残響
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
…電車の走る音が聞こえる。
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
…ぐちゃり。
ーー
「わああああああああああああ!!!!」
「わぁ!びっくりした!!」
都内某所、駅から程遠い寂れたマンションの一室にある、オカルトWEB雑誌「キカイ」編集本部。
「夢…?」
いつものように泊まり込み、荒れ放題のデスクで目覚めた俺は、先ほどまで見ていたであろう夢を思い出そうと、記憶を辿る。
「酒井さん、めちゃくちゃうなされてましたけど、大丈夫すか?」
「ちょっと待って、たぶん美味しい夢だったから」
冷や汗がすごい。シャツもじっとりと張り付いて、不快この上ない。
おそらくゾッとするような、何かいい夢だったに違いないんだが…。
くそ、だめだ…思い出せない。
「お、何すか?いいネタすか?俺にもお裾分けしてくださいよ」
ゴスロリを纏い、顔をパンダにした後輩が、ワクワクした表情で俺に詰め寄る。
「無理。かけらも思い出せんかった」
「えー、ほんとすかー?先輩フィクション書かないんだし、夢ネタ降ってきたら全部俺にくださいよー?」
「やだよ、夢きっかけでも実在したら俺書くし、田中めちゃくちゃ盛るじゃん」
「ちぇー、どけちー」
田中は、詰めた距離を戻し、机に顎をつきながら、調査とは名ばかりのネットサーフィンを再開する。
全部画面の前で完結させようなんて、ほんと今時の若いやつは…。
「ねー、ほんといいネタないすか、酒井さーん。俺、初投稿以降、目玉記事一回も書けてないんで、そろそろまた当てときたいんすよー」
「自力で当てろよ一発屋」
「ひっど」
ぐっと伸びをして首を回し、軽くストレッチする。
机に突っ伏して寝ていたせいで、首も肩もおまけに腰までバキバキになってしまった。
「お、そろそろ真面目に仕事する感じすか?」
「いや、無理。全然寝た気しないからもっかい寝るわ」
べしん。
二度寝を決めようとした俺の脳天に書類の山が降り注ぐ。
「お前ね、一応今就業時間なんだから、上司の前で堂々と寝てんじゃないよ」
「げ。編集長…なんでいるんですか」
「そりゃいるでしょ、俺のホームだもん、ここ」
「いや、今日休みって…」
編集長の目から光が消える。
「娘の彼氏が挨拶来るって言うから、逃げてきちゃった…」
お、おう…。
「うわ、ずっる!」
「うるさいよ、田中」
汚い大人だなんだと騒ぐ田中を椅子ごと端に転がして、編集長は俺を振り返る。
「あ、そうだ、酒井。昨日くれた電車の記事、なかなか良かったぞ」
「あ、どうも」
「誤字脱字に赤入れといたから、それ直したら予約で投稿しといて、付箋貼っといたから」
「へーい」
渡された書類をパラパラとめくる。
あ、時刻表が遅刻表になってる。あぶね。
「あと、田中はいい加減自力でネタ探せ、足で稼げ足で」
「えー、俺、指で稼ぐタイプなのにぃ」
「だからガセが多いんだろうが」
編集長、帰る気なさそうだし、こりゃもう寝れないかもな。
これ投稿したら、さっさと帰るか…。
ーー
ピコン。
ピコンピコン。
ピコピコピコピコン。
「うるせぇ…」
時刻は深夜2時を少し回ったところ。
鳴り止まない通知音に目を覚ます。
「んだよ…スパムかなんかか…?」
眠い目を擦り、スマホをチェックする。
オカルトWEB雑誌「キカイ」の記事は、創刊当初からのこだわりで、丑三つ時である深夜2時に公開される。
今、通知ラッシュということは、原因は明らかに俺の記事ということだ。
「え、PVえぐ…めっちゃ見られてんじゃん…」
スパムの可能性も考慮しつつ、少し期待してコメントをチェックする。
「嘘乙、捏造記事ワロタ、3年前から無事故な件…」
は??
ふざけんなよ、こちとら何日もかけて現地調査してんだわ。
今回俺がアップした記事は、とある駅のとある電車について書いたものだ。
その駅は、ほとんど同じルートを走る路面電車が開通したことで寂れ、今では利用者もほとんどいない。
止まっても誰も困らないと噂され、今では自殺の名所として有名になってしまっている。
日に数本しか運行しないことから、年間の死亡数にしてみればさほど多くはないのだが、発生率が異常に高いのだ。
きっとこれは何かある…そう思った俺は、現地に向かい、この目でその原因を確かめた。
最も発生率が高いその時間、その場所に立ち、その空気を肌で感じる。
夕焼けに照らされた街並みが哀愁を感じさせ、多方向から照らされた電車は、何色ともつかない光を放つ。
この世ではない何処かへ行くことができそうな、そんな幻想的な光景。
生と死の境界線で揺らぐ誰かに、あと一歩を踏み出させてしまう。
そんな危険な印象すら感じた。
オカルトとは少し違うかもしれない、だが、そこには確かに何かを感じた。
だからこそ、死が手招きする場所、と銘打って、記事にしたのだ。
田中の記事のせいも大いにあるが、キカイの記事は捏造を疑われることが多い。
それを防ぐためにも、現地の図書館に通い、地方新聞を遡り、イニシャルと、実際に飛び込んだ日付まで並べて記載し、情報の正確性を補強した。
なのに嘘だ?捏造だ??
ふざけんな…!!
「くそ…絶対黙らせてやる…」
俺は手帳を広げ、オンラインで確認できる範囲の情報源を片っ端から追記していくことにした。
ーー
「おはざーす。酒井さん、隈やば、パンダみたい」
「パンダはお前だろ…」
悲しいかな、昨夜は一睡もできなかった。
嘘だなんだと騒ぐコメントを黙らせるべく、手帳を頼りに証拠となる人身事故のニュース記事を探したものの、何一つ見つからなかったのだ。
死亡者の実名や日付で検索をかけても、それらしい記事は1件もヒットせず、わざわざ手書きでメモっていたURLすら、ページが存在しないか、全くの別記事に差し替わっていた。
出社時間ギリギリまで粘っても、成果はゼロ…これは明らかにおかしい。
「そういや今回の記事、プチ炎上してましたね」
「炎上はしてねぇよ」
「いやー、いつもなら速攻で完璧な出典貼って黙らせるじゃないすか、酒井さん」
俺だってそのつもりだった…。
「なのに今回は何にも貼らないから、コメント欄えらいことなってましたよ?俺、久々に通知切って寝ましたもん」
くそ、こちとらお陰で一睡もできなかったんだよ…。
「ってかてか、酒井さんの記事がガセ呼ばわりされるの自体、かなり珍しくないすか?」
田中は俺のデスクまで転がると、嬉しいことでもあったように俺の顔を覗き込む。
腹立つな、こいつ。
「お前と違ってガセは書かねえからな」
「辛辣ぅ!俺だって丸っ切りガセは書かないっすよ、ちゃんとネタ元ありますし?」
ネタ元…どうせ誰が書いたかもわからないブログだか口コミだかだろうが…。
「そうは言ってもー、俺の記事だって結構好評じゃないすかー」
「フィクションとしてな。この前なんて、ネタ元にない要素まで足してたじゃねぇか。編集長と俺で慌てて出典消したわ」
「そこはほら、書き始めるとつい、筆が乗っちゃうだけで?」
「記者やめて作家目指せば?お前」
「お断りしまーす、俺ここ天職なんで」
椅子をくるくると回しながら離れていくパンダ。
こいつ、本気でこの仕事舐めてないよな…?
「編集長は?」
「娘さんの彼ピに出待ちされて、立てこもり中らしいっすよ、まじウケる」
編集長…。
「じゃあ、編集長来たら、俺、昨日の記事の裏付け取りに現地回りするって言っといて。メールはしといたけど見てなさそうだから」
「よっしゃー!!…っとと、へーい、いってらっしゃーせー」
こいつ、サボる気じゃねぇだろうな…。
ーー
やっぱりない。
地方新聞のバックナンバーを辿る。
確か、この号の右下に、小さな記事があったはず…。
「ない…」
紙の劣化具合から考えても、誰かが新しく差し替えたようには見えない。
念のため複数の職員に聞いてみたが、新聞の入れ替えや補修は行っておらず、発行された時点のものをそのままファイリングしているらしい。
…明らかにおかしい。
何も記録がなければ、俺の記憶違いを疑うところだが、俺の手帳には、どの新聞のどこに記載があったかはもちろん、目視で探しやすいよう、その号の一面の内容まで書かれている。
一面が記録通りである以上、別の号と勘違いしている可能性すらない。
仕方ない…記録がダメなら、人に当たるか…。
ーー
現地取材で得た伝手を頼り、俺の手帳上の故人について、情報を募る。
地元が同じ人間というのは、いまだに古い電話帳や連絡網で家同士が繋がっていたりする。
連鎖的に辿ってもらえれば、本人まで行き着くのも時間の問題だ。
今のご時世、勝手に連絡先を教えてもらうわけにもいかないので、俺はただ待つしかないが…。
「酒井さーん、もらったリストの下から2番目の人、もうすぐ結婚式らしいすよ」
若者文化に疎い俺に代わって、SNSを調べてくれていた田中が、スマホを振って俺を呼ぶ。
画面には、【チラ見せ幸せご招待♡】という浮かれ切った言葉と、結婚式の招待状らしきメッセージカードが映っている。
「ふーん…」
ご招待ねぇ…。
思いっきり写り込んでしまっている連絡先に電話をかける。
「え、酒井さん、何してんすか」
ぎょっとした顔で俺を見る田中を、しー、とジェスチャーで黙らせる。
「もしもし、突然のお電話失礼します。私、キカイというWEB雑誌で記者をやっている酒井と申しますが…」
電話に出てくれた新郎に、かいつまんで事情を説明し、ダメ元でアポを取る。
大学時代、オカルト研究部だったという彼は、思いの外、快く取材に応じてくれることになった。
しかも、どうせならオカ研同期に自慢したいからと、取材は結婚式当日に披露宴会場でして欲しいという…。
さすがの俺も、そこまで非常識な真似は…と断ろうとしたものの、浮かれ切った新郎には何を言っても響かず、結局は、その日以外ありえませんから、と押し切られてしまった。
「げー、人の結婚式に乗り込んでまで取材って、ちょっとやばすぎません?」
珍しくまともなことを言う田中。
安心しろ、俺だってそう思ってる…。
「ってか、俺たちみたいなの歓迎されませんって、先月、呪いの花嫁とか書いちゃったし、俺」
それは知らん。
「編集長、お聞きの通り、アポは取れたんですけど…これ、ほんとに行っちゃっていいですかね…?」
念のため確認を取る。結局のところ、何かあった場合、責任を取るのは編集長だ。
結婚式にオカルト記者が乗り込むなんて、俺の独断で決めていい範疇を超えている。
「いいよ、行っといで」
「え?」
それなりの常識人であるはずの編集長から、まさかここまですんなりお許しが出るとは思わず、俺と田中は顔を見合わせる。
「いいんだよ、結婚式なんてさ、ぶち壊しちゃえば」
あ、なるほど…。
「…娘さんとなんかあったんすか?」
「聞いてよ田中くーん!!」
田中の肩をがっしりと掴み、ガクガクと力任せに揺らしながら、編集長は娘と娘の彼氏について、泣き言を捲し立てる。
首もげそうだな、田中。
ピコン。
早速、新郎から日時と場所と、いかに自分がプロのオカルト記者と話すのを楽しみにしているかという論文?がついたメールが届く。
勢い怖…いろいろ浮かれすぎじゃないか、この人…。
「お」
ざっと目を通した論文には、直近の田中の記事である、呪われた花嫁への賛辞が綴られている。
「田中、お前も付き合え」
「へ?」
編集長とじゃれあっていた田中が、ぽかんと間抜け面で俺を見る。
向こうも会いたがっているようだし、俺一人の記録だけだと信憑性に欠けるかもしれない…証人は多い方がいい。
「いいねいいねー。ちょうどいい機会だし、指じゃない稼ぎ方、酒井からいっぱい学んでおいでー」
編集長は満足そうに田中の肩を揉む。
前々から現地取材に田中を同行させるように頼まれてたしな…。
「あー…ご指名は光栄っすけど、正直、現地取材とか超めんどいっていうか、付き合っても俺にメリットないっていうかー…」
へらへらしながら切り抜けようとする田中を、さっさと黙らせるべく、交換条件を提示する。
「現地飯おごってやるから」
「え、いいんすか!?やったー、うまい店調べよーっと」
嬉々として飯屋の検索を始める田中を横目に、新郎への返信を書く。
当日のドレスコードはないらしいが、さすがにアロハじゃまずいよな…。
ーー
遅ぇ…。
会場前で待ち合わせをしたはずが、いつまで経っても田中は現れる気配がない。
ちゃらんぽらんに見えて、時間だけは正確なやつだったんだけどな…。
「あのー、写真撮ってもらっていいですか?」
「あ、すみません、俺別件でして」
「あ、こちらこそ、すみませんでしたっ」
これで5回目…。
くたびれた元一張羅のスーツに、そこそこ本格的なカメラを構えた俺を、会場の撮影係と勘違いしてか、参列客に何度も声をかけられる。
せめて貸衣装でも借りてくるんだったな…給料日前だからと出し渋った自分を、今更恨んだところでもう遅い。
一応撮影許可も取ってるし、取材現場ってことで何枚か撮っとくか…。
何もしないのも暇なので、なんとなく会場の様子をパシャパシャと写真に収めていく。
まぁ、たぶん使わねえけど。
出し物らしき振り付けを練習している女性陣、大人の周りをぐるぐると駆け回る子供達、ひたすら飯を食う中年男…あ、あれ美味そうだな。
メインの式が終わり、披露宴が始まるまでの和やかなフリータイム。
ご着席を促されるまでの間、それぞれ思い思いの場所で過ごしている。
俺たちが許可されているのは、披露宴への参列と、その後の取材なので、式の様子は知らないが、聞こえてくる会話によると、誓いのキスで新郎が泣き出すという、なかなか見応えのあるものだったらしい。
俺の真横では、若い感じのイケメンが、ちょっと露出強めに着飾った女性陣に囲まれている。
結婚式って、こういうの結構あるよな。
ギラギラした目でやたらボディタッチ多めの美女たちと、困ったように笑うイケメン。
ちやほやされんのも若いうちだけだ、せいぜいモテ期を楽しみやがれ…。
「ちっ」
あ、やべ。
思わず漏れた舌打ちに、周囲の視線が集まる。
新郎の希望とはいえ、かなり無茶苦茶な理由でここにいることには変わりない…トラブルはまずい。
非常にまずい…。
「酒井さん!もー!居たならなんで声かけてくんなかったんすかー!!」
「へ?」
凍りついた空気を、イケメンの能天気な声がぶち破る。
駆け寄ってきたイケメンは、ガッと俺の肩を掴むと、勢い任せにガクガクとゆする。
間違いない、こいつ、田中だ。
「お前、そんな顔してたのか…!!」
「はぁ!?」
いつのまにかまたざわざわとしだした周囲に安堵しつつ、田中に向き直る。
「それにしてもなんというか、馬子にも衣装っていうか…あんなパンダやめて、ふだんからまともなカッコすりゃいいのに、お前」
「パンダって…人の趣味にケチつけないでくださいよ、いいでしょ、似合うんだから」
似合うとかあんのかよ、アレ…。
「あ、いたいた!」
人混みの間から、新郎が顔を出す。
「酒井さん、ですよね?」
駆け寄ってきた新郎は、スマホと俺を見比べる。
キカイの記事の最後には、顔写真付きでライター名の記載がある。
おそらくそれと見比べているのだろう。
といっても俺は斜め後ろを向いているし、田中はいつものパンダ写真なので、見比べたところで一致するかは謎だが…。
「えっと、田中さんは…」
案の定、目の前の田中を探し始める新郎に、田中はにこやかに挨拶をする。
「あ、初めまして、田中っすー」
「え…」
スマホと実物を何度も見比べ、新郎はがっくりと肩を落とす。
あ、パンダが見たかったのか、この人。
「俺、秋山です…とりあえず、こちらへどうぞ…」
とぼとぼと先を歩く秋山さんを追いながら、田中はコソコソと俺に話しかける。
「な、なんか、露骨にがっかりされてる気がするんすけど、俺、なんかしました?」
「うん、俺もお前の顔にはがっかり」
「顔???」
ドリンクコーナーの裏、あまり人目につかない場所に案内され、立ったままで取材を始める。
腰を落ち着けたいところだが、今座ると着席の合図になりかねないので、そのまま続ける。
インタビュワーは俺なので、田中には適当にドリンクを渡し、好きにおかわりしていいから黙っておくよう言い聞かせる。
こいつに茶々入れられると、文字起こしが地獄になるからな…。
「では、よろしくお願いします」
「はい」
ポケットに入れたボイスレコーダーを起動し、時間や場所などの基本情報を吹き込んでいく。
もちろん録音については事前に承諾済みだ。
「お名前をフルネームでお願いします」
「秋山茂です」
「事前にご連絡しましたが、記事は読んでいただけましたか?」
「はい、ご連絡いただいてすぐ、酒井さんの記事、読みました」
「ありがとうございます。不躾で恐縮ですが、何か思い当たることはありましたか?」
「はい、ありました。一覧にあったS.A氏って、たぶん俺のことかなって…」
…?
「どうして、そう思われるんですか?」
「俺ね、その日、あの駅に行ったんです」
「!」
これは大収穫だ。
「お恥ずかしい話なんですけど、当時、結婚が決まってたのに、リストラされてしまって…再就職もうまくいかなかったから、荒れて彼女に八つ当たりしちゃうこともあったりして…それなのに、彼女全然責めなくて…それが余計に情けなくて…」
よく聞く話ではあるが、当然本人はきつかったろうな…。
「あの時は本当に、どうしようもないくらい全部が辛く思えて、耐えられなくて…どこか遠くへ行きたくて…」
どこか遠くへ…。
「あの駅は、本当に、記事の通りの場所で、俺は一歩を踏み出してしまった…」
え…?
「でもね、違ったんです。気づいたら俺は何事もなくホームに立っていて、電車は通り過ぎていました」
「そうですか」
「完全に無意識だったけど、きっと、生存本能みたいなのが働いたんでしょうね」
「なるほど」
生存本能…ね。
「酒井さん、俺ね、今、幸せなんです、本当に…」
「はい」
秋山さんは、頬を赤らめ、照れ臭そうに笑う。
幸せなのは、今の浮かれっぷりを見れば嫌でもわかる。
「本当に、あの時、思いとどまってよかった…」
「私もそう思います。ご協力、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。話せてよかったです」
録音を切り、改めて礼を言う。
「ありがとうございました。お陰様でかなりいい情報が手に入りました」
「いえいえこちらこそ、お役に立てて何よりです」
緊張しましたー、と笑う秋山さん。
さすが営業職。受け答えに緊張感は一切感じなかった。
「お二人ともお疲れ様っすー」
田中がドリンクを秋山さんと俺に手渡す。
「あ、田中さん、ありがとうございま…」
ガシャン!!
「秋山さん…?」
秋山さんが、田中から受け取ったばかりのドリンクを床に落とす。
グラスは粉々で、中のブドウジュースが、カーペットにシミを残していく…。
「な、なんだよこれ…どこから…」
「?」
目を見開いたまま固まってしまった秋山さんは、そのままの表情で何かぼそぼそと呟く。
「秋山さん、どうかされたんですか?」
「さ、酒井さん…」
青白い顔で、秋山さんは振り返る。
引き攣った表情…目はこちらを向いているようで、その実どこを見ているのか…明らかに焦点が合っていない。
「酒井さんには、この音が聞こえないんですか…?」
音?
あいにく、俺には何も聞こえない。
ざわざわと何事かと話す人々の声が聞こえるくらいだ。
「な、なぁ、お前には、この音が聞こえるか?」
ヨロヨロと客たちの間を渡り歩き、秋山さんは確認を繰り返す。
段々とヒートアップする秋山さんに、周りも異常に気づき始めるが、見渡す限り、音とやらが聞こえている様子の人間は一人もいない。
「ちょ、ちょっと落ち着いてください」
すっかり取り乱しながら、キョロキョロばたばたと、何かから逃げるように動き回る秋山さんの手を握り、その場に繋ぎ止める。
手に触れた瞬間、先ほどまでの声は薄れ、あたりの空気が変わる。
「ほ、ほら、この音…!!」
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
電車の…音…?
「茂くん、何してるの!?私たちには何も聞こえないよ!?」
途中で呼び出されたのか、片方だけの中途半端なメイクをした新婦が、友人に付き添われながら、遠巻きに声をあげる。
…聞こえてないのか?
「あの!とにかく落ち着いて、お話を!」
電車の音にかき消されないよう、少し声を張り上げるが、秋山さんには届いていないようで、相変わらず視線が合わない。
どうしたら…。
ビクッと握っていた手に力がこもり、目の前の秋山さんは、何かを思い出したように、目を見開き、固まる。
「俺は、あの時…」
次の瞬間、ゴッ…と、何かに弾き飛ばされたかのように、秋山さんの身体がひしゃげる。
吹き飛んだ身体はバラバラで、それがついさっき取材したばかりの人間だったことを、一瞬にして脳裏から消し去ってしまう。
赤い…赤い色が、目に焼き付く。
会場は一気に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
至る所で悲鳴が上がり、嘔吐する音、泣き出す声、我先にと逃げ惑い、押しのけ合う怒声まで聞こえる。
「しゃ、写真を…撮らないと…」
非常時こそ、記者として、冷静に対応しなくては…。
そう自分に言い聞かせたところで、握りしめたままになっていたものを思い出す。
じっとりと汗ばんだまま熱を失っていく彼の掌。
嫌悪とも恐怖とも言い切れない、得体の知れない感覚が、掌、腕、肩、じわじわと全身に広がり、俺は意識を手放した。
ーー
見知らぬ天井…どこだここ…。
「お、目、覚めました?」
ベッドに寝かされたまま、現状把握しようと視線だけぐるぐる動かしている俺に、田中が声をかける。
へらっとした表情はいつも通りだが、心なしか、やつれているように見える。
俺が寝ている間に何があったんだ…。
「ここは編集長が取ってくれたホテルっす。酒井さんずーっと寝てるから、警察の事情聴取も、編集長への報告も、うまい店のキャンセルも、ぜーんぶ俺が対応したんすよ」
警察が来たということは、あの光景は、披露宴の悪趣味な演出などではなく、実際に起きた事件だったということか…。
いい加減に起きねぇと、手持ち唯一のスーツがシワになっちまう…そう思ったところで、田中も俺も、スウェットを着ていることに気がつく。
どうりで寝苦しくもなく爆睡してたわけだ。
「あ、服は全部、警察の人が持っていきました。俺もちょっと、いろいろかかってたみたいで」
俺の視線に気づいてか、服の説明を始める田中。
なんだかんだ、察しはいいんだよな、こいつ。
「部屋にバスローブもあったんすけど、寝起き一番、俺と2人でバスローブとか、ちょぉっと刺激強いかなーと思って、コンビニで買ったスウェットに着替えさせときました」
言っていることはわけがわからないが、スウェットを選んだのは正解だ。
そもそも俺、バスローブ、使わない派だし。
田中には本当に感謝している。
警察や編集長への対応はもちろん、俺が寝こけている間、もっとたくさんの面倒ごとがあったはずだ。
目の前の惨劇のショックか睡眠不足か知らないが、そこそこ中堅記者のくせに、事件発生後数時間というこんな肝心なところで爆睡をきめるなんて不甲斐ない。
とりあえず、意外と頼りにもなる後輩として、田中のことは、褒めてやらないとな。
「今日だけで俺、酒井さんのお着替え2回も手伝ったんすから、感謝してくださいよー?」
はい、台無し。
「あ、あの、酒井さん?そろそろなんか、喋ってもらえます?さすがに俺、ずっと独り言って寂しいなー、なんて…」
黙って聞いているだけの俺に、震える手を伸ばす田中。
いつも通りペラペラと喋っていて油断したが、顔面は青白く、呼吸も浅い。
しまった。状況整理に集中し過ぎた…。
「悪い。考え事してた」
はっと息をつき、田中の顔色が戻る。
「なーんだ、もー、ビビらせないでくださいよー。酒井さん、喋れなくなっちゃったのかと思ったじゃん」
起き上がって、グッと伸びをする。
何時間寝てたのか知らないが、寝過ぎてだるいような気がする。
「にしても、まじ、きちーっすね、現地取材…こんなメンタル持ってかれるとは思わなかったっすわ…スリップダメージえぐ…」
ふへぇ、と情けない声をあげ、田中は項垂れる。
「酒井さんは慣れたもんかもしんないすけど、俺初めてなんで」
「俺だって初めてだよ、こんなのは」
目を閉じて、今日の出来事を振り返り、ゆっくりと情報を整理する。
よし、もう大丈夫だ。
俯いていた顔を上げ、どちらからともなく視線を合わせる。
「いい記事書かなきゃっすね」
「だな」
目覚めてからずっと感じていた息苦しさが、少しだけマシになったような気がした。
ーー
ホテルで朝食をとり、当初の予定通り、田中を連れて現地に向かう。
俺が記事に書いた、あの駅…死が手招きする場所へ。
「おぉー!ここが例の!!」
田中は大はしゃぎで駅周辺を駆け回り、あちこちでスマホを構えては、パシャパシャと自撮りを重ねている。
それじゃ資料にならんだろうに…。
「俺好きなんすよねー、映画とかドラマの舞台とか、噂の現場?みたいなとこ行くの!聖地巡礼最高!あ、心霊スポットとかやばそうなとこは行かないすけど」
オカルト記者なら逆じゃねぇか…?
「あれ?酒井さんは撮んないんすか?」
「いや、いい、フィルムの節約」
「あぁ、アナログだとそういうの不便すよねー。俺も容量やばいけど」
フィルムの節約も嘘ではないが、これまで現地取材で散々通った場所なので、追加で撮る必要がないだけだ。
「うわー、やっぱテンション上がるーぅ!」
元気だなぁ、と呆れつつ、さっさとホームの奥へと歩き出す。
そろそろ電車が来る時間だ。
後方から電車が近づいているのが音でわかる。
「あ、先輩、ステイ!」
「は?」
いつの間にか背後に追いついていた田中に、ぐいっと引き戻される。
カシャシャシャシャ。
前方で、カメラを構えた老紳士が、電車の撮影をしていたようだ。
「うちの姉ちゃんも撮り鉄なんすけど、シャッターチャンスは一期一会なんで、絶対邪魔しちゃダメらしいんすよ」
「へぇ」
「やばい人だと、めちゃくちゃ嫌がらせされるんす」
「なるほどなぁ…。こんにちは、平坂さん」
「あ゛!」
コソコソと耳打ちしてくる田中を放置して、先ほどカメラを構えていた老紳士に話しかける。
彼とは取材中何度も顔を合わせ、カメラの話で盛り上がった仲だ。
「おや、酒井さん、こんにちは」
平坂さんは、帽子をとり、にこやかに挨拶する。
「今日はいい画が撮れましたか?」
「はい、今日もうちの子は最高ですよ。そうだ、以前教えていただいたレンズなのですが…」
「おぉー!やば、めっちゃ綺麗じゃないすか!」
俺と平坂さんが話を始めた後ろで、田中が大きな声をあげる。
ベンチの上に開かれたままになっていた、平坂さんのアルバムを覗いていたらしい。
「お!お目が高いですね、若いお方!」
「あ、俺、田中っていいます。初めまして、平坂さん」
「おや、ご丁寧に」
平坂さんは、また帽子を取って会釈をする。
「ちなみにこれ、いつのっすか?なんか今のよりピカピカしてません?」
「おや、お気づきになりましたか!やはりお目が高い!これはですね…」
嬉々として語り出す平坂さんに、同じく嬉々として食いつく田中。
朝のこの時間、電車は点検作業をするらしく、しばらくこの駅で停まったままになる。
田中が平坂さんと話している間に、俺は目的を果たしに車掌室へと向かう。
コンコン。
ノックをすると、空のペットボトルから最後の一滴を飲もうとしている車掌と目が合う。
「休憩中すみません、キカイというWEB雑誌で記者をしております、酒井と申します」
「あ、お電話の!僕、今日からの篠原っていいます」
ここの車掌は頻繁に入れ替わる。
目の前で人身事故が起こるのだから、無理もない。
そう思っていたが、その人身事故自体がなかったことになっている今、ここまで頻繁に入れ替わっている理由は謎だ。
会社に電話口で確認したが、一身上の都合と言われ、少しグレーな手段で本人にも連絡を取ってみたが、特に理由はないと、本当のことは何も教えてもらえなかった。
「ちゃんと頼まれたやつ調べときましたよ、ちょっと待ってくださいね!」
車掌はガサゴソとカバンを漁る。
折れ曲がった紙の端があらゆる方向から飛び出たカバンは、とても整理されているとは思えない。
これは時間がかかるかもな、そう諦めて手近な自販機でお茶を買う。
「あった!!お待たせしてすみませんっ」
「いえいえ、よかったらこれどうぞ」
資料を受け取り、代わりにお茶を差し出す。
「わー、ありがとうございますー!僕初走行なんで、緊張して無茶苦茶喉乾いちゃって」
「あー、なるほど、初って緊張しますよね」
「あはは、お恥ずかしい」
適度に相槌を打ちながら、もらった資料に目を通す。
過去3年の走行記録。
コメント欄での指摘通り、本当に人身事故が起こった形跡はない。
到着も出発も、全くもって時間通りだ。
「ありがとうございました」
「あ、もういいんですか?」
「はい、無理言ってすみませんでした」
「いえいえ、こちらこそすみません、できればコピーをお渡ししたいんですけど、一応社外秘で、閲覧許可しか取れなくて」
「いえ、とんでもない、ありがとうございました」
申し訳なさそうに謝る篠原さんに礼を言い、平坂コレクションの2冊目に突入している田中を回収に向かう。
「田中、そろそろ行くぞ」
「えー、まだ俺途中なんすけど」
田中は写真に夢中のようで、こちらを見もせず生返事する。
それなら仕方ない。
「じゃ、平坂さん、こいつ置いてくんで、よろしくお願いします」
「え!?」
バッとこちらを向く田中を無視し、平坂さんに挨拶をする。
「お先失礼します」
「はい、またお会いしましょう」
写真と俺を交互に見ている田中を置いて、俺はその場を後にした。
ーー
「酒井さんひでぇ!!ほんとに置いてくとかやばすぎでしょ!!」
「ほーか?」
今朝の駅から徒歩15分にあるラーメン屋。
汗だくで駆け込んできた田中は、開口一番俺への不満を喚き散らす。
もごもごと口に物を入れたまま適当に相手をし、とにかく座れと隣の席を引いてやる。
後輩相手にお行儀なんぞどうでもいい。
「とりあえず、お前もなんか頼めよ。ここは何でも速くて美味いぞ」
田中にメニューを薦め、俺は食べかけのチャーシュー麺に向き直る。
麺は伸びたら台無しだからな。
「えー、じゃあじゃあ…」
田中は早口で呪文のようにメニューを読み上げる。
「以上で!」
「待て、今の全部注文したのか!?」
「え、そうっすよ?」
お前、スペアの胃袋でも持ち歩いてんのかよ…。
「だってだってー、これ全部酒井さんの奢りっしょ?好きなだけ頼まなきゃ損っすよねー」
「誰も奢るなんて…」
文句を言いかけて止まる。
まさか…。
「これも現地飯、ですよね?」
ニヤニヤする田中を横目で睨む。
速くて美味いとは言ったが、安くはない。
いったいいくら分頼んだんだよ、こいつ…。
「残すなよ…」
「ったりまえっす!!」
自信満々に返事をした田中は、宣言通り、次々届くメニューを、心底美味そうな顔のまま、1人で平らげていく。
見てるこっちが胃もたれするような油たっぷりのメニューを、細身の男がするすると飲み込んでいく姿は、なかなか見応えがあるのか、先ほどから、店内の視線は、田中に釘付けだ。
「あの、よかったら…」
女性客が、田中に紙切れを渡している。
「ラッキー!ありがとうございますー!」
満面の笑みで礼を言う田中に、女性客は顔を赤らめ、拳を握りしめる。
「が、がんばってください!!」
「???」
顔全体に疑問符を浮かべる田中。
おそらくフードファイターか何かと間違えられたのだろう。
見知らぬ場所で、女性に話しかけられるとは…くそ、イケメンが…。
「酒井さん、サービス券もらいました!100円引きだって、超ラッキーっすね!」
「いいから食え、麺が伸びる」
その後も、女性客や常連客から次々とサービス券を譲り受け、俺の懐も、なんとか持ち堪えることができた。
手持ちで足りてよかった…。
まさかイケメンに感謝する日がくるとはな…。
ーー
「酒井さーん、俺パフェ食いたーい」
「残念だったな。次はチェーン店だから奢らないぞ」
「えー、けちー、ここも現地じゃないすかー」
ラーメン屋を後にした俺たちは今、次の取材相手が待つファミレスに向かっている。
「うわ、やば、スイカパフェだって!酒井さん、俺これ食いたい!あ、でもメロンパンケーキとかある…待って待って、地域限定ってことはこれも現地飯?いや、でも、スイカ…」
店先の看板の前で立ち止まり、あーでもないこーでもないと悩み始める田中。
「置いてくぞ…」
先に店内に入り、待ち合わせであることを伝える。
約束の時間にはまだ少し早いが、相手が到着済みなのはメールで確認しているので、2階の半個室スペースへ向かう。
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
?
電車の音…?
階段を上がる途中、1階で聞こえていた話し声が急に遠のき、電車の音が聞こえ始める。
これは、まるであの時の…。
「わぷっ」
背中に衝撃を感じ、振り返る。
「もー、急に階段で立ち止まらないでくださいよー」
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
「え、酒井さん、汗やばいすよ、上そんなに暑…」
ぶつかった時に痛めたのか、鼻を抑えたままの田中は、俺の顔を覗き込み、言葉を飲む。
「田中…お前には聞こえないのか?」
「ちょ、なんすか、酒井さん、真っ青っすよ」
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
「なぁ、この音が、聞こえないのか…?」
「音って、人の声と店内BGMなら聞こえてますけど…」
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
さっきから、音の間隔が狭まっている。
なんだ、これ、俺にだけ聞こえるのか?
ピコン。
「酒井さん、スマホ」
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
「大井さんからだ…」
「大井さんって待ち合わせ相手すよね」
メッセージを確認し、固まる。
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
「何々…例の音、僕にも聞こえました…?何すかこれ」
固まったままの俺の肩越しに田中がスマホを覗き込む。
「あ、ちょっと、酒井さん!」
タタン…タタン…。タタン…タタン…。
ぐしゃ。
急いで階段を駆け上がり、席に向かう。
近づかなくてもわかる、この錆びた鉄の匂いは…。
「大井…さん…?」
半個室中に広がる赤。
「酒井さん、急にどうしたんすか!?ってか、なんすかこの臭い…」
後ろを追ってきた田中が、俺の背中越しに惨状を覗き込む。
「う゛」
やばい、現場保存…!!
「おい、田中、ここで吐くな!トイレ借りろ!!」
田中の向きを反転させ、力任せに押し出す。
田中は何か言いたげに俺を振り返り、お前も離れろとでもいうようなジェスチャーをした後、全速力で階段を駆け降りていった。
「大井さん…」
改めて相手を確認しながら、カメラを構える。
あの時とは違い、大井さんは、半身が潰れているものの、人と認識できないほどバラバラではない。
顔は左半分が剥がれ、首は、よく見ると捻れている…上半身は左肩から先がなく、骨や内臓が…。
だめだ、これ以上は…。
冷静を装い、じっくりと観察しながら写真に収めてみたものの…すぐに限界が来てしまい、あとは無心でシャッターを切る。
付けっぱなしになっている彼のスマホからは、競馬の中継が流れ、いきいきとした実況がやけに耳につく。
現場保存のため、勝手に止めるわけにはいかない。
残された方の腕に握られていた赤い紙は、きっと馬券だったに違いない。
作業を続けたまま、ぼんやりと彼の最期の行動を思う。
秋山さんが亡くなった後、大井さんには、経過報告と予定通り取材しても問題ないかの確認をかねて、何度か連絡を取った。
一人が怖い、人の声が聞きたいというので、電話口での説明となり、本題よりも長い時間、たわいのない話をしたのを覚えている。
音について俺が話した時は、あれだけ怯えていたくせに、いざその音が聞こえた時、彼の頭にあったのは恐怖よりも競馬だったんだな…。
そろそろフィルムが尽きる。もういいだろう。
何が撮れているかはわからないが、とにかく全て収めたはずだ。
精査は後ですればいい。
「さ、酒井さん…」
いつの間にか戻ってきた田中が、ヨロヨロしながら俺の裾を掴む。
「通報は、したんで…うぇっ、下、降りましょ…ぅっ」
田中は室内を見ない。
正確には、見れないんだろう。
本当は現像を待たずに確認するため、スマホでも何枚か撮って欲しかったが、今の田中に頼むのは酷な話だ。
節約のつもりで己のスマホをガラケー画質にしたことを、今更になって悔やむ。
ぐいっ。
臭いのせいか、何度もえづいている田中が、無言で俺を引っ張る。
限界だな…。
青い顔の田中の背をさすりながら、俺は1階へと降りた。
ーー
「ぐあーーーー!!やっと解放されたーーーーー!!!」
やっと警察の事情聴取から解放され、田中は雄叫びを上げる。
連日不可解な事件に居合わせたせいで、かなり長い時間拘束される羽目になってしまった。
「予想外の時間食っちまったからな。さっさと帰って色々まとめねぇと…」
家路を辿るべく、最寄り駅に向かう。
こちらに滞在したのはたった1泊2日だが、いろいろありすぎて、とても長い時間に感じる。
並んで歩いていたはずが、いつの間にか、かなり距離があいてしまっている田中を振り返る。
少し辛そうな表情で、ノロノロ歩いている田中は、俺と目を合わせようとしない。
「何、お前、凹んでんの?」
「…」
連日あんな光景を見せられたんだ。気落ちするのも無理はない…。
立ち止まって、田中が追いつくのを待つ。
せめて、帰りにお菓子でも買ってやるか…。
「さ、酒井さん…お、俺…」
「おう」
力のない声に、なるべく穏やかに返事をする。
「腹減りました…」
…???
「いや、お前食ったろ。それもしこたま」
「それ朝だし、全部出ちゃったし…」
俺はげっそりです、とでも言わんばかりの顔で、人の肩にしがみつく田中。
全然平常運転じゃねぇか!!
安心するやら呆れるやら…。
「しゃーねぇな、じゃ、飯食って帰るか」
全力でしがみつかれているせいで、無駄に重い田中を引き剥がし、進行方向に飯屋を探しながら歩き出す。
「しゃー!!ちょうど通り道なんすよ、俺おすすめのうまい店!」
なんだよ、行き先決まってんのかよ…。
「まさか、まだ現地飯狙ってんじゃねぇだろうな…」
「あはは、バレました?」
へへ、と悪気なく笑う田中に毒気を抜かれる。
今までも薄々は感じていたが、こいつ、飯への執念やばすぎんだろ。
「お前な、一回の同行で何回奢らす気だよ」
「だーって、一回しか奢らないぞ、なんて言われてないんで?」
意気揚々と歩き出した田中の後を追い、うまい店に向かう。
最後の食事からそれなりに時間が経っているものの、正直俺は、そんなに食欲がない。
店に着くなり当たり前のように食べ放題コースを選択する田中に、己との違いを思い知る。
これが若さかね…。
ーー
「ほぁー、何それ超やばいじゃん、君たちメンタル強すぎない?」
翌朝、資料をまとめ、編集長に出先でのことを報告する。
内容が内容だけに、どんな空気になるかヒヤヒヤしたが、編集長の反応は、予想外に軽いものだった。
「でしょでしょ、俺なんて何度漏らすと思ったか!」
「え、汚…」
「いや、未遂っすけどね!?」
田中との会話もいつも通りで、少し安心する。
編集長は、ふむ、と一度わざとらしく考えたふりをした後、俺に振り返る。
「冗談はさておきさ、本気でやばいよね、これ。だって、その音が聞こえた人ってみんな死んじゃったわけでしょ?で、酒井もその音が聞こえる、と」
「はい」
「で、田中には聞こえない、と」
改めて口にされた事実にぞっとする。
そう、あの音は、俺と被害者にしか聞こえなかった。
「なんでなんすかねー、俺、真横にいたのに」
それは俺も疑問に思っている。
俺と被害者たちとの共通点なんて、あの駅に行ったことがあるくらいで…それであれば、ファミレスの時点で田中にも聞こえなかったのはおかしい。
「やっぱ危なそうだよね、これ。深追いして怪我とかされたくないし、もうやめとこっか」
編集長は、笑いながら調査の中止を提案する。
「いや、まだ調べ途中なんで」
そりゃ危険がないわけじゃないだろうが、中止だなんて、無理な話だ。ここまでの取材が無駄になる。
「うわ、まじめっすね、酒井さん」
「はっ、お前とは違うからな」
茶化す田中を小突き、鼻を鳴らす。
「いや、冗談でも笑い事でもなく、真面目にね、中止、業務命令」
「え」
急に真顔で業務命令を下す編集長に、俺も田中も言葉を失う。
「やめなさいってこと、危ないから」
「ちょ、ちょっと待ってください、そんないきなり!」
必死で食らいつき、編集長の説得を試みる。
田中もなんだかんだ後押しをしてくれたが、そこに確実な安全性が保証できない以上、編集長の考えは変わらない。
だめだ、ここで終わるわけには…。
「じゃあ最後に、一回だけ現地行かせてください。それで終わりにしますから」
なんとか最後の一回という許可を経て、現地に向かう。
これが正真正銘最後のチャンスだ。
気を引き締めねぇと…。
ーー
「で、何で飯屋?」
「何はともあれ腹ごしらえっしょ!」
予想に反し、自分から同行を申し出た田中と、例の駅から一番近い飯屋に入る。
過去の取材中、帰りに何度か寄ったことはあるが、ここはなかなか安くて美味い。
ただし、時間はめちゃくちゃかかる。
「いやー、ここめっちゃレビュー高くて、一回来てみたかったんすよねー」
まさかお前、ここ目的じゃないよな…?
先日のラーメン屋同様、呪文のような量の注文をする田中に対し、俺は一番早そうなメニューを一品だけ頼む。
「お待たせしました」
「うわ、うまそー!!」
涎を啜りながらはしゃぐ田中を横目に、さっさと食事を済ませて席を立つ。
「え、え、行っちゃうんすか??」
戸惑う田中に電車の時間を伝え、ゆっくり食ってからこいよ、と別行動で駅に向かう。
収穫があろうがなかろうが今日で最後だ。
一度、一人で静かに整理する時間が欲しい…。
ーー
現地に向かう途中、連絡網を頼りに地元ルートを調査してくれていた大学生から電話が入る。
「はい、キカイ編集室です」
地元に来ていると知られると、飲もうだなんだと誘われるため、編集室にいるふりをして電話に出る。
幸い車通りもない静かな通りだ。外にいるとは思わないだろう。
「あ、もしもし、酒井さん?」
「どうも、山口さん、この度はご協力ありがとうございました」
「いえいえ全然!私、さっきメール見て、ちょっと急だったんで、びっくりしちゃって…」
「すみません、こちらとしても、急な判断となりまして…」
中止となった事情を、話せる範囲で手短に説明する。
彼女には、こちらに向かう前に、取材は中止になるので、これまでの成果を報告して欲しい、という旨のメールを送っておいた。
それまでも時々経過報告をしてくれていたが、連絡の取れた関係者に追加で聞いて欲しいこともあり、最後にその報告を依頼した形だ。
まぁ俺としては、全てメールにしてくれた方がありがたいんだが…。
「なるほど、そんなご事情だったんですね…中止、了解です。あと、バイト代の振り込みも、ありがとうございました。なんか、しょっちゅう連絡してたのに、酒井さんともう会えないの寂しいです…」
「俺もです。またそちらに行った時は、うまい店、よろしくお願いしますね」
できればアルコール抜きで。
「えー、ほんとですかー?酒井さん私たちが誘うと逃げ回るから、絶対嫌がられてると思ってましたよー」
そんなふうに見られてたのか…。
「そんな、嫌がってるわけじゃないですよ」
嫌なんじゃなくて、若い肝臓についていけないだけだ。
精神的にも、肉体的にも、十数年の差はでかい。
「あの、できればそろそろ…」
脱線を始めた彼女に、本題を促す。
「あ、そうですよね、失礼しました」
ガサゴソと紙を漁る音がする。
「お待たせしました、あとでメールでも送るんで、取り急ぎってことで…」
「はい、よろしくお願いします」
彼女の報告と、俺たちのこれまでを整理する。
俺が記事に書いた中で、現状の確認が取れた人数は27人中15人。
うち、詳細な状況説明はないが、不可解な死を遂げたとされるのが、俺たちが直接確認した2人を含む計7人。
残りの8人は今も生きているそうだが、それぞれ健康上の理由や経済的な理由で対面取材に応じられる状態ではないらしい。
山口さん経由で間接的に謝礼の件も伝え、取材協力を依頼したが、やはり誰一人、俺と直接話す気はないそうだ。
そしてもう一つ、秋山さんの死の後、山口さんには、生存確認のとれた8人に、追加で質問をしてもらった。
記事に書いたそれぞれの日付と、あの駅について、何か心当たりはあるか。
俺の予想が正しければ、それこそが彼らの共通点ということになる。
…結論から言うと、俺の予想は正しかった。
彼らは共通して、その日その時あの場所で、電車に飛び込もうとしていたのだ。
そして、秋山さんが式場で語っていたように、まさに飛び込んだという次の瞬間、気づいたら飛び込む前の場所に佇んでいたという。
無意識のまま思いとどまるなんて体験が、この人数で100%一致するなんて、どう考えても不自然じゃないか?
くそ、ここまで掴んでおいて、あと一歩が足りない。
「ちっ」
「ひぇ」
無意識に漏れた舌打ちに、電話越しの山口さんが反応する。
「すいません、なかなか思ったような記事が書けなくて…」
慌てて山口さんに舌打ちしたわけではないことを伝える。
「あ、そうなんですね、私ったらてっきり、また喋りすぎて嫌われちゃったのかと…」
「いやいや、嫌うとかないですから、ほんとに」
人懐こくて喋り好き、俺から見ると、記者に向いたいい子だが、こう繊細すぎるのがちょっとな…。
目的地に着いたこともあり、別件対応が入ったと言って電話を切る。
山口さんには今度、改めてお礼をしないとな…。
女子大生と2人はまずいか…。
パンダと3人ならセクハラにはならない…よな?
ーー
「おや、酒井さん、こんばんは。いや、まだこんにちは、かな?」
「こんにちは、平坂さん」
にこやかに挨拶した平坂さんは、いつも通り高価なカメラを膝に抱え、ベンチにアルバムを広げている。
「お隣いいですか?」
「もちろんですよ、どうぞどうぞ」
さあさあと促され、腰を下ろそうとして、先に自販機に向かう。
「?」
ガコン。
ガコン。
缶コーヒーを2本買い、1本を平坂さんに差し出す。
「これ、よかったら」
「おや、ありがとうございます」
2人で缶コーヒーを啜りながら、電車を待つ。
到着まではしばらくある。
「今日はどうされたのですか?なんだか元気がないですね」
「え?」
平坂さんは、少し困ったように微笑みながら、俺を見る。
そんなに顔に出てたか…。
「いや、ちょっと、いろいろうまくいかなくて…」
「そうなのですか」
興味があるのかないのか曖昧な返事で、平坂さんはまたアルバムをめくりだす。
「俺、ここの取材、今日で最後なんですよ」
この人とも、もう会うことはないだろうな…ぼんやりと、そう考えながら呟く。
平坂さんに話しかけているというより、自分自身の思考整理に近い。
「おや、それは寂しくなります」
見ていたアルバムを閉じて、平坂さんは俺に向き直る。
「俺もです」
なんだか申し訳ないが、最後だし、少し付き合ってもらうか…。
「これまでのこと、ちょっと整理したくて、よかったら、電車が来るまでの間、俺の独り言に付き合ってもらってもいいですか?」
「もちろんですよ」
平坂さんは穏やかに笑い、俺はそれに礼を言って話し始める。
「信じられないかもしれないんですけど、ここね、俺の記憶だと、自殺の名所、なんですよ…」
「あぁ、道理でそういう方が多いんですね」
「え…」
話を合わせてくれている…?
この場所の記事を出してから、初めての肯定に戸惑う。
「えっと…それで、ここ数年も、何人も飛び込んでて、ですね…」
話そうと整理していた思考が乱され、言葉がたどたどしくなる。
記者のくせに情けない。
相手は調子を合わせてくれただけにすぎないのに…。
「ええ、ああいう方たちは夏も冬も飽きもせず、本当に不愉快この上ないですよねぇ」
苦虫を噛み潰したような表情で、平坂さんは不快感を露わにする。
これは、本当に俺に合わせているだけか?
それにしては実感がこもりすぎているような…。
「美しさに見惚れているだけかと思ったら、急に視界に割り込んで…」
ブツブツと不満を垂れ流している目の前の人物に、俺は確信する。
この人は、知っている。
いや、見てきたんだ。
「…あんた、何者だ?」
口を閉じ、何を今更とでも言いたそうに、平坂さんは俺を見る。
「名前はお互い知っていますし…何をお尋ねになりたいのか…」
黙っている俺に、平坂さんは盛大なため息をつく。
「言ってませんでしたっけ、私、死神なんですよ」
「は?」
唐突に放り込まれたファンタジーに、思考がめちゃくちゃになる。
「ちょ、ちょっと待て、誰がなんだって?」
「死神なんです、私」
平坂さん、もとい死神は、平然と答える。
どうやら聞き間違いではないらしい。
「ふざけてるのか?」
真剣に問い詰める俺に、死神は吹き出す。
「おかしいですね、散々自分の目で見た不思議なことを肯定していた貴方が、目の前の死神だけは疑うのですか?」
「いや、だって…」
目の前にいるのは、黒いマントを被っているわけでも、大鎌を持っているわけでもない、ただの紳士然とした老人だ。
影がないでも宙に浮くでもないやつを、何をもって人間ではないと言い切れる?
「まぁ、私としては、信じようが信じまいが、どうでもいいことですがね」
全くもってその通りだ、今俺がこいつの正体を正確に把握する必要はない。
知りたいのはそこじゃない。
「お前が全部やったのか?」
我ながら唐突な問いをぶつける。
死神ってなんだ、何をしたんだ、何が起こっている、俺だけ覚えていたのは何故だ、これからどうなる…聞きたいことは山ほどあるが、突破口になる質問を選ぶなら、それは一つ。
こいつがこいつの意思でやったことなのか、それだけだ。
それが肯定なら、同様に、こいつの意思でどうとでもなる可能性がある。
「ふふ、いい質問を選びましたね。まだ時間もありますし、コーヒーのお礼に、少しお話しましょうか」
ーー
頭が痛い。
死神が嬉々として語る、ことの経緯が、俺には全く理解できない。
正確には、脳が理解を拒むほど、人の道理が通用しない。
混乱する思考を抑え、なんとか言語化を試みる。
「つまり、自殺者の死を記録ごとなかったことにしたのも、その後で殺したのも、全部お前の仕業なんだな?」
「はい、おっしゃる通りです。さすが酒井さん、賢いですね」
あくまでも軽い調子の死神に、俺の手にあった缶がべこりと音を立てる。
「動機は、腹が立ったから…お前は何にそこまで腹を立てたっていうんだ?」
死神の説明では、肝心の動機が明確にされていなかった。
動機に繋がりそうな部分では、むかついた、腹が立った、汚い奴ら、死んで当然など、感情的な言葉を並べられ、具体的に彼らがこいつに何をしたのかは一切情報として出てこない。
「おや、酒井さんなら、説明せずともご理解いただけると思ったのですが…」
「いや…」
わかるわけがない。
一度死んだ人間を、わざわざ生き返らせてまで、あんな酷い死に方をさせる理由。
そこまでの憎悪を抱く理由なんて、並大抵のものじゃないはずだ。
「皆さんはね、自分勝手にも、電車に飛び込んだんですよ。しかも、よりにもよって、私がカメラを構えたその瞬間に…」
え…?
「ですからね、私、少し後悔していただこうと思いまして…」
口元に手を当て、死神は俺に向き直る。
「一番幸せを感じる瞬間に、死に直していただこうかと」
人差し指を立て、にっこりと、人の良さそうな笑顔を作る死神。
台詞と表情のあまりの温度差に、背筋を冷たいものが流れるのを感じる。
「お、お前が殺さなくても、死のうとしたこと、すでに後悔してる奴らだっているだろ?」
やっとのことで、声を絞り出す。くそ…震える…。
「改心したら生きたままでいられるか、ということですか?」
「あ、あぁ…」
たじろぐ俺の顔を覗き込むように距離を詰め、死神は目を細める。
「実に素晴らしい!!」
死神はカッと目を見開き、口元だけで笑顔のまま大声を上げて立ち上がる。
「実に愚かで、なんとも人間らしい!!好きですよ、その発想」
この反応では、きっとこれ以上言っても無駄だろう。
死神のギョロリと動く目から顔を逸らし、別の疑問に話題を逸らす。
「音が聞こえるのはどうしてなんだ?」
死神はベンチに戻り、腰を下ろす。
「聞いたのですか?」
「あぁ…」
「ふむ。本来なら音が聞こえるのは本人だけのはずなのですが…まぁ、近くにいれば、聞こえるのかもしれませんね」
近くにいたから…秋山さんの時はそうだったかもしれない、触れるほど近づいたのは俺だけだった。
でも、大井さんの時は、田中だって、同じくらいの距離にいた。
「なぜ、聞こえる人間と聞こえない人間がいるんだ?」
死神は平然と答える。
「その音が聞こえるのは、当事者だけですから」
「当事者?」
「私の愛しい列車を汚した輩だけということです」
は…?
「それ、俺が自殺したって言ってんのか?」
そんなのありえない。
「どうでしょうねぇ」
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
日が沈み、街の明かりがまばらに灯り始める夕暮れ時。
俺の背後を、音を立てて列車が通過していく。
俺は、この光景を知っている。
思い出した…。
俺はあの時、自殺が多発しているという噂の、この駅に取材に来ていた。
現地写真を撮っていた時、たまたま、ブツブツと独り言を言いながら爪を噛み、今にも飛び込みそうな雰囲気の男を見かけて…。
お節介にも、そいつの前に割り込んだんだ。
「違う!俺は自殺じゃない!俺は押されたんだ!事故だったんだよ!!」
俺の必死の訴えに、死神は腕を組んで口元に手を当て、黙り込む。
考えてる…のか…?
しばらく固まった後、死神は、こてん。と、首を傾げ、俺を見る。
「それ、私に関係あります?」
相変わらず口元は笑っているが、目が笑っていない。
「そんな…だって、俺は…」
「貴方が何を主張するつもりかは知りませんが、列車を汚した事実は変わりませんよね?」
なんだよ、その理屈…。
「そんなの理不尽だろ!!」
カッとなった俺は、勢い任せに死神の胸ぐらを掴む。
「おやおや」
死神は、やれやれ、とでも言わんばかりに首を緩く振ると、俺を無表情で見据える。
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
「!?」
電車の音が聞こえる。
おかしい。さっきの電車は通過したし、目視できる範囲に電車の影はない。次の到着も3分後となっている。
じゃあ、この音は…。
「私をどうこうしようとするのは、賢明とはいえませんねぇ。死期が早まるだけですよ?」
死神は、困ったように笑いながら、胸ぐらを掴んでいる俺の手を指差す。
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
嫌だ。音が近づいてくる。
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
嫌だ嫌だ嫌だ…!!
「!!」
死神は、パニックになった俺の手を指で弾き、俺は慌てて胸ぐらから手を離した。
もうあの音は聞こえない。
「ふふふ、セーフ、でしたねぇ」
楽しそうに目を細める死神に、何か言わなくてはと言葉を探す。
くそ、何を言えば…。
タタン、タタン…。タタン、タタン…。
反射的に肩が震える。
「おや、来ましたね」
死神は立ち上がり、線路の奥に視線を送る。
なんだ、本物の電車か…。
「おやおや、酒井さんは意外と怖がりさんだったんですねぇ」
上品な老紳士然として、死神はくすくすと笑う。
こいつ…。
「今日もいい画になりそうですねぇ」
カメラを構え、撮影を始めた死神の邪魔にならないよう、反射的に電車との対角線を開ける。
くそ、そんな必要ないだろ俺。
「ふふ、恐れ入ります」
死神は角度や立ち位置を変えながら、上機嫌でパシャパシャと撮影していく。
「うん、今日もうちの子は素晴らしい」
くるりと死神が俺に向き直る。
「ではそろそろ、私は失礼しますね」
帽子をとり、微笑んだまま、死神は俺に一礼する。
俺を殺すつもりのくせに、呑気に挨拶してんじゃねぇよ…。
何か言わないと、このままじゃ俺は…。
言葉を探す俺を尻目に、死神はさっさと電車に乗り込み、端の席に腰を下ろす。
俺も乗り込むべきか?いや、乗り込んでどうする…。
「うわ!もう電車来ちゃってる!!」
バタバタとホームに駆け込む田中。
「あ!平坂さんもいる!お疲れ様っすー」
電車の中に手を振る田中に、死神は帽子をとり、会釈を返す。
この状況、何から説明すれば…。
「あれ、酒井さん、なんか具合悪いっすか?」
「いや…そういうわけじゃ…」
思考がまとまらないうちに、発車ベルが鳴り、死神を乗せた電車は、時刻表通り出発してしまった。
…だめだ、まとまらない。
こんな話、どう記事にしろっつうんだよ…。
ーー
「はー…すごいね、これ、超大作」
俺の記事を読み終えた編集長は、椅子にもたれて天を仰ぐ。
「いや、これは…」
「わかってるわかってる、酒井が書いたってことは、これ全部事実なわけだろ?」
「はい」
超大作、なんて言うから、信じられなかったのかと思ってしまった。
「だよね。まぁ、お前が書いたんじゃなきゃ俺も信じないよ、こんなの」
そう。これを事実と認めてくれるのは、俺をよく知る人たちくらいだ。
いや、その人たちですら、信憑性を疑うかもしれない…でも…。
「たぶんフィクション扱いされるだろうけどさ…」
改めて記事に目を通し、編集長は膝を打つ。
「いいよ、出そう」
「!」
「これはお前の取材成果なんだから、ちゃんと胸を張れって、お前らしくもない」
赤ペンでサラサラと誤字脱字を修正し、編集長は原稿を俺に返す。
「ほい、確認完了。明日の目玉記事で予約投稿よろしく!」
「っ…はい!」
思いの外、大きな声が出てしまい、そそくさと自分のデスクに戻る。
らしくない。確かにそうだったかもしれない。
改めて文字として記事に起こしてみて、俺も自分が体験していなければ信じられないほど荒唐無稽すぎる読み味に、いつのまにか弱気になってしまっていた。
そうだ、俺はちゃんと取材した。何も怯むことはない。
「酒井がいいお返事だと、なんか調子狂うから、なるべく早く元に戻ってね?」
「え」
いいお返事って…ガキか俺は…。
「そーっすよ!さっさといつもの自信取り戻してくださいよ。なんか言われたら、田中もいましたって書いてくれていいすから!」
「いや、それは書かないでね、信用落ちるから」
「ちょ、俺の扱いひどすぎません!?さすがに傷ついたんすけど!」
ぎゃーぎゃーとやりあう2人を眺め、日常を実感する。
あの音が聞こえるまで、こうやって、いつも通り暮らす道もあるのかもしれない。
でも、俺は違う。
このまま大人しくやられてやるつもりはない。
幸いと言っていいのか悲しむべきか、今の俺に恋人はいない。
だから、結婚出産などという一般的な幸せの絶頂とは無縁だ。
警戒すべきは宝くじくらいか…?
幸い死の法則は判明している。あとはそれを覆すだけだ。
生存者に警告はしたが、幸せの絶頂は、自分でコントロールできるとは限らない。
ふとした瞬間に感じた幸せが、彼らの死に繋がるかもしれない。
かといって、些細な幸せも避け、不幸に暮らせとも言えない。
彼らのためにも、俺がなんとかしなくては…。
大丈夫、まだあの音は聞こえない。
大丈夫、まだ俺には、時間がある。
ーー
おや、貴方は…。
え、今が一番幸せ、ですか?
それはよかったですね。
大丈夫、貴方の番は、まだですよ。
ふふ、貴方はもっと幸せになりますよ。
その時が楽しみですね…。
なろう初投稿は、事実が大好きなオカルト記者と、電車が大好きな死神おじいちゃんと、ご飯が大好きなパンダのお話でした。
ご賞味いただき、ありがとうございましたー。
公式企画「夏のホラー2026」、テーマは「音」ということで、読了後に「音」が残りそうなホラーに挑戦させていただきました。
とってもワタクシゴトですが、お腹がすいてたせいか、なかなか飯の比率が高いので、ちゃんと怖くなってくれたかどうか…。
この作品自体はこの一本で完結ではあるんですが、この後、後味が残るホラーは苦手だよーって方向けの蛇足をお届けする予定でおります。
ホラーとは?になりかねない、とっても蛇足感のある仕上がりではあるので、お好みでお召し上がりいただけたらなと。
なんだかんだで小説家になろう初投稿です。
今後も何かしら、ちょこまか投稿できたらなと思っておりますので、気が向きましたら、今後ともどうぞよろしくお願いします。
それでは、お粗末さまでした。




