121話:旧秩序
ベルセリア王国。
北方第三都市。
雪が降っていた。
重い灰色の空。
凍った街路。
吹き込む冷気。
それでも。
街は少しずつ変わり始めていた。
治癒院。
学校。
農地。
そして。
治癒院の隣で建設が進む巨大施設。
公衆浴場。
土属性教師たちが石材を組み上げ、水属性教師たちが配水路を整備していく。
以前のベルセリアでは考えられなかった速度だった。
理由は単純。
“教育された人間”が増えたからだ。
現場中央。
ピーターが設計板を見ていた。
隣には治癒教師ミリア。
さらに薬師教師エレナ。
フィリア王女も防寒外套を羽織ったまま工事を見つめている。
「……本当に作るのですね」
フィリアが呟く。
ピーターが頷いた。
「はい」
「病を減らすには必要です」
王女はまだ半信半疑だった。
ベルセリアにも風呂文化は存在する。
王族。
上位貴族。
一部富裕層。
しかし民衆には無い。
燃料不足。
設備不足。
水不足。
寒冷地。
結果。
洗えない。
汚れる。
病が広がる。
死ぬ。
それが普通だった。
ミリアが静かに説明する。
「治癒魔法だけでは限界があります」
「病気になる前に防ぐ必要があります」
フィリアが目を向ける。
「それが……風呂ですか?」
「風呂」
「石鹸」
「洗浄」
「換気」
「全部です」
ミリアは淡々としていた。
彼女は最初から分かっていた。
グロマールたちの目的を。
“治す”だけではない。
“病気になる環境そのものを減らす”。
それが文明。
浴場内部。
巨大浴槽。
洗浄台。
蒸気熱循環。
排水路。
さらに衣類洗浄区域。
全部が設計されている。
フィリアが驚く。
「ここまで……」
ピーターが黒板を指差す。
【病を減らす方法】
・手を洗う
・湯へ入る
・水を煮沸する
・食器を洗う
・換気する
「これだけでも、かなり変わります」
フィリアは静かに息を呑む。
ベルセリアでは、“病気は仕方ない”だった。
寒いから。
貧しいから。
北方だから。
しかし違った。
環境が悪かった。
教育が無かった。
だから死んでいた。
その頃。
別室。
薬師教師エレナたちが作業を続けていた。
大鍋。
灰。
油。
精製液。
火属性加熱。
水属性攪拌。
光属性精製。
周囲では、薬師スキルに目覚め始めた民たちも動いている。
以前助かった子供。
治療を受けた女性。
元兵士。
皆、真剣だった。
エレナが完成した塊を持ち上げる。
「完成です」
フィリアが見る。
「これは?」
「石鹸です」
王女が目を見開いた。
石鹸。
王族専用品。
高級品。
しかし今。
大量に作られている。
しかも。
無料配布。
外。
民たちが列を作っていた。
老人。
子供。
母親。
兵士。
皆、石鹸を受け取る。
最初は困惑していた。
しかし。
使うと変わる。
「……汚れが落ちる」
「匂いが減った」
「手が軽い」
驚きが広がる。
エレナが説明する。
「手を洗ってください」
「食器も」
「できれば身体も」
兵士が困惑した顔をする。
「そんなことで病が減るのか?」
ミリアが即答する。
「減ります」
「かなり」
「汚れた手」
「汚れた食器」
「汚れた水」
「それだけで人は死にます」
静かな声だった。
しかし重い。
ベルセリアでは、それを“当たり前”にしていた。
だから病が蔓延した。
だから寿命が短かった。
だから民が弱った。
その時。
索敵教師の表情が変わる。
「……監視されています」
路地裏。
数人。
毛皮外套。
こちらを見ている。
フィリアの顔が険しくなる。
「奴隷商会……」
ベルセリアにも存在していた。
奴隷商会。
飢えた民。
孤児。
病人。
借金。
それらを“商品”へ変える連中。
そして今。
治癒院。
学校。
浴場。
衛生教育。
全部が邪魔だった。
病人が減る。
孤児が減る。
民が学ぶ。
騙せなくなる。
つまり。
文明そのものが敵。
ピーターが静かに言う。
「教育されると」
「人は簡単に支配されなくなります」
フィリアが黙る。
彼女は今まで、“政治”を誤解していた。
王が命令する。
兵士が従う。
それだけではない。
物流。
教育。
衛生。
全部が国家を作る。
浴場前。
子供たちが笑っていた。
湯気。
暖気。
笑い声。
以前のベルセリアには存在しなかった空気だった。
その時。
兵士が走ってくる。
「先生!」
「咳が止まりました!」
そこには痩せた少年がいた。
以前まで咳き込み続けていた子供。
しかし今。
呼吸が安定している。
温水。
清潔。
栄養。
それだけで改善していた。
母親が泣き崩れる。
「ありがとうございます……!」
周囲の民たちがざわめく。
変わり始めていた。
確実に。
ピーターが黒板へ新たに文字を書く。
【病は防げる】
民たちが静かに見る。
以前なら誰も信じなかった。
今は違う。
実際に助かった。
だから信じる。
フィリア王女は、その光景を見つめていた。
旧秩序とは何か。
病。
貧困。
無知。
それを放置することで成り立つ世界。
今。
ピーターたちは、それを壊し始めていた。
剣ではない。
教育で。
衛生で。
環境で。
だから止まらない。
そして旧秩序は恐れ始める。
“人が自分で考え始める”ことを。




