167話:崩壊
南方から吹く風が変わっていた。
乾いている。
土の匂いがしない。
腐臭と血の臭いだけが漂っていた。
南方国家ラグナディア。
かつては巨大穀倉地帯を持つ大国だった。
広大な農地。
大量の奴隷。
圧倒的兵力。
力で全てを支配してきた国家。
その国が、崩れ始めていた。
「配給が止まったぞ!」
「倉庫が空だ!」
「貴族が全部持っていった!」
怒号が街へ響く。
中央都市。
市場。
既に機能していなかった。
パンはない。
肉もない。
水すら高騰している。
痩せ細った民衆が睨み合う。
そして。
奪う。
弱い者から順に。
「返せぇぇぇ!!」
男が荷車へ飛びかかる。
商人が悲鳴を上げた。
次の瞬間。
槍が飛ぶ。
兵士だった。
「国家備蓄だ! 近づくな!」
「ふざけるな!」
「俺たちはもう三日食ってねぇ!」
民衆が雪崩れる。
兵士たちの顔にも余裕は無い。
彼らも飢えていた。
国家が壊れる時。
最初に消えるのは秩序だ。
さらに悪化させたのが徴兵だった。
「逃亡兵だ!」
「捕まえろ!」
街道。
若い兵士たちが鎧を捨てて逃げる。
もう戦う意味が無い。
食料も無い。
給金も無い。
家族も飢えている。
そんな状態で忠誠など残るはずがなかった。
「もう嫌だ……」
「戦っても腹は膨れねぇ……」
兵士たちは知ってしまった。
北へ行けば食える。
グランゼルへ行けば生きられる。
それを知った瞬間。
国家への恐怖が崩れた。
一方。
貴族たちはさらに愚かだった。
「我が領の穀物を守れ!」
「民へ配るな!」
「まずは兵を集めろ!」
地方領主たちは私兵化を始める。
国家軍は分裂。
地方軍閥化。
互いに穀物を奪い始める。
結果。
農地は燃えた。
水路は破壊された。
農民は逃げた。
そして収穫が完全停止する。
負の循環だった。
支配で維持してきた国家は、一度崩れると止まらない。
さらに。
奴隷たちが動いた。
「門が開いたぞ!」
「逃げろ!」
深夜。
巨大農園。
痩せ細った奴隷たちが鎖を引きちぎる。
監視兵は既に逃げていた。
もう命令を聞く理由が無い。
奴隷たちは北を見る。
風が吹いていた。
その風に、声が乗る。
『生きたいなら来い』
空気が震える。
巨大風属性放送。
大陸全域へ響く声。
『子供を飢えさせるな』
女が崩れ落ちる。
泣いていた。
子供を抱いたまま。
「……行こう……」
「北へ……」
誰かが呟く。
その瞬間。
群衆が動いた。
国家より先に。
民が動いた。
これが決定打だった。
国家は民を縛れなくなった。
グランゼル北方国境。
巨大防壁。
難民の列が地平線まで続いていた。
数千。
いや。
既に数万規模。
それでも暴動は起きていない。
理由は簡単だった。
防壁の向こうに希望が見えるからだ。
炊き出し。
治療所。
宿泊施設。
巨大農地。
働く人間。
笑っている子供。
生きている街。
「止まるな!」
「順番だ!」
怒鳴る声。
マイクだった。
防壁上。
巨大斧を背負っている。
その周囲には帝国防衛隊。
さらに元難民兵たち。
混成部隊だった。
「押すな!」
「子供優先!」
マイクは叫びながら走る。
暴徒化しかけた男の胸ぐらを掴む。
「落ち着け!」
「ここは奪わなくていい!」
男が震える。
「……本当に……食えるのか……?」
「食える」
「働けばな」
マイクは即答した。
甘やかさない。
だが切り捨てもしない。
それがグロマール流だった。
列後方。
突然怒号が上がる。
「盗賊だ!」
「荷を奪ったぞ!」
数人の武装集団。
難民へ襲いかかる。
飢えた人間は理性を失う。
それは事実だった。
だが。
次の瞬間。
風が裂けた。
風刃。
高速回転する空気の刃。
盗賊の武器だけを吹き飛ばす。
「なっ……!」
さらに土槍。
地面から石柱が突き上がる。
盗賊たちを拘束。
マイクがゆっくり近づいた。
「……食えねぇのは分かる」
「でも奪ったら終わりだ」
盗賊が震える。
「じゃ、じゃあどうしろって……!」
「働け」
「ここはそれで食える」
静かな声だった。
威圧ではない。
現実だった。
マイク自身。
元はただの喧嘩馬鹿だ。
だから分かる。
環境が人を変える。
隣では帝国兵が呆然としていた。
「……何故殺さないんです?」
若い兵士が聞く。
マイクは鼻を鳴らした。
「殺したら減るだけだろ」
「働ける奴は働かせる」
「ただし次やったらぶん殴る」
シンプルだった。
それで十分だった。
一方。
グランゼル内部。
孤児保護区域。
施設数は既に二十を超えている。
それでも足りなかった。
子供が増え続けている。
「熱があります!」
「こっちは栄養失調!」
「水を!」
治療院は戦場だった。
ミネルバが走る。
額には汗。
それでも表情は崩さない。
水属性治癒。
光属性浄化。
熱病を抑え。
汚染水を浄化し。
傷を塞ぐ。
限界まで働いていた。
「先生……」
小さな声。
痩せた少年。
ミネルバが膝をつく。
「どうしたの?」
「……ここ……怒られないの……?」
ミネルバの動きが止まる。
少年は震えていた。
「泣いたら殴られるから……」
静かに。
ミネルバは頭を撫でた。
「ここでは殴らない」
「泣いていいの」
少年が崩れる。
声を殺して泣き始めた。
周囲の子供たちも泣く。
ずっと我慢していたのだ。
ミネルバは一人ずつ抱きしめる。
治療より先に。
安心を与える。
それが必要だと知っているから。
施設外。
セレスがその光景を見ていた。
「……増え続けるわね」
隣にはグロマール。
「当然だ」
「崩壊は始まったばかり」
感情ではない。
分析だった。
教育を拒否した国家。
生産を軽視した国家。
支配だけで維持した国家。
そういう国は、一度循環が止まると脆い。
「止める?」
セレスが聞く。
グロマールは首を振った。
「無理だ」
「もう国家単位では止まらない」
民が知ってしまった。
別の生き方を。
食える場所を。
学べる場所を。
だから戻れない。
空を巨大風魔法が再び走る。
『生きたいなら来い』
『学びたいなら来い』
『働く意思があるなら受け入れる』
世界が静かに壊れていく。
そして同時に。
新しい循環が生まれていた。




