39話:風呂
朝靄の中、村の中央広場に人が集まっていた。
子供たちが走り回り、大人たちは半信半疑の顔で巨大な石造りの建物を見上げている。
屋根からは白い湯気。
壁面には土魔法で整形された滑らかな石。
入口横には、水路から引き込まれた浄水設備。
その建物を見た老人が呟く。
「……本当にできたのか」
「風呂ってやつが」
マイクが胸を張る。
「おう!」
「しかもただの風呂じゃねぇぞ!」
「公衆浴場だ!」
その言葉に、周囲がざわついた。
この世界では、湯浴みは貴族の贅沢だった。
一般人は川で身体を流す程度。
冬など最悪だ。
冷水で体を洗えば病気になる。
だから洗わない。
洗わないから病が広がる。
貧困と病は、ずっと繋がっていた。
グロマールはその循環を断ち切ろうとしていた。
入口前で、グロマールが設備を確認している。
地下の温水循環。
蒸気圧。
排水経路。
衛生状態。
全部を鑑定しながら調整する。
水魔法で浄化。
火魔法で加熱。
風魔法で換気。
土魔法で配管固定。
村人たちはそれを見ながら、未だに信じられない顔をしていた。
「……村だよな、ここ」
「町じゃなくて?」
「最近もう意味分かんねぇ」
ジミーが笑う。
「安心しろ」
「俺も分かってねぇ」
その横で、ミネルバが大量の布を抱えて歩いていた。
柔らかい生成り色の布。
長く、細く、少しざらついている。
ミレナが首を傾げる。
「それ何?」
ミネルバが少し嬉しそうに答えた。
「洗体用の布です」
「身体を洗う専用」
周囲がまたざわつく。
「専用?」
「そんなの必要なの?」
ミネルバは頷いた。
「汚れを落とすには、水だけでは足りません」
「擦ることも必要です」
「肌を傷つけすぎず、汚れだけ落とす布を作りました」
セレスが布を触る。
「……柔らかい」
「綿?」
「はい」
「綿花栽培が始まったので試作しました」
ミネルバは少し照れた。
以前の彼女なら、こんな風に人前で説明できなかった。
今は違う。
環境が、人を育てている。
マイクが布を頭に巻く。
「おお!」
「これ戦闘にも使えそうだぞ!」
「絶対違う使い方です」
ミネルバが即座に否定する。
周囲が笑った。
その時。
建物の奥から、ジミーが叫ぶ。
「できたぁぁぁ!!」
全員の視線が向く。
ジミーは木箱を抱えて飛び出してきた。
中には白っぽい塊。
少し黄色がかった固形物。
「何それ」
「石?」
ジミーは得意げに笑った。
「石鹸だ」
沈黙。
数秒後、一斉にざわめきが広がる。
「石鹸!?」
「本当に作れたのか!?」
「貴族の高級品だろ!?」
ジミーは鼻を鳴らす。
「油と灰汁を混ぜて試行錯誤した」
「グロマールの鑑定借りて、成分も確認した」
「匂いも改良したぞ」
ミレナが石鹸を持ち上げる。
「……いい匂い」
「薬草混ぜたからな」
「あと油の配合も変えた」
ジミーの目は真剣だった。
商売人の顔。
最近の彼は、本当に変わった。
昔は調子がいいだけの少年だった。
今は違う。
物流。
保存。
発酵。
原価。
利益率。
全部を考える。
環境が、人を育てる。
グロマールはその変化を静かに見ていた。
ピーターが石鹸を恐る恐る触る。
「これ……病気減る?」
グロマールが頷く。
「減る」
「かなり」
「汚れは病を運ぶ」
「皮膚病」
「感染」
「腐敗」
「全部関係してる」
村人たちが息を呑む。
彼らは知らなかった。
知らされていなかった。
教育が存在しなかったからだ。
グロマールは浴場の扉を開いた。
温かな湯気が溢れる。
中は広かった。
石造りの浴槽。
蒸気。
整列した洗い場。
浄化水路。
滑り止め加工された床。
完全に設計されている。
老人が呆然と呟く。
「……王都より上じゃないか」
誰も否定できなかった。
マイクが真っ先に飛び込む。
「うおおおおお!?」
「温けぇぇぇ!!」
湯が跳ねる。
子供たちが歓声を上げる。
「すげぇ!」
「天国だ!」
「身体軽い!」
ピーターが恐る恐る入る。
肩まで浸かった瞬間、目を丸くした。
「……疲れが」
「消える……」
グロマールは静かに言う。
「血流が良くなる」
「身体も回復しやすい」
「睡眠の質も変わる」
ミネルバが小さく笑う。
「皆、嬉しそうですね」
実際、空気が違った。
笑顔が多い。
声が明るい。
余裕がある。
貧困は、人から余裕を奪う。
衛生は、人を守る。
食事だけでは足りない。
清潔。
睡眠。
安心。
全部必要だった。
女湯側では、ミレナたちが驚いていた。
「……広い」
「綺麗……」
石壁には光魔法の灯り。
湯気が柔らかく空間を包む。
セレスが肩まで浸かる。
「これは……駄目ね」
「駄目?」
「外出たくなくなる」
ミレナが苦笑する。
ミネルバは洗体タオルを配っていた。
「これ使ってください」
少女たちが身体を洗う。
泡立つ。
驚く。
「すごい……」
「汚れ落ちる」
「肌が痛くない」
ミネルバは少し誇らしげだった。
彼女は“優しいだけの少女”ではなくなっている。
人を守る技術を持ち始めていた。
セレスがミレナを見る。
「で?」
「何」
「グロマールに感謝言った?」
「……まだ」
「言いなさいよ」
ミレナは湯の中で小さく息を吐く。
最近、本当に勝てない。
セレスには全部見抜かれている。
その頃、男湯。
マイクが豪快に笑う。
「グロマール!」
「お前マジで何なんだよ!」
「風呂まで作るとか意味分かんねぇ!」
ジミーも頷く。
「しかも無料」
「普通なら金取るぞ」
グロマールは淡々と答える。
「病気が減る方が利益が大きい」
「労働効率も上がる」
「治療負担も減る」
「結果的に全体が得する」
マイクが頭を抱える。
「合理的すぎる……」
でも。
それがグロマールだった。
誰かを支配したいわけじゃない。
豊かにしたいだけ。
循環を作りたいだけ。
だから皆、ついていく。
夜。
浴場から出た村人たちの顔は明るかった。
肌の色が違う。
表情が柔らかい。
子供たちは眠そうに笑っている。
老人たちも身体が軽いと驚いていた。
ミレナは夜風に当たりながら浴場を見上げる。
湯気が夜空に溶ける。
その光景が、妙に綺麗だった。
隣にグロマールが立つ。
「問題は?」
「今のところ無い」
「そう」
沈黙。
湯上がりの風が気持ちいい。
ミレナは小さく呟いた。
「……ありがとう」
グロマールが視線を向ける。
「何がだ」
「村」
「皆」
「……私も」
グロマールは少しだけ考えた。
そして静かに言う。
「お前たちが動いた結果だ」
「俺一人じゃ無理だった」
ミレナは目を見開く。
この男は、本当に変わらない。
功績を独占しない。
支配しない。
だから人が育つ。
だから皆、変わっていく。
セレスが少し離れた場所から二人を見て笑った。
「本当に分かりやすい」
隣ではミネルバが首を傾げる。
「何がです?」
セレスは肩を竦めた。
「恋する女の顔」




