178話:撤退
南方戦線。
旧国家軍は、崩れていた。
敗北ではない。
崩壊だった。
前線。
乾いた風が吹く。
砂埃の向こうで、旧国家軍の兵士たちが逃げていた。
武器を捨て。
鎧を脱ぎ。
隊列もなく。
命令も聞かず。
ただ走る。
後方から将校の怒声。
「止まれ!」
「逃亡は反逆だ!」
「戻れぇ!!」
誰も止まらない。
止まれるわけがなかった。
兵士たちは知ってしまった。
この戦争は勝てない。
いや。
もっと致命的なことを理解してしまった。
自分たちは、“守られていない”。
それを。
循環国家軍を見て知ってしまった。
負傷兵は治療される。
食料が届く。
水がある。
情報が来る。
休息がある。
子供を守る。
民を守る。
自分たちとは違う。
あまりにも違った。
だから。
もう戻れない。
若い兵士ラドは、荒野を走っていた。
息が切れる。
喉が焼ける。
でも止まらない。
後ろでは将校が叫んでいる。
「戻れ!」
「国家の命令だ!」
ラドは振り返らなかった。
国家。
その言葉が、もう空っぽに聞こえる。
腹を満たさない。
傷を治さない。
仲間を守らない。
なのに命だけ要求する。
そんなもののために。
死にたくなかった。
隣を走る兵士が言う。
「……南へ行くな」
「循環国家側へ行け」
「飯がある」
「治療がある」
「子供を殺されねぇ」
ラドは目を見開く。
前なら。
そんな言葉は裏切りだった。
でも今。
誰も否定しない。
否定できない。
現実だから。
後方。
旧国家軍本陣。
将軍ガルメスが机を叩いた。
「何故だ!」
「何故兵が戻らん!」
怒声が響く。
参謀たちは沈黙している。
誰も答えられない。
いや。
答えは分かっている。
兵士が国家を信じなくなった。
それだけ。
ガルメスは理解できない。
今まで。
恐怖で支配できた。
処刑で従わせた。
逃亡兵を吊るせば軍は戻った。
奴隷を殴れば働いた。
それで成立していた。
なのに。
今は違う。
参謀の一人が震えながら言う。
「……循環国家側の放送が」
「各地で聞かれています」
「民衆が……」
「比較しています」
ガルメスが睨む。
「比較?」
参謀が苦しそうに答える。
「……食料」
「教育」
「治療」
「賃金」
「全部です」
沈黙。
ガルメスは拳を握る。
認められない。
認めたくない。
だが。
国家そのものが揺れていた。
南方奴隷都市・ガデア。
暴動が起きていた。
奴隷たちが鎖を壊している。
倉庫が開かれる。
食料が奪われる。
だが。
略奪ではなかった。
違う。
“分配”だった。
老人へ。
子供へ。
病人へ。
民衆が食料を渡していく。
今まででは考えられない光景。
なぜそんな行動をするのか。
答えは単純だった。
見てしまったから。
循環国家を。
“奪い合わなくても成立する社会”を。
奴隷の女が、震える子供にパンを渡す。
「食べな」
子供が泣く。
女も泣く。
今まで。
こんな余裕はなかった。
食べ物は奪うものだった。
弱い者は死ぬ。
それが当たり前だった。
でも。
違う世界があると知ってしまった。
なら。
もう戻れない。
都市中央。
奴隷商館。
商人たちが青ざめていた。
「奴隷が消えています!」
「農地が止まっています!」
「徴兵拒否が各地で!」
「物流が!」
「物流が止まっています!!」
そこへ。
風属性放送。
静かな声。
ピーターだった。
> 「逃げてください」
> 「文字を学びたい人は来てください」
> 「子供を守りたい人は来てください」
> 「食べられます」
> 「病は治療できます」
> 「あなたたちは、道具じゃない」
都市が静まり返る。
誰も喋れない。
その言葉を。
初めて聞いた。
奴隷の老人が崩れ落ちる。
涙が止まらない。
「……人として扱われるのか……?」
その瞬間。
都市の空気が変わった。
恐怖ではない。
希望。
それが広がる。
そして。
希望は。
恐怖より強い。
循環国家軍前線。
マイクが避難路を見ていた。
大量の民衆。
奴隷。
老人。
子供。
みんな走ってくる。
国境防衛軍が誘導していた。
水配布。
食料配布。
治療。
全部準備済み。
マイクが怒鳴る。
「押すな!」
「ガキ優先だ!」
「老人運べ!」
兵士たちが即座に動く。
連携。
共有。
教育。
全部染み込んでいる。
若い兵士が報告。
「南側、旧国家軍撤退開始!」
「隊列維持不能!」
「脱走多数!」
マイクは目を細めた。
勝った。
でも。
剣で勝ったわけじゃない。
国家が。
自壊した。
それが分かる。
隣でセレスが地図を見る。
「徴兵制度も終わるわね」
「もう民衆が従わない」
マイクが聞く。
「そんな簡単に崩れるもんか?」
セレスが静かに答える。
「崩れるわ」
「命令は、“信じる理由”があって成立するの」
「食わせない」
「守らない」
「学ばせない」
「なのに死ねと言う」
「そんな国家、もう無理よ」
風が吹く。
遠くで。
旧国家軍の旗が燃えていた。
逃げた兵士が捨てた。
誇りじゃない。
重荷になった。
それだけ。
後方都市。
グロマールは報告書を読んでいた。
逃亡兵増加。
徴兵拒否。
農地停止。
奴隷解放。
旧国家軍機能低下。
全部数字で並ぶ。
グロマールは静かに言う。
「命令が機能しなくなったか」
ピーターが頷く。
「はい」
「もう恐怖だけでは止められません」
グロマールは窓の外を見る。
夜空。
その向こうで。
世界が変わっている。
国家とは何か。
軍とは何か。
民とは何か。
全部。
変わり始めていた。
昔は。
命令だけで人を動かせた。
教育がなかったから。
情報がなかったから。
比較できなかったから。
でも今。
人々は知ってしまった。
食える場所。
学べる場所。
病を治せる場所。
子供が笑う場所。
それを知れば。
もう鎖には戻れない。
グロマールは静かに呟く。
「始まったな」
ピーターが聞く。
「何がですか?」
グロマールは答える。
「国家の終わりだ」
命令だけの国家。
恐怖だけの国家。
搾取だけの国家。
それらが。
自分で崩れ始めていた。
人々が。
“考え始めた”から。




