第十五話 セレス
白い亀裂の向こうに、見知らぬ女が立っていた。
淡い金色の髪。俺たちより少し年上に見える。
いつからそこにいたのか分からない。さっきまで、あの場所には誰もいなかったはずだ。
女は俺ではなく、手の中にある銀色の留め具を見ていた。
「随分と面白いことをしているのね」
「……誰だ?」
女は答えず、ゆっくり亀裂へ近づいてくる。
ルナが警戒するように一歩離れた。
「ルナ、知ってる人か?」
「知らない」
「あら、傷つくわね」
「知らないものは知らない」
女は少し笑った。ルナは笑わない。
「それ、見せてもらえる?」
女が銀色の留め具を指す。
「何で?」
「昨日、この辺りで妙な揺れがあったから。あなたが持っているそれと関係があるのかと思ったの」
「見てたわけじゃないのか」
「ええ。だから聞いているの」
女は留め具から俺へ視線を移した。
「それより、あなたの方が不思議だけど」
「俺?」
「だって、あなたはここの人間じゃないでしょう?」
背中が冷えた。
初めて白い場所を覗いた時、レオンにも似たようなことを言われた。
「だったら何だよ」
「別に。ただ、ここにいる人間は普通なら向こうにはいないもの」
「どういう意味?」
女は答えない。
「あなたは?」
ルナが聞いた。
「何でここにいるの」
女の視線がルナへ移る。
その瞬間、ほんのわずかに笑みが消えた。
「……あなた」
「何?」
「いいえ。何でもないわ」
「何でもない顔じゃなかった」
「よく見ているのね」
「誤魔化さないで」
ルナの声が少し低くなる。
だが女は答えず、また俺の手元へ視線を戻した。
明らかに何か隠している。
「せめて名前くらい教えてくれ」
「それくらいならいいわ。セレス」
「それだけ?」
「名前を聞いたでしょう?」
やっぱり話しにくい。
「カイ」
ルナに呼ばれて亀裂を見る。
白い光が揺れ、裂け目が少しずつ細くなり始めていた。
「ルナ、また来る」
「……うん」
「今度はもう少し分かってから来る」
「それがいい」
昨日までなら、来ないでと言われていたかもしれない。その返事だけで少し救われる。
「無茶しないで」
「分かってる」
「分かってないから言ってる」
そこはまだ信用されていないらしい。
「待って」
セレスだった。
「その留め具、次も持っていなさい。それと、もう一度同じことをしてみて」
「向こうの物を戻せってことか?」
「そう。ただし、人は駄目」
セレスの笑みが少し薄くなる。
「昨日、何か変わったことはなかった?」
大家の顔が浮かぶ。
『どちら様でしたっけ』
「……一瞬だけ、俺のことを忘れた人がいた」
「そう」
さっきまでとは違う反応だった。
「何か知ってるのか?」
「いいえ。だから確かめるの。同じことをした時、同じことが起きるのか」
セレスは銀色の留め具を見る。
「次も小さな物にしなさい。条件はなるべく変えない方がいいわ」
「分かった。やってみる」
「カイ」
ルナが俺を見る。
「無茶はしない」
「……本当に?」
「人は戻さない。何か変だったらすぐやめる」
「なら、いい」
セレスが小さく笑った。
「随分と信用されていないのね」
「うるさい」
亀裂がさらに細くなる。
「最後に一つだけ」
セレスの声から、からかうような響きが消えた。
「あなたは、あの子を戻したいのよね」
「ああ」
「昨日と同じ程度で済む保証がなくても?」
大家に忘れられた時の感覚を思い出す。
「……何か知ってるのか?」
「いいえ。でも、一度忘れられただけで終わるとは限らない。そう考えるくらいはできるでしょう?」
言葉が止まった。
「もし次は、昨日より大きな何かを失うとしても」
セレスは俺を見る。
「あなたは、どうしたいの?」
答える前に亀裂が閉じた。
白い世界も、ルナも、セレスも消える。
手の中には、銀色の留め具が残っていた。
これをこちらへ戻した直後、大家は一瞬だけ俺を忘れた。
偶然なのか、それとも繋がっているのか。
確かめる方法は一つしかない。
もう一度、向こうから何かを戻す。
怖くないと言えば嘘になる。
それでも、ここで止まればルナを戻す方法は分からないままだ。
銀色の留め具を机の上に置く。
次は、何が起きるのか見逃さない。




