誘拐事件 11
それからしばらくして、搬入口のシャッターが人一人分の高さまで上がり、そこから『お姉様』と呼ばれる人物が倉庫内に入ってきた。
何かを引きずりながら、ゆっくりと歩いてくる。彼女は白いパーカーを着ており、顔はそのフードのせいではっきりとは見えない。白いパーカー、ファスナーがあちこちに付いている黒い革のパンツ、そしてブーツ。腰から垂れ下がっているいくつものチェーンが歩くたびにぶつかり合い、軽い金属音を鳴らす。
『お姉様』と呼ばれている割には少年のような恰好をしている。ベニさんの様な前時代的な暴走族を思わせる扮装とは違い、今風の不良といった感じである。
しかし、その恰好よりも目立っているのは彼女が引きずっている物である。手にしているチェーンの先に括り付けられているのは物ではなく人だった。
「お姉様、ご苦労様っす」
白パーカーが僕らの目の前までやってくると、ベニさんが頭を下げる。白パーカーが右手を軽く上げると、ベニさんは頭を上げて、数歩後ろに下がる。
チェーンに結ばれている人はボロボロの男だった。朝見刑事ほどではないとはいえ、それなりに大きな体をしているこの男は、さっきまで殴られていたかのように服が所々破けており、赤く腫れあがった顔はボコボコで、最早元の顔がどんな風だったのか想像もできない。
白パーカーの人はチェーンから手を離し、軽く男を蹴り飛ばしてから、僕の頭の上までやって来て見下ろしてくる。
「初めまして。或江米太君」
僕は初対面の挨拶をされながらブーツで思いっきり腹を蹴られる。痛い。
「……初対面の相手に蹴りを入れるなんて非常識ですね」
「非常識? そんなの今更だろ」
そう言う彼女の声は低くかすれていて、男性と言われても違和感のないものだったけれど、『お姉様』なのだから女性で間違いはないのだろう。それに人を引きずって登場している時点で非常識だったので彼女の言うことは間違ってはいない。
「神森の助手なんだよな」
「そうですけど、それが何か?」
「どうして助手なんかしてる?」
「姉に頼まれたので」
「……そういう意味じゃないんだけどな」
「あなたは誰ですか?」
「俺か? 俺は神森の敵だ」
僕をからかうように、フードの奥にわずかに見える口から舌を出す。舌の中央部に付けられたシルバーのピアスが怪しげに光っている。
「黒の探偵時代のってことですか?」
「いや、そのずっと前からだ」
そう言って彼女はパーカーのポケットから煙草を取り出し、銀色のライターで火を付ける。吐き出される煙は朝見刑事が吐き出すよりも白く、濃く濁っている。
神森さんが黒の探偵を名乗る以前からということは、あおい園という施設で暮らしていたときからということなのだろうか? 敵を名乗っているので、決して良い関係とは言えないのだろうけれど、神森さんの幼馴染みということかもしれない。
「その人は誰ですか?」
「お前を拉致した張本人だ」
煙草を口にくわえたまま答えた彼女は、床に転がっているボロボロの男の髪を掴み上げた。男はそれなりに大柄なのにも関わらす、片手で簡単に持ち上げている。僕の姉は格闘家なのでそんなことは当たり前にできるのだけれど、この人も相当筋力があるようだ。
「部下とはいえ、計画にないことを勝手にするような奴は、仕置きを受けて当然だろ?」
空いている方の手で煙草を口から外し、男の顔の前でちらつかせる。
「う、瓜丘さん、俺はあんたのためにやっただけだ。助手を人質にすれば神森とかいう奴だって――」
「それが余計なんだよ」
白パーカーの不良、瓜丘さんは淡々と男の舌に煙草を押し付けた。
「がああああああああ」
断末魔と共に男は気絶して床に再び転がった。
「ベニ、始末しとけ」
「はいっす」
赤い髪を揺らしながら、ベニさんはいとも簡単に気絶した男を持ち上げ、お姫様抱っこで僕らの後ろへ歩いて行く。瓜丘さん同様、ベニさんも相当鍛えている。身のこなしから察するに彼女は瓜丘さん以上だ。神森さんの助手が格闘家の僕の姉であった様に、ベニさんは瓜丘さんの部下の中でも戦闘担当の人なのかもしれない。
そして僕らの後ろへ行ったということは、この倉庫には裏口があるのだろう。
「神森が姿を消してから、もう一年以上経つからな、部下も痺れを切らしてるんだ」
瓜丘さんは再びシルバーのライターを取り出し、カチカチと鳴らす。
「僕がどうなろうと、あの人は動きませんよ」
「知ってるよ」
「つまり、今のこの状況はあなたの思惑に反するわけですよね?」
「ああ、そうだ」
「なら、帰ってもいいですか?」
「は? 帰すわけないだろ」
そう言って瓜丘さんはライターをポケットに戻し、僕の頭を力いっぱい踏みつける。
「神森に親しい人間の名前くらい吐いて行けよ」
「……教えるとでも?」
「教えたら帰れるとしても?」
「それでも……言いません」
「……ぷっ、はははははははは!」
大笑いだった。僕の顔から足を離し、お腹を抱えて笑っている。
何がそんなに面白いのだろうか。
「お前も言われたんだろ? 大好きとか愛してるとか、そういう甘い言葉を囁かれて、助手をやってんだろ? 本心で言っているわけがないのに。……見上げた忠誠心だな」
「……」
「まあ、いい。計画になかった事態とはいえ、お前はあの女の助手だ」
彼女は横たわる僕の上に馬乗りになり、僕に顔を近づけてくる。
フードの奥の鋭い眼光には色素がなかった。灰色というか銀色の瞳だった。神森さんで一度騙されてしまっているので今度は騙されない。この人は日本人だし、色素の無い瞳もカラーコンタクトだ。
「遅かれ早かれ、お前は俺に殺される」
今まで以上に低い声で放たれた言葉はあまりにも浮世離れしていて、真実味に欠けていた。けれど、殺意に満ちた声だった。
「どうして僕が神森さんの助手ってだけで、あなたに殺されなきゃいけないんですか」
僕が神森さんの助手だから殺す? 元探偵の今の助手を拉致監禁して殺す? まるで刑事ドラマかミステリー小説、いやサスペンスだ。意味がわからない。
「気持ち悪いんだよ。喜びも悲しみも、愛情も嫉妬も、人の感情そのものがわからないくせに、誰彼構わず愛を口にするあいつが気持ち悪いんだ。それに騙されて恋人だのお友達だのやってる人間もな。……だからだよ」
瓜丘さんは手を自分の腰の後ろに持っていき、何かを引き抜く動作をする。ゆっくりと僕の目の前に現れたのは細長いナイフだった。腰の後ろに鞘ごと装着していたらしい。
彼女はその銀色に輝く刃を何の躊躇もなく、僕の太ももに突き刺す。
「うっ……」
「痛いよな……。すごく……痛いよな」
少し笑いながら、傷口を広げるようにナイフをグリグリと動かす瓜丘さん。
「けど、あの女は何も思わない。お前がどんな目に合おうが何も感じない。散々愛の言葉を吐く癖に、助手のお前が殺されても何も思わない。助けにも来ない」
そう言って彼女は一度ナイフを引き抜き、再び僕の右足を強く刺した。
「気持ち悪いだろ? 吐きそうだろ? 狂ってるだろ? ……感情がわからない人間? そんなもんはもう人間じゃない。ただの化け物だ」




