103話:泣く少女
朝だった。
都市は静かに動いている。
石畳をゴーレムバスが走る。
物流区画では荷物の仕分けが始まり、紡織工場からは機織りの音が響いていた。
畑では朝露を受けた麦が揺れている。
食料充足率300%超。
かつて飢えていた土地とは思えない。
市場には野菜が溢れていた。
肉もある。
果実もある。
保存食も山積みだった。
人々は怒鳴らない。
奪い合わない。
環境が変わると、人はここまで変わる。
グロマールはそれを静かに見ていた。
その隣。
小さな少女が立っていた。
奴隷商人から救出された少女。
獣人だった。
灰色の耳。
細い身体。
痩せた腕。
年齢は十にも満たない。
名前はまだ聞けていない。
少女は都市を見上げていた。
その目は怯えている。
人を信じていない目だった。
ミネルバが優しくしゃがむ。
「朝ご飯、食べられそうですか?」
少女は小さく首を振った。
食欲ではない。
恐怖だった。
毒を盛られる。
殴られる。
奪われる。
そういう環境で育った人間は、優しさを怖がる。
ミネルバは無理をしない。
「じゃあ、あとで一緒に食べましょうね」
柔らかい声。
少女は答えない。
でも逃げなかった。
それだけで十分だった。
セレスが静かに言う。
「まだ夜に起きる」
「物音に怯えてる」
「檻の音が耳に残ってるんでしょうね」
グロマールは頷いた。
当然だった。
身体は助かっても、環境の記憶は残る。
だから時間が必要になる。
ピーターが近づいてくる。
「今日、あの子を外へ連れて行ってもいいですか?」
「過去を見せたいんです」
ミレナが少し驚いた。
「過去?」
ピーターは頷く。
「今の都市だけを見ても、信じられないと思うから」
「変わったって事を、ちゃんと見せたい」
グロマールは短く答えた。
「任せる」
昼前。
ピーターは少女を連れて都市外へ出た。
護衛は最小限。
マイクが後方についている。
少女はずっと黙っていた。
石畳を歩く。
都市を抜ける。
畑を抜ける。
水路を越える。
やがて景色が変わり始めた。
古い道。
荒れた土。
崩れた柵。
少女が少し顔を上げる。
さらに進む。
そこには。
かつての村があった。
古い木造。
崩れた屋根。
泥道。
痩せた畑。
乾いた井戸。
ピーターが静かに言う。
「昔はここだったんだ」
少女は目を見開いた。
信じられなかった。
今の都市とは別世界だった。
マイクが笑う。
「懐かしいな」
「毎日腹減ってた」
「畑も死んでたしな」
ピーターも苦笑する。
「あの頃、僕いつも泣いてました」
少女が初めて口を開く。
「……うそ」
小さな声だった。
ピーターは否定しない。
「本当」
「怖かったし」
「お腹空いてたし」
「病気も多かった」
「みんな余裕がなかったんだ」
風が吹く。
古い家屋が軋んだ。
少女は村を見ている。
崩れた現実。
都市だけ見れば夢みたいだった。
でも。
ここを見ると分かる。
最初から豊かだった訳じゃない。
最初から強かった訳でもない。
ピーターが土を触る。
「この畑ね」
「昔はほとんど育たなかったんだ」
「食べ物も足りなくて」
「病気も多くて」
「大人も余裕なくて」
「怒鳴る人ばかりだった」
少女が震える。
知っている景色だった。
自分の村と同じだった。
貧困。
飢え。
暴力。
それしかない場所。
ピーターは少女を見る。
「でも変わった」
「少しずつ」
「学校ができて」
「病院ができて」
「食べ物が増えて」
「働ける場所が増えて」
「教えてくれる人ができて」
「そしたら、人が変わった」
少女は黙っている。
ピーターは続けた。
「特別な人が増えたんじゃない」
「環境が変わったんだ」
その言葉は重かった。
少女は古い村を見る。
そして今の都市を思い出す。
暖かいスープ。
清潔な毛布。
怒鳴られない食堂。
優しい治療院。
夜中に殴られない部屋。
全部。
環境だった。
少女の目から涙が落ちた。
静かな涙。
大声では泣かない。
ただ止まらない。
ピーターは何も急かさない。
隣に座るだけ。
少女が震える声で言った。
「……わたし」
「悪い子じゃない?」
その言葉に。
マイクが顔をしかめた。
ピーターは即答した。
「違う」
少女は泣く。
「いっぱい怒られた」
「役立たずって」
「売られたのも、わたしが弱いからって」
ピーターは首を振る。
「違う」
「環境が悪かったんだ」
「君じゃない」
少女の涙が止まらない。
ずっと言われ続けた。
弱い。
価値がない。
邪魔。
売られて当然。
そういう言葉を。
子供の頃から浴び続けた。
だから自分を責める。
環境が壊れているのに。
自分が悪いと思い込む。
ピーターは優しく言う。
「僕も昔、自分がダメだと思ってた」
「失敗ばかりで」
「弱くて」
「泣いてばかりだったから」
少女が少しだけ顔を上げる。
ピーターは笑った。
「でも違った」
「教えてもらえなかっただけだった」
「環境が無かっただけだった」
風が吹く。
古い村が静かに揺れる。
少女は泣きながら言った。
「……わたしも」
「変われる?」
ピーターは迷わなかった。
「変われるよ」
「絶対に」
その言葉に嘘はなかった。
ピーター自身が証明だった。
泣き虫だった少年。
自信の無かった子供。
それが今では。
教師。
治癒師。
孤児達の支柱。
環境が人を育てた。
だから。
この少女も変われる。
帰り道。
少女は初めてピーターの服を少し掴んでいた。
小さな手。
離れないように。
夜。
都市の灯りが見える。
暖かい光。
少女はそれを見て小さく呟いた。
「……帰る場所みたい」
ピーターは笑う。
「うん」
「帰る場所だよ」
都市の門が開く。
そこには。
暖かい匂い。
笑い声。
人の声。
生きている音があった。
もう。
檻の音は聞こえなかった。




