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遠眼鏡の先

「ヴェンドリン子爵、今日は私が案内をさせていただきますぞ」

「ガルウィン様が? それは、ありがたいことですが……」


 その日、大聖堂修築の視察に訪れたジェラールを出迎えたのは、意外な人物だった。


「大主教様の手を煩わすことは――」

「構いませんですとも」


 ジェラールの前で微笑む、祭服を着た白髪の老人の名前はガルウィン・ハラウォン。この大聖堂を預かる大主教で、大陸で広く信仰されている神聖教会の重鎮。彼は帝国における、宗教界の実質的なトップである。


「ちょうど暇だったのでね」


 暇というのは大主教としてどうなのか。しかしこの老人は、皇帝とは違った意味で特別な地位にいる人間だ。彼が案内するというものを拒否する権限は、ジェラールには無かった。


「さあさあ、こっちです」


 ジェラールは仏頂面で、前を行く大主教のあとについて歩いた。ジェラールの後ろからは、さらにぞろぞろと神官たちが付いてくる。


「今回修理しているのは、主に中央の尖塔です。何しろ六百年前の代物ですからね。あちらこちらが痛んでいます」


 大主教は歩きながらジェラールに説明する。

 大聖堂の修築は、最近始まった事では無い。この大聖堂は一番古い部分が二千年前に建造されたと言われており、そこから現在の形になるまで、幾度もの拡張工事が行われてきた。年代物ゆえに、当然劣化や破損が激しい部分もある。この大聖堂はほとんど常時、どこかしらで修理や工事が行われていた。

 帝都市民の間には、この聖堂の工事が終わる時は、世界が終わる時なのだという説まで流れているほどだ。


「この通り、礼拝所は普段通り解放しています」


 大主教の言葉通り、市民の祈りの場である礼拝所は今回の工事の対象に入っていない。熱心な信徒たちは、礼拝のために今日も大勢訪れている。大主教の姿に気付いた彼らは、こちらの方に向かっても祈りを唱えていた。


「子爵は、礼拝のほうは?」

「――は?」


 さっきから無言で大主教の説明を聞いていたジェラールは、突然話を向けられて戸惑った。相手は大主教である。ジェラールといえども適当な返事は許されない。

 しかし正直に答えると、ジェラールは教会が苦手だった。わざわざ教会までやってきて礼拝したことなど、幼い頃に母に無理矢理連れてこられて以来無い。祈る暇があるならペンを動かせ。これがジェラールの性分だ。

 ジェラールが返答に窮していると、大主教は笑い出した。


「はははは。いいのです、子爵。お若い方には礼拝など退屈でしょう」

「いえ、そんなことは……」

「私も正直退屈です。祈る暇があったら、町で炊き出しでもした方がいいのかもしれません。……でも、祈ることが必要な人々も、世の中にはいるのですよ。それは理解していただきたいと思います」


 ジェラールはまた返答に困った。大主教と面と向かって会話したのは初めてであるが、彼はその立場に似合わない、独特の間合いを持つ人物のようだ。


「尖塔は礼拝所の奥です。この扉から――、ああ、君たちはもう下がりなさい。仕事に戻って」


 大主教が言うと、後ろから付いて来ていた神官たちはようやく散らばった。

 散っていく神官をジェラールが目で追っていると、大主教は言った。


「子爵には一度、直接お礼を言わなければと考えていたのですよ。今日あなたが来られると聞いて、良い機会だと思いました」

「え?」


 思いもかけない言葉に、ジェラールは聞き返した。


「ここの工事にかかる費用を捻出するのは大変でしょう」


 大主教は笑顔を消し、真面目な表情になって続ける。


「……古い建物です。取り壊して新しいものを造った方が、余程安上がりかもしれない」


 確かにそうだ。修築関係の予算に頭を悩ませる度に、ジェラールはそう考える。


「ですが、さっきの話と同じです。この建物に愛着を感じ、よりどころにしている方々もいる」


 大主教から目を外し、ジェラールは礼拝所にいる市民たちに目を向けた。


「それともやはり、工事にかかる費用を貧者に施した方が良いのかもしれない。……難しい問題です。私にも分からない」

「……」

「だから取りあえず、あなたにお礼を言いたかった。あなたがいなければ、きっと工事もままならなかったでしょうからね」

「私は、私の仕事をしているだけです」

「はい。それがありがたいと、私は言っています」


 大主教は笑った。


「さあ、こっちが尖塔です。良い眺めですよ」


 大主教は扉を開き、通路の奥に向かって歩く。

 自分の仕事を、こんな風に誰かに褒められたのは久しぶりだ。ジェラールはわずかに苦笑してから、大主教のあとを追った。


「ところで子爵。子爵は高いところは大丈夫ですか?」

「もちろん」


 大聖堂の尖塔は、宮殿にある時計台と並んで、この帝都で最も高い建築物である。高所が苦手な者の場合、上に上がると足が竦んで動けなくなるそうだ。

 大主教は気遣ったが、自分はそんな弱点のある、軟弱な人間ではない。野菜を食べられなくて大騒ぎしたことを忘れて、ジェラールは涼しい顔をした。


 尖塔内部にあるらせん状の階段を上っていくと、そこかしこで職人が壁の補強を行っていた。外部に取り付けられた足場でも、並行して作業は進められている。

 折角だから、一番上まで行こうと大主教は言った。階段は非常に長かったが、老体にも関わらず、大主教はほとんど息を乱さずに歩いていく。


「風に気をつけてくださいね」


 そして頂上まで来て大主教が扉を開くと、そこは円周上のバルコニーのようになっていた。


 ――いい景色じゃないか。


 似合わない感想だが、ジェラールはそう思った。

 彼にすらそう思わせるほどの眺望が、彼らの目の前に広がっている。

 ここは百万の人間が住むと言われる帝都と、彼方にそびえる大山脈を一望できる、最高の場所だった。


「どうです。いいでしょう」


 大主教も得意げな顔をしている。その横で、ジェラールはふと考えた。


 ――ミアに見せたら……、彼女は喜ぶだろうか。


 きっと喜ぶ。彼女はこういう風景が好きに違いない。


「この大聖堂の中で、ここが一番、神を身近に感じられると私は思いますね」


 風が強く吹いているので、大主教の声は自然と大きくなっている。一瞬妻のことを考えていたジェラールは、その声で現実に引き戻された。

 そして改めて周囲を見回した彼の目に、変わった物体が映った。


「あれは何ですか?」


 ジェラールが指さしたのは、手すり際に据え付けられた細長い円柱状の物体だ。


「ああ、あれは遠眼鏡ですよ」

「遠眼鏡?」

「遠眼鏡というのは――」

「知っています。遠眼鏡がなぜここに?」


 近くに寄ると、物体は確かに遠眼鏡だった。これは最近発明された道具で、一般にはまだ普及していない。望遠鏡とも言い、光の原理を利用して、非常に遠くを見渡せるという。軍では偵察などに用いられ始めている備品なので、ジェラールは見た事があった。


「エルンスト殿下にいただきました」

「は? あの馬――いえ、殿下が?」

「はい、殿下がここを訪れた時、ぜひ民衆にも広く開放するべきだと。あれを使って帝都を隅々まで眺められるようにすれば、もっと良いと」


 いかにもあの皇太子が考えそうなことだ。しかし大主教もその提案には賛成したそうで、工事が終わったら、本当に一般への開放を考えているのだという。


「子爵ものぞいてみられませんか? なかなか楽しいですよ」

「いや、私は――」


 そんな子供じみたことをするつもりは無い。一旦はそう言って断ろうとしたジェラールだったが、これをのぞいてはしゃいでいるミアの顔を幻視して、一度くらいは使ってみてもいいかと考え直した。


「では……、そうですね。お言葉に甘えて」

「どうぞどうぞ」


 使い方は知っていた。レンズに片目を当てて、ピントを調節する。本当に遠くまでよく見えた。


「殿下には、軍で開発されたという最新の物を寄付していただきました」


 ジェラールは、何をしてるんだあの馬鹿はと考えながら、景色を眺めるうちに、こういう使い方も良いじゃないかと思うようになった。


「子爵のお屋敷は見えますか?」


 大主教がそう言ったので、ジェラールはまたミアのことを思い出した。庭仕事をしている彼女の姿を、これで眺めることができるかもしれない。

 しかし、そんな風に人を観察するのは、倫理的に不味い気がする。ジェラールは思い留まり、むしろ屋敷から離れた市場の方に眼鏡を向けた。


「確かに、なかなか楽しいですね」

「そうでしょう」


 遠眼鏡に目を当てているジェラールには見えないが、大司教は得意げな顔をしていただろう。

 数分ほど使って、ジェラールは満足した。そして視察に戻ろうと、彼が眼鏡から目を離しかけた時、それは彼の視界に入った。


「………………な!?」


 突然ジェラールが大声で叫ぶと、大主教は慌てた声を出した。


「どうしたのですか? 子爵!」

「何をしてるんだ!」

「どうしたのです。何が見えるのですか!」

「あんな……、あんな……、誰だあれは!」

「子爵! 子爵!」


 大主教が呼びかけても、何かに目を奪われたままジェラールは反応しない。


「あいつはミアに、何をしている!」


 そう、ジェラールがのぞく遠眼鏡の先にあったのは、街の通りで彼の知らない男に手を握られた、ミアの姿だ。

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