4. 懐かしい香り
◇◆◇
柔らかな朝の光が、カーテンの隙間から差し込む。
眠っている間ずっと、どこか懐かしい香りに包まれていた気がする。そのせいだろうか、昔の夢を見たような——。
けれど夢は朝の光と入れ替わるように消えてゆき、もはやはっきりと思い出すことはできなかった。
セレーナは、まつげを震わせながら、ぼんやりと目を開ける。
まず飛び込んできたのは、夜空のように深い青。だんだん焦点が合ってくれば、目の前で穏やかに寝息を立てている、無防備な美男子の寝顔が目に入る。
「…………ひぇっ!?」
セレーナは素っ頓狂な声を上げ、がばりと身を起こした。
布団がずり落ちて、セレーナは思わず顔を両手で覆う。指をそーっと開いてその隙間から覗いてみれば、しなやかな筋肉のついた、裸の上半身が目に入った。
「……ど、ど、どうして、同じベッドに……!」
「んん……もう朝か」
上半身裸でセレーナの隣に寝ていたシリルが、煩わしそうに眉をしかめる。セレーナの騒ぎ声で目覚めたらしい。
「ふあ……おはよ」
「おはよう……じゃなくて! なんで同じベッドにいるの!? あなた、どうして上着てないのよ!?」
「なんだよ、朝からうるさいな」
セレーナは大混乱である。
シリルはゆっくりと身体を起こすと、あくびを噛み殺して伸びをした。服を着ていた時は細身に見えたが、鍛え上げられた身体つきだ。
セレーナは掛け布団を持ったまま慌ててベッドから降り、シリルから距離を取った。
「は、破廉恥だわ……!」
「ああ? 何がだよ。ベッド一つしかねえし、仕方ねえだろうが」
「で、でも、だって、だって」
それにしたって、ソファで寝ることだってできたはずだ。シリルは背が高いから、ソファだと脚がはみ出てしまうかもしれないが、知ったことではない。
「それと、俺は寝衣は着ない派だ」
「そ、それでも、せめてわたしと一緒の時は着てよ……!」
「ぷっ……過剰に反応しすぎ。うける」
「はぁ!?」
思わずセレーナは、目元まで持ち上げていた掛け布団を胸元まで下ろし、シリルの方を睨みつけた。
シリルは紫紺色の美しい瞳をまっすぐにこちらへ向けて、笑っている。その顔がなんとも楽しげで、セレーナは少し毒気を抜かれてしまった。
「何がそんなに楽しいのよ」
「いや? 男慣れしてなさそうだなって」
「してる訳ないじゃない! これでもわたし、伯爵令嬢で立派な淑女なのよ!」
「ぷはっ。悪い悪い」
シリルはさらに楽しそうに口元を緩めた。目尻がわずかに下がっていて、思いのほか優しい笑顔だった。
彼はひとしきり笑うと、ベッドから降り、生成りのシャツを羽織った。昨日着ていたタキシードではなく、襟のないゆったりとしたシャツだ。
下は昨日既に履き替えていたらしい。タキシード用のトラウザーズではなく、艶のない革のパンツを着用している。
「ところで、あんたは着替えないのか?」
「えっ?」
「そこに置いてあるだろ、新しい服」
シリルの視線を追って近くのソファに目を向けると、綺麗に畳まれた新品の服が置かれていた。
ベージュのワンピースと深緑色のパンツ。床には革のブーツだ。シリルが着ているものと同じような、旅人用の軽装である。
セレーナは、目を丸くした。
「えっと……これ……あなたが?」
——新品の服。シリルが、セレーナのためにわざわざ用意してくれた物。
こんな状況にもかかわらず、セレーナの心は、少し浮き足だってしまった。
ウエディングドレスを除いたら、新しい服に自分が最初に袖を通すだなんて、ここ何年もなかったことだ。
「んん? ああ、もしかして一人じゃ着られないのか? 手伝ってやろうか、手取り足取り」
「っ、結構ですっ! 着替えぐらい一人でできるわよ!」
「ははは、冗談だって。わかってるよ」
セレーナは布団をベッドに戻すと、シリルが用意してくれた服を大切に持ち上げ、そっと抱きしめる。
「……ありがとう」
「ん」
小さな声でお礼を伝えると、シリルは、殊更優しげに微笑んだ。
美しく弧を描く口元と、わずかに下がった目尻を見て、セレーナは不思議と懐かしさを感じた。
「じゃあ俺は外出てくるから、その間に着替えとけよ」
懐かしさの正体を掴もうと、セレーナが記憶を手繰り寄せているうちに、シリルはウィッグと眼鏡も装着し終えたようだ。彼はそのまま、部屋の出入り口まで大股で歩いていく。
「あ、そうだ。この隙に逃げようとか考えんなよ。無駄だから」
「無駄かどうかなんて——」
「いや、無駄だね。この俺が、せっかく盗み出した大事な……、商品を、逃がすわけないだろ?」
ドアノブに手をかけたまま振り返ったシリルは、言葉をわずかに詰まらせながら、先程とは打って変わって鋭い視線でセレーナを睨み据えた。
「商、品」
シリルの告げたその一言に、ぼんやりと熱を持っていたセレーナの頭の奥が、すうっと冷えていく。
シリルは、はっとしたように目を見開く。そうして、彼は眉尻を下げた。セレーナに酷いことを言ったのはシリルなのに、彼はまるで自分が傷ついているような表情をする。
「……すぐに戻る。頼むから、いい子で待ってろよ」
何故か瞳を揺らしながら懇願するシリルに、セレーナは黙って頷き返した。
どちらにせよ、セレーナはアボット伯爵家に戻る気もないし、今後の算段もつけられない。今はシリルに従うしかないのだ。
セレーナがしおらしく頷くのを見て、シリルは少しだけ口角を上げると、そのまま部屋を出て行った。
どことなく苦しそうな作り笑顔に、セレーナは胸がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。




