第107話 一人だったらきっと耐えられなかった
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シェルトが去ってから一時間もしないうちに、一組の夫婦が駆けるように家にやってきた。
筋肉が自慢のゴツい男ジェレイと、その妻であるラーシェだ。
二人は教卓の前で話し合いをしているサビーナとデニスの前まで来ると、ハァハァと息を切らしながら顔を引きつらせている。特にラーシェの形相は、思わず腰が引けるくらいに怖いものだった。
「どういうことよ! サビーナ!!」
ラーシェの第一声が、辺り一帯に響き渡る。その声に驚いた小鳥達が、木からバサバサと羽ばたいていった。
「ごめんなさい……」
「謝れなんて言ってないわ! セヴェリさんが出ていったって……サビーナは別の男と暮らしてるって……本当なの!? どうしてそんなことになっちゃってるのよ!!」
ラーシェに肩を引っ掴まれて、ガクガクと揺らされた。それを見たジェレイが、慌ててラーシェを止めている。
「やめろ、ラーシェ! サビーナは身重なんだぞ! 乱暴に扱うな!」
ラーシェはハッとしてサビーナの肩から手を放す。隣にいたデニスの目が、大きく開かれていた。
「サビーナ……お腹の子のことは、結局セヴェリさんに伝えたの?」
「……いいえ」
サビーナが否定すると、ラーシェはさらにサビーナを強く睨んだ。
「わかったわ。そのお腹の子、セヴェリさんが相手じゃなかったのね!? だから告げられなかったんでしょう!!」
ラーシェはそう断定すると、今度はデニスの方をキッと睨みつける。睨まれたデニスは、まるで断罪を受け入れるかのように、真っ直ぐラーシェの瞳を見つめていた。
「あなたがサビーナの元恋人ね!? セヴェリさんとサビーナは上手くいってたっていうのに、過去の人間がしゃしゃり出てこないでよ! 二人の人生を掻き乱して、なにが楽しいの!?」
「ラーシェさん、デニスさんは……っ」
そう言葉を続けようとすると、デニスが遮るようにサビーナを制し、頭を下げる。
「すまねぇ……でも俺は、どうしてもサビーナを忘れられなかった。サビーナはなにも悪くねぇんだ。すべての責任は俺にある。どうか、サビーナを責めねぇでやってくれ」
「デニスさん……」
頭を下げ続けるデニスの背中に、そっと手を回す。
悪いのは彼ではない。デニスが来ようと来るまいと、セヴェリがこの村を出ていく事実は変わらなかったのだから。
「こんなの……セヴェリさんが可哀想よ……。どうして、浮気なんか……っ」
「ラーシェ」
後ろから、ラーシェを諌めるようにジェレイが制する。しかしジェレイのその顔も、晴れやかとは縁遠い面持ちだった。
「サビーナ。セヴェリは……本当に帰って来ないのか」
「……はい」
「……そうか……」
ジェレイは苦い薬でも飲んだように、眉間の皺を深く刻ませている。そしてしばらく考えるように唸り声を上げてから、次の言葉を放った。
「サビーナはそのデニスってのと、ここで一緒に暮らすつもりか?」
ジェレイの問いになんと答えればいいかと迷っていると、デニスの方が先に口を開いた。
「ああ、そのつもりだ。俺はサビーナと二人で、ここで暮らす」
「……まぁ普通なら、人が住み着いてくれんのは、大歓迎なんだけどよ」
やはりジェレイは言葉を渋らせ、苦しそうに腕組みした。
「正直なところ、俺はお前を受け入れられねぇ。おそらく、村のみんなも同じだ。俺はセヴェリの奴を親友だと思ってたし、いきなりお前のような奴が現れても『はいそうですか』って心は切り替えられねぇ。悪いが、笑って『仲良くしようぜ』なんて言葉は言えねぇよ」
サビーナも、デニスにセヴェリの代わりなんて求めてはいない。元々まったく種類の違う人間なのだ。
ただ、無条件に受け入れられたセヴェリとは対照的に、最初から憎まれ役としてしかいられないデニスを不憫に思う。
「すまねぇな。出ていけとは言わねぇが、ここではいる限り苦労すると思うぞ」
「ああ、わかってる」
「ならいいんだがな」
そう言うと、ジェレイは背を向けて歩き始めた。「行くぞ」と声を掛けられたラーシェは、サビーナとデニスを一睨みしてからジェレイを追い掛けている。
ラーシェにあんな目を向けられることが、悲しかった。わかっていたことではあったが、それでも苦しい。
サビーナが心を沈ませていると、デニスに顔を覗き込まれた。
「妊娠、してんのか……?」
小さな声で問われ、サビーナは正直に首肯する。隠していてもどうしようもないことだ。これからデニスと生きていくつもりなら、伝えるべきことなのだから。
「セヴェリ様との子、だよな」
「うん……」
「そっか」
デニスは軽く言って、サビーナのお腹をそっと撫で始めた。なぜか彼の顔は笑みで満たされていて、サビーナは首を傾げる。
「嫌じゃ、ないの……?」
「ん? なにがだ?」
「だって……デニスさんの子どもじゃない。デニスさんの血は、一滴も混じってないんだよ」
「そんなの関係ねーから。すっげぇ大切で大好きな人達の子どもだぜ。俺がそんな二人の間にできる子どもを、大切に思わねぇわけがねぇだろ?」
あっけらかんと悪戯小僧のように笑いながら言うデニスを、困った子どもを見るかのように苦笑いしながら見つめる。
デニスはこういう男なのだ。つまらない心配は無用ということだろう。
「大丈夫だ。俺、絶対に大切にすっから。サビーナも、生まれてくる子どもも。だから、俺に気遣ったりすんじゃねーぞ」
「……うん、ありがとう」
「うしっ」
ニカッと笑ったデニスは、サビーナをギュッと抱き締めてくれる。
こんな重たい女を背負わせていいのだろうかという罪悪感はあった。しかしデニスは、そんな重みなんてちっとも堪えてない。彼にとっては、笑って終わらせられるだけのものなのだ。
もし少しでも嫌がっていたのなら、すぐに顔に出る男なので、わかるはずだ。
有難いな……デニスさんの存在……
デニスが来たせいで村人からの反感を買ったとも言えるが、来てくれたおかげで、一人での子育てに不安を感じることもなくなった。
どうしても産みたいと思ってはいたが、やはり一人での子育ては怖かったのだ。デニスが子ども好きで良かった。きっと彼なら、いい父親となってくれるに違いない。
本当は……セヴェリ様と喜びをわかち合いたかったけど……
そこまで考えて、サビーナは首を左右に振った。
今さらこんなことを考えたところで、どうにもならない。サビーナは振り切るようにして顔を上げ、デニスに微笑みを向けた。
デニスもまた大切な人に違いはない。これからはきっと、かけがえのない人へと変わっていくはずだ。
彼はサビーナの髪に手をやり、そっと撫でるように後頭部を覆ってくる。
「デニスさん……?」
そしてそっと落とされそうになる唇を見て、サビーナは思わずデニスの鎖骨部分に手を当てた。
「サビーナ?」
「ごめ、私……っ」
キスを拒むようなその体勢に、デニスは怒ることなく苦笑いしてる。
「わり、つい……なにしてんだろうな、俺。以前、『俺は身を引く』なんて格好いいこと言っておきながら、結局忘れられずに追い掛けてきちまってるしな……」
デニスの自嘲気味な告白に、サビーナはそっと首を振った。
彼がサビーナを忘れられなかったのは、仕方のない環境であったと言えると思う。
普通に暮らしていたならともかく、あんなことがあって、デニスは二年もの間牢屋で過ごしてきたのだ。思考がずっとセヴェリとサビーナのことだけになっていても、不思議はなかった。
「俺、ここに来て、あんたに迷惑掛けちまってるか? 俺がいない方が……良かったか?」
不安そうに問うデニスに、やはりサビーナは首を振りながらそっと抱きつく。
「ううん……デニスさんがいてくれて、良かった……。セヴェリ様がいなくなって、一人だったらきっと耐えられなかった……」
「……そっか」
安堵の息と共に、デニスの声が降りてくる。
今はまだ、デニスとどうこうということは考えられないけれど。それでも一緒にいて安心させてくれる存在には違いない。
「さっきも言ったけどよ」
「え?」
「俺、サビーナに受け入れてもらえるよう、頑張っから。一緒に暮らして、いいか?」
わざわざ確認を取ってくれるデニス。一人であの家に暮らすのはつらすぎる。当然、彼には傍にいてほしかった。
セヴェリを愛していながら、勝手なことだとは思う。しかしその申し出を、サビーナは有難く受け入れた。
二人はそれから、十五歳以下の授業が始まる時間まで待ったが、誰も来はしなかった。
すでにセヴェリがいないという事実が広がったのだろう。
次の日の保育の時間も、誰もやって来ることはなかった。サビーナ達は、完全に孤立してしまった。




