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第二話

つまり、スパイだ。星子さんが追いかけたこの松井、と言う男は、旧日本陸軍スパイだったのだ。

「物事がみな、見た目通りのものだとは限らない。それは探偵小説の世界ばかりではありませんでしょう?」

でもスパイだなんて。戦時中、大磯ってそんなに危険な場所だったのか?

「何も知らないのね東御。この大磯こそ、日本の戦争の終局が掛かった大舞台だったのよ」

星子さんは銃口を前に平然と微笑むと、話を続けた。

「ついに日本とアメリカの戦端が開かれた昭和十六年、外務省を退いた吉田茂は時の戦争指導内閣の首班、東条英機(とうじょうひでき)の失脚と和平打開に向けて工作を始めたの。提案に同意したのは政界では近衛文麿このえふみまろ鳩山一郎はとやまいちろう、海軍では米内光政(よないみつまさ)などがいたそうよ。

吉田は敗戦濃厚の日本軍をこれ以上、本土決戦の泥沼に追い込まないために、総理大臣経験者の近衛文麿を通じて、天皇陛下へ降伏への方針転換を意見する上奏文を認めていた。これが世に謂う、近衛上奏文(このえじょうそうぶん)と言うものよ。

聖戦完遂に燃える軍部は当然これを激しく警戒、吉田を中心とした反体制派グループを一網打尽にするべく、内偵を進めていた」

陸軍の間では、吉田をはじめとする終戦工作派は『吉田反戦グループ』とされ『ヨハンセングループ』のコード名で呼ばれたと言う。まず、この大磯に住む吉田茂邸には書生に扮した陸軍の密偵が入り込み、手紙を開封したり、盗聴を行ったりしてグループの全貌を掴もうとしたそうだ。

「しかし吉田は、確たる派閥を作っていたわけではなく、捜査は遅々と進まなかった。そんな中、昭和二十年四月、近衛上奏文の一件で吉田はついに逮捕・拘禁されたが間もなく釈放され、終戦前にこの大磯へ戻っていた。軍部の目には相変わらず終戦を口にして憚らない吉田と、全貌を掴めなかったヨハンセングループの存在が、実際以上に大きく、得体の知れないものに見えていたことでしょう。

そうこうするうちに大磯の密偵たちの情報収集の範囲は、この大磯一帯に広がっていた。叔父には在米経験がありましたから、親米派と思われたのでしょう。松井さんはそれで、わたくしの家に乗り込んできた、と言うわけです。ちなみに涼宮家に出入りしていたハナ自身も、別ルートから潜入してきたスパイだった。違いますか?」

「間違っていないよ」

松井は銃を突きつけたまま、顔を歪めた。

「あの子はうちの機関が、満州入植希望者の食い上げ農家から買い上げて、間諜に育てあげたんだ。あんたに言った経歴まで真っ赤な嘘だよ。しかし助かったよ。あんたがお節介にも暗号でやり取りする方法を教えてくれたから、怪しまれずに連絡が取り合えたんだ」

「あなたたちは初めから、独自の暗号でやり取りをしていた。でも、わたしがこの『二銭銅貨』の暗号表を教えたお蔭で、もっと大っぴらに連絡が取れるようになった。いわゆる、いい隠れ蓑だったってわけね」

「…体よく利用したように言うが、自分は、あんたに迷惑をかけるつもりはなかったんだ」

松井は顔を歪めて、苦しげに言い募った。

「暗号だって、あんたが教えてくれたものとは違うものを、ちゃんと使ってたんだ。ハナは色々と優しくしてくれたあんたに少しでも迷惑を掛けたくないと、本当の内容を隠す暗号を作り上げたんだ!」

「いや、待って下さい」

そこで思わず僕は声を上げた。

「なによ。こんなにいいところで。邪魔しないで下さる!?」

怒られた。確かにいいところだった。でも、気になるのは仕方ない。

「ここ、見逃せないんですよ。あのう…つまり星子さんは暗号を解いてここに現れたせいで、松井さんに撃たれたわけですよね。で、ただ、一点だけ確認していいですか」

「だから何ですの!?」

嫌な予感がしたが、僕は言わずにはいられなかった。

「えっと…つまり、こう言うことですか?星子さんは、ついうっかり、本職のスパイが使う暗号を解いちゃって…その、殺されちゃった、と」

「当たり前でしょ!?普通のやり方で解けないんだから、解けるまでやるでしょ!」

僕は呆れた。いや、いいのかそれ。

「まさかあの伝文が解かれる、とは思ってもみなかったよ」

重たいため息をついた松井は苦しげに言う。むしろこっちに同情したかった。だって普通そうだ。ただの探偵小説マニアのお嬢さんが、周到に工作された本職スパイの暗号を解いてしまうなんていい加減プライドが傷つけられたに違いない。

「自分は驚いた。涼宮のお嬢様があっさりとこの場所に来たってことは、今までの伝文の内容が筒抜けだったってことだから。焦ったよ」

さしずめ今みたいな調子で、星子さんは堂々、謎解きをしたのだろう。この松井と言うスパイが焦るはずだ。

「でも、問答無用で撃つことはなかったんじゃ…」

「いいえ、彼が一人合点したのも無理はなかったのです。実はこの暗号が解けることで、この本に隠されている別の伝文も筒抜けになるのですから当然です。終戦の日、あなたは決起の報告書を認めて東京へ向かおうとしていたのでしょう。目的は聖戦完遂(せいせんかんすい)のための軍事決起ですね?」

松井はにべもなく頷いた。

「そ、そんなことがあったんですか?」

きょとんとしている僕に、星子さんはため息をついた。

「何を馬鹿な。当たり前でしょう。今の方は玉音放送の日から、戦争がぴったり終わったと思ってる方ばかりですけど、当然ながらそんなことは全くなかったのですわ」


八月十五日の玉音放送終了後、昭和天皇は日本軍の全軍即時停戦と終戦受け入れに全力を傾けられたと言う。大本営関係者を通じ、関東軍、南方軍、北支方面軍の武装解除を徹底され、司令官の使者に竹田宮、高松宮ら皇族を任命された。

しかし敗戦が決定した当時から徹底抗戦を唱え、武装解除に応じず、戦争を主導した陸軍関係者の間を奔走し、決起を呼びかけた軍人たちもいたのだ。

そもそもだ。終戦の日のあの玉音放送ですら、命がけの危険を経て放送されたのだと言う。


「自分の兄は近衛師団(このえしだん)にいた。八月十四日の決起にも、当然参加していた」

玉音放送は二枚の録音盤に封入された、昭和天皇の肉声である。これは降伏の『聖断』を決して、八月十四日午後十一時三十分真夜中に、宮内省政務室で録音されたものだ。直後、その宮城に決起した近衛歩兵第二連隊が放送を終えた委員を拉致して侵入、偽造の師団命令を発して戦争の継続を呼びかけようとした。

世に、『宮城(きゅうじょう)事件』と言われるクーデター未遂事件である。

「近衛師団は玉音放送のレコードの奪取に失敗し翌日、あっけなく鎮圧された。決起を呼びかけた将校たちはそれでも諦めきれず、ビラを撒いて再起に懸けたが正午、玉音放送は日本国民に対して放送されたんだ」

そして、ついに長かった日本の戦争が終わったのだ、と言う。

「近衛師団が武装のまま入城した十二日には、自分は敗戦を知っていた。そこで兄からの決起の連絡をもらって、自分も大磯の吉田邸で人質を取り、クーデターを起こす手はずだった」

だが決起と同時に失敗の報せが届いた十五日、計画はとん挫し、松井は岐路に立たされたのだ。

「平塚に連絡員として先に足を延ばしたハナが、宮城事件の後、東京の様子を探ってくれるところだった。連絡場所にここを選んだのだが、顔を出したのはハナじゃなく、自分たちが間諜をしていた家のご令嬢だった」

銃を突きつけたまま、松井は一歩踏み出した。

「殺す気はなかったんだ。はじめは威嚇して、その本を取り上げるつもりだった」

しかし銃声に驚いて、星子さんは足を滑らせたのだと言う。ちょうど今、星子さんが立っている辺りに石壁がぽっかりと途切れて藪になっているところがあった。さしずめ星子さんはそこから、落ちたのだ。

「この藪の下はまた、風穴になっていると言う話だった。自分にはもはやどうすることも出来ない。決起の秘密は葬られたが、地元で目立つ存在だったあんたが姿を消すことで自分たちの決起はとん挫する。自分は、途方に暮れた。あんたさえ、あんたさえいなければ、自分たちは大御心の聖断を変えるべく、大義を決行できたのだ」

松井は引き金に指をかけていた。まさか今さら、星子さんを撃つ気じゃないだろうか。

「わっ、わっ、やめろって!」

思わず間に入っていた。たとえ、幽霊かも知れないとは言え、女の子が目の前で撃たれるのを、黙って見ているわけにはいかない。

「と、東御っ、いいの、やめなさい!」

銃口を前に、両手を拡げながら僕はかぶりを振った。度胸があって動かなかったと言うよりは、足がすくんでいた。思えばとっさとは言え、無我夢中で恐ろしい行動に出たものだ。

「志郎さん!」

絹を裂くよう、と形容したくなる女性のけたたましい声が、松井の行動を制止したのは、そのときだった。

「ハナちゃん…」

星子さんが、思わず声を上げた。いつの間にかそこに、薄汚れたモンペ姿の三つ編みの少女が立っていた。あの子が、ハナさんだ。

「おっ、お嬢様っ、お久しぶりです」

ハナさんは小走りに駆けてくると、星子さんの前へ立って深々と頭を下げた。

「あのときは、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」

ハナさんは松井の方へ向き直ると、涙ながらに訴えた。

「志郎さん。もうやめようって、あの時あたし、言ったじゃねえですか。あたし、あの家でどれだけお嬢様にお世話になったか、楽しい思いが出来たか、お国のことなど関係ねえ、あんなに優しくしてもらったの、生まれて初めてだったんです。何がどうなってもあたし、無関係のお嬢様を殺して平気で生きていたくねえって!」

「ハナ…」

その瞬間、何か心のたがが外れたようだ。松井は拳銃を取り落すと、その場にうずくまって頭を抱えた。

「志郎さんも、分かってるんです。たとえお国のためだって思ったってお嬢様を殺したりなんか、したくなかったってこと」

「すまなかった…すまなかった…俺だって、涼宮のお嬢様を、ハナが大切にしていたお嬢様に危害を加えるなんて…まして、撃ち殺す気なんかなかったんだ」

松井は泣き崩れた。彼もまた、星子さんを殺す気などなかったのだ。

「分かっています。二人はそれで、毒を呷ってここで亡くなったのでしょう?そして、撃たれて風穴に墜ちた、わたくしのことを案じて、ずっとここで彷徨(さまよ)ってくれていたのでしょう?」

星子さんの声は、怒りや恨みに満ちてなどいなかった。ただただ、自分のために半世紀以上も彷徨った、二人に対する憐れみに満ちていた。星子さんは表情を綻ばせると、二人に謝った。

「わたくしの方こそ長い間、ごめんなさいね」

「そっ、そんなっ、もったいねえ!」

ハナさんは大きくかぶりを振った。

「わたしたちが悪かったんです。お嬢様、すみません…すみません!」

泣きじゃくって謝るそのハナを星子さんは、黙って抱きしめた。


それから僕は誰もいない図書室に戻って、給湯室のガスコンロに使うチャッカマンをとってこさせられた。

本を燃やすのだと言う。

「いいかしら?」

言うまでもなく、僕は頷いた。これは、寄贈品だ。いつこの学校にたどり着いたのか、それは分からなかったが、開くと『涼宮蔵書』の印が押されていた。

「元々これは、星子さんの家のものだったんだろう?」

むしろ僕に異存はない。

これは松井さんとハナさんを亡霊にしてしまった、いわくつきの本なのだ。そもそもが、この世にもうあるべきものではないのかも知れない。

「ありがとう、東御。世話をかけますわね。あなたに出逢った甲斐があったと言うものですわ。この作業は何しろ、あなたしか出来ませんから」

頼まれて僕は、あの塹壕の中で本を燃やした。はたはたと本はめくれながら、薄暗い廃坑に焔を揺らめかせた。それは、盂蘭盆会(うらぼんえ)の送り火に似たような光景だった。

「これでいい」

松井は目を細めて、遥か昔に描いたテロ計画が灰になるのを見つめていた。

「東御君と言ったね。今年は、あの日本の敗戦から何年目かな」

「えっと…ちょうど七十年ですね」

僕は少し、考えてから答えた。ニュースでやっていた。今年は松井さんたちが経験した、玉音放送のあの日があってからちょうど七十年目の夏なのだ。

「まだ御国(みくに)は御安泰か?」

僕は黙って、頷いた。安泰かと問われれば疑問を差し挟む余地はあるが、僕たちはまだ、松井さんたちのように自分の生き方や運命を国家と戦争に翻弄される立場に立たされるような世情に立たされていない。幸せな立場なのだろう。

「それはいいことだ。いつでも自分たちで、考えることを忘れなければこの国は、間違いはせんだろう。まあ、こんなことをしでかした自分が言うのも、おこがましいがな」

松井さんは声を立てずに笑った。みるみるうちに、七十年越しの機密文書が灰になっていく。

「でも、礼を言うよ。待った甲斐があった。お蔭でやっと、一番大事なものを見失わずに、行くことが出来そうだ」

松井さんは言うと燃える本の方は振り返らず、星子さんに別れを告げたハナさんの肩に手を置いた。

それは言うまでもなく、愛するハナさんのことだ。


「改めて、ご迷惑をおかけ致しました」

二人は星子さんの前で深々と頭を下げると、闇の中へ去って行った。僕と星子さんは二人の影が掻き消えていった塹壕の暗い穴の果てを、いつまでも見つめていた。

「あなたもよく、憶えておくといいですわ」

本が燃え尽きる。その絶えゆく炎に顔を照らされた星子さんは、僕に言った。

「諦めなければ、どんなことでも解決しない物事はないのです。げんに見なさいな。絵空事みたいな探偵小説だってちゃんと、人の役に立ったでしょう?」

そんな星子さんに、僕は何も言い返せなかった。


こうして星子さんは、自分が殺された殺人事件を解決してしまったのだ。

まさに七十年越しの真相、である。いや、こんなすごい体験、小説にも書けない。

「待てよ…」

でもだ。

僕はふと、一つの疑問に行き当った。

「星子さんはあの本を、どこから見つけ出して来たんですか?」

松井志郎が拳銃で、星子さんを撃った時、崖から転落した彼女とともに、機密を託した乱歩全集は永久に喪われたはずだったのだ。しかし星子さんがあの蔵書を、幽霊になってからここに取りに来たと言ったのも分かる通り、問題の本はうちの学校の書庫のどこかに保管されていたのだ。つまり誰かの手によってあの本は、風穴から回収されたことになるんじゃないか?

「言うまでもなくてよ。あの風穴から、持ち出されたに決まっているでしょう。だってあれは、涼宮家のわたくしの蔵書の中から寄贈されたものですもの」

「え、と言うことはあの本を持ち帰ったのは…?」

「わたくしに決まってますでしょう!」

堂々と星子さんは言った。ええええっ!?

「そんなまさか…ひっ、星子さんって…」

生きてたの!?

「何がおかしいのですかっ!」

いや、そんな堂々と言われても。何とだ。松井さんに撃たれて、崖から転落した星子さんは人知れず悲惨な死を迎えたどころか、全然無事で生きていたと言うのだ。

「しかもわたくしが落ちた風穴が偶然、外に繋がっていたのです」

星子さんは自力で家に帰ったのだと言う。いや、良かったんだけど、これ、なんてこった。

「戻ったら、大騒ぎでしたわ」

当然の話だ。突然の駆け落ちで界隈を騒がせたハナさんと松井さんは、星子さんを殺してしまったと思い込み、毒を呷って心中してしまっていたのだ。終戦下、警察も出動しての大騒ぎになっていた。

「わたくし、ありのままを告げましたら叔父に大目玉を喰らわされまして」

当ったり前だ。

由緒ある華族家の令嬢が、スパイの謀略事件に関わったなんておっとこ前な冒険譚、大っぴらに出来るはずがない。

結局涼宮家の力で、松井さんとハナさんが旧陸軍のスパイだったことも含めて事件は、闇に葬られたのだった。星子さんがスパイの暗号を解いてあの塹壕に行ったと言う事実もなかったことにされ、二人は敗戦のショックの末の心中、と言う顛末(てんまつ)にされたのだ。

「じゃ、じゃあ、あの二人は勘違いで…?」

「ええ、だからこそ、きちんと真相を突き止めてあげなくてはならないでしょう。結局わたくしの手元にはあの乱歩の蔵書と、どうしてあのとき、松井さんが銃を手に取ったのか、が残ったのですから。わたくしは言えませんでした。生きているうちは誰にも、本当のことを」

だからわたくしもごめんなさい、なのです。

そう言って星子さんはどこか寂しそうに微笑んだ。

「つい先日です。やっとわたくしも、鬼籍に入ることになりましたの。最期に解決しなくてはいけない事件が、やっと解決できました。あなたがいてくれて、助かりました。わたくし、あの二人にやっと(はなむけ)が出来ましたわね」

星子さんは摘めば折れそうなほど細い首を傾げると、何とも言えない笑みで切れ長の瞳を細めるのだった。


もう正午なのか、割れんばかりのサイレンの音を聴いた。

黙禱なんて、おじさんたちがかけている高校野球の中継でしか、見たことがない。僕も、心からそれをしたのは初めてだ。真夏の空を塗り潰すようなサイレンの音を噛みしめながら、僕は七十年前の夏に、消えていった人たちのことを思った。

「今年も暑くなりそうですわね」

同じように目を閉じていた星子さんがふいに言った。

「時間なんてわたくしたちが何も知らない間に、さっと過ぎていってしまう。東御、誰かに言っておきたいことがあったら、話ができるうちにちゃんと言っておいた方がいいですわよ」

どきっとした。

「ぼ、僕が誰に何を言うって言うんだよ」

「いってみただけですわ。あくまで一般論として」

わざとなのか天然なのか、星子さんはけろりとして言った。一般論。一般論ね、まあいいんだけど。

「ともあれ、ありがとう。とても助かりましたわ」

「う、うん。僕も楽しかったよ」

星子さんは僕に応えなかった。ただ僕のその言葉を噛みしめるように、静かに頷くと、

「さようなら」

唐突に言われた気がして、僕は思わず星子さんに追いすがろうとした。しかし、そんな間もなく、彼女はいなくなった。星子さんはもう、サマードレスのすそを翻すと、図書室の廊下に満ちた夏の光に消えるところだったのだ。僕をもう振り返ることは、一度もなかった。


いつの間にか汗まみれで、爆睡していた。

はっ、と顔を上げると、ノートパソコンがダウンしていた。柱の時計を見ると、あの生徒会室から戻って、五分も経っていない。さっきのサイレンも、何もかも幻だったかのようだ。見ると後ろのカウンターで水ノ江先輩が、山と積まれた新着の蔵書の整理をしているところだった。

「あ、ごめん。気持ちよさそうに寝てたから、疲れてるんだと思って」

動き出した僕を見て、先輩は言った。ああ、あれは夢か。先輩のあれから、何だかすごい体験をしてしまったと思った。当然、星子さんはいない。うう、あれはどう考えても妄想だ。あんな強烈なキャラのお嬢様探偵、僕に思いつくはずがない。

「僕どれくらい、寝てました?」

「ちょっとの間じゃないかな。分からない。わたし、ちょっと出てたから」

その声がなぜか少し冷たいトーンで響いた気がした。

「何か思いついたら教えてね。わたし、いつでも原稿見てあげるから」

そそくさと言う感じで先輩はカウンターを出ると、そのまま書庫の方へ入った。先輩は何事もなかったみたいだ。もしかしたら、さっき生徒会室で見たことも夢だったのか。ううん、夢だったことにしとこうか。

ぱしっ、と肩を叩かれた気がしたのは、そのときだ。

「東御、あなた男の子でしょう?忘れましたの?さっき松井からわたくしを庇ってくれたときは、あんなに男らしかったじゃありませんか?」

「わっ」

「しっかりなさいな」

くすくす、星子さんは笑った。思わず僕は辺りを見回した。星子さんの姿はもちろん、ない。


「ああ、そう言えば東御くん、知ってるかなあ。昨夜、すごく有名な推理作家さんが亡くなったんだってよ」

ふいに先輩の声が降った。それで僕は、はっとして顔を上げた。


「十年前に作家を辞めて、この辺りに住んでたんだって。女の人で、ちょっと前は小学生向けの児童ミステリを沢山書いてたんだ。東御くんも、読んだことある?わたしね、このシリーズ、小学生のとき好きだったんだ」


先輩は言うと、僕の机に書庫からとってきた一冊の本を置いていった。『妖精探偵と霧隠しの森』。著者は涼宮ひかり子とあった。星子さんだ。なんてことだ。

あれはやっぱり、ただの夢なんかじゃなかったんだ。


「先輩、お話があります」

「な、なに急に東御くん…?」

僕は息を吸って立ち上がった。その剣幕にびっくりしたのか、先輩はちょっと後ずさったが、動転してるのはこっちだ。ふられる確定からの告白、なんて重たすぎる。でも、先輩の気持ちを確かめもせずに諦めるのも、癪じゃないか。

「さっき、生徒会室へ行きました。先輩、戻って来ないから心配で見に行ったんです」

と、言うと、水ノ江先輩は、はっとした顔をした。

「…東御くん、そんなところに行ってたの?…あれ、なんでもなかったのに」

「彼氏がいたんでしょう?」

責める口調にならないよう気を付けながら、僕は言った。それから大きく息を吸い込んだ。

「それでも、いいです。だからこれだけ言わせて下さい。好きです。僕は先輩が」

先輩は目を丸くしていた。どんな、痛い奴だと思ったろう。仲のいい先輩と後輩の関係もおじゃんだ。黙ってたら、今まで通りで済んだのに。

「でも、気にしなくていいですよ。その、僕は話が出来ただけで、満足ですから」

僕は先輩を直視できなくって、そのまま目を瞑った。ああ、真夏なのに、僕の夏はここで終わった。見事、玉砕した。これぞ告白テロだ。これ以上何を言ってもフォローになってないの、分かってる。僕はいたたまれず、ついにこの場を去ろうとした。そのときだ。

「待ってよ、東御くん!」

水ノ江先輩の声が、僕の背に突き刺さった。さっきの僕と同じくらいの勢いだ。僕は、ぎょっとして立ち止まるしかなかった。

「て言うかさ、なんなの…今の!」

水ノ江先輩は、怒っていた。声に怒りが籠もっていた。あのおとなしい先輩があんな感情が高ぶった声を出すの、初めて聞いた。

「まだ、わたしの答え、聞いてないでしょう?どうして自分だけ満足して行っちゃうのよ!?」

「い、いや」

答えは分かってるから。だって生徒会室行ったら彼氏とキスしてたじゃん…

「分かってない。分かってないでしょ、東御くん」

不貞腐れた顔の先輩は僕のところへ来ると、どん、と僕の肩を小突いた。

「毎日会える方法、やっと見っけたのに」

ちょっと涙目だった。ほっぺを膨らませて子供っぽく怒ってる、そんな水ノ江先輩の顔を僕は初めて見た。

「だから今日、別れたのに。最後、しつこかったんだから。て言うか、見てたんなら助けてよ!東御くんが入って来てくれてたら、もっと早く話がついてたんだから!」

と、水ノ江先輩はむしろ僕を責めるのだ。

ええっ!?そんなあ!?予期しない展開に僕は、戸惑うばかりだった。


そんなわけで、僕は水ノ江先輩と二人で夏、まだ図書室で小説を書いている。現金なもので途端にやる気が出た。先輩もテンション上げてくれて、みるみるラストが見えてきそうだ。

たぶん、これが星子さんの恩返しだったんだと思う。

別に、ふられたっていい。一か八か、ちゃんと真相を確かめてみる、ただそれだけの勇気を持てば未来は変わる。

大事なのはいつも自分で考え、判断して、物事を決めることなのだ。取り返しのつかない後悔を抱えて生きていかなくていいように。それが七十年目の終戦で、この世を去った星子さんから学んだ、僕にとって唯一、必要なことだったのかも知れない。


正午の放送が終わって、民放をかけてみるとそっちは『夏の恋ウタ』特集だった。リクエストは誰もが知ってるあのバンドの名曲だった。

あの青い夏空いっぱいに沸き立つ入道雲を思わせるイントロ、海水浴場の遠いサイレンに似たエレキギターのリフ。澄んだ声で重ねられたコーラス。まだ若いボーカルが不純物のない声で歌う真夏の突然なスコールを思わせる、コーラスのフレーズとメロディ。一度聴いたら絶対忘れられないフレーズばかりだ。

「ちゃんと聴きたいから」

下手くそなメロディを口ずさもうとした僕の口を、先輩が手で塞いだ。この曲は、先輩のお父さんが好きだった曲なのだと言う。だって二十年以上、前の曲だ。そういえばそんなに古いのだ。しかし驚きだ。それを僕たちがちゃんと知っていて、普通に歌えるのだから。しかも彼らは今もテレビに出ていて、僕たちの世代の新しい曲を書き、大きなステージでプレイしている。

実はこれって、途方もなく、いいことなんじゃないかと思った。

と、先輩がサビを歌った。いや、半音上がってないし。僕より下手じゃないか。僕も合わせて歌おうとしたら、やっぱり口を手で塞がれた。先輩はきゃっきゃっ言いながら笑ってる。歌どころじゃない。そこからは不可解な笑いの神様が降りてきて、二人で揉み合いながら、いつまでもふざけあっていた。僕はふと窓の外を見た。

分厚いサッシの向こうの水平線、真っ青な空に当たり前のようにわだかまる入道雲。僕たちの無邪気な世界は、たっぷりと光をまとって、いつもと変わらずそこにあった。


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