花嫁女学校の記録係
さんざんテンの尻尾を撫でる時間を与えてもらうと、すずりは呼んでもらった人力車に乗って、女学校へと朝帰りをした。
“著しの儀”によって得た報酬である辞書は、昨日のうちに持ち帰られたと聞いている。
だからすずりは、理事長室から借りた洋書三冊と、にこりともしない衛藤が詰めてくれたビスケットのバスケットと、そしてきれいに水洗いされ、乾かされた愛用の硯を布に包んだのを膝の上へとのせて、車に揺られた。
校門の前で下ろしてもらい、荷物を抱えて門をくぐる。
花壇の前から校舎を見上げるが、授業中まっさかりの時間帯だ。教室の窓から見下ろす誰かと目が合うこともない。
寝ジワの寄った着物で歩くには明るすぎるお天道様の下、すずりは花壇をぐるりと回って講堂を横目に、寄宿舎のほうへ歩いていく。
昨日の朝食を食べて以来、ご無沙汰だった食堂からは、ぷうんとお出汁の匂いがただよってくる。
(今日の昼食は関西風のおうどんかもしれないわ)
くんくんと鼻をうごめかせると、つい先ほどまでお茶碗五杯の朝食をいただいていたはずのすずりの腹の虫がぐうと鳴った。
食堂の前も通り過ぎ、建物と生い茂った木々が入り口を隠すように守っている寄宿舎の玄関へとたどりつく。
ひとけのない、がらんとした寄宿舎の玄関で編み上げブーツを脱ぎ、決まった場所へ仕舞うと、ようやくホッとひと息つくことができた。
花夢女学校へと入学し、寄宿舎での生活を始めてまだ、ひと月にもならない。
それでもいつの間にか、寄宿舎は帰る場所、息のつける癒しの場になり始めたのだった。
(どれだけ華やかなお菓子が提供されようとも、医務室のベッドの寝心地がよろしくても、そしてテンがいたとしても、理事長邸では寛げないわ)
足袋で軋む廊下を歩きながら、ブーツを履いたまま歩いた、鷹峯時計製造株式会社の磨き上げられた廊下を思い起こす。
日曜日に突如呼び出され、理事長と校長という女学校の最高権力者に、なぜ加賀の令嬢たちの和歌から“著しの儀”を行ったのか、問い詰められた。
答えに窮しているすずりに持ちかけられたのは、一転、冬斗の母の手紙と日記から“著しの儀”を行うことだった。
冬斗に求められたのは“もし母が今生きていたら、今の自分にどんな言葉をかけるのか”だった。
もう会うことがかなわない、故人の言葉を求める──。
大江の家で小遣い稼ぎをしていた頃から、同じような依頼はいくつかあった。
だが今回、その手蹟を確認するために与えられた手紙と日記の量は膨大だった。
そして、依頼主とその母親は、本来は公式記録に載るべき貴いあたりの方々である。
“著しの儀”が導き出す「答え」、といって良いのだろうか。
溢れ出るままに書き殴り、手蹟が変わった果てに、最後の一文を書き上げると、すずりは眠ってしまう。
今回、手助けをしてくれたさち子は先に女学校へ戻り、冬斗からは礼を言われたきりで、著した「答え」を、すずりはまだ知らない。
(急いで知らなくても良いことだわ)
実は大江の家と縁のあった冬斗の過去は、すずりの記憶の曖昧な部分とおおいに関係があると確信している。
“著しの儀”ではなく、冬斗の母の日記と手紙を一言一句読み進め、そして大江の家へ帰って文鎮に問い糾せば、長年抱えていた違和感も解消されるのだろう、が。
(でもそれは、たどるべき道ではない気がする)
落ちぶれたとはいえ、不自然なほど大江の家に一冊もなかった、憧れの洋書。
それが、冬斗によってもたらされた。
まずはそれを、この大江の血が流れる身体の中へと放り込んでみよう。
すぐに何かが起これば良し、起こらなかったとしたらまた別の方法を探してみれば良い。
それくらいのおおらかな気持ちでいないと、この件はあまりにも壮大すぎて、自分ひとりでは受け止めきれないような予感が、すずりにはしていた。
(理事長ご依頼の“著しの儀”も、とても消化しきれていないし)
寄宿舎に戻ってもまだ、すずりの身体の端々に、あの海のように深い愛情が残っている。
朝食の席で向かい合った冬斗の、ふっきれたような、清々しい表情。
“著しの儀”は、依頼主の期待にいくばくか応えられたのだろう。
外遊で母の死に目に立ち会えなかった青年の胸に空いた、穴のひとつくらいは埋められたのかもしれない。
良い仕事ができた後は、寝ても寝ても眠く、食べても食べても腹の虫が鳴くのだが、心だけは晴れ晴れとする。
すずりは口元を緩めて、さち子とともに起居する、鈴蘭の間のドアを開けた。
「ただいま戻りました」
返事がないことはわかっている無人の部屋のドアを開け、ベッドを通り過ぎ、勉強机へとすずりは向かう。
腹の虫を目覚まし代わりに、もうひと眠りしよう。
そして、食堂で落ちあって、さち子と分け合ってビスケットをいただこう。
そんなふうに計画を立てていたすずりの視界に、勉強机に立てかけたスケッチブックが飛び込んでくる。
(どうしてこんなところに?)
手にしていた荷物を置き、パラリとスケッチブックを開く。すると、入学式の際に講堂の椅子に置かれていた黄色い雛菊を、押し花のしおりにした頁にたどり着いた。
「えっ?」
すずりは思わず、声を上げる。
しおりの挟まれた頁には、眠るすずりを横抱きに抱き上げる、冬斗の姿が描かれていた。
単色の鉛筆によるスケッチであっても、今にも動き出しそうなその画力は、あきらかにさち子のものである。
(……さち子さんたら、何を考えているのかしら)
いや、考えることなく、手の動くままに描き上げたのだろう。
さち子はそういう人だ。
(それならそれで、ますます……)
いや、ますます、なんなのだろう。
答えが出ないまま、すずりは鉛筆で描かれたモノクロの自分と冬斗の姿をしばらく眺めると、ぱたんとスケッチブックを閉じた。
(これ以上なにも考えられない)
そして眼鏡も外し、そのままベッドへごろんと転がる。
「おやすみなさい。よろしくね」
先ほど食堂を通り過ぎた際に嗅ぎつけたお出汁の匂いを思い起こし、腹の虫へと話しかけながらすずりはまぶたを閉じた。
***
『この花夢女学校の記録係になってもらいたい』
静かに響く冬斗の言葉に、すずりはそれが、記憶なのか、夢なのかわからなくなる。
久しぶりに、良い筆になりそうなテンの尻尾を存分に撫でた感触は、ありありと手に残っていた。
記録係。それはすずりが生まれた、大江の家が代々務めてきた役割である。
時代の変化についていけず、落ちぶれ、今ではその役割があるのかもあやしいものだったが。
「……それは、ここで学ぶ女学生たちの手蹟を集め、片っ端から“著しの儀”をしろとおっしゃっているのかしら。将来のお妃と女官候補の素行調査をせよと?」
すずりはつい、眉間にしわを寄せて睨みつけてしまうが、冬斗は軽く手を上げる。
「それは校長たちのほうが適任なはずだ。君の能力をそのように用いる必要はないし、わたしもそういった情報は求めていない。自分のために“著しの儀”を行ってもらって、それが明確になった」
「では、どういったことをお求めなのでしょう」
すずりが畳み掛ければ、冬斗の視線が宙をさまよう。
それは誤魔化しではなく、思考の整理のための猶予を稼ぐための仕草だったようだ。
「君が著すものに興味がある、といえば良いだろうか。この先また、女学生の誰かしらについて、“著しの儀”を行ってもらう機会があるだろう。それによって導き出される情報は、おそらくその時に、著されるべきものなのだろうから」
「……抽象的で、よくわかりませんわ」
眠気の残る頭で、咀嚼されない情報への不愉快さをそのまま表情に出せば、冬斗は緩んだ口元を手のひらで覆い、横を向いた。
目尻に寄ったシワに、すずりの胸はまた妙な感覚を覚える。
むずむずして落ち着かないすずりの胸の前に、冬斗は手にしていた荷物を差し出した。
「それは君に“著しの儀”を依頼した者しか、わからない感覚なのかもしれない。こちらはまた、新たな洋書を揃え、衛藤に洋菓子を焼かせよう。テン君の尻尾を撫でに来たついでにでも、気が向いたら理事長室へも寄ってくれたら良い」
新たな洋書と洋菓子、そしてテンの尻尾の提案に、むずむずしていたすずりの胸がときめく。
だが、それを悟られないよう、わざとそっぽを向いて言った。
「万一その気になった時に備えて、こちらへおうかがいする際には、硯を持参するようにいたしますわね」
それは決して積極的に引き受けた言葉ではなかったのだが──。
目の前の冬斗がその不可思議な灰色の瞳を見開き、春を待ちかねた植物の芽吹きのような笑みをわかりやすく浮かべたものだから、まあ、気が向いたら筆を取っても良いかと思ってしまった。こうしてすずりは、理事長の冬斗から直々に依頼された花夢女学校の記録係の任を引き受けたのだった。[第一部・完]
ここまでお目通しいただき、本当にありがとうございました。
第二部も一応執筆しておりまして、ある程度まとまったら、いずれこちらにも投稿させていただくことがあるかもしれません。
その際にまた、お目にかかることができれば幸甚です。




