89話「旅人の日記①」
「これって、誰が残したものなのかしら? えっと……っ、言語はなんだろう?」
地面に描かれた模様が異な雰囲気を醸すマーヨ・テ・マウーテ岩石群の最奥地。円状になって場を囲っている岩壁に彫られた文字は、父とともに旅をして、様々な知見があるエーダでも読み取れなかった。ユーシャを見やる。のほほんとした彼の表情は『わからない』の五文字を全面に押し出していた。
あっ──! 岩壁の文字をまじまじと見ていたマジュから脊髄反射のような声が上がった。
「これ……ここらの地域で昔使われていた言葉かもしれないわ。現代語と同じ文法が所々ある」
私、読めるかも──マジュは頼もしい事を口にした。どうやら家庭教師の役目も担っていた聡明なメイドから、幼い時分に教わった事があるようだ。ユーシャ達が見守る中、マジュは時間をかけて文を自分の頭に落とし込み、たどたどしくも一字一句しっかりと読み上げていった。私の名は──。
『私の名はダーハート。この地に眠ると云われている精霊の力を求めてやってきた』
マジュの背中をじっと見ていたフアムが反応する。
「……もしかして、日記、なのかな」
「うん。それっぽい始まりだよな。ここに来た旅人かなんかが書き残したんだろうな」
小首を傾けながらそう言ったフアムにユーシャも頷く。エーダは真剣な表情のマジュの顔を見つめ、視線の先の彼女は、続きを口にした。
『精霊の力を求める理由は一つ。昨今復活したとされる魔王なる存在に起因する』
マジュいわく、岩壁に彫られた文字、文法は何百年ほど前に使われていたものらしい。つまりは現在のユーシャ達と同じように、魔王が復活して世界の危機に直面した遥か昔、ダーハートという人物がここに訪れたというわけであった。
「この人もユーシャと同じような立場かもしれないね」
「そうね。気軽に来れるような場所じゃないし、きっと世界を救おうとする正義感からここを訪れたのね」
『──世界征服を企む魔王に怯えるあの子の前で頼れる所を見せつけて彼女を何がなんでも抱く所存だ』
「いや、多分下心っぽいぞ!」
……。正義感などとんでもない。好きな女を抱く──ただそれだけのために、下心を推進力にした旅人は迷路のような岩石群を抜けて精霊のもとへやってきたのだった。
──ただ、精霊の力を求めたのはそれだけが理由ではないようだ。岩壁の文を追っていくと、魔王は勿論の事、突如現れた勇者と呼ばれる存在も動機になっているようであった。
「『彼女はどうやら勇者だのなんだのと呼ばれてちやほやされている胡散臭い、脇も口も臭そうな男に惹かれているようだ』だって。なんだかこの人ものすごい醜くて情けない感じがするわ」
岩壁に彫られた文字を読む事に徹していたマジュだったが、他人を悪く言う男の器の小ささに、ついに我慢できずに私見を挟んだ。
「ふーん。その事と精霊の力を求めるってのがどう関係するんだろうな」
「えーと……あぁ、多分これね。その、勇者って呼ばれている人が精霊の力を身に付けているみたいよ」
「──! え? ちょっと待ってっ! それってどういう事っ⁉」
エーダはマジュが何気なく言った文言に思わず声を荒げた。何とも狭量で醜悪を煮詰めたような男の日記の中に、魔王討伐の旅をするユーシャ達にとって見過ごせない重要な一文がつづられていたのだ。精霊の力を身に付けている──その言葉が示す、容易に推測できる事実は、一行の期待を大きく膨らませた。
「身に付けるって事は、もしかして私達も精霊の力を使えるようになるって事っ?」
「おー! よーし、ここに来た甲斐があったな!」
「マジュ、ここの精霊の事とか他に書いてないの?」
気が急くフアムをマジュは制する。まずは順を追って器の小さい男の日記を読んでいこうというのがマジュの意向であった。昔の文体に慣れてきたのか、話の先を淀みなく読み上げていく。
『あの男は容姿秀麗で恰幅が良く、有名な博士にも引けを取らないほどの知識を持ち合わせているそうだ。だが、私とて容姿も肉体も勝るとも劣らない、いや、頭脳ならばむしろ私の方が上であるはずだ。ならば、やはりモテる最大の要素は精霊を味方につけている事なのだろう。絶対にそうに違いない。そうでなければ私がモテない理由がない。絶対にだ』
「──この人、何だか現実逃避してないかしら?」
「人間の小ささがこの人の最大の要素なのかもね」
「こいつがモテるよりも天地がひっくり返る方がよっぽど現実味あるわよね」
……。ボロクソな論調の女性陣だった。ユーシャは暢気に、そして他人事のように眺めていた。王族の生まれというのが関係しているかはわからない。だが、ユーシャはマイペースで他人と張り合う事をしない性分だからか、旅人が記した自身の優位性を主張する内容の文章などどうでもいいとさえ思っていそうな態度と表情をしていた。
ちなみに旅人が用いた『容姿秀麗』というのはおそらく眉目秀麗と容姿端麗が混同したものと思われる。肉体と容姿は窺い知れないが、おそらく頭脳は負けているだろう。その証拠はすぐに出てきた。
『彼女のような清廉……いや、せんれい? けったく、セレン……ケツ、白? 何だったか……何と言うんだっけか。まあいい。とにかく彼女には股間どころか足まで臭そうなあの男なんかよりも私の方がよく似合う』
清廉潔白もすっと出てこないアホ臭い旅人は驕慢という言葉がよく似合う。
理由や動機はともかく、旅人は厄介なほどに目を見張る行動力でここまでやってきた。おそらく最奥地に辿り着いたであろうその日の日記が、熱量高いままに締めくくられていた。
──私は、必ず精霊の力を身に付ける──。
『あぁ、彼女の体を揉みしだきしゃぶりつくす日が楽しみだ』
「品性下劣じゃねえか」
清廉潔白とは対極も甚だしかった。
ねえ──マジュがユーシャ達に声を掛ける。
「やっぱり要点だけ抜き出して話すわ」
不純な理由で精霊の力を求める旅人・ダーハートの醜悪さに不快感が限界に達したマジュは、あっさりと前言撤回した。




