第16話 女王の溜息と、希望の糸
魔王の「男になりたい」という願いを叶える素材、『虚空の蜘蛛糸』。
その糸口を掴むため、俺たちは『迷いの森』へ行くことになった。
その前に、一度『トリップ・トラップ』へ戻った。
俺は二人を待たせ、バックヤードへと走る。
棚の奥から、大きな鞄を持ち出した。
「お待たせしました。準備完了です」
俺はパンパンに膨らんだ鞄を肩にかけ、エリザを見た。
「エリザ様、転移をお願いします」
「……やれやれ。言っておくが、本当にヤバくなったら私は一人でも逃げるからな。お前たちと心中する気はないぞ」
エリザが呆れたように杖を振るう。
視界が歪み、俺たちの体は光の粒子となって消失した。
◇
転移した先は、鬱蒼とした森の中だった。
『迷わずの森』。
空を覆う巨木が日光を遮り、辺りは昼間でも薄暗い。
湿った空気には腐葉土と、何やら甘ったるい毒の香りが混じっている。
「……相変わらず、気味が悪い場所だな」
アレンが剣を抜き、周囲を警戒する。
森の奥へ進むにつれ、木々の間には白く粘り気のある糸が張り巡らされ始めた。
「――誰かと思えば。また来たのか、人間たちよ」
頭上から、艶やかな声が降ってきた。
音もなく巨木から降りてきたのは、月光のような銀髪に、陶磁器のように白い肌を持つ美女。
だが、その腰から下は、毒々しい模様が刻まれた巨大な蜘蛛の胴体だった。
森の支配者、アラクネ・クイーンだ。
「ほ、本物だ……!」
アレンが身構える。
エリザも杖を構えて魔力を練る。
女王は赤い瞳で俺たちを見下ろし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「ふん。……以前の礼儀正しい仕立て屋か。今日は何の用だ? 貴様でなければ、森に足を踏み入れた瞬間に切り裂いていたぞ」
以前会った時よりも流暢に話している。
どうやら、俺を「認識に値する相手」と認めてくれているようだ。
だが、ピリピリとした殺気が肌を刺す。
虫の居所が悪いらしい。
俺は一歩前へ出て、恭しく頭を下げた。
「お久しぶりです、女王陛下。本日は、貴女様に折り入ってお願いがあり参上しました」
「願いだと?」
「はい。伝説にある『虚空の蜘蛛糸』……それについて、何かご存じではありませんか?」
その単語が出た瞬間、女王の瞳が鋭く細められた。
「……どこでその名を知った? あれは我が血族に伝わる秘宝。女王が初潮を迎える時にだけ体内で少量生成する、特別な魔力を持った糸だ。何百年と継ぎ足して紡いできた貴重なものだぞ」
やはり、存在した。
ヒントを聞きに来たつもりが、まさか現物を管理しているとは。
だが、女王の態度は冷ややかだ。
「今度は『虚空の蜘蛛糸』が欲しいということか? 貴様には借りがあるが、秘宝を渡す義理はない。……立ち去れ。今日は気が立っているのだ」
女王はイライラした様子で、しきりに首を回したり、肩を叩いたりしている。
その仕草を見て、俺は確信した。
「気が立っているのは、その『お身体の不調』のせいではありませんか?」
「……なに?」
俺は女王の、以前より明らかにボリュームを増した胸元を指差した。
「一目見て分かりました。以前お会いした時よりも、随分と『成長』なさいましたね。脱皮を経て、少なくとも2カップはサイズアップしている」
「なっ……! き、貴様、どこを見ている!」
女王が顔を真っ赤にして身を引く。
「その急激な成長に、支えが追いついていない。今の貴女様は、増した重量を全て肩と背中で受け止めている状態だ。それでは偏頭痛も治まらないでしょう」
女王がハッとして、自分の肩を押さえた。
図星だ。
「……なぜ、分かった」
「アラクネの身体構造上、上半身の重量はすべて蜘蛛部分との接合部……人間でいう腰椎と胸椎の境目に集中します。そこに急激なバストの成長が加われば、重心が前方へ崩れ、首から肩にかけての僧帽筋が限界まで引き伸ばされる。……女王陛下、貴女が感じているのは単なるコリではなく、身体の『構造的悲鳴』ですよ」
俺は鞄を開き、中から特製のランジェリーを取り出した。
それは、通常の人間サイズよりも遥かに大きく、頑丈な特殊繊維で作られたフルカップ・ブラジャーだった。
「これは……?」
「いずれまた、アラクネの糸をお譲りいただきたいと思い、手土産にと準備しておりました。幅広のストラップと、背中へ荷重を逃がす特殊構造。これを着ければ、その重みは嘘のように消え去ります」
女王の瞳が揺れた。
ここ数日の苦しみから解放されるかもしれないという希望。
しかし、プライドの高い彼女は簡単には頷かない。
「貴女様の成長は私の予測を超えているようですね。ですが、職人として想定内です」
俺は鞄から、頑丈な魔獣の革で作られた「可変式ベース」を取り出した。
「各パーツを独立させ、現場で貴女様の今の黄金比に合わせて連結・固定する。これならば、どのような『変化』にも対応できます」
「……口では何とでも言える。だが、本当にこの石のような重みと痛みが消えるのなら……その対価として考えてやらぬこともない」
「交渉成立ですね。大きくなった分、サイズ調整をしないといけません」
俺はメジャーを手に、一歩近づいた。すると、女王はビクリと身体を強張らせ、鋭い眼光で俺を睨みつけた。
「……勘違いするなよ、人間。私は貴様ら下等生物に触れられるなど、虫唾が走るほど不快なのだ」
そう言いながらも、彼女の身体は期待に震え、尻尾(蜘蛛部分)がせわしなく動いている。
「申し訳ございません。今しばらくの辛抱でございます」
女王は視線を泳がせ、頬を朱に染めた。
嫌悪感と、過去に一度だけ味わった「あの極上の指使い」への抗いがたい期待。
その二つが彼女の中でせめぎ合っている。
女王は葛藤の末、ゆっくりと腕を広げ、無防備な姿を晒した。
俺はそっと彼女の肌に触れた。
ひやりとした冷たさと、人間と変わらぬ柔らかな弾力。
だが、指先から伝わってくる筋肉は、ガチガチに凝り固まっていた。
「……これは酷い。鉄板が入っているかのようだ」
「う、うむ……。最近は腕を上げるのも辛くてな」
「少しほぐしながら測りますね。リンパの流れを良くしないと、正確なサイズが出ませんから」
俺は凝り固まった肩甲骨周りに、親指を沈めた。
「んぁっ……!」
女王の口から、艶っぽい声が漏れる。
「そ、そこは……っ! 貴様、もっと手加減を……!」
「力を抜いてください。……ここが詰まっていますね」
俺は構わず、首筋からデコルテにかけて、円を描くように指を滑らせる。
職人の指先が、筋肉の繊維を読み、血流を促していく。
最初は強張っていた女王の身体が、次第に熱を帯び、とろりと弛緩していく。
嫌悪感などとうに消え失せ、今はただ快感に身を委ねているようだ。
「あ……っ、んん……。そこ、良い……」
「そうです、その調子で。……やはり、トップとアンダーの差が広がっていますね。以前のパターンのままではキツすぎる」
俺は鞄から裁縫箱を取り出すと、銀の針と糸を手に取った。
「少し調整します。動かないでくださいね」
俺は慣れた手つきでカップの縫い目を解き、予備の布を継ぎ足し、ミリ単位で修正していく。
その速度と正確さは、横で見ているアレンたちが目を丸くするほどのものだった。
「……よし。これで完璧です」
数分とかからず、補正は完了した。俺は女王にブラジャーを手渡した。
彼女は木陰に隠れて(といっても巨体だが)それを着用した。
再び姿を現した時、女王の表情は劇的に変わっていた。
苦痛に歪んでいた眉間は晴れ渡り、頬は上気し、恍惚とした余韻が残っている。
「……信じられん」
女王は自身の胸元を震える手で触れた。
「軽い……。まるで、胸が浮いているようだ。あれほど重かった石が、羽毛に変わったかのような……」
「幅広のストラップが食い込みを防ぎ、サイドボーンが重量を背中全体へ分散させています。それが、貴女様の本来あるべき『軽さ』ですよ」
女王は試しに腕を回し、腰を捻った。
ボキボキ、と音が鳴るほど凝っていた動きが、嘘のように滑らかだ。
「……ふふ。すごいぞ、人間。いや、仕立て屋ソウイチロウよ」
女王は上機嫌で微笑むと、巣の奥から古びた木箱を持ってきた。
「約束だ。これを持っていくがよい」
箱が開かれると、中には薄暗く光る銀色の糸玉が収められていた。
魔力を帯びているようだが、少し古びて色褪せている部分もある。
エリザがランタンを近づけ、糸玉を凝視した。
「……信じられない。この糸、周囲の光を『吸い込んで』いるわ。空間の連続性がここでわずかに歪んでいる。アラクネ・クイーン、貴女たちは自分たちの体内で『虚空』を精製しているというの……?」
「ふん。我らにとっては、体調を崩す原因になる厄介な排泄物に過ぎぬがな」
「……少し劣化していますが、これなら魔力を再充填し、特殊な織り機を使えば何とか一着分にはなるでしょう」
「秘宝とは言え、私にはその価値はわからん。貴様らがどういう理由でそれを欲していたかは知らんが、貴様らの知る伝承通りの効果があるかは知らんぞ」
女王は興味なさそうにそう言った。
俺は深く頭を下げ、箱を受け取った。
「ありがとうございます、女王陛下」
「ふん。……礼には及ばぬ。それより」
女王は妖艶に目を細め、少し物足りなさそうに俺を見た。
「今回のこれは、あくまで応急処置なのだろう? ……また、すぐにズレてくるのではないか?」
「ご安心ください。今回は急ぎでしたので私が調整しましたが、後日、弊社の優秀なパタンナーとスタッフを連れて、正式な採寸に伺います」
俺は恭しく一礼した。
「その時は、より貴女様の美しさを引き立てる、最高級のデザインで仕上げさせていただきます」
「……ふっ、口のうまい男だ。楽しみに待っていてやる」
こうして俺たちは、真贋不明ながらも希望の光となる『虚空の蜘蛛糸』を手に入れた。
アレンとエリザは、ポカンと口を開けたまま、俺と女王のやり取りを見守っていた。
「……お前、本当に何者なんだ? 俺たちが命がけで戦う相手を、指先ひとつで……」
「ただのランジェリー職人ですよ」
アレンの問いに、俺はいつもの営業スマイルで答えた。
「ソウイチロウよ。伝説の素材が手に入ったのはいいが、アラクネ・クイーンも言った通り、この糸に目当ての能力があるかの真偽は定かではないぞ? 大丈夫なのか?」
エリザの質問に俺は冷静に答えた。
「私には真偽を見抜くことはできませんが、真偽を明らかにする方法はあります。エリザ様、王都へ戻りましょう」
「ソウイチロウ、真偽を明らかにする方法とは何だ?」
エリザの問いに、俺は無言で微笑み、糸玉を大切にしまう。
――世界の命運を懸けた「一着」の制作が、今始まる。




