第13回 止まった現場へ
「まだ足りてないのかい!」
ノアが箱を抱えたまま吹き出した。
広場のあちこちでも、笑いが漏れる。
少なくとも今の笑いは、こっちの空気だ。
ボルドだけが笑っていない。
というか、顔がもう笑える余地のない色をしていた。
かなり赤い。
たぶん、今日いちばん赤い。
「ルノ!」
「は、はい!」
「何でそれを今ここで言う!」
「だって本当ですし!」
よく言った。
しかも首から薬品札をぶら下げたまま。
説得力があるのかないのか、少し判断に困るが、少なくとも現場感はすごい。
「苦情箱が足りないのは」
私は言った。
「だいぶ終わっていますね」
「何度も言うな!」」
ボルドが叫ぶ。
「確認です」
「確認で済むか!」
「済みません」
「じゃあ言うな!」
「でも済まないことは、言ったほうがいいので」
ドグラスが横で、ふっと鼻を鳴らした。
「違いねえ」
ボルドが振り向く。
「ドグラス様まで!」
「いや、お前のとこ今かなりやべえぞ」
直球だ。
そしてたぶん、一番効く。
ボルドは何か言い返そうとして、結局言葉を失った。
その間に、広場の空気は完全にこちらへ寄る。
でも、ここで終わると“言い負かしただけ”だ。
それだと少し足りない。
今ほしいのは、もう一段、現場をぶつけることだ。
紙が正しいだけでなく、現場も紙の通りに困っていると見せること。
「リゼ」
アーヴィンが低く言った。
「はい」
「現場を見せるぞ」
そうだろうと思った。
「どこをですか」
「東の木橋だ」
広場が少しだけざわつく。
ヘイムが腕を組み直した。
ノアは箱を抱えたまま、にやりとする。
ダンは、ああ、という顔をした。
ロッドは、また走るのか、という顔だった。
「今からですか」
私は聞く。
「今だ」
アーヴィンは即答した。
「止まった現場は、止まっているうちに見せたほうがいい」
「そうですね」
私は少しだけ息を吐いた。
東の木橋。
好きではないが見たい現場だ。
嫌な顔をしている場所は、見ればだいたい理由が書いてある。
紙よりずっと雑に。
でも確かに。
「ボルド」
アーヴィンが続ける。
「来るか?」
ボルドは一瞬だけ詰まった。
広場の視線が集まる。
逃げると、負けが確定する。
来ても、たぶん負ける。
嫌な二択だなと思う。
少しだけ同情する。
かなり少しだけだが。
「……行く」
ボルドが言った。
「行きますか」
私は確認する。
「行くと言っただろうが!」
「確認です」
「その確認が腹立つんだよ!」
広場で笑いが起きる。
ドグラスが斧を肩にかけ直した。
「俺も行く」
「広場に置いていかないんですか」
私が聞くと、ドグラスは眉をひそめた。
「何をだ?」
「斧です」
「何でだ?」
「橋なので」
ドグラスは少しだけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「持つだけだ」
「できれば振らないでください」
「橋で振るわけねえだろ」
「よかったです」
ロッドが横で小さく言う。
「受付、そこ本気で心配してたな」
「かなり」
「素直だな」
「現場は大事なので」
その間に、広場の机をどうするかで少しだけ騒ぎが起きていた。
ノアが箱を抱えたまま言う。
「こっちはどうする」
「第三机は残します」
私は答える。
「苦情票は帰りを待たせます」
「帰る気かい?」
「帰ります」
「本当かね」
「たぶん」
「弱いねえ」
たしかに弱い。
だが、今日はもうだいぶ紙を増やした。
これ以上増えると机が嫌がる。
たぶん。
「ユアンさん」
「はい!」
「机を守ってください」
「任せてください!」
「紙留めも」
「増やします!」
「素晴らしいです」
今日のユアンは、本当に机運が強い。
そういう日もあるのだろう。
たぶん。
「ルノ」
私は向いた。
「はい!」
「首の札はそのままで」
「えっ」
「わかりやすいので」
「そ、そうですか?」
「かなり」
ルノは少しだけ嬉しそうだった。
よかった。
よくない方向に育っていないといいが。
そこは少し心配である。
広場から木橋までは、歩いてすぐだ。
でも、その“すぐ”の間にも、街の空気はある。
商店の前。
荷運びの待機所。
小さな露店。
そして、通りを横切る人たちの視線。
新設ギルドの一行。
白狼の爪のギルド長。
ドグラスまでいる。
見世物としてはかなり強い。
できれば私は見世物側ではなく、机の裏側にいたい。
でも今日は無理らしい。
「受付」
ダンが歩きながら言う。
「何ですか」
「橋見て、何が一番わかる?」
「困り方です」
「即答だな」
「現場は困り方が表に出るので」
「それ、ちょっと好きだな」
「ありがとうございます」
「褒めてるぞ」
「そう聞こえました」
ダンは少しだけ笑った。
この人は荷の話になると機嫌がよくなる。
たぶん健全だ。
私よりずっと。
東の木橋は、やはり嫌な顔をしていた。
橋が顔をするわけではない。
でも、そうとしか言えない。
板の色。
沈み方。
片方だけの札。
手すりの傾き。
全部が“私は困っています”と言っている。
かなりはっきりと。
「……ひどいな」
ドグラスが、橋を見てそう言った。
「はい」
私は答える。
「ひどいです」
「このくらい、俺でもわかる」
「助かります」
「何でだよ」
「説明が一つ減ります」
後ろでロッドが吹き出した。
「それでいいのかよ」
「かなりいいです」
ヘイムが橋の手前で立ち止まる。
「ここだ」
「荷車は」
「軽いのをたまに通してる」
「重いのは」
「止めてる」
「止めきれていませんね」
私は橋板の削れを見て言う。
ヘイムが、う、と詰まった。
「そこまでわかるのか」
「車輪跡が新しいので」
ダンがすぐ横から言う。
「昨日の夕方だな」
「わかりますか」
「荷は、どこで止まったかより、誰がどう動かしたかの跡が残る」
また名言だ。
今日は本当に多い。
とても助かる。
「ボルド」
ドグラスが橋を見たまま言う。
「止めてたんじゃねえのか」
「と、止めていた!」
「でも通ってるぞ」
「それは、その……」
「誰が通した?」
ボルドは答えない。
答えられない。
その時点で、だいぶ終わっている。
私は橋の向こうを指した。
「問題は二つです」
ここは広場ではない。
でも、自然にみんなが少し静かになった。
現場だと、声は低い方が効く。
「一つ」
私は片側の札を指す。
「通行情報が片側だけ」
「うっ」
ヘイムが小さく唸る。
「もう一つ」
橋の真ん中を指す。
「板が沈んでいる」
「それも見りゃわかる」
ドグラスが言う。
「はい」
「でも、この順番が大事です」
ドグラスが眉をひそめる。
「順番?」
「はい」
私は橋の手前で立った。
「板だけ直しても、片側しか止めていなければ、また重い荷が来ます」
ヘイムが、ああ、と小さく言った。
ノアも腕を組んだ。
ダンはうなずいている。
「つまり、橋板を直すより先に」
私は言う。
「通行規制とその広報をなんとかしないといけません」
ボルドがすぐに言い返した。
「そんなものか?」
「ええ」
私は被せた。
「そんなものです。重要そうじゃない。だから、放置されます」
「うっ」
「広報の立て札は地味です。でも、先に立て札がないと板が死にます」
ドグラスが、ふっと鼻を鳴らした。
「わかりやすいな」
「ありがとうございます」
「褒めてねえ」
「そうですか」
たぶん半分くらいは褒めていたと思う。
そういう時の鼻の鳴らし方だった。
橋の向こうから、軽い荷車が一台来た。
布袋を積んでいる。
御者は困った顔だ。
ああいう顔は、だいたい誰にも決めてもらえない人の顔だ。
かなりつらい。
「今日、通れるのか」
男が聞く。
誰に、というより全員に向けた声だった。
私はすぐに答えた。
「一度に二袋までです」
男が目を丸くする。
「二袋だって?」
荷馬車のままでは通れない、という意味だ。
「手押しで往復してください」
「面倒だな」
「落ちるよりはマシです」
「……だよな」
ボルドが不満そうに言う。
「そんな細かいことを!」
「細かいから橋が落ちません」
私は言った。
少しだけ強く。
ボルドが黙る。
そこで黙るのなら最初から黙っていればいいのにと思う。
だが、言わない。
今は現場が勝つほうが大事だ。
「ヘイムさん」
「何だ?」
「通行情報の立て札、橋の両側に今日中に」
「出す」
「字は大きく」
「書く」
「重い荷の制限も」
「書く。『一度に二袋まで』だな」
「マクスさん」
「おう」
「仮止めはどこまで?」
「夕方までに沈みのひどい板だけ替える」
「本修理は?」
「木材次第だ」
「つまり支払確認待ちですね」
マクスが嫌そうな顔をした。
「そこに戻るのか」
「戻ります」
「嫌な受付だな」
「よく言われます」
ノアが箱を抱えていないのに、腕を組んで言った。
「でも今の、かなりわかりやすかったよ」
「どこがですか」
「板より先に札だってところ」
「ええ」
「怒ってる側も、だいたいそこだ。順番が分からないから、怒る」
たしかに。
苦情票もそうだった。
いつ、どこで、何が、誰に止められたかが見えないと、人は怒る。
見えれば少し待てる。
待てると、物事が動く。
動くと箱が減る。
箱が減るのはとても良い。
「リゼ」
アーヴィンが言う。
「はい」
「十分だろ」
私は少しだけ首をかしげた。
「何がですか」
「現場確認だ」
「ええ」
たしかに。
紙通りに現場も困っていた。
しかも、誰が見てもわかる形で。
それはかなり大きい。
ボルドだけは、まだ納得していない顔をしていたが。
「こ、こんなもの!」
また来た。
本当にしぶとい。
「橋一つだろうが!」
「ええ」
私は頷く。
「橋一つです」
「だったら」
「でも、橋一つで荷が止まります」
ボルドが止まる。
私は続ける。
「荷が止まると商人が止まります」
「商人が止まると支払も止まります」
「支払が止まると木材も止まります」
「木材が止まると橋も直りません」
ヘイムが腕を組み直した。
「その通りだ」
ダンも言う。
「荷の流れってそういうもんだ」
ノアがうなずく。
「苦情票もそうだったね」
ドグラスはしばらく橋を見ていた。
それから、低く言う。
「……おい、ボルド」
「な、何ですか」
「これ、受付の方がわかってるじゃねえか」
きれいに刺さった。
見ていてわかるくらいに。
ボルドの顔が、今度は少し青くなる。
赤と青で忙しい人だなと思う。
健康が心配になる。
かなりどうでもいいが。
その時、向こう岸からロッドがまた走ってきた。
やはり今日も走る日らしい。
肩以外が本当に優秀だ。
「受付!」
「はい」
「広場の方、増えてる!」
「何がですか」
「人!」
「雑ですね。誰が来てますか」
ロッドが息を整えながら言う。
「商人が何人か」
「採取師組合の偉そうな人も」
「あと、待機所の顔役まで来てる」
ノアが目を丸くする。
「イリサまで?」
「たぶんその人!」
私は少しだけ空を見た。
橋の上から見ても、空は青かった。
本当に他人事みたいな色をしている。
「……早いですね」
「ええ」
セレナが答える。
「現場を見たと聞いて、動いたんでしょう」
「契約ですか」
「たぶん」
少しだけ、胸の奥が重くなる。
苦情票ではなく、契約。
止まった案件ではなく、選ばれる窓口。
それはだいぶ違う。
嬉しいのと、重いのが同時に来る。
「受付」
ダンが言う。
「顔が二つあるぞ」
「どういう意味ですか」
「嫌そうな顔と、やる気の顔」
ロッドが息を切らしたまま笑う。
「ほんとだ」
「気のせいです」
「そういう時、大体気のせいじゃねえんだよな」
図星である。
だが認めたくはない。
まだ。
「戻るぞ」
アーヴィンが言う。
「はい」
「広場の話は、こっちで終わった」
「そうですね」
「次は、向こうだ」
広場へ戻る道は短い。
でも、その短さが少しだけ嫌だった。
戻れば、たぶん契約の話になる。
それは、机の話とは少し違う重さだ。
私はその途中で、一度だけ振り返った。
東の木橋は、まだひどい顔をしている。
でも、さっきより少しだけましだ。
通行条件が決まった。
何を先に直すかが決まった。
それだけで現場は少しだけ軽くなる。
本当に不思議だ。
広場が見えてきた。
人が増えている。
本当に増えている。
しかも、顔つきが昨日までと違う。
困った顔だけではない。
選ぼうとする顔だ。
「リゼさん」
セレナが横で言う。
「はい」
「たぶん、今日は苦情票より重い紙が来ます」
「嫌な予告ですね」
「でも、たぶん好きになれます」
「そういう言い方はやめてください」
「では黙ります」
黙っていても、だいたい図星なのが悔しい。
広場の端では、ユアンが頑丈な机を守っていた。
本当にえらい。
かなりえらい。
その机の前に、三人の商人が立っている。
採取師組合の顔役らしい女もいる。
待機所の代表らしい男たちもいる。
みんな紙を持っている。
そして、その紙の持ち方が、苦情とは違った。
私は小さく息を吐いた。
セレナが、静かに言う。
「正式な話です」
私は広場の机を見た。
止まった荷の紙ではない。
苦情票でもない。
選んで持ってきた紙だ。
そう思った瞬間。
広場の端で、白狼の爪の方向から、また一人、別の使いが走ってくるのが見えた。
今日は本当に、誰かがずっと走っている。
その男は、広場へ着くなり叫んだ。
「リゼさん!」
私は顔を上げる。
「はい」
「白狼の爪から、使いが来てます!」
またかと思った。
だが次の一言で、空気が変わった。
「ギルド長じゃありません!」
使い方を変えてきた。
そういうことだ。




