄扇の弧を描く筋に、光が付与され、かの筋は空気を切り裂き、光柱を一刀両断する。光で埋め尽くされていた上空から、それらが消え去ると、一度は完全に屠った進化済みの吸血鬼が待ち構えていた。
「奇跡よ!」
透き通った声が空高々に響く。蝶と杠が目を向けた先に、手を合わせたアグネスが宙に浮いていた。飛行の類の魔法だが、アグネスは分類的に認識していない。緊迫する状況で、アグネスは余裕の笑みを浮かべ、溌溂と語る。
「悲惨な最期を迎えた吸血鬼の生存欲が神に通じたのね! やはり、神は尊い存在よ」
いつものおどおどした態度が嘘のように、アグネスは自身の理想に酔いしれている。
「尊い神から生み出された私たち人類は玩具よ。この瞬間まで生きとし生ける存在になれたのは、神の温情。そんな神を悪者扱い?
私達を産んでくださったアザトース様の、親の行動に、私達は理解を示し、服従するべきよ。だって、私達の才能はすべて神がお恵み下さったのだから…」
「神と人類は別な生き物。これからは神と人類の外交が始まるのじゃ!」
「それは小娘の理想論でしょ?」
アグネスから笑顔が消え失せ、豹変した。小娘とは、セア・アぺイロンのことを指している。
「セアは原初神の嫡子。セアの意向は、原初神、ひいては神の要望。原初神も人類との共存を望んでいる」
「ありえないわ!」
アグネスは奇声を上げる。
「原初神は宇宙と同等の存在。如何なる生物の頂点! 人間の感情は慮らず、独善の判断で宇宙を牽引するの! 人間が神を軽んじるなんて許されないわ! いつから、人間は原初神と同等だと傲慢に決めつけたの?…誰かの影響?…ああ、小娘ね。小娘が誤りの認識を広めたせいよ…あの小娘がいるせいで、神の秩序が崩れる…抹消しなくちゃ…」
アグネスの偏見的な結論に、異を唱えたのは蝶だった。彼女は神器の切っ先をアグネスの喉元に中てた。
「朕の前で、セアを愚弄するか! 命知らずな魔法使い風情が…人類と神の架け橋を語るな!」
切っ先が食い込む。アグネスは情緒が不安定になっている。だからこそ、蝶のセアを擁護する言葉が、彼女の情緒を破壊に導くきっかけとなった。
「あなた、アザトース様の人造人間でしょ? なんで、素晴らしさを分かっていないの?」
「その過去は潰えた!」
「過去は消えないわ。ただ、詳細になりすぎて、見えなくなっただけよ。私もそう。魔法の開祖になって、私の能力が魔法の一括りに分類されてしまったの。私の能力は奇跡の御業。人類の汚らわしい魔法なんて、お粗末な技術じゃないの。今だって、奇跡が働いているわ」
アグネスの真紅の瞳が波打った直後、蝶に強大な重力が働いて、地面に這いつくばった。辛うじて、跪く姿勢に収めたが、目の前でアグネスが見下ろしていた。彼女はまた手を合わせた。
「あなたたちは、奇跡によって死を賜る。これからは私が神の代弁者になるわ」




