二話.迷子のしるべ
スキップしながら進む草原の道。
その先で、ウサギに似た耳が生えた、丸い綿毛のような生物が、地面を縦に横に転がっている。
「あれは、ウサワタ、だっけ。ルカが教えてくれた、食べられるとか」
ころころと転がる何匹もの白いウサワタ。
動物ではないようで、齧ると柔らかくて綿のような食感らしい。『そのままいける。困ったらウサワタ』とはルカの言だ。
「でも可愛くて、食べるのはちょっと、うーん…?」
弾むように転がるウサワタの一匹を抱き上げて、ぼんやりと眺める。
そうしていると、桜花の視線の高さで舞う、虹色に輝く蝶を見つけた。
「ふわあ。ちょうちょだ!きらきらだ! 待って待ってー!」
ウサワタを地面に戻し、蝶をトコトコと追いかける。舞い散る虹色の鱗粉が、道しるべのよう。
右に左に揺れながらも真っすぐと飛ぶ蝶に誘われ、草花や動物、道行く人に目もくれずに通り過ぎる。
土から顔を出す石がヘルメットのモグラを、視界の隅に入れても何のその、だ。
いつの間にか森林に足を踏み入れていたが、桜花はただ蝶を追っていた。
林道を進むが、足取りは止まらない。
幸運にも、巨大な芋虫や、大きな角のアルマジロの傍を、何事もなく通っていく。
そして、来た道なんて分からないほど森を進んだ頃。
「――お花畑だっ」
森の中、突如視界が開けた。
たどり着いたのは、色とりどりの花が咲き乱れる花畑。
周囲を木々に囲まれた中、ぽつんと咲き誇る花々は静謐さをも感じる。
そこは、手入れされているかのように整った、花々の楽園だ。
中央には、青葉の茂る木が一本佇む。蝶は、いつの間にか視界から消えていた。
「なんだか、すっごい場所見つけちゃったなぁ」
桜花は吸い寄せられるように、木に向かって歩く。
「迷子になったかもだけど、…そんなこともあるよね!」
木の根元までたどり着くと、そのまま仰向けに寝そべってしまう。
「いっぱい歩いたし、ここでひと休みしよっと。光合成だあ! えへへー」
美しい花畑の中、花々を揺らすそよ風が体を撫ぜる。
空には、白い雲がたなびいている。
やがて桜花は、微睡みに逆らうことなく眠りに落ちていった。
すやすやと穏やかに眠る姿は、童話の中の一幕のよう。
無垢な寝顔を、花々に晒していた。
△▼△▼△▼△▼△
「…ふに」
ぐっすりと眠った桜花が目を覚ますと、そこは先ほどと同じ花畑の中。
大きく伸びをして起き上がり、草花の絨毯の上に座る。
「…そういえば、ここはどこだろ。また知らない場所に来ちゃった」
寝起きの桜花はしばしぼんやりとしていたが、やがて少しずつ覚醒してゆっくりと立ち上がる。
「うん。――よっと…ひぇっ!」
しかし、起き上がりそのまま足を踏み出した第一歩。
次の瞬間、地面が消えた。
踏み出した足は空を切り、桜花の身体はそのまま穴の中へ落ちていく。
「んにゃあああああああああ! そんなことある、のー!?」
寝惚けていた意識は一気にパッチリだ。
真っ暗な穴の中を、小さな体躯が滑り落ちる。
なすがまま、深部へと導かれていく。
暫くそのままでいると、壁がぼんやりと青い光を発するようになった。
「わ…! きれい! 鍾乳洞のすべり台みたい…!」
光る壁面を眺めつつ滑っていると、先から段々と明るい光が差し込んできた。
どうやら、出口のようだ。
「きゃーーーっ!! ――ひゃっ」
ようやっと穴から抜け出した桜花は、洞から地面に投げ出される。しばし滞空した後、尻餅をついた。
「いたたた…。おしりがつぶれちゃったかも」
桜花が落ちてきた場所。
鬱蒼と茂る、大きな木々に囲まれている。
空を覆う緑の天井は遥か高く、見上げるほどの巨大な木々。
その根も大きく、桜花の身長ほどのものもある。
地面には緑のウサワタが転がり、中空では桜花の身長ほどの大きさの空魚がまったりと泳いでいる。
「ここは…森? むー。大っきな木がたくさん。てっぺんが見えないや。――どっちに行こうかな」
きょろきょろと辺りを見渡すも、道がなく、人の気配も全くない。
視界のすべてが青々とした、大森林。大きな木々ばかりで、木の先が見えない場所もある。
「あれは…山?」
視線を動かしていると、木々の|梢|こずえ》が重なる隙間から、一本の幹が見えた。
その大きさは、天を衝くほどの超弩級。
「んに。木、かな…?」
部分的に見えるその幹は、他の木々と比肩することが無い巨大さだ。
「山よりおっきい、かも。――ん?」
目を奪われていると、ふと、ガサガサと葉が擦れる音が鳴る。
音の方向へ顔を向けると、背後の茂みが揺れている。
桜花は静かに、唾を飲む。茂みから、目が離せない。
茂みの揺れは大きくなり、そこから、二足歩行の豚が現れた。
濃い緑色の肌に、皺の寄った顔。下あごから生えた牙と額に一本のツノ。
背丈は桜花より小さいものの、ゴツゴツとした筋肉質の体。
名付けるとすれば、子豚鬼が適切だろうか。
「グゴッ」
「――ひっ」
短い時間、桜花と子豚鬼の視線が交錯する。
ポツリと、口から言葉が溢れる。
「……ピンチ、かも」
土を鳴らし、子豚鬼が桜花に近付いてきた。
右手に持った、刃こぼれをしている小剣が鈍く光る。小剣は、桜花の腕ほどの長さだ。
唸り声を上げながら、近づいてくる子豚鬼。
「うっひゃああああああ!」
弾かれたように足が動いた桜花は、そのまま、全力で逃げ出した。
あちこちに投げ出された木の根を避けて、超えて。
でこぼこの土道を、足をもつれさせながらも転ばないよう、必死に走る。
肩越しに後ろを見ると、子豚鬼はニタニタと笑いつつ追ってきている。
子豚鬼はつかず離れず、一定の速度で追ってくる。その様子は、まるで獲物を追い詰める狩人のようだった。
「はぁっ…はぁっ!」
声が、出ない。全身を使って、ひた走る。
逃げる桜花は幾度も木々の間を抜け、いつの間にか前方に見えるのはなだらかな傾斜の丘。
そして、坂を登ると、丘と思った先にあったのは――大峡谷だった。
吹き荒れる風音が、轟々と唸る。底の見えない深い崖が、桜花の視線を飲み込む。
向こう岸まではひたすらに遠く、いわゆる崖っぷちの状況だ。
ザリ――と靴が地面を擦る音が、耳に残る。
「あう…」
逡巡している間に、退路を断つように子豚鬼は迫ってきていた。
ジリジリと、距離を詰めてきている。舌なめずりをする表情に浮かぶ、ニタリと邪悪な笑み。
ちらりと崖下に視線を向けると、崖底は見えない。
気付けば子豚鬼は、追い詰められた桜花の眼前にいる。桜花の両脚は小刻みに震えていた。
動けない桜花を後目に、子豚鬼は思い切り小剣を振りかぶる。
胸元をぎゅっと握りしめる桜花。
小剣は桜花の肩を目掛けて、振り下ろされた。錆びて刃こぼれした刃が、鈍く光る。
桜花の目にはその全てがスローモーションに見えるが、体が動かない。
琥珀色の双眸に、じわりと涙が滲んだ。
桜花が窮地に晒されたその時。
『あぶないっ!』
どこからか、桜花に届く少女の声。
瞬間、脳裏に浮かぶ誰かの笑顔。
弾けたように足は土を蹴り、真横に跳び頭から地面を転がる。
「ひぇあああ!! あぶなかった!――そうだ…!お家に、帰らなきゃ…!」
更に返す刀で、切り付けてくること二閃、三閃。
危うげながらも、何とか避ける。悲鳴と共に避ける。避ける。
桜色の髪の一房すら捉えることなく、小剣は空振り続けた。
なかなか当たらないことに焦れた様子で、切りかかってくる子豚鬼。
その反面、何度も避けるうちに桜花の動きには余裕が出てきた。
「おっにさん、こっちらっ! ひゃあああああ!!」
思わず、煽るような言葉をかけて火に油を注ぐと、子豚鬼の顔が怒りに染まり勢いは苛烈になる。
それでも幾度もの剣戟を躱し続ける桜花。
痺れを切らしたのか子豚鬼の剣は、段々と大降りになっていった。
「ゴギャ! ギャギャ! ギャッ!」
「…ひゃっ! よっ!ほっ! やっ!」
段々と互いの位置関係が移り変わり、そして、勢い余ってバランスを崩した子豚鬼の体は、崖際まで来てしまう。
片足が崖の宙に浮き、もう片方の足のみで下へ落ちないように踏ん張る体制となった。
踏ん張る子豚鬼に、桜花はこわごわと両手を前に出す。
「ど、どりゃあっ」
「ゴギャーー!!」
崖際でふらつくその姿を好機と見た桜花は、その背中を押した。
一瞬の間、宙を浮く子豚鬼と桜花の視線が交錯し、そして子豚鬼は真っすぐに深い崖を落ちていった。
子豚鬼の発する悲鳴が遠ざかってゆく。
「………」
危機は、脱した。眼下には、深い谷。
へなへなと両足の力が抜けて、お尻から地面にへたり込む。
手には、ゴツゴツとした背中を押した感触。
琥珀色の眼が潤み始めた。
制服の袖で、目じりを拭うが、潤んだままだ。
何度も、拭う。
ふいに、こぼれる雫を拭う手が止まった。
「あれ、わたし、いま、ひとりだ」
ポツリと、漏れ出た声。
手は、もう動かなかった。
「ふぇ…うぇっ! ぅぇぇええええん!」
幼児のような号泣が止まらない。
頬から零れ落ちる透明な水滴は地面を濡らし、桜花の声は空に吸い込まれていった。
一頻り涙を流した桜花は、ごしごしと目を擦る。いつの間にか、空は夕焼け色に染まっていた。
地面に手をついて、ゆっくりと立ち上がる。
「…んに」
崖から少し下がった位置で、徐に空を見つめて呆けていると、森の中から声が聞こえてきた。
「おねえちゃーーん!」
幼い少女の声が桜花を呼ぶ。森の中から、小さな影が駆け足で近付いてきた。
赤い毛玉に見えるそれは、紅い毛並みの小さな狐。
「おねえちゃんっ」
「っんにゃ!」
紅い小狐が何処からか現れて、桜花に飛びついた。
軽い衝撃が走って、もこもこの毛皮が胸元に埋まる。小さなその体躯を抱き抱える桜花。
その声は、子豚鬼から襲われる桜花に、危険を報せた声だった。
「おねえちゃん、やわらかい。…さっきは大丈夫だった?」
「大丈夫だよ。……お姉ちゃんって呼ばれるの、なんか、いいねっ」
くりくりとした瞳で桜花を真っ直ぐに見つめ、頭を擦り付けてくる小狐。
自然と動いた手で優しく撫でると、心地よさげな表情を浮かべる。
しっとりもこもこの毛並みだ。
ひとしきり甘えた小狐は、ぴょんと桜花から離れて地面に戻った。
「おねえちゃん。あっちの木に、わたしたちが入れそうな穴を見つけたよ。暗くなる前に、そっちに行く?」
前脚で差し示す森の中は、変わらず巨木が立ち並んでいる。
夕暮れ闇も相まって、その先は一層暗く見える。
「…うん、行こうか。ありがとう!」
桜花は、足を踏み出して森の中へ進んだ。
崖際に落ちていた子豚鬼の小剣を、拾って片手に握り、鋪装のない道を踏み締め追いかけた。
「……おねえちゃん。大丈夫? 疲れてるみたい」
「ううん、大丈夫だよ」
瞼が半分閉じたまま笑顔を見せる桜花の、両脚の膝はプルプル震えていた。
小狐は何度も気遣わしげに桜花の様子を伺いつつも、一人と一匹は大地の上を歩く。
「そういえば、あなたのお名前はなんていうの? 私の名前は桜花だよ!」
桜花の問いに小狐の尻尾がピンと硬直して立つも、すぐにしぼむ。
「…わたしの名前は、無いよ。だから、好きに呼んでくれたらうれしいな」
消え入るような声で答えが返ってきた。前を往くその表情は見えない。
「そっかあ。ふむむ。……それなら、あなたの名前は紅葉だね。紅い葉っぱと書いて、くれは!」
「くれ、は?」
小狐の足が止まり、くりくりの瞳で桜花を見つめ返す。
「うん。あなたは、紅葉。素敵な名前でしょ?」
「……くれは。…くれは! うん!うれしい!」
再び抱き着いてくる紅葉を抱きとめ、桜花はもこもこの毛並みを撫でつけた。
△▼△▼△▼△▼△
「おねえちゃん!こっちだよー!」
再び歩みを始めた紅葉の尻尾は、フリフリと揺れている。
その足取りは跳ねるようだ。
「着いたよ!」
「んに、ここが」
「うん。わた…、くれはの四本足じゃ登れなさそうな良い場所なんだ。だから夜も安全かなって思って」
夕闇が落ち薄暗くなった頃、たどり着いたのは一本の木。
高いところに空いている洞は、ちょうど桜花の体が入るくらいだ。
紅葉へ肩に乗るよう促して、するすると軽快に木登りをする桜花。
片手に小剣を握りながらも、慣れた動きで木の洞に辿り着いた。
「中は真っ暗だね。何も見えないや」
「うーん、ちょっと待っててね。クォンクオォン」
ぴょんと器用に洞の縁に跳び降りた紅葉は、音律の乗った鳴き声を発する。
すると桜花の目の前には、赤く輝く拳大の魔法陣が映った。
紅葉が最後に「ふぁいあ!」と唱えると、魔法陣が弾ける。
「わああ! 何これ!魔法!? すっごい!」
「うん。なんかね、使えるみたい。熱くないようにもできるんだっ」
彼女たちの目の前には、ランタンほどの大きさの火球が灯った。人肌程度の温度で暖かい。
仄かに照らされた洞に潜り込むと、内部は一段下がっていて、木の下からは見えないような構造になっている。
桜花は緩慢な動きで木の壁を背もたれに三角座りになると、紅葉を膝の上に乗せた。
上着を脱いで、紅葉ごと包まる桜花。
「今日は、ここまで!」
洞の中から見上げると、木々の緑の隙間から夜空が覗く。
人々の暮らす灯の無い世界。隙間から見えるその空は、紫紺の三日月が煌めき星々が瞬いていた。
「紅葉。ううん。くーちゃん。もこもこでふかふかで気持ちいい。…もこふかだ」
「くーちゃん…えへ。おねえちゃんも。ほっぺもふにふにですき」
静寂の世界。桜花と紅葉を隠す闇は優しい。
「ここまで案内してくれてありがとう。……それに、夜に一人は寂しいから、くーちゃんがいてくれて嬉しい。助けられちゃったね」
「くれはも、おねえちゃんと一緒であったかい」
ぎゅっと抱きしめる紅葉の体温は高く、じんわりと暖まる。
「明日からも、一緒にいてくれる?」
優しく紅葉の毛並みを撫でる桜花が、問う。
「もちろんだよ!……うれしいな。とってもうれしい」
ぐりぐりと、桜花のお腹に額を擦り付ける紅葉。
そして、再びの静寂。
「……そういえば。さっきの火を出した魔法、どうやったの? もっかい見せて!」
「何でか分からないけど、使えたの。やってみるね」
紅葉が呪文を唱えると、先程と同様に魔法陣が発動して火が灯る。
「すごいすごーい! もっかい!」
「うん!」
桜花の瞳がキラキラと輝く。その後も何度もせがまれたものの、楽しそうに応える紅葉。
夜闇は桜花たちを、包み込んでいる。
そして桜花は紅葉を抱きしめたまま眠りに落ち、この不思議な世界の初日を終えるのであった。




