第1話 異世界!
毎日の満員電車。上司からの罵倒。理不尽な残業。
俺、田中宏、五十二歳。どこにでもいる、うだつの上がらない社畜サラリーマンだ。
そんな俺の唯一のストレス発散。それは通勤ラッシュの駅構内で、自分より弱そうな女や子供を見つけては、わざと肩をぶつけること。俗に言う「ぶつかりおじさん」ってやつだ。
ビクッとして怯える弱者の顔を見るたび、俺の歪んだ自尊心は満たされていた。
だが、その日、俺のサラリーマン人生――いや、人生そのものが終わりを迎えるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「チッ、邪魔だ……!」
いつものように、前方を歩いている若い女に狙いを定めた。
小柄で、いかにも華奢な後ろ姿。絶好の獲物だ。俺はわざと足早に接近し、体重を乗せて背後から激しくぶつかった。
――ガツッ!!!
鈍い衝撃音。しかし、予想外の感触が俺を襲う。
女は微動だにしなかった。まるで、地面に根を張った大木をタックルをしたかのような圧倒的な硬質さ。
「え……?」
唖然とする俺の前で、女がゆっくりと振り返る。
整った横顔。だが、その赤い唇は、不敵な笑みを浮かべていた。
「見ぃつけた」
そんな幻聴が聞こえた気がした。
直後、俺の視界はぐにゃりと歪み、凄まじい衝撃と共に意識が真っ白に染まった。
◇
「――目を覚ましましたか? 哀れな迷い人よ」
次に気がつくと、俺は一面の光に包まれた神聖っぽい空間にいた。
目の前に佇んでいるのは、この世のモノとは思えない美貌を持った、絶世の美女。頭上には光の輪があり、透き通るような羽が背中から生えている。
「ここは……? 俺は確か、駅で女に……」
「お気の毒ですが、あなたは亡くなりました。あなたがぶつかったあの女の人に反撃をくらっちゃったんですよ。見かけによらず強かったんですね。相手は選ばないといけませんね。あ、ご安心ください。あの女の人は正当防衛で無罪になるので、あなたは気に病むことはありませんから」
女神様は、女神らしくない軽い調子で俺の恥ずかしい死因を告げた。
嘘だろ。あのぶつかりで、俺は返り討ちに遭って死んだのか……!?
「まあ、自業自得と言えばそれまでですが」
女神様はクスクスと、どこか楽しげに微笑んだ。
「ですが、私はそんなあなたの『歪んだエネルギー』が嫌いではありません。毎日理不尽に耐え、鬱憤を溜め込んでいたのでしょう? あなたには、そのストレスをすべてぶつけて、好き勝手に生きられる場所が必要です」
女神様が優しく手を差し伸べる。その瞬間、眩い光がさらに強くなった。
「あなたを異世界へ転生させてあげましょう。今度こそ、誰にも邪魔されずにあなたの望むまま、自由気ままに生きるのです――」
再び心地よい浮遊感と共に、俺の意識は深い闇へと落ちていった。
◇
「う、ん……」
小鳥のさえずりが聞こえる。
鼻をくすぐるのは、コンクリートや排気ガスの臭いではなく、瑞々しい草木の香り。
ガバッと跳ね起きると、そこは見渡す限りの鬱蒼とした森の中だった。
「ここは……本当に異世界なのか?」
自分の声を聞いてハッとした。
不摂生な生活で枯れていた五十代のダミ声じゃない。もっと若々しくて、張りのある声だ。
慌てて自分の手を見る。たるんでいたおっさんの手は消え去り、引き締まった若い男の手に変わっていた。
服装も、ヨレヨレの安物背広ではない。
革のベルトに、仕立ての良いチュニック。まるで中世ヨーロッパの冒険者が着るような衣服だ。
「体も若返ってる……! これ、本当にラノベで見た、異世界転生ってやつじゃねえか!」
俺の心に、サラリーマン時代には決して湧き上がらなかった全能感が満ちていく。
あの鬱屈とした満員電車も、年下くせに偉そうな上司もここにはいない。
「ククク……、あはははは! 見てろよ異世界! 今度こそ俺の好き勝手に生きてやる、誰も俺を止められねえんだよ!!」
若返った肉体を限界まで震わせ、俺は異世界の空に向かって、狂ったように高笑いを炸裂させたのだった。




