3.ほんとうは……
「風邪ですか?」
最近、どうも声が掠れてうまく出せない俺に、レナーが少し心配そうに尋ねた。
「違う、と思うけど……」
「変声期だろう」
体調は問題ないのにと首を傾げていると、あっさりとエドリムがそう言う。
「だいぶ背も伸びたからな、そろそろ来てもおかしくない」
まだまだ長身のレナーには届かないけれど、少し小柄なエドリムより低かった身長はいつの間にか彼を追い越していた。これがそうなのかと感心する俺に、レナーは「変声期、ですか……そうですか、イーラも大人になるんですね」と、何故か呆然としたように頷いていた。
それから、“陣”の研究を進めるにつれて、レナーはだんだんと話さなくなっていった。俺に魔法の講義をする間も、なんだか頭の中が別なものに占められているかのように、どこか上の空だった。
「レナー、ここんとこずっと心ここに在らずって感じだけど、何か困ってることでもあるのか?」
そう尋ねると、慌てたように意識をこっちに戻して「すみません、少し考えごとをしてしまっていました」と首を振る。それだけじゃなさそうなのに。
「最近、あまり魔法の話もしないし、何か行き詰まってることでもあるの?」
「いえ、そちらは大丈夫です。
……ひとつ、何か試作してみようかと思いまして、どんなものにしようかと考えているところなのです」
レナーは曖昧に微笑む。いつもの笑っているのに笑ってない笑顔とも違う中途半端な笑顔で、どことなく不安になる。
「……ちゃんと夜寝てるのか? 俺だけじゃなくて、エドリムだって何も言わないけど、あれで結構心配してるよ」
「なんだか2人に心配を掛けてしまっていたようですね。大丈夫です……何か話すにも、まだ今ひとつまとまってないだけなんです」
訝しむ俺に、レナーは今度こそちゃんとした笑顔になった。
けれど、その後もレナーのようすはあまり変わらなかった。
ますます魔法の調査に没頭するようになったけれど、口数はどんどん少なくなってしまった。口を開いたら余計なことまで言ってしまいそうになるから、わざと話をしないんじゃないかとも感じられた。
エドリムも俺も、そんなレナーにどんな態度を取ればいいのか決めあぐねて、ただ見ているだけだった。
その日、エドリムがいつものように狩りに出た後、打って変わって妙に楽しそうなレナーに裏庭へと呼ばれた。
「“陣”が完成しました」
「ほんとに? どんなもの?」
「まあ、見ていてください」
いつの間に捕まえてあったのか、栗鼠が2匹入った籠を台の上に置いた。
籠の下にはレナーが描いた“陣”がひとつ。たしかに、シェンが置いていったものとは異なる“陣”だった。
レナーはいつものように微笑むと、魔力を込めて“陣”の力を解放する言葉を唱える。
──とたんに栗鼠のようすがおかしくなり、互いの首に齧り付いて争い始めた。
「……レナー?」
いったい栗鼠に何をさせているのかと、なんの“陣”を作ったのかと、呆然としながらレナーを見上げる。
「これをクラインリッシュの人間に使ったら、どうなるでしょうね?」
「レナー!?」
レナーは何をするつもりなんだ。この“陣”を人間に使う? クラインリッシュの?
「彼らはわたしの50年近い時間を奪いました。少しくらい復讐してやりたいと考えても、仕方ないと思いませんか?」
「だ……だめだ、レナー。それはだめだ」
「何故ですか?」
慌てる俺に、相変わらず微笑みを浮かべたまま、レナーが問う。
「……獣人はどうか知りませんが、魔族狩りにあった魔族は、まず最初に魔法を封じられ、選択を迫られます。
その場で真名を明かし、その名に掛けてクラインリッシュに絶対の服従を誓うか、それとも魔法で名を奪われて意思を持たない奴隷となるか」
それは、と息を呑む俺に、レナーはくつくつと笑い出す。
「ええ、究極の選択というものです。どちらを選んでも、結局のところ、名を奪われてクラインリッシュに死ぬまで仕える人形となることに、変わりはないのですから。
──魔族にとって、信用ならないものに名を預けることは、途轍もない恐怖です」
ひと息に語ってから、「なので」と少し間を置いてレナーは続ける。
「たいていの魔族は、一縷の望みを抱いて魔法で支配されるほうを選びますが……結果に変わりはありません」
「一縷の望み?」
レナーは、そう、と頷く。
「永遠に続く魔法は無い、という希望です」
「……レナーも、なのか? そうやって名前を取られて、今は大丈夫なのか?」
レナーは、また笑みを浮かべる。
「あの方の“陣”のすごいところは、真名の支配までも解いてしまうことです。解きようがないほどに魔法でがんじがらめになっているはずなのに、あの方の“陣”にかかると、何もかもがきれいに解けてしまうのですよ」
「シェンは……神のようなやつの支配から解放されるための魔法だって言ってた。だから、定命の者の魔法なんて問題にならないんだって」
「……なるほど、だからあれ程に強力なものなのですね」
レナーは、ほう、と感心したように息を吐いて、台の上の“陣”に目を落とす。籠の中では、2匹の栗鼠が既に息絶えていた。
「レナーは、だから、あいつらと同じことをやったって構わないって思ったのか? ……そんなのだめだ、レナーがあいつらと同じになる必要なんてない!
だから、もう一度考えよう。俺も一緒に考えるから」
レナーはやっぱり微笑んだまま、俺を見る。
「奴隷に落とされた魔族が、自分を守るためにどうするか知っていますか?」
「レナー!」
「……自分に幻覚魔法を掛けるのです。支配を免れることを解除条件として、それまで心が壊れないように、せめて幸せな幻を見続けられるようにと……解放される日など本当に来るのか、わからないのに」
ふ、と自嘲するように笑うレナーに、俺は首を振り続ける。
「だから、わたしはあの時、あれも幻覚だと思ったのです。ほの白く、青みのかかった炎を纏う漆黒の馬が走り抜ける。その鞍には、馬に負けないくらい黒い鎧に身を包んだ……すらりと伸びた角を持ち、目に青い炎を宿した……一瞬、魔族の伝承にこんな女神はいただろうかと考えてしまいました」
レナーは、そんな自分がおかしくて仕方ないとくつくつ笑う。ひとしきり笑って、それからまた、俺に向き直った。
「レナー……」
「わたしは別に支配を解いてもらわなくてもよかったのですけどね」
「え?」
レナーの紅い目が、なぜか暗く底知れない深淵のように見える。
「──あなたたちは、永遠をとても良いもののように考えて、夢を見ますよね。けれど、わたしに言わせれば、そんなものはただの呪いです」
ひとつだけ溜息を吐いて、レナーはまた、いつも顔に貼り付けているあの笑顔を作る。
「妖精族や獣人族は、親しい者たちと過ごすため、晩年は故郷に戻ると聞きますが……わたしたちに故郷はありません」
暗い目をしたまま、レナーはひとつ息を吐いた。
「あなたたちに、わたしたちの絶望なんてきっと理解できません。
わたしたちが、あなたたちをどれだけ羨ましいと感じているか……」
少し俯いて、レナーは、ふ、と笑った。いつものような見せかけの笑顔じゃない、たぶん、ほんとうのレナーの気持ちが出た笑顔だ。笑っているのに、まるで途方に暮れたように泣いている、そんな笑顔だ。
そして、唐突にわかってしまった。
──レナーは、あの軍に囚われたまま、緩やかに死のうとしてたんだと。ほんとうは、クラインリッシュに捕まるずっと前から何も無くなっていて、帰れる場所もなくて途方に暮れて、だけど自分で自分に終わりを与えるのは大きな禁忌だからそれもできなくて……だから、クラインリッシュに捕まったんだと。
どうせあなたたちはわたしを置いていってしまうくせに、というレナーの呟きが聞こえた気がした。
レナーが顔を上げて魔法を唱えると、ふっと姿が消え、少し離れたところに現れた。
「ここにね、既に用意してあるんですよ」
そう言うレナーの足元には、地面を固めて彫り込んだ大きな“陣”があった。
「わたしは止めませんよ。
……そうですね、止めたいならあなたも本気にならなければいけないでしょうね」
……レナーは、まるで俺を嘲るような笑みを浮かべて、「どうせあなたには無理でしょうが」と付け加え、魔力を込めて言葉を紡ぎ始める。
俺はだめだと叫び、剣を抜いて走り出した。どうしてなんだ。斬って止めなきゃいけないのは、どうしてなんだよ。まさか、自分が生き残ってしまったから、それなら全部壊してしまおうって考えたのか?
レナーがそんなに思いつめてたのに、どうして俺もエドリムも気付けなかったんだ。
走る俺がレナーに近づくより早く、彼の魔法が完成して……。
「護剣、でしたか」
“陣”の起動ではなく、駆け寄る俺を狙った魔法はきれいに逸らされて、その懐に入った俺はレナーを鋭く切り上げてしまい……どうして俺はちゃんと剣を止められないんだ。エドリムなら、きっと斬らずに止められるのに。
一拍遅れて、レナーがごふりと血を吐き出して膝を付く。
「なんでだよ、“陣”を、使おうとしたんじゃなかったのかよ」
しかも、まったく避ける素振りも見せなかった。俺の剣なんてまだまだの腕前なのに……レナーが避けられないわけないのに。
慌てて俺が伸ばした手を、レナーは振り払い……何故か晴れやかな顔で倒れる。
「……どうしてだよ」
込み上げるものを堪えてレナーを覗き込むと、彼は笑っていた。
「大人になるのでは、なかったのですか。大人は、そんなに容易く、泣くものでは、ありませんよ」
「そんなの、今はどうだっていいよ」
そう言って治癒の魔法を唱えようとする俺をレナーは押し留め、ぜいぜいと荒い息の中、さらに言葉を繋ぐ。
「……目的を失い、帰る場所も失ったとき、あの方は、いったいどんな表情をするのか、いったい何を思い、何をするのか……わたしは、それを知りたいと、思いました。それでもなお、あの方は変わらずに、高潔でいられるのかと。
そして……あなたは、変わらずに強く在れるのか、知りたいと思いました」
ぶんぶんと「シェンならともかく、俺は強くなんかないよ」と頭を振ると、レナーの笑みが深くなった。
「──わたしは、たぶん、倦み疲れていたのですよ。あなたに斬られて、終わりを迎えるなら、悪くない」
「馬鹿野郎! そんなこと言うなよ、俺に切らせるとか、俺の迷惑も考えろよ!」
疲れるって、何がだよ。そんな理由でレナーはこんなことをしたのか。
「……すみません」
申し訳なさそうに眉尻を下げるレナーの顔は、完全に色を失って真白だ。なおも押し留めようとするレナーの手を払って、俺はもう一度強引に治癒の魔法を唱えた。
早く血を止めて、傷を塞がなきゃ、レナーが本当に死んでしまう。
「けれど、本当に、これも、悪くないのですよ……」
レナーは小さくそう呟くと、目を閉じた。