童話世界の現実問題
来客を見送り、白雪は私室に引き上げた。
侍女が軽食と新しい紅茶を準備して退出したのを見届けて、ソファに腰掛けた白雪は大きく伸びをした。
まさか魔女などというものが本当に存在していたとは。未だ猜疑は燻ぶっているが、否定できるほどの言葉も知識も持たない白雪は溜息を吐く。
あの王子が祖国を想っている事に疑いは持っていない。だからといって、魔女に頼るのはいかがなものか。白雪ならばそんな不確かなものには頼らない。自分で着実に事を積み上げる。
シンデレラとその血脈が王家に存在する間は魔女が守護するとして、しかし魔女とて不死ではあるまい。あの王子が国を、人を育てる事無く魔女の守護にのみ頼るというのであれば、待っているのは破滅。付き合いを改めた方がいいだろう。
薔薇のジャムを落とした紅茶の芳香を楽しむ白雪を、硬いノックの音が引き戻す。
短く断って現れたのはランスロットだった。手には書類の束。
「小人たちからの定期報告です」
「ありがとう。あなたも紅茶、いかが?」
書類を受け取り、促すとランスロットは「いただきます」と白雪の向かいに腰を下ろした。
心地良い沈黙が満ちるなか、白雪は報告書類片手に紅茶をすする。
「なにかありましたか?」
白雪の紅い唇が緩んでいるのを目敏く見つけ、ランスロットは訊いた。
「夢子ちゃん、いばらのお城がなかなか見つけられないみたいよ」
それは面白がっていいのか。元婚約者が真実の愛とやらを躍起で探しているというのに、この反応はどうなのだろう。現実を見る事を止め、王族としての責務を放り出した彼は、白雪の中では最早過去のひとと成り果てている。
「…そういえば、いばらの姫君の話にも魔女が登場しますね」
いばら姫と後に呼ばれる王女の生誕の祝いの席に呼ばれなかった魔女は、16歳になった時、姫が糸紡ぎの針に刺されて死んでしまう呪いをかける。他の魔女が呪いを、死ではなく、深い眠りにつくというものに和らげるが、果たして姫は16歳になったある日、糸紡ぎの針を指に刺し、眠りについてしまう。
姫の呪いは城全体に及び、王も妃も兵士も侍女も、皆が眠ってしまった。
いつしか城はいばらの蔓に覆われ、長い長い時間、誰も踏み入れない異界へと変容してしまった。姫と城にかけられた呪いを解く方法はただひとつ。
真実の愛を携えた王子からの目覚めの口付けだ。
「…なんというか、大雑把ですね」
「大雑把ねぇ…」
ここでも目覚めの口付け。どこまで万能なのだろう。解毒の為とはいえ、思いきり濃厚な口付けをかましてしまった白雪とランスロットは腑に落ちない様子で首を傾げる。
「殿下がいばらの城をお探しに出向かれてかなり経ちますが、未だ見つけられぬという事は伝説の類なのでしょうか?」
「いや、あるみたいよ」
ランスロットの問いに、白雪は書類に目を落としたまま答えた。
「夢子ちゃん、方向音痴みたい。おなじところをぐるぐるぐるぐる、夢子ちゃんの精神構造みたいねぇ。いばらに覆われた城はちゃんと存在するわ。それが魔女の呪いなのかはおいておいてね」
意味深長な白雪の言葉に、ランスロットは彼女の黒い瞳を窺った。
「城がいばらに覆われはじめて15年。確かに誰も王族の姿は見ていないし、人の出入りも無いわ。でも果たしてそれは皆が呪いの支配で眠っているからなのかしら?ねぇランス、正直な話、どうとでもなると思わない?」
「…意味を計りかねます」
白雪は剃刀のような笑みを閃かせた。
「姫が魔女に"呪いをかけられたとされて"から、父王と王妃は娘守りたさに極端に閉鎖的になったというわ。国中の糸紡ぎを燃やし尽くす事から始まって、国交は希薄になって、結局は断絶。陸の孤島よ。まぁ国内自給率が高かったから、民が飢えることは無かったみたいだけれど」
白雪は紅茶で口を潤した。
「王族なんてね、政を行って、民の前に姿を現さなければいないのと同じよ。いいえ、それは人間みなに言える事だわ。誰の前にも姿を見せず、声を発さず。そうすれば誰かがなんらかの思惑を持って、生死を隠蔽することも可能だわ」
「…いばら姫と国王夫妻はすでに亡い者だと、そうおっしゃるのですか?」
「いつもの仮定よ。あくまで、ね」
白雪は肘掛けに頬杖をついた。ランスロットの混乱を、さもおかしそうに眺める。
「今あの国では公爵―――、国王の甥が実質国政を担っているそうね。暫定的であるけれど、民と周辺諸国からの評判は上々。それならば、姿を見せない王家は不要だわ。しかも"悪い魔女"に呪われているのよ。近づきたくないわよね、王家にも、城にも」
白雪が言いたい事は鈍いと自覚のあるランスロットにもわかる。
いばらに覆われた城の呪いの真相、そこには国王の甥である公爵が絡んでいる。王族は弑されたのか、自然死か。それとも他の可能性があるのか。
「それでも時折夢子ちゃんみたいな夢見るお坊ちゃまが、真実の愛とやらで件の姫君の呪いを解こうと乗り込んで失敗する。城下はすでに公爵の支配下だもの。来るとわかっていれば罠も張れるし、まことしやかな噂を流す事も可能。お坊ちゃまの失敗談は、ますます呪いに真実味を与えるでしょう。…ね、どうとでもなる、でしょう?」
絶句するランスロットの目の前で白雪は紅茶を飲み干すと、「魔女といえば」と首を傾げた。すでに彼女の中でいばらの姫君の事は片付けられているのだ。白雪の切り替えの早さは最早冷淡のレベルだ。
「ラプンツェルって覚えてる?あの、願掛けですごい髪を伸ばした、あの娘」
「ああ、確か父君をはやくに亡くされて、母君が女手ひとつでラプンツェル嬢を育ててらっしゃるのでしたね」
「そうそう。なんかあの娘、失恋…?婚約破棄…?まあそんな事があってから、領地のとんでもなく高い塔に引き籠ってるらしいのよ」
「…は?」
ランスロットは唖然とした。引き籠り?屋敷でなく、塔に?
「その塔の入り口が、内側からしか解錠できないらしくて。あの娘、全力で引き籠ってるものだから、お母様が毎日毎日塔の壁をよじ登って必要なものを届けているらしいのね。その様がそれはもう鬼気迫るもので、お母様ったら、若い娘を塔に監禁してる魔女じゃないのかって噂がたってるんですって」
「…うわぁ…」
ランスロットはラプンツェルの母に何度か会っている。伴侶を亡くし、夫の分まで娘を立派に育てねばならぬという責任感からか、非常に厳しい表情の女性だったと記憶している。少々行き過ぎている気がしないでもないが、教育熱心な、娘想いの母親だというのに、周囲から魔女扱い。
「…お気の毒としか、…申し上げられず」
口元を引き攣らせるランスロットに、「ねぇ?」と白雪は嘆息した。
「人生、一体どこでなにがどうなるか、わからないものねぇ。ラプンツェル、すごく真面目な娘だったのに。もしかして今反抗期真っ只中なのかしら」
ランスロットは白雪の空のカップに紅茶を注いだ。
「小人からの定期報告は、殿下のご様子だけだったのですか?」
「夢子ちゃんの事はおまけよ。赤頭巾、うまくいってるみたい」
白雪の顔が、為政者のそれになる。ランスロットも、知らず背筋を伸ばした。
白雪の治世になってから治安も改善されたと言われているが、国中すべからく成果が出ているわけではない。
地方の過疎、高齢化、それに伴う犯罪の悪質化など。それを象徴する事件が、森の奥の独り暮らしの老婆の家で起きた。
判断力の低下と難聴を患った老婆の家に、孫のふりをして押し入った通称"狼"は彼女を殺害。次いで祖母に会いに来た孫の赤頭巾を拘束し、身代金を要求しようとしていたが、異変に気付いた付近の自警団によって事無きを得た。
"狼"は自警団の手によって射殺されたが、軽傷ですんだ赤頭巾の心的外傷は深かった。
それを機に、赤頭巾の家族が中心となり、犯罪の被害者組織が結成された。事件で心身に傷を負った被害者の救済だけでなく、有志を募り、独居老人の家の周囲の見回りや声掛け、子供たちの見守りを行った。
小人からの報告で事件を知った白雪は己の遅回を恥じ、国会で憲兵と自警団の連携強化を呼びかけた。そしてその計画を、白雪は契機となった少女の愛称から"赤頭巾計画"と呼んでいるのだ。
「それはようございました」
ランスロットに白雪はやや苦い笑みを向けた。
「とは言っても、犯罪も巧妙化しているもの。諸手を挙げて、万事順調、とは言えないのが正直なところね」
冷めた紅茶を口に運ぶ白雪は、私人としてはいろいろアレだが、為政者としては真摯で有能だ。王冠を戴くに相応しい人物だとランスロットは確信している。
「…御供いたします、どこまでも」
白雪は微笑み、紅茶のカップを置いた。
「心強い事。と、いうわけだからランス。今夜から子作りするわよ」
「……んっ…?」
目を剥いて硬直するランスロットに、白雪はそれはそれは清々しい笑みを向けた。
「言ったじゃない、あなたにはわたしの子を産んでもらうって。つくるといってすぐできるわけではないもの。わたしの見てくれと権力目当ての馬鹿男どもに口を挟ませないためにも、既成事実、つくっておくわよ」
…アレ、冗談じゃなかったんですか?
声も出せないランスロットの視線の先で、白雪が優雅に立ち上がる。
「…あなた、わたしから逃げられるなんてそんな甘い事考えてないわよね?」
*
いばら姫は真実の愛で呪いから目覚めて。
ラプンツェルは塔から降りて王子さまと結ばれて。
赤頭巾は狼のお腹から出て大好きな家族のもとに戻って。
みんなみんな幸せになりました、なんて。
―――本当に?
*
*
「ねぇランス。わたしは覚えも無い男に唇を奪われて、否応なく妻になるのも。世の中から取り残されて、来るともしれない王子を待つのも、どちらも御免なの」
ソファに腰掛けたランスロットは、背もたれに阻まれて逃げられない。白雪のしなやかな腕はそのソファの両端に突かれ、ランスロットを閉じ込めている。
狡猾な獣に囚われた獲物よろしく、ランスロットは動けない。
瞬きも忘れた乳兄弟を見下ろして、白雪は紅い唇に凄艶な笑みを刻む。
「わたしは見た目で伴侶を選ぶなんて愚は犯さない。…安心なさい、死がふたりを分かつまで大事に大事に可愛がってあげるわ」
*
*
白雪姫は運命の王子さまに出会い、末永く幸せに暮らしました。