第110話 ヤバイと思ってて、なんで入るんですかーっ
セヴェリとクリスタの結婚式から、二ヶ月が過ぎた。
結局クスタビ村の冬祭りは、特にイベントをすることもなく終わった。咲き誇るビオラを愛でに来る人はいたものの、それだけだ。そのため観光客の数はぐっと減ってしまっていたが、それも仕方のないことだった。
シェルトの受験はすでに終わり、無事に大学に合格したようである。この春から、彼はブロッカの街で医学生となる予定だ。
デニスとサビーナは、今も一緒に暮らしている。村人からの風当たりはまだ強く、耐えるように過ごしているのだが。
サビーナのお腹はポッコリとしてきたものの、最後の三ヶ月でドンと大きくなるらしく、ゆったりとした服を着ているとまだ気付かれないこともある。
「最近どう? ちゃんとご飯は食べてる?」
「はい。なんか吐きづわりから食べづわりになっちゃったみたいで……最近、食べてばっかりいます」
「うふふ。食べなきゃいけないけど、食べ過ぎに要注意よ?」
「気を付けます」
クスタビ村唯一の診療所に来ていたサビーナは、プリシラにそんな注意を受けた。
この村で、今までと変わらず接してくれる人のいる、唯一の場所だ。
「今日はデニス君は一緒じゃないのね」
「はい、最近は魔物狩りの方をメインにしているみたいで……近くには大した魔物はいないからって、遠出することが多いんです」
「あら……じゃあ何日も帰ってこなかったりするの?」
「そうですね」
最初の頃は一日二日といった単位だったが、今では長いと五日間ほど家を空けることもある。生活のためというのはわかっているが、やはりデニスがいない家はどこか虚しい。
「そう……寂しいわね」
「まぁ、仕方ないですから。他にデニスさんができる仕事もありませんし」
「そんな風に言い切っちゃうと、ちょっと可哀想ね」
クスクス笑うプリシラに、サビーナもまた笑みを漏らす。
「でも、これからはプリシラ先生も寂しくなっちゃいますね。春からはシェルトが街に行っちゃいますし」
「そうねぇ……」
「土日には帰って来るし。先生に寂しい思いなんかさせねぇから」
後ろで聞いていたシェルトがすかさずそう言い、プリシラは「大丈夫よ」と苦笑している。医学生にそんな暇なんかなさそうだが、シェルトは意地でも帰ってきそうだ。
どこか冷めた感じのするシェルトだが、プリシラに関することだけは熱く燃え滾っていて笑えてくる。
「なんだよ、サビーナ。ニヤニヤして」
「なんでもなーい」
「……腹立つな」
ボソッと捨て台詞を残して、彼は部屋を出ていった。大学に行くことになって寂しいのは、どうやらプリシラよりもシェルトの方のようだ。
それを知ってか知らずか……いや、かなりの確率でなにも気付いていないプリシラは、出て行ったシェルトを尻目にサビーナに問い掛けてくる。
「お産や産後の準備は進んでる?」
「いえ、まだ全然」
「少しずつでも取り掛かった方がいいわ。ベビーベッドなんかは使わなくなった人もいるだろうし、声を掛ければ誰かがくれると思うけれど」
「はい……でも、私なんかにくれるのかな……」
「サビーナさん……」
サビーナは肩を落とした。しかしプリシラはそれに気付かぬように、「私から頼んでみるわ」と言ってくれた。
その後も出産に関して色々な話を聞いていた、その時だった。診療所の入り口の方が急に騒がしくなったのは。
「先生、急患が来る!」
そのシェルトの声に素早く反応したプリシラは、「ちょっとごめんなさい」と身を翻して診察室を出ていく。
「シェルト、患者はどこ!?」
「今、運んでもらってる」
「症状は?」
「腹部と頭部に魔物に襲われたと思われる損傷、血まみれになって村の入り口に倒れてたのを、ガロクが見つけたらしい」
「意識は?」
「あるみたいだ」
「どこの誰だかわかるの? 性別、年齢は」
「デニス、男、確か二十六歳のはずだな」
開け放たれた扉の向こうからそんな声が聞こえてきて、サビーナはグラリと倒れそうになった。
デニスが、怪我をした。
一瞬で頭が真っ白になり、手がカタカタと震え始める。
「すぐに施術の準備! 到着次第、患者の救命に全神経を注ぐわよ!」
「わかった!」
二人は慌ただしくバタバタと準備を始める。サビーナはフラフラとプリシラのいる場所に足を進めた。
「プリシラ先生……デニスさんが、怪我を……?」
「落ち着いて、サビーナさん。まだこの目で見てないから、なんとも言えないわ。今は万全の態勢で迎えたいの。座って待っていてもらえる?」
そう言われても、体は固まったまま動いてはくれなかった。プリシラとシェルトはもうサビーナには見向きもせず、着々と準備を整えている。
「先生、来たようだぜ」
「扉を開けて、中まで運んでもらって」
シェルトが扉を開けて迎えると、ガロクとケーウィンに抱えられたデニスが中に連れられてきた。
「デニスさんっ!!」
「……サビーナ」
デニスは項垂れるような格好のまま、顔も上げずにそう呟いた。
頭には包帯らしきものが巻かれていたが、すでに血染めとなって役目を果たしていない。腹部も周辺の服は破れていて、大きな三本の爪痕のようなものが痛々しそうに顔を覗かせている。
「デニスさ……っ」
「落ち着け、サビーナ。先生に任せとけば大丈夫だから。そこで静かに座って待ってろ」
「ガロクさん、ケーウィン君、中に運んで下さい!」
プリシラの指示を受けた二人は、デニスを中に運んでいく。サビーナも入ろうとしたが、シェルトに拒まれて入ることは叶わなかった。
デニスを運び終えた二人が出てくると、その扉はパタンと閉められる。狭い待合室にはサビーナとガロク、それにケーウィンだけが残った。
「あの、デニスさんは、どうしてあんな怪我を……っ」
デニスを運んでくれた礼を言うのも忘れて、食ってかかるように問い掛ける。しかしガロクは首を左右に振りながら答えた。
「さぁなぁ、俺達は血まみれで倒れてる彼を見つけただけだ。どうして怪我をしたのかなんて、知らんよ」
「あ……すみません……」
サビーナは責めるように言ってしまったことを恥じて、一歩後退しながら謝った。と同時に、ふと疑問が湧いてくる。
「どうして……デニスさんを助けてくれたんですか? 私達は、この村で嫌われているのに……」
その問いには、ケーウィンが呆れたように答えてくれる。
「嫌いだからって、死にそうな人間を見殺しにはできないよ。プリシラ先生がこの村にいて良かったな。サビーナさんにとっては大事な人なんだろ? あの人、無事だといいな」
抑揚のない声でそれだけを言うと、ケーウィンはガロクと診療所から出ていった。サビーナは慌てて頭を下げるも、すでに彼らの姿はなく、サビーナは待合室で一人ポツンと立ち尽くす。
診察室の中からは、プリシラとシェルトのやり取りの声、それにデニスの苦しそうな呻き声が聞こえてきた。
大丈夫なのだろうかと、サビーナの手は震える。
もしも……もしもデニスさんが死んじゃったら……っ
そう考えると、頭は泥を掻き混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃになる。
怖い。彼を失うことも、その後一人で生きていかなければならないことも。
サビーナが扉の前でデニスの無事を祈りながら待っていると、不意にその扉が開いた。中からはシェルトが顔を出す。
「入っていいぜ」
「え……もう、いいの?」
「でかい声は出すなよ」
注意を受けて、恐る恐る中に入る。そこには綺麗な包帯に巻かれたデニスが、ベッドの上に寝ていた。
「デニス、さん……?」
「サビーナ……悪ぃ。心配、掛けちまったな……」
「大丈夫、なんですか……?」
「ああ、ちょっとミスっちまっただけだ……」
そう言う顔に元気はなかったが、口端は少しつり上がって笑っている。デニスの声を聞けて、サビーナはようやくホッと息を漏らした。
「派手に出血はしてたけど、思ったほど傷は深くなかったわ。しばらく安静にしてもらわなければいけないけど、命に別条はないから安心して」
「ありがとうございました。プリシラ先生、シェルト」
デニスは念のため、その日は診療所に泊まることになった。サビーナも付き添うつもりだったが、ベッドが足らず妊婦ということもあって、家に帰されてしまった。
翌朝すぐに診療所に向かうと、デニスはすでに自分で歩けるまでになっていた。驚異の回復力である。
しかしプリシラに無理は禁物だときつく言われ、夕方まで診療所で様子を見てから、ようやく家に帰ってくることができた。
体に痛みはあるようだが、そんなものは気にしないとばかりに動きたがるデニスを、無理矢理ベッドの上に座らせる。
「ったく、もう大丈夫だってのに」
「駄目です! 頭も怪我したんですから、二、三日は寝ていないと!」
「っつーか今さらだけど、今日サビーナは仕事休みだったのか?」
「違いますけど……明日も休みを取りました」
「ええ?! マジかよ。俺はもう大丈夫だから、明日は仕事に行ってくれよ」
「行きません! 放っておいたら、デニスさんはきっと動きまくっちゃうし!」
デニスは「うっ」と声を詰まらせて黙り込んでいる。どうやら動く気満々だったらしい。
そんなデニスを見て、サビーナは「もうっ」と息を吐き出した。
「それで……どうしてこんな怪我を負ったんですか? 今まで一度だってこんなことなかったのに……」
「つい魔物の巣窟に入っちまった。ヤベェかなとは思ったんだけどな」
「ヤバイと思ってて、なんで入るんですかーっ」
「悪ぃ、これからは気をつけるって!」
サビーナの怒りの声に、デニスはバツが悪そうに苦笑いしている。サビーナが「信じられない」とブツブツ言っていると、デニスの表情が少し寂しげなものに変わった。
「なんつーかさ……俺、今まで甘えてたんだろうなって思った」
「え?」
急に雰囲気が変わった彼の話に、なんのことかわからず首を傾げた。デニスはベッドに上に座ったまま、視線をサビーナには合わさず、斜め下に逸らしている。
「俺はさ、オーケルフェルトの騎士の中では斬り込み役だったからよ。まぁ一言で言えば、なにも考えずに突っ込んで剣を振るってりゃ良かったんだ」
「え……そんなことはないと思うけど……」
オーケルフェルト騎士隊の班長を、そんな考えなしの人間に任せることはないはずだ。デニスは自分で気付いていないだけで、剣を振るう際の戦略が頭に入っていたのだろう。
本能的なものと言い換えてもいいかもしれないが。
「魔物の巣窟に入ったすぐに後悔した。今はサポートしてくれるリカルドやキアリカがいねぇ。俺は今まで自分の力で魔物を倒した気になってたけど、あいつらがいてくれたからこそだったんだよな……」
自嘲気味に笑うデニスが、痛々しくて仕方なかった。
確かデニスは、リカルドやキアリカとは同期だったはずだ。特にリカルドとは親友のようだし、強い信頼関係が成り立っていたからこそ、デニスも無茶ができたのだろう。
しかし今、ここにリカルドはいない。こんな怪我をしてしまったのは、無茶の度合いを計り切れなかったせいもあるのだろう。
そう言えば、デニスさんの班とリカルドさんの班は、大体一緒に行動してたもんね……
オーケルフェルトにいた頃の二人を思い出し、サビーナは眉を下げた。元気な様子を見せてはいるが、やはりデニスは深く落ち込んでいる。
「もう、無理はしないでね……」
「……あのさ、サビーナ」
ずっと逸らされていた目が、サビーナの瞳と焦点を合わせる。どうしたのだろうと思っていると、デニスは意を決したように言葉を発した。
「この村を……出ていかねぇか?」
唐突の提案に、サビーナは言葉を失った。
この村を、出て行く。
考えもしていなかったことだった。サビーナはセヴェリの結婚後もずっと、この村でひっそり暮らすつもりだったのだから。
なにも言えずにいるサビーナに、デニスは厳しい眉のまま続ける。
「サビーナがこの村を出たくない気持ちもわかる。けど、正直俺は……ここで暮らしていくのがキツイんだ。単独での魔物狩りも限界があるってよくわかったし、俺はそれよりも騎士職の方が合ってる。どこか別の国へ行って、新しい場所で騎士として再出発してぇ」
デニスの言うことはもっともだった。
村人に嫌われた場所で生活するのは苦痛だろう。慣れない弓矢で獲物を取るのも大変だろう。魔物を遠くまで探しに行き、一人で狩るのは危険が付き纏う。
デニスのためを思うなら、彼の言う通りに新しい土地で生活を始めた方がいい。
そうだよね……
ずっとここにいても、デニスさんのためにはならない……
サビーナは、ギュッと唇を噛んだ。
本来なら、デニスの言う通りにすべきなのだろう。
しかしサビーナは、『うん』とは言うことはできなかった。デニスの事を大切に思っていると言い切れるはずなのに。どうしても承諾の言葉が出てこない。
「サビーナ……」
「ごめん、デニスさん……私は、ここにいたい。セヴェリ様と一緒に植えたアデラオレンジを、ここで育てていきたいから……だから……」
自分の我儘のせいで、デニスの幸せを阻害してしまっている。そのことに申し訳なさが募るが、どうしてもこの村から出たくはなかった。
アデラオレンジの木は、順調に育ってくれている。この木だけは、実のなるところを見届けたい。そして叶うなら、セヴェリにアデラオレンジを食べさせてあげたい。
そんな切実な思いは、ただの自己満足でしかないかもしれない。
けれどデニスは、笑ってサビーナの頭を撫でてくれた。
「悪ぃ、俺の言ったことは気にすんな! 惑わせちまったな。心配すんな、ここで上手いことやってみせっから。な?」
「デニスさん……」
ごめんなさいという言葉が出てこず、深く頭を下げる。
自分なんかを好きになっていなければ、彼はアンゼルードで幸せな人生を歩めていたかもしれないというのに。
サビーナのそんな思いを搔き消してくれるかのように、デニスの手はいつまでもグリグリとサビーナの頭を撫で続けてくれた。




