2. 誘拐犯は美青年
セレーナ・アボット伯爵令嬢は、今日、デイヴィス子爵家の嫡男のもとに嫁ぐはずだった。
身にまとっているのは、高価なレースやビジューのあまり使われていない、シンプルなウェディングドレス。ヴェールもつけていたのだが、広い空のどこかに飛ばされてしまったらしい。
エメラルドの瞳は、あまりの恐怖に潤みっぱなし。
腰まで届くストロベリーブロンドの髪は、結婚式のために丁寧に結われていたのだが、いまや強風ですっかり乱れてしまった。
セレーナは細く小柄で、貴族令嬢としては髪も肌も少し荒れている。これまで手入れを怠っていたためだ。
それでも、化粧を施された薔薇色の頬と、ぷっくりとした唇、大きな瞳は、普段よりも華やかに見える。ただ、十八歳という年頃の令嬢にしては童顔なのが悩みだ。
デイヴィス子爵家との婚姻は、金策のためだった。
セレーナの生家であるアボット伯爵家は、近年、財政難に陥っていた。爵位こそ下だが裕福なデイヴィス子爵家に娘を嫁がせることで、なんとかその生活をつなぎ止めようとしていたのだ。
セレーナがこの婚姻を知ったときには、家族は莫大な結婚支度金をすでに受け取っていた。セレーナの気持ちを確認されることもなく勝手に決まり、本人を置き去りにしたまま勝手に話を進められて、気がつけばもう結婚式当日。
夫になるはずだった人の顔も、教会の礼拝堂で、結婚式が始まってからヴェール越しに一瞬確認した程度である。
結婚式は、セレーナが酷い場所から多少マシかもしれない場所に生活拠点をうつすだけの儀式、そのはずだった。
デイヴィス子爵家の嫡男は、女好きで浮名を流し、隠し子もいるという噂の男だった。だが、とうに全てを諦めていたセレーナには正直どうでも良い。
愛などなくても、残飯ではない食事と、隙間風の吹かない寝床があれば、御の字だと思っていた。
だが、今のこの状況はどうしたことか。
たくましい男の腕に横抱きにされ、セレーナは広い空を滑るように飛んでいた。魔法の廃れたこの世界ではもう、空を飛ぶ手段など存在し得ない、そのはずなのに。
新郎でもないのに真っ白なタキシードを着て、怪しい仮面をつけた、見知らぬ男。新婦になるはずだったセレーナを軽々と抱き上げ、白い雲と鳥に紛れて、青空を渡っていく。
タキシードの背中に取り付けられているらしい白い翼からは、時折、フォン、フォン、という駆動音が聞こえてくる。
「あああ、あの」
「なんだ」
男の声は、恐怖と混乱で震えるセレーナとは異なり、冷静で落ち着いた声色だった。
「あ、あの、あなたは、どなた?」
「怪盗シリル。あんたを盗みに来た」
「どうして? なんでわたしを?」
セレーナはシリルに問いかけるが、答えは返ってこない。仮面の下の表情をうかがい知ることもできなかった。
「……少し加速する。黙ってろ、舌を噛むぞ」
「は……え、ひょわあああっ!?」
ブォン! と大きな音と共に、シリルの翼から炎が吹き上がる。
「なななななあがっ」
「ほら、舌噛んだ。だから言ったのに」
「いひゃいぃぃぃ」
呆れたようにため息をつくシリルだが、セレーナはそれどころではない。眼下の景色がめまぐるしく変わっていくさまは、空を飛ぶことに慣れていないセレーナには、ただ恐怖でしかなかった。
セレーナは反射的に、シリルの体にぎゅっと掴まる。彼の胸からは、とくとくと速い心音が聞こえてきた。
「そう、しっかり掴まってろよ。怖いなら目ぇ閉じろ」
「う、うん」
抱きついているシリルからは、どこか懐かしいような香りがする。セレーナは素直に頷き、目をつぶった。
「いい子だ」
シリルが仮面の奥でくすりと笑う気配がする。耳をつけている体から直接響いてくるような低い声に、セレーナはぞくりとした。
そうなると今度は恥ずかしさが恐怖に勝ってきて、セレーナはシリルの胸に、赤く染まった顔をさらに押しつける。シリルは、再び仮面の奥で笑いをこぼした。
シリルがひと気のない森に着陸したときには、セレーナはあまりの恐怖と疲労によって、すっかりふらふらになっていた。
この森に寄ることは事前に決めていたのだろう、シリルは古い木のうろから鞄を取り出すと、翼を畳んで格納し、鞄の代わりに木のうろに仕舞った。
どうやらシリルの使う奇術は、世間でまことしやかに囁かれていた『魔法』とは少し違うらしい。
魔法は、かつては世界中に広く存在したが、今は廃れて、特別な血族の人間にだけその名残をのこしているという、特別なものだ。
そうしてシリルは、泉の湧き水で喉を潤していたセレーナに、ハンカチを渡してくれた。意外な気遣いに少し面食らったものの、セレーナはありがたく借り受ける。
「少し休憩したら、街に向かって、宿を取ろう。……髪、ぼさぼさだな。結い直してやるから後ろ向け」
「できるの?」
「ガキの頃に覚えた」
いつの間にか怪盗の仮面を外していたシリルは、存外に優しい手つきで、器用にセレーナの髪を結っていく。
水面に映るシリルのダークブルーの髪は、強風にあおられたはずなのに、さらりと首元に流れている。元々の髪質が良いのだろう。
瞳の色は、夜空のような紫紺色だ。端正な顔立ちの美青年だが、目元が鋭いからか、少し冷たい印象を受ける。
だが、今のセレーナには、誘拐犯の顔立ちが良かろうが悪かろうが、正直どうでも良い。髪を結われながら、セレーナはシリルに質問を浴びせかけた。
「ねえ、怪盗シリルと言ったわね。あなたの依頼主は誰なの? 目的は? わたしをどうするつもり?」
「いっぺんに聞かれても答えられねえよ。けど、安心しろ。目的地に到着するまで、あんたのことはきっちり守り抜いてやる」
「目的地に着いたら?」
「……さあな。そこからはあんたの気持ち次第になるが、少なくとも今までの境遇よりは良くなるんじゃねえの?」
誘拐しておいてわたしの気持ち次第とはどういうことだろうかと、セレーナは小首を傾げた。
だが、今までの境遇はあまりに酷いものだったから、それよりは良くなるというのも、あながち間違っていないのかもしれない。
けれど、誘拐なんて手段で強引に自分を連れてきた相手を信じられるほど、セレーナはお人好しでもない。
「そんなの、信じられないわ」
「無理はねえよな。今はまだ言えねえことも多いし……っと、髪、終わったぞ」
シリルが結い上げたセレーナの髪は、彼女が子どもの頃、好んでいた髪型だった。
左右の髪を編み、真ん中でまとめてお団子にする。簡単で手早くできるが、可愛らしい髪型だ。
セレーナは、水面に映る自分の髪型を見て、懐かしい気持ちになった。
「とにかく、一旦街へ向かうぞ。疲れたろ?」
「誰かさんのせいでね」
「言うじゃねえか。まあ、憎まれ口がたたけるなら、もう問題ないな? 日が暮れる前に行くぞ」
シリルは慣れた手つきで茶髪のウィッグをかぶり、黒縁の丸眼鏡をかける。ちょっとした変装なのに随分印象が変わって、セレーナは驚いた。
「では、お姫様。ちょっと失礼しますよっと」
「きゃっ!?」
シリルはそう言って、セレーナを再び抱き上げた。
セレーナが驚きの声を上げると、シリルが喉奥でくっくっと小さく笑うのが聞こえた。
「えっ、待って、また抱っこで行くの!?」
「そんな裾の長いウエディングドレスじゃ、外は歩けねえだろ」
「で、でも重くない?」
「あまり俺を見くびるな。ほら、さっきみたいに掴まれ」
「うう……わかったわよ」
セレーナは気恥ずかしく思いながらも、シリルの首元にしっかりと抱きついた。
シリルがわずかに目尻を下げて、ほろりと優しく微笑むのを見て、セレーナは目をみはる。
しかし、セレーナがまばたきをしてもう一度シリルの顔を見たときには、その表情はすっかり消え失せていた。見間違いだったのかもしれない。
「じゃあ行くか」
「……うん」
――なぜ自分を誘拐したのか、シリルの真意は読めない。しかし、少なくとも彼は、しばらくの間……おそらく依頼主の元へたどり着くまでは、自分に何かするつもりはないだろう。
それがわかると、セレーナの不安はだいぶ和らいで、代わりに疲労感がどっと沸いて出てきた。
森を出ると、すぐに小さな街が見えてきた。ウエディングドレスはそれだけでも重たいはずなのに、シリルは危なげなく歩いていく。
郊外の宿屋で、シリルは部屋を取ってくれた。
セレーナは何とかお風呂だけは入って、用意されていた寝衣に袖を通すと、そのまま倒れ込むように眠りに落ちてしまったのだった。




