恋桜事件 14
僕や神森さんが住む会瀬川の西側には住宅地が広がっている。何とか丘だとか何とか台だとか色々な名前がついている住宅街がいくつも隣り合って広がっている。そのうちの一つである碌々台、そこにあるお屋敷の前に僕はいた。
この碌々台は所謂、高級住宅台で、他の住宅地とは一線を画している。電線などのケーブル類は全て地中に埋めてあるらしく、電柱もなく、道にあるのは洒落た外灯だけである。一つ一つの敷地が圧倒的に大きく、高い塀で囲われた西洋のお城の様なお屋敷がずらっと並んでいる。僕の目の前にある柏木家もその一つで、大きな門の先に見える建物は、僕の様な庶民が一生住むことがないような西洋建築のお屋敷だ。
そんなお屋敷の、どっしりとした大きな門の前に桜さんがいた。
黒い中折れ帽と長い髪がトレードマークの彼女は後ろ姿でもすぐにわかる。
「私のネックレスを返して!」
門に付いているインターホンに向かって桜さんは話しかけていた。
「知らないって言っているでしょ!」
柏木先輩と思われる声が聞こえると、インターホンが切れる音がする。
交渉が決裂したようなので、僕は桜さんに後ろから話しかける。
「柏木先輩が言っていることは間違っていませんよ」
後ろから急に声をかけられ驚いたのか、桜さんは物凄い速度で振り返り、僕の顔を見ると首を傾げた。頭の中にハテナマークが浮かんでいるときの表情だ。
「或江君? どういうことですか?」
「『遠くへ行っちゃった人』は柏木先輩のことではありません」
僕がそう言い切ると、一緒に来たもう一人の人物が桜さんの前に現れる。
「よう、久しぶり」
その人物は長身で、短髪、ワタさんよりはイケメンではないけれど、爽やかな顔つきをしている。そして、バスケットボール部のユニフォームを着ている。
「園田先輩、お久しぶりです」
桜さんはユニフォーム姿の彼に、深々と頭を下げた。
そう、僕と一緒にここまで来た人物、それは柏木先輩の彼氏、バスケットボール部のエース、園田先輩である。
食堂を出た後、僕はマリーさんがすれ違ったと言う園田先輩に会うために教室に戻った。そこには数名の女子生徒しか残っておらず、園田先輩はいなかった。
女子生徒に尋ねると、園田先輩は柏木先輩と桜さんを追って教室を出て行ったそうだ。廊下を走り、なんとか校門前で園田先輩に追いつくことができた僕は、彼に【噂二】の真相を訪ねた。始めは警戒していた先輩も、僕が現状を話すと、すんなりと話してくれた。
寝取られたというのは柏木先輩の勘違いで、そんな事実はない。と、否定してくれた。
これから柏木先輩の家に向かうと言う先輩に僕は同行し、道中で詳しい話をすることになった。僕はここ二日間の桜さんの様子を、先輩は春休み前日に起きたことについて、お互いに情報を交換したのである。
春休み前日、園田先輩は柏木先輩のことを相談するために、桜さんを自宅に招いた。その日は酷い土砂降りで、雨に濡れた桜さんにシャワーを貸したそうだ。そこに、柏木先輩がやってきた。自分以外の来客に気付いた柏木先輩は園田先輩を問い詰め、いたるところを探し、お風呂場も開けた。その後はあっという間だったらしい。泣きながら家を出ていく柏木先輩を、園田先輩はどうすることもできなかった。桜さんは慌てて着替え、雨の中柏木先輩を追いかけて行ったそうだ。
自分の彼氏を桜さんに寝取られたと勘違いをした柏木先輩に事実を説明する間もなく、園田先輩はバスケ部の強化合宿に行くこととなった。
部の方針で合宿中及び大会中はケータイが使用できず、外部との連絡が取れなかった。その方針が良かったのか悪かったのかはわからないけれど、男子バスケットボール部は県大会で準優勝し、祝勝試合を何試合かして、始業式前日に、帰ってきたのである。
帰ってきて柏木先輩に連絡を取ろうとしたのだけれど、ケータイが解約されていて、学校でも一言も口を聞いてもらえず、自宅を訪れても面会を断られていたという。
そして自分が寝取られたという噂のせいで桜さんに不用意に近づくことができないどころか、彼女は学校を休んでいたので連絡が取れず、ネックレスを返すこともできなかったそうだ。
「あの日、俺の家に忘れて行ったろ」
そう言って園田先輩はポケットからネックレスを取り出し、桜さんに差し出す。
そのネックレスは桜さんが探していた金色のプレートのやつだ。
「あの後すぐに遠征だったから返すのおそくなっちまった。ごめんな」
受け取った桜さんはネックレスを胸のあたりで握りしめ、涙を流す。
「ありがとうございます」
大切な物がもち主の元に戻ってきた瞬間である。
ネックレスは春休み前日の雨の日に慌てて出て行った桜さんが園田先輩の家に忘れていったそうだ。だから園田先輩がネックレスを持っていた。
そのことについて、僕はなんとなく予想がついていた。
『【出来事二】男子バスケットボール部、県大会で準優勝。』と、いう項目を見たときだ。
神森さんが言っていた『遠くへ行っちゃった人』というのは文字通り、遠くへ遠征に行っていた園田先輩の事だ。それは詳しい事情を知らなかった僕でも簡単にわかった。
では、どうして桜さんは『遠くへ行っちゃった人』が柏木先輩だと思っていたのか?
「そのネックレスは、柏木先輩との友情の証だったんですよね」
僕はネックレスを握りしめたまま涙する桜さんに言う。彼女はゆっくりと首を縦に振る。
柏木先輩と桜さんは同じ小学校、同じ中学校出身で、いわゆる幼馴染みというやつだそうだ。昔から仲が良く、柏木先輩が園田先輩と付き合うようになってからも仲が良かった。
そんな桜さんを園田先輩は良き相談相手として慕っていた。
「昔、二人で交換し合った……大切な物なんです」
桜さんの大切な人、誰にも渡したくないほどに大切な人とは、柏木先輩の事だったのだ。
桜さんは涙を拭い、ネックレスを見つめる。
「ずっと仲が良かったんです。園田先輩と付き合いだしてからもそれは変わっていないと思っていました。……春休みの前の日にあんなことがあって、その後すぐ私は彼女に事情を説明するために学校で彼女に会いました。でもそこにはなぜか彼女のクラスメートたちもいて、散々罵声を浴びさせられました。私の言い分は一切聞いてもらえませんでした。そして彼女は自分のネックレスをゴミ箱に捨てたんです。今後一切自分には近づくなとまで言われました……私は驚きました。こんなことするような人じゃなかったのに、嘘みたいだ、って」
桜さんの話を聞きながら僕は、昨日のデートで桜さんが連れて行ってくれた紅茶専門店、そこで飲んだ青いお茶を思い出していた。ブルーハワイに色も名前も良く似たあのお茶は、レモン汁をたらすと、澄んだ青い色から綺麗な桜色に染まる。それを見つめ、桜さんが言っていたことを思い出していた。
『まるで恋をした女の子みたいだなって。――恋をすると、人は変わるんですね。変わって、遠くへ行っちゃうんです』
『遠くへ行っちゃった人』、それは桜さんにとっては物理的な距離ではなくて、心の距離だった。だから桜さんは柏木先輩がネックレスを持っていると思ったのだ。
「けど、嘘じゃなかった。本当に彼女は変わってしまった。ネックレスが戻ってきても、あの頃の彼女はもう……戻ってこない」
そう言って桜さんは再び泣き出す。次から次へと流れる涙は地面に落ち、たくさんのシミを作っていく。
そんな彼女を見て、園田先輩は桜さんに頭を下げる。
「悪かった。あの日、何が何でもあいつを追いかけて、説明するべきだった。辛い思いをさせちまって、ごめん」
「せ、先輩は……悪くないです。私が、私が……悪いんです」
「いや、俺が悪いんだ。一緒に説明しに行こう。あいつが納得するまで何度でも謝ろう……いや、違うな、……あいつを説得するのに協力してくれ」
何度も頭を下げる園田先輩に、桜さんはさんは小さな声で「はい」と言った。
僕には、わからない。
桜さんがどれほど柏木先輩のことを大切に思っていて、その先輩が恋をして嫉妬することで遠くへ行ってしまったと感じた桜さんの想いも、柏木先輩が園田先輩を愛するが故に桜さんに嫉妬し、仕打ちとしてとった行動も、自分が入ることによって崩れ去った友情関係を、ただ見ることしかできなかった園田先輩の気持ちも、わからない。
分らず屋の僕は、いつもわからない。




