34
刀を持つ手が震える。
けれど、思っているだけじゃ何も始まらない。終わる事はあっても、始まる事は無い。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
俺は大声で哭いた。泣いた。全身を黒い液体が巡る偽物だが、それでも、視界がぼやける気がした。
そうして俺は、俺は――刀を、振り下ろした。
辺りに大量の退色血《スミゾメ》が飛び散る。
致命傷と言えるだけの深い傷を、樒に、百合につけてしまったのだ。
けれど後悔する暇も、悲しむ暇も今は無い。俺は刀を捨てて《百合》の首筋に噛みついた。
丁度吸血鬼のようにも見えたかもしれない。
ぼやける視界の中で、偽物の皮膚の感触が、俺の物ではない退色血《スミゾメ》の味が、口の中に広がっていく。
「あぁ、そうかー。蓮夜の勝ちかー」
俺から樒の、《百合》の顔は見えない。
けれど、声はどこか楽しそうに聞こえた。
「うん。でも幕引きにはすっごい良いかも」
顔は見えないし、俺の視界は相変わらずぼやけている。けれど何故か、今樒《百合》は笑っている気がした。
「だって、こんなにたくさんの人に見られながら消えるなんて、おあつらえ向きだ」
樒《百合》は抵抗する気は無いようで、腕をだらりと下に垂らす。
「何ていう高揚感」
そうか、今、高揚しているのか。もしかしたら俺もそうなのかもしれない。
感情のベクトルは違えど、同じとも言える気もする。
「大好きだよ。そう、僕は皆好きなんだ」
最初からずっと言っていた。本当に好きだったのだ。
「あー、とても楽しかった。もっと遊びたかった」
これはきっと、百合だった時からの気持ちだ。
ごめん、二回も殺してしまって。特に樒《百合》には、酷い事をしっぱなしだった。
「でも良いんだ。消えた後の世界も、楽しみにしているよ。消えた後の場所は、消えた奴しか知りえない。たまらないね」
口の中に入り込む退色血《スミゾメ》の量が増えた気がする。どろりとした、偽物の血液は……咽返るほどの、血の匂いだ。実際は、墨汁のような匂いなのだが、俺には血のように感じた。
「そして僕は蓮夜の一部になる。今までの百合は、蓮夜の中に入るんだ」
誰一人として、樒《百合》の言葉を遮らない。
「たまらないね」
笑い声が掠れている。
「じゃあね、蓮夜。侵蝕者《カキソンジ》の位寄樒は、先に暗闇のその向こうへ行くよ」
樒《百合》がもうすぐ、消えてしまう。
「ずーっと待ってる。君と、本当に一つになれる日を」
俺が、消してしまうのだ。
「あー、楽しかった」
心からの声のような気がして、胸が苦しくなる。
「じゃあ、またね。バイバーイ」
これが、樒《百合》の最後の言葉だった。
俺の目の前から彼女は消えて、元の色に戻った百合《モモ》が、泣き笑いみたいな表情を浮かべていた。
その表情だって、俺が勝手に思っているだけかもしれない。何しろ俺は今、泣いているのだから。
噛みついている存在が液体になり、俺はそれに自分の手を翳した。契約していない侵蝕者《カキソンジ》には靄があるが、今の俺の靄は中に入っているから。
するり、と樒《百合》だった液体は俺の中に消えてしまった。
「蓮夜、頑張った」
モモは俺の方に駆け寄って、抱き着く。そして、頭を撫でてくれた。
「よかった……二人とも、無事で良かった」
センも胸を撫で下ろしているようだ。
「……助かった。ありがとう」
「一応、藤からもお礼を言っておきますよぅ。ありがとうございました」
俺に向かって、掃除屋《シュウセイシャ》二人が頭を下げる。本来ではありえない光景に、思わず笑いそうになった。
もしかしたら笑いそうになったのは、俺の中の樒《百合》だったのかもしれないが。
「では、神に報告をしておく。早ければ明日には、侵蝕者《カキソンジ》の蓮夜という設定で、主人公《ヒロイン》公庄百合の物語のメインキャラになっているだろう」
「藤、残業確定ですよぅ」
能漸が淡々と俺の今後を語ると、藤は小さなため息を吐き出した。
「神様に、伝言頼める?」
「お? ゆりりんからの? 何ですか? ちゃんと伝えておきますよぅ」
俺の頭を撫でたままの百合は、藤の返事を聞いてから大きく息を吸った。
「神様だか何だか知らないけど、完全にキャラクターを、わたし達を掌握する事が出来ると思わないで。だって、人は変わる物だから。神様の手を離れて、一人歩きだってするよ」
今の言葉に、モモに対して覚えていたぼんやりとした印象はない。
「気に入らないからと手を加えられたって、気に入ったように、完全に思いのままに動く事はないんだ。少なくとも、わたしはそう思う。わたし、今回の件も、これまでの件も怒ってる」
はきはきとした、今まで見て来たモモとは違う口調だ。でもこれも、モモの一つの面なのだ。
「わたしの事、ぼんやりした無気力系にしたかったらしいけど、お生憎様。せいぜい悔しがって、今回何が悪かったのか考えて」
ここで言葉を切ると、「おしまい」と小さな声で言った。そうか、モモも怒っていたのか。それから、悲しんだのか……。
「む、嫌味っぽい……。先輩、伝えておいてくださいね!」
「お前が聞いたんだ。お前がやれ」
「むぅ。仕方がないですね」
掃除屋《シュウセイシャ》、グダグダだな。
「今回、藤達役立たずでしたし、ゆりりんには借りもあるので、しっかりと伝えておきます」
「では、また」
二人はそう言い残すと、黒い空間に白いドアを描いて消えて行った。
「蓮夜、帰ろう」
「そうよ。あと、これからもよろしく」
モモは俺の頭に最後の一撫でを食らわせてから離れると、笑う。センは、俺に手を差し出していた。
「うん……うん、また、みんなで……」
最後まで声にはならなかった。
けれど、俺は樒《百合》の作った空間に扉を作り出して……現実へと三人で身体を滑り込ませたのだった。
――きみとのきおく――
「蓮夜、友達っていうのは、悪い事をしていたら止めるんだよ」
「……どうして?」
百合が俺に言い聞かせるように話す。表情は真剣そのものだ。
「悪い事をはっきりと悪いって言えるのも、友達だからこそ、だから」
俺のどんな些細な質問にも、百合は答えてくれた。
「たとえ嫌われたとしても、相手にとって良いと思えることをするんだ」
「そっか……」
俺は小さく頷く。
「じゃあ、俺、百合が悪い事をしたらちゃんと止める」
「うん、お願いね」
百合はにこっと笑った。
たまらなく好きだった百合の笑顔を思い出すと、寂しくなった。




