第15回 新しい窓口の名
窓口統括の札は、朝の光を受けてもまだ少しだけ新しかった。
当たり前だ。
昨日立てたばかりだし、昨日のうちに三回はぐらついた。
そのたびにユアンが木片を差し込み、私が位置を直し、セレナが「札も朝は機嫌が悪いですね」と真顔で言った。
意味はよくわからない。
でも少しだけ気持ちはわかった。
新しい窓口は、だいたい朝がいちばん不安定だ。
「増えてますね」
私は広場の列を見て言った。
「増えています」
セレナが静かに答える。
「苦情ではなく、相談の列が」
「それは良い増え方です」
「はい。かなり」
中央机。
第二机。
第三机。
札は昨日より増えた。
仮登録。
相談経由。
苦情経由。
停止案件。
待機所連絡。
通行情報。
文字だけ見ると、だいぶ落ち着きがない。
でも、落ち着いていない街を回すには、このくらい落ち着きのない机のほうが役に立つ。
たぶん。
「受付」
ダンが腕を組んだまま言う。
「もう受付じゃねえだろ」
「窓口統括ですね」
ロッドが言う。
「でも、受付って呼びたくなる」
「わかります」
ノアが箱を抱えて笑う。
「怖さの種類が変わってないからね」
「それは褒めていますか」
「かなり」
たぶん褒めている。
たぶん。
そこへ、広場の入口がざわついた。
見なくてもわかる。
嫌な気配の歩き方だ。
でも、昨日のボルドではない。
もっと疲れていて、もっときちんとしていて、もっとちゃんと困っている歩き方だ。
レムだった。
白狼の爪の事務補佐。
今日は一人だ。
それだけで、だいぶましに見える。
かなり。
「……おはようございます」
レムが言う。
少しだけ顔色が良くなっていた。
昨日よりは、だが。
白狼の爪基準での“まし”は、だいたいまだ悪い。
「おはようございます」
私は返す。
「戻る気はありません」
「そこからですか」
「確認です」
「朝から刺さるなあ……」
後ろで小さく笑いが起きる。
でも、広場の空気は悪くない。
昨日で線は引けた。
今日はその線の上に立つだけだ。
「規約を持ってきました」
レムが言った。
私は少しだけ目を上げた。
「規約」
「はい」
「窓口の並べ方」
「前金の切り方」
「苦情の一次分類」
「保留札の扱い」
そう言って、レムは紙束を差し出した。
昨日の“順番だけでも”から、一晩でここまで形にしてきたのか。
それは正直、少し驚いた。
かなり少しだけだが。
「早いですね」
「寝ていません」
「でしょうね」
「その返事、やっぱりきついです」
「確認なので」
「便利ですね、それ……」
レムは本当に疲れていた。
でも、紙は読める形になっている。
そこが良い。
かなり良い。
私は中央机にその紙を置いた。
読む。
前金と完了報酬を分ける。
苦情票は箱ではなく三分類。
危険度保留は窓口から外へ出さない。
薬品札の色を固定。
だいぶ良い。
かなり良い。
「直しましたね」
「はい」
「昨日の紙をほぼそのまま写しました」
「正直でよろしいです」
「隠せる段階じゃないので……」
それもそうだ。
広場の空気が、少しだけやわらぐ。
ノアが箱を抱えたまま言う。
「白狼の爪も、まだ完全に終わったわけじゃないんだね」
「終わりかけではあります」
私が言うと、レムがすぐに返した。
「かなり」
広場で笑いが起きた。
良い返しだ。
少しだけ、この人は好きかもしれない。
かなりよくない兆候だが。
「で」
ダンが言う。
「人は貸さねえんだろ」
「貸しません」
私は即答した。
「戻りもしません」
レムがうなずく。
「わかっています」
「そこはもう」
「かなり」
ロッドが吹いた。
「伝染してるな」
「便利ですから」
セレナが真顔で言う。
やめてほしい。
最近、この広場では便利な言葉が増殖する。
だが、嫌いではない。
「規約は受け取ります」
私は言った。
レムが顔を上げる。
「はい」
「ただし」
「はい」
「白狼の爪の中で、これを守れる人が必要です」
「それは……」
レムは少しだけ言葉を探した。
「何人かはいます」
「何人かでは足りません」
「そうでしょうね……」
「少なくとも、机を勝手に一つに戻す人は外してください」
広場のあちこちで笑いが漏れる。
レムは深くうなずいた。
「たぶん、そこが一番大事です」
「かなり」
「やっぱりそうですよね」
ルノが、少しだけ手を挙げた。
首から下げていた薬品札は、今日は机の横に立てかけてある。
えらい。
かなりえらい。
「俺、頑張ります」
「薬品棚ですか」
「窓口もです」
私は少しだけ見つめた。
昨日の“うわあ”が、今日はちゃんと人の顔になっている。
悪くない。
「札を首から下げなければ」
「はい!」
「まずはそこからです」
「そこからなんだ……」
広場がまた少し笑った。
良い。
緊張がほどける。
ほどけたあとで、きちんと締められる空気が、今のこの広場にはある。
たぶん、それがいちばん大きい。
「レムさん」
私は改めて紙を揃えた。
「順番は渡します」
「はい」
「規約も読みます」
「はい」
「でも、新設ギルドは白狼の爪の後始末係ではありません」
「はい」
「そこだけは、絶対に混ぜないでください」
レムは真顔で頷いた。
「混ぜません」
「本当に?」
「昨日の広場を見て、それを混ぜたら死ぬとわかりました」
「物騒ですね」
「あなたに言われたくないです」
たしかに。
それは少しだけそうだと思う。
かなり少しだけだが。
レムが去ったあと、広場は一度静かになった。
静かだ。
苦情がないわけではない。
相談が減ったわけでもない。
でも、静かなのは、みんなが“次に何が起きるか”を少し待っているからだ。
それは悪くない静けさだった。
「受付」
ダンが言う。
「はい」
「いや、もう統括か」
「どちらでも」
「じゃあ受付統括」
「雑ですね」
「今は勝てばいいので」
広場がどっと笑った。
セレナまで、少しだけ肩を揺らした。
よくない。
とてもよくない。
でも、このくらい崩れているほうが、肩の力は抜ける。
必要な崩れ方というものもある。
たぶん。
アーヴィンが一歩前へ出た。
低い声が、広場の机を越えて広がる。
「聞いてくれ」
広場が静かになる。
一瞬で、だ。
この人の声は、たぶんそういう声だ。
強くはない。
でも、余計な熱がないから、逆に止まる。
「新設ギルドは、今日から正式に窓口を分ける」
第二机。
第三机。
中央机。
それぞれを示す。
「相談経由」
「苦情経由」
「停止案件」
「待機所連絡」
「通行情報」
「これらは今後、窓口統括の下で一元管理する」
視線が、一斉にこちらへ向いた。
やめてほしい。
そういう一斉は照れる。
かなり。
「また、規約の整理と帳票管理も進める」
「新設ギルドは、話を聞くだけの場所ではない」
「順番を作り、見える形で流す窓口だ」
ノアが、ふっと笑った。
「いいね」
ダンもうなずく。
「かなりいい」
ヘイムは腕を組んだまま、低く言った。
「橋も助かる」
サナが紙を抱え直す。
「布屋もね」
次々に、そういう声が広がる。
大きな拍手ではない。
叫びでもない。
でも、ひとつひとつがちゃんと届く。
こういう承認は、変に大きい拍手より重い。
たぶん、ずっと。
「窓口統括」
ロッドが小さく言う。
「言われてみると、似合うな」
「そうですか」
「受付のままだと足りねえし」
「それはどうも」
「怖さもそのままだし」
「そこは余計です」
「でも大事だろ」
たしかに。
少しだけ。
いや、かなり大事かもしれない。
怖い窓口は、列を守る。
列が守られると、街が少しずつ回る。
そういう理屈だ。
たぶん。
私は新しい札を見た。
窓口統括。
昨日はただ“重い”と思った。
でも、今は少し違う。
重いのは変わらない。
でも、その重さに、ちゃんと机がある。
札がある。
周りに人もいる。
そう思うと、昨日ほどのざわつきはなかった。
「セレナさん」
「はい」
「札、まっすぐですか」
セレナは見た。
そして、少しだけ口元をゆるめる。
「珍しく」
「何ですか」
「今日は機嫌がいいようです」
「札がですか」
「ええ」
意味はよくわからない。
でも、少しだけわかった気もした。
今朝から、この札は一度もぐらついていない。
ユアンが、えへんと胸を張る。
「木片の角度を変えました!」
「素晴らしいです」
「そこ、かなり大事なんですね」
「かなり」
ユアンは本当に、今日は帰っていい顔をしている。
かなり。
広場の端で、新しい列ができ始めていた。
苦情の列ではない。
相談の列でも、怒りの列でもない。
順番を知って並ぶ列だ。
それは少しだけ、感動的だった。
でも、そういうことを顔に出すとノアあたりにからかわれそうなので、出さない。
「では」
私は中央机の前に立った。
新しい札の下。
新しい規約の横。
新しい一覧の前。
広場の列を見渡す。
苦情の箱はまだある。
停止案件もまだある。
白狼の爪も、まだ死にきってはいない。
街の面倒は、これからも増えるだろう。
でも、それを整理する机が、今ここにある。
それはだいぶ大きい。
「並んでください」
その一言で、広場の列がすっと整った。
誰も怒鳴らない。
誰も迷わない。
少なくとも、どこへ並べばいいかは全員が知っている。
それだけで、人はずいぶん穏やかになる。
本当に不思議だ。
私は少しだけ息を吐いた。
新しい窓口の名は、もう立っている。
そして、その前には、今日もちゃんと列ができている。
本当に怖い受付嬢は、並ばせるだけでなく、街を回してしまうのである。




