242話:依存
夜の行政区は静かだった。
昼間は教師たちの声が飛び交い、物流担当が走り、工業区から金属音が響くこの都市も、深夜だけは少しだけ呼吸を緩める。
執務室。
セレスは大量の書類を前に、静かにペンを置いた。
窓の外には灯りが続いている。
教育都市。
工業都市。
農業都市。
治療区。
孤児院。
物流拠点。
全部、生きている。
止まっていない。
「……本当に回ってるわね」
小さく呟く。
グロマールが不在になって、もう二週間。
最初は不安だった。
教師たちも。
工員も。
農民も。
皆、どこかで思っていた。
“グロマールが居なければ止まるのではないか”
と。
でも。
止まらなかった。
物流は回る。
教育は続く。
病人は減る。
食料は増える。
孤児院では子供たちが笑っている。
農業都市から届いた報告書をセレスが開く。
食料充足率。
七三八%。
「……意味分からない数字ね」
苦笑する。
昔。
飢えていた。
病で死んでいた。
冬を越えられなかった。
あの小さな村が。
今は他国へ食料支援をしている。
しかも余裕を持って。
「環境が人を育てる、か……」
グロマールの言葉を思い出す。
その時だった。
扉が叩かれる。
「入って」
マイクだった。
珍しく静かだった。
「まだ起きてたのか」
「そっちこそ」
「夜回り終わった」
マイクは椅子に座る。
しばらく沈黙。
そして。
「なぁ」
「ん?」
「グロマールが死んだらどうなると思う?」
セレスの手が止まる。
重い言葉だった。
昔なら考えもしなかった。
考えたくもなかった。
でも。
今の循環領は“国家”ではない。
文明圏だ。
だから避けられない。
後継。
継承。
死。
文明は人より長く続かなければならない。
「……回るわよ」
セレスは静かに答えた。
マイクは驚かなかった。
「だよな」
「むしろ、回らなきゃ駄目」
セレスは窓の外を見る。
「グロマール一人に依存してたら、それは文明じゃない」
「ただの英雄譚よ」
「誰か一人が倒れたら終わる世界なんて弱すぎる」
マイクが笑った。
「あいつ聞いたら喜びそうだな」
「多分ね」
静かな夜だった。
でも。
確実に時代は進んでいた。
翌日。
循環領中央広場。
人が集まっていた。
教師。
工員。
農民。
孤児院の子供たち。
料理人。
治癒師。
物流担当。
理由は一つ。
「本当に?」
ミネルバが驚いていた。
カーラが少し照れながら頷く。
「……うん」
「できたみたい」
エバも隣で顔を赤くしていた。
「わ、私も……」
一瞬。
沈黙。
そして。
歓声が上がった。
「おおおおおお!!」
「マジか!」
「めでてぇ!」
カーラのレストラン常連たちが大騒ぎする。
カーラは苦笑した。
「うるさいわねぇ……」
でも。
その顔は幸せそうだった。
エバも笑っている。
循環領は豊かになった。
教育も。
工業も。
物流も。
でも。
一番変わったのは“未来”だった。
子供が生まれる。
家族が増える。
次世代ができる。
それが文明だった。
その頃。
治療院。
ピーターが緊張で固まっていた。
ミネルバが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「え、えっと……」
「その……」
ピーターの手が震えていた。
昔なら逃げていた。
泣いていた。
自信が無かった。
でも。
今は違う。
弱いまま。
優しいまま。
それでも前へ進めるようになった。
「ミネルバさん」
「はい」
「ずっと一緒に居てください」
「……」
「僕、まだ弱いです」
「いっぱい失敗します」
「多分これからも」
「でも」
「誰かを助けることだけは続けたい」
「だから」
ピーターは深く頭を下げた。
「結婚してください」
静寂。
ミネルバは目を丸くした。
それから。
ゆっくり笑った。
泣きそうな顔で。
「……はい」
小さな返事だった。
でも。
世界を変えるには十分だった。
治療院の外で聞いていた子供たちが大騒ぎする。
「うわああああ!」
「ピーター先生ー!」
「やったー!」
ミネルバが顔を真っ赤にする。
ピーターは泣いていた。
昔。
泣き虫だった少年は。
今。
人を救う教師になっていた。
午後。
行政区。
セレスはフェルド・レイヴンと向かい合っていた。
若き官僚。
行政スキル。
大臣スキル覚醒者。
そして今。
循環領でも指折りの実務家。
「断るなら今ですよ」
フェルドが真顔で言う。
「宰相代理と結婚なんて、胃が死にます」
セレスが吹き出した。
「何それ」
「本音です」
「失礼ね」
「でも好きです」
即答だった。
セレスが黙る。
フェルドは続ける。
「冷静で」
「怖くて」
「仕事鬼で」
「容赦なくて」
「でも誰より人を見捨てない」
「そんな人です」
「だから尊敬してます」
「……ずるい言い方するわね」
セレスは溜め息をつく。
でも。
嫌ではなかった。
「分かった」
「よろしく」
フェルドが固まる。
「……え?」
「だから」
「結婚するって言ってるの」
行政区に絶叫が響いた。
その頃。
領外。
山道。
グロマールは歩いていた。
隣にはミレナ。
「本当に付いてくるのか」
「今さら何言ってるの?」
ミレナは呆れた顔をした。
「私は昔からあんた追いかけてるでしょ」
「領主代理は?」
「セレスが居る」
即答だった。
もう分かっている。
循環領は止まらない。
誰か一人に依存しない。
だから。
ようやく皆、自分の人生を歩ける。
「……変わったわね」
ミレナが空を見る。
昔。
飢えていた。
怯えていた。
守るだけで精一杯だった。
でも今は違う。
未来がある。
子供が生まれる。
学校がある。
仕事がある。
家族がある。
文明がある。
「グロマール」
「ん?」
「ありがとう」
グロマールは少しだけ首を傾げた。
「俺だけじゃない」
「分かってる」
ミレナは笑った。
「だから今の循環領が好きなの」
風が吹く。
遠く。
文明圏の灯りが見えた。
もう。
一人ではない。
誰か一人に依存する世界でもない。
教育。
物流。
医療。
工業。
農業。
家族。
全部が繋がり。
循環している。
それが。
グロマールが始めた世界だった。




