第一話 幼い王子
王城の廊下を、小さな影が駆けていた。
「シリウス様!お待ちください!」
背後から侍従の声が飛ぶ。
シリウスは振り返らない。
廊下を駆け抜け、角を曲がる。
「こちらです!」
反対側から別の侍従が現れた。
「しまった!」
シリウスが急停止する。
そのまま方向を変えようとした瞬間――
「シリウス様」
肩を掴まれた。
「捕まえましたよ」
若い騎士だった。
その襟元には、第一部隊の徽章が留められている。
「放せ、ローラン!」
「放しません」
「外へ行くんだ!」
「授業があります」
シリウスが頬を膨らませる。
「城の中はつまらない!」
「昨日も聞きました」
「一昨日も言った!」
「知っています」
ローランは淡々と答えた。
シリウスは腕を振りほどこうとする。
しかし、ローランの手はびくともしない。
「剣の稽古!」
「その前に歴史と算術です」
「嫌だ!」
「では、さらに一つ増やしましょう」
「なんでだ!?」
シリウスは目を丸くして叫ぶ。
ローランは小さく笑った。
「シリウス様。逃げる時間があるなら、勉強はできます」
「……」
「それと」
ローランが目線を合わせる。
「今日は午後から外へ出ます」
その言葉に、シリウスは目を瞬く。
「……本当?」
「ええ」
シリウスの顔がぱっと明るくなった。
「街か?」
「街です」
「やった!」
「ただし」
ローランが指を一本立てる。
「今日の勉強を終えてからです」
「……」
シリウスの顔が再び曇った。
午後。
王都の大通りを、二人が歩いていた。
ローランの隣で、シリウスは忙しなく首を動かしている。
「あれ何だ!」
「市場です」
「あれは?」
「鍛冶屋です」
「あっちは?」
「パン屋です」
「じゃあ、あれは!」
「宿屋です」
シリウスは次々と指を向ける。
ローランはそのたびに答えた。
王都の地理。
商人の仕事。
職人の暮らし。
聞かれれば、分かる範囲で説明する。
「これは?」
シリウスが露店の値札を指差した。
「三十ルクです」
「三十……?」
シリウスが首を傾げる。
「……算術を覚えれば買えるのか?」
「そうですね」
「じゃあ算術やる!」
ローランが目を丸くする。
「……今、何と?」
「算術!」
「先ほどまで嫌がっていましたが」
「外で使えるならやる!」
シリウスが胸を張って笑う。
ローランはしばらくシリウスを見つめた。
「……では、帰ったら問題を増やしましょう」
「えっ」
「三十ルクですから」
「嫌だ、減らせ!」
ローランが笑った。
その夜。
自室の机に、一冊のノートが開かれていた。
これは、ヴィオラの指示で始めたものだった。
外へ出た日は、その日に見たものや聞いたことをノートに書く。
分からなかったことがあれば、それも書いておく。
シリウスは椅子に座り、今日見たものを思い出しながら鉛筆を走らせていた。
「これ、何て書く?」
「市場です」
ローランが文字を示す。
「こう?」
「はい」
シリウスが一文字ずつ書いていく。
市場。
鍛冶屋。
パン屋。
剣。
その横には、今日ローランから教わったことも書き加えられている。
ローランはノートを覗き込み、少し目を細めた。
「……勉強を嫌がる割に、こういうのはちゃんと書くんですね」
「ヴィオラ卿に言われたからな」
シリウスは鉛筆を動かしたまま答える。
「ヴィオラ卿はよく怒るけど」
そこでシリウスが顔を上げた。
「俺の話はいつも最後まで聞いてくれる」
ローランが目を瞬かせる。
シリウスは再びノートに視線を戻した。
「だから、ちゃんと書くんだ」
最後の文字を書き終える。
シリウスはノートを閉じた。
「終わった!」
「では、明日の勉強を――」
「ヴィオラ卿に見せてくる!」
シリウスは椅子から飛び降り、ノートを抱えた。
「シリウス様、もう夜です」
「すぐそこだろ!」
扉へ向かって走り出す。
「シリウス様!」
ローランも慌てて立ち上がった。
廊下へ飛び出していく小さな背中を、ローランが追いかける。
別の日。
シリウスはセレナの部屋へ駆け込んだ。
「姉様!」
「どうしたの?」
「この前の劇がな、すごかったんだ!」
両手を広げながら、舞台の場面を再現する。
「ここで剣を抜いて、こうなって――最後に!」
「ふふ」
セレナが笑う。
「そんなに面白かったの?」
「うん!」
「……なら、戯曲を読んでみたら?」
「ぎきょく……?」
「劇のシナリオが書かれた本よ」
「読めるの?」
「文字を覚えればね」
シリウスが黙る。
そして、セレナを見る。
「……読む!」
シリウスはすぐに本棚へ駆け寄った。
「どれ?」
「ふふ。まずは文字の本からね」
「うん!」
シリウスは笑って頷く。
それを見て、セレナも微笑んだ。
ある日の訓練場。
乾いた音が響く。
木剣と木剣がぶつかった。
「そこです!」
ローランの声が飛ぶ。
シリウスが踏み込む。
レオニスが木剣を受けた。
シリウスは一歩横へ回り、低く身を沈める。
次の瞬間、木剣がレオニスの腕を捉えた。
「……勝った!」
シリウスが木剣を掲げる。
「強くなったな」
レオニスが笑う。
「もっとやろう!」
「今日はもう十分だ」
「兄様はまだできるだろ!」
「できるが、明日もある」
「……じゃあ明日だ!」
シリウスが笑う。
レオニスも笑いながら木剣を置いた。
「お前には敵わないな」
それからいくつも季節が過ぎた。
シリウスは背が伸び、城や街を歩く歩幅も少し大きくなった。
執務室へ向かうレオニスの姿も、見かけるようになった。
ある日、レオニスの執務室の前を通りかかったシリウスは、開いた扉の向こうに兄の姿を見つけた。
机の上には何枚もの書類が並んでいる。
レオニスは議員たちの話を聞きながら、書類に目を通していた。
「では、その件はこの内容で進めてください」
「承知いたしました」
議員たちが一礼する。
「失礼いたします」
次々と頭を下げ、部屋を出ていく。
最後の一人が扉を閉めると、室内が静かになった。
シリウスは扉の脇に立ったまま、兄を眺めていた。
レオニスが顔を上げる。
「どうした?」
「……兄様は何でもできるな」
レオニスが少し笑う。
「そうでもない」
「剣もできるし、勉強もできるだろ」
「お前だって剣は強い」
「でも、俺は兄様みたいにはできない」
レオニスはシリウスを見つめた。
少しだけ間を置いて、笑う。
「お前にしかできないこともあるだろ」
「俺にしか?」
シリウスが首を傾げる。
「お前は、お前のやり方でいいだろ」
「……俺のやり方」
「そうだ」
シリウスの顔に笑みが戻る。
「そうか、俺のやり方か!」
それから数日後の夜、ノートを抱えたシリウスが、 ヴィオラの執務室を訪ねた。
「ヴィオラ卿!」
「あら、シリウス様」
机に向かっていたヴィオラが顔を上げる。
「今日の分、書いたぞ!」
シリウスがノートを差し出す。
ヴィオラは受け取ると、ページをめくった。
市場で見た商品の値段。
ローランから教わった算術の問題。
街で聞いた話をまとめた短い文章。
別のページには、演劇について書かれている。
さらに別のページには、剣術の構えや稽古中に気づいたこと。
ページをめくるたびに、シリウスが興味を持ったものが並んでいた。
「きちんと書けていますね」
「本当?」
「ええ」
ヴィオラが頷く。
「では、明日も待っていますよ」
「うん!」
シリウスは満足そうに笑い、返されたノートを胸に抱えた。
そのままヴィオラの執務室を出ようとした、そのときだった。
廊下の向こうから、貴族たちの話し声が聞こえてきた。
「落ち着きがない」
「レオニス殿下やセレナ殿下は優秀だというのに」
「放浪王子ですな」
シリウスの足が止まる。
腕の中のノートを、ぎゅっと抱え直した。
ヴィオラが隣を見る。
「どうしました?」
「……別に」
シリウスは顔を上げ、廊下の先へ目を向けた。
そして、ぽつりと口を開く。
「兄様や姉様みたいになれないなら」
ヴィオラは黙って聞いている。
「俺は俺で、何かできるようになればいいんだろ」
ヴィオラは足を止めた。
「……ええ、そうですね」
シリウスが振り返る。
「あなたが王を目指す必要はありません」
「……うん」
「ただ――」
ヴィオラがまっすぐにシリウスを見る。
「王族として何ができるのか。それは考えなさい」
シリウスはしばらく黙っていた。
やがて、ノートを抱え直す。
「……分かった」
ヴィオラが小さく微笑む。
「よろしい」
シリウスは頷き、廊下へ出る。
またある日の夕方。
街から戻ったシリウスは、王城の中庭を走っていた。
「ローラン、早く!」
「シリウス様、お待ちください!」
「なあ、明日はどこへ行く?」
「明日は勉強です」
「えー!」
「今日、十分遊んだでしょう」
「いや、遊んでない」
シリウスは振り返る。
「街で、勉強した!」
ローランが足を止めた。
「……そういうことにしておきましょう」
「よし」
シリウスは笑って、また走り出す。
「シリウス様!」
ローランが追いかける。
少し離れた回廊から、二人がその姿を見ていた。
「元気ね」
セレナが笑う。
「元気すぎるな」
レオニスも笑った。
夕暮れの中庭を、シリウスの足音が遠ざかっていく。
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