72話:救済
冬雨が降っていた。
冷たい。
骨まで染みるような雨だった。
街道脇では、一人の老人が咳き込んでいる。
痩せ細った体。
青白い顔。
息を吸うたび胸が鳴る。
隣では老婆が必死に背を擦っていた。
「もう少し……もう少しだからね……」
だが、その声にも力が無い。
周囲には同じような人間が何十人もいた。
病人。
孤児。
難民。
栄養失調。
感染症。
凍傷。
宗教国家ラディウス領外縁部。
ここ数年、難民が急増していた。
原因は単純。
貧困。
戦争。
重税。
そして冬。
人は食えなければ死ぬ。
寒ければ死ぬ。
病になれば死ぬ。
それだけだった。
だが。
その死を、誰も止められなかった。
神殿は祈る。
貴族は税を取る。
商人は値を吊り上げる。
結局。
弱い者から死ぬ。
それが現実だった。
そんな中。
最近、妙な話が広がっていた。
「病を治す村がある」
「金を取らない」
「孤児を受け入れる」
「食事を配る」
「農民が魔法を使う」
最初は噂だと思われていた。
ありえない。
そんな場所、この世界に存在するはずがない。
だが。
今日。
その噂を確かめに来た者たちがいる。
街道の先。
荷馬車の列が止まった。
御者が目を見開く。
「……なんだ、ここ」
石壁。
見張り塔。
湯気。
畑。
煙突。
巨大水路。
冬なのに、人が倒れていない。
それどころか。
笑っている。
子供たちが走り回っている。
女たちが布を運ぶ。
男たちが建材を運搬する。
ゴーレムまで動いている。
異常だった。
老人が呟く。
「村……なのか?」
そこへ。
若い女が近づいてきた。
ミネルバだった。
白い外套。
柔らかな笑顔。
その後ろにはピーターもいる。
二人とも治療師の腕章を付けていた。
ミネルバは老人の前へしゃがみ込む。
顔色を見る。
呼吸音を聞く。
震える指先へ触れる。
長年、病人と向き合ってきた経験がある。
だから分かる。
肺を痛めている。
熱が高い。
栄養が足りない。
放置すれば危険。
ミネルバは優しく言った。
「大丈夫です」
「ここまで来られたなら、助かります」
その言葉に。
老婆が泣き崩れた。
「た、助かる……?」
信じられない。
この世界で。
病人へ向かって。
“助かる”と言う人間など滅多にいない。
ピーターが治癒班へ指示を飛ばす。
「温水準備!」
「浄化水搬入!」
「栄養粥優先!」
若い治療師たちが即座に動く。
誰も混乱しない。
教育されているからだ。
役割がある。
仕組みがある。
だから回る。
それが、この村の強さだった。
難民たちは呆然としている。
無料。
しかも迅速。
ありえない。
普通なら金が必要。
身分が必要。
許可が必要。
なのに、この村は違う。
ミネルバが老人の胸へ手を当てる。
淡い光。
光属性。
治癒。
浄化。
優しく染み込む。
老人の荒い呼吸が少しずつ落ち着いていく。
「……あ……」
目に光が戻る。
老婆が口を押さえた。
「そんな……」
「神官様でも、こんなすぐには……」
ミネルバは首を振る。
「私は神官じゃありません」
「治療師です」
その言葉が。
周囲へ静かに広がる。
神ではない。
特別な血筋でもない。
学んだから出来る。
教育されたから使える。
それが、この村だった。
広場。
巨大な炊き出し場が稼働していた。
大鍋。
湯気。
肉と野菜の匂い。
難民たちは震えていた。
飢えた人間ほど、“食べる”ことを恐れる。
奪われるかもしれない。
途中で止められるかもしれない。
そういう経験ばかりしてきたからだ。
だが。
村人たちは普通に配っていく。
「熱いから気をつけてね」
「おかわりあるよ」
「子供優先でーす」
自然だった。
偽善じゃない。
慣れている。
それが恐ろしかった。
難民の男が震えながら呟く。
「……なんで、ここまで」
隣でジミーが肩を竦める。
「働けるようになった方が得だから」
現実的だった。
だが、その合理性こそ優しかった。
死なれたら終わり。
生きれば働ける。
働けば回る。
回れば皆が豊かになる。
グロマールの思想はそこにある。
支配ではない。
循環。
だから持続する。
だから壊れない。
工房区。
紡織工房では女たちが急ピッチで冬服を作っていた。
魔力繊維。
保温性能が高い。
しかも軽い。
昔なら貴族しか持てない品質。
それを今、難民へ配っている。
若い難民の娘が涙を流す。
「……綺麗」
その服は。
人生で初めて、自分専用に与えられた服だった。
セレスが帳簿を確認している。
「食料余裕あり」
「受け入れ可能人数、まだ増やせる」
隣のエバが頷く。
「紡織ラインも回ってる」
「ゴーレム生産補助が効いてるわね」
数字。
物流。
在庫。
全部管理されている。
だから崩れない。
感情だけじゃない。
現実的だから救える。
そこが、この村の異常性だった。
夜。
難民用宿舎。
元騎士だった男が目を覚ます。
彼は以前、村へ攻め込んだ騎士団の一員だった。
敗北。
捕縛。
再教育。
最初は反抗した。
だが。
今は建築班で働いている。
そして今日。
彼は難民へ毛布を配っていた。
少女が震えながら受け取る。
「……ありがとう」
その瞬間。
男は何も言えなくなる。
昔の自分は。
こういう人間を守っていたのか?
違う。
踏み潰していた。
命令だから。
税のため。
秩序のため。
だが、この村は違う。
本当に守っている。
その現実が、彼を変えていた。
見張り塔。
マイクが街道を見る。
難民の列が続いている。
止まらない。
それだけ外が酷いということだ。
マイクが舌打ちする。
「クソみてぇな世界だな」
隣でミレナが静かに答える。
「だから変えるんでしょ」
マイクは笑う。
「ああ」
「今は、守れる」
その顔には誇りがあった。
以前の彼は力任せだった。
でも今は違う。
守るための力。
役割。
責任。
教育が人を変えた。
グロマールは村外れに立っていた。
難民たちを見る。
泣く子供。
眠る老人。
食事を食べる女たち。
その光景を、静かに見ている。
ミレナが隣へ来た。
「……増えるね」
「増える」
「宗教国家、絶対黙ってない」
グロマールは頷く。
当然だった。
民衆が流れる。
神殿より救う。
それは。
宗教国家にとって最悪の存在だ。
だが。
グロマールは止めない。
止める理由が無い。
人が死ぬ。
助けられる。
なら助ける。
それだけだった。
ミレナが小さく笑う。
「本当に、変な人」
グロマールは答えない。
ただ。
遠くを見る。
雨は止み始めていた。
その向こう。
街道には、まだ難民の列が続いている。
救いを求める人間は終わらない。
だから。
この村も止まれない。
教育。
農業革命。
紡織産業。
治療。
循環。
全部が繋がっている。
そして今。
民衆が理解し始めていた。
救済とは。
祈りではなく。
“生きられる環境”なのだと。




