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栗きんとんの失踪

 麹町にある大江おおえの家の客間で、硯の上で墨を滑らせる音が静かに響いている。もうだいぶ長いこと磨り続けているようで、硯の上の液体はとろりと黒く濁っていた。

 

 開け放たれた障子の向こう、縁側越しに見える紅葉した木々の隙間から、ぴちちと鳥のさえずりが聞こえてくる。そんなのどかな昼下がり、大江の家の客間には年齢も性別も異なる四名が同席していた。


「というわけで、もう二十日も家内が帰ってきておりませんし、菓子作りの若い衆がひとり姿を消しています」


 そう述べたのは上座に座った初老の男で、大江の家でもよく利用する老舗和菓子屋「しぐれ堂」の店主である。しぐれ堂の名物は栗きんとん。前の年から予約しておかないと買えないくらいの人気商品だ。店主はきちんと正座した膝の上で手を揃えてはいるが、その顔は憔悴しきっていた。


「あらかじめお願いしておいたものは、お持ちいただけましたか」


 店主に問い掛けたのは、着物の下にシャツを着込んだざんぎり頭の書生風の青年で、名を青墨あおずみという。無愛想というのでもないが、感情の機微が読み取れないほどの無表情で、声にも抑揚がない。その問いに店主が答える代わりに、隣に控えていた手代の男が、風呂敷包みを差し出した。


「失礼します」


 シュッシュと音を立てて、ためらいなく青墨は風呂敷包みを解く。

 すると中から、黄色地に小花模様のかわいらしい表紙の帳面が出てきた。

 しぐれ堂の店主の片腕が持ち上がるが、察したように青墨はそちらへ顔を向けた。


「ご心配なく。自分がこれに目を通すことはありません」


 さざなみひとつ立てない穏やかさで言われ、しぐれ堂の店主は持ち上げた腕を下ろした。青墨は立ち上がり、文机で墨を磨り続けていた少女のところへ向かう。


 麻の葉模様の銘仙を着て、背中のあたりまである髪を大きなひとつの三つ編みにまとめている。三つ編みの先には葡萄茶色のリボンを結び、束ねた毛先は海老の尻尾のように跳ねていた。

 

 顔の半分を覆うほどの大きな眼鏡をかけており、背中は猫背ときているから、近眼は間違いなしだろう。ひたすら墨を磨り続ける動作を繰り返したからか、まぶたは半分ほど垂れ落ち、放っておくと船を漕ぎ出しそうだった。


「すずり」


 青墨が声をかければ、それまで規則的に動いていた硯箱の上の手が止まった。正面に帳面を置くと、青墨は開け放っていた障子をひとつひとつ閉めていく。その間に、すずりと呼ばれた少女は磨っていた墨を持ち上げ、手巾でその先を丁寧に拭った。


「大江のお嬢様、それが家内の日記でございます。時期を同じくして姿を消した若い衆と恋仲であったようでして、目もあてられないほど恥ずかしいことを赤裸々に書いております。それでも恥を忍んでお見せしますので、どうか家内の居所を見つけていただけましたら」


 そう言うと、しぐれ堂の店主は畳に手をついて頭を下げた。手代も主人に遅れてそれに倣う。すずりはうなずき、顔の半分以上を覆っていた大きな眼鏡を外し、硯箱の隣へとことりと置いた。そうして丁重な仕草で、黄色い表紙の帳面を手に取る。


「はばかりながら」


 店主のほうへ軽く会釈すると、ぱらりと表紙をめくる。それを機に、とろんとしていた瞳が、カッと大きく見開かれた。

 

 すると、つい先ほどまでとは比べ物にならないほど鋭い眼光をたたえた瞳が、めくる日記帳の頁に注がれる。頁をめくる速度は手慣れた職人が動かす機織り機のように速く、どんどん先へと進む。


「あんなに速くめくって、中身を読んでいらっしゃるのでしょうか。おまけに眼鏡は外してしまったようだし」


 障子を閉め終えた青墨に店主は尋ねるが、青墨はひとさし指の先を唇にあてるだけだ。そして、日記帳に没頭するすずりの足元から、目が覚めるほどに鮮やかな朱色の毛氈を取り上げた。それを慣れた手つきで、勢いよくひと息に畳の上へと広げると、客間の端から端まで届くほどの長さがあった。


 さらに青墨はその上へと巻紙を落とし、毛氈の端まで転がす。文机から硯箱を下ろして運び、毛氈の右上へ、巻紙がずれないよう重しを置いた。


 和菓子屋の店主も手代も膝の上へときちんと手を揃えて、青墨の一挙一動とすずりが高速で頁をめくり続けるのを交互に眺めている。


 そうしていよいよ最後の頁へと辿り着き、華奢な指がぱたんと帳面を閉じると。すずりはまぶたを閉じ、膝の上で手を重ねる。


 神経を集中していることは同席した者にも察せられたのだろう、店主も手代も固唾を飲んで見守った。眼鏡と日記帳が置かれた文机を端に移動させ、青墨が柱に寄りかかるようにして待機すると。


 突然まぶたをぱちりと開き、すずりはすうっと息を吸い込みながら筆を取り上げる。ばさりと銘仙の袖を払い除けたかと思えば、巻紙にぶつかりそうなほどの距離まで顔を近づけ、一心不乱に文字を書き綴り始めた。


 何を書こうか思考するそぶりを見せることもなく、一気呵成に紙の下部まで筆を走らせては次の行へと進み、筆がかすれたら硯へと筆を戻して墨で潤わせ、また紙へと筆を下ろして書き進めていく。


 まるで取り憑かれたように筆を動かし続けるすずりの様子に、圧倒されていたしぐれ堂の店主と手代だったが──。広げた巻紙の半分ほどに達したところで、はっと気づいて店主が腰を浮かせた。


「あ、ありゃ、家内の手蹟だ」


 信じられないというふうにまぶたをこするが、目の前で繰り広げられる光景は変わらない。店主が口にしたとおり、巻紙の左へ進むに連れて筆跡が変化している。ちらと青墨のほうを見るが、感情の起伏のない穏やかな表情のまま、すずりの筆が走り続けるのを見守っていた。


「さっき帳面を読んだだけで、そっくりそのまま、家内の手蹟を真似られるとは。その前の……、お嬢様ご自身の文字の方がよほど整っているのに」


 そう店主が感心する頃には、すっかりすずりの筆が繰り出す文字の形は別人のものに変わっていた。そうして、これ以上は書く猶予がないほど左端へと近づくと、青墨が右側の重しを置いたあたりへ移動する。すずりの勢いを削ぐことのないよう、うまく巻紙を移動させるのだろう。


 だが、その必要はなかった。ちょうど巻紙の端まで来たところで、すずりはぴたりと筆を止め、向き合っていた紙から顔を上げた。いつの間にか青墨は硯箱を移動させており、すずりは無理のない動作で筆を置くことができた。


 手慣れた、阿吽の呼吸である。しぐれ堂の店主と手代が呆然としながらも、青墨の手助けに感心していると。


「これにて筆仕舞いです」


 そう言うとすずりは額ににじんだ汗もそのままに、こてんと畳に転がった。


「大江のお嬢様!?」

「心配無用。いつものことです」


 淡々と言うと青墨は重しを外し、すずりが書き連ねた巻き紙を拾い上げる。長いそれを引きずるようにして運び、しぐれ堂の店主の前へと置いた。


「結論は左端の最後の部分にまとまっています。長々と書き連ねたものにあまり意味はなく、手蹟を変えて結びにたどり着くまでの思考の過程のようなものだとか」


 青墨の変わらぬ無表情な説明に、店主と手代がごくりと喉を鳴らす。


「文字が読めない方、ご自身でご覧になるのを躊躇われる方の場合は、僭越ながら代わりに読ませていただいております。ご希望がないようでしたら、しばらく席を外しますが」


 店主と手代が顔を見合わせ、お互いに肘で突き合う。その様子に青墨が立ち上がりかけたところで──、店主がその袴を引いた。


「はじめに、目を通していただけますか。青墨さんの口からまず聞かせていただけると、たいへんありがたいのですが」

「……でしたら、はばかりながら」


 日記帳を見る前にすずりが口にしたのと同じ言葉を発し、青墨は巻き紙を拾い上げる。左端の最後の部分へと目を落とし、視線を走らせた。そしてひと呼吸置くと、巻き紙を手にしたまま変わらぬ表情で伝える。


「奥様は、同じ時期に姿を消した男とは一緒にはおられないようです。本来の目的に気づかれないよう、見せかけの駆け落ちをされたのかと」

「本来の目的?」


 店主が乾いた声で問いかければ、青墨はすずりが書き連ねた最後の箇所を指で示した。


「『どうかどうかお許しください。栗きんとんの作り方を記した帳面、少しの間拝借します。そちらさんとは縁もゆかりもない土地での商売でございますから、ご容赦のほど。いつかきっと帳面はお返ししますから、それまで探さないでください』とあります。……たしか、しぐれ堂さんの栗きんとんが他と違うのは、門外不出の秘密の工程があるからですよね。もしそれを記した帳面が実在し、その置き場所をいなくなったふたりのうちどちらかが知っていて、今はその場所にないとしたら──」


 青墨が言い終わらぬうちに、顔色を真っ青に変えた手代が立ち上がった。


「あっしが先に店へ戻ります!」

「た、頼む。なにとぞ……、頼、む……」


 しぐれ堂の店主は顔面蒼白になりながら、障子を開けてぴゅんと廊下を走り出した手代の背中に向かって手を合わせる。遠ざかった足音も聞こえなくなると、畳の上へと手をつき、崩れ落ちた。


「たしかに……、あんな若くて気立ての良い後添えが見つかるなんて……。これで運を使い果たした、狐に化かされたんじゃなきゃいいが、なんて冗談を言っていたが……」


 力なくひとりごちる店主を前に、青墨は潔く巻き紙を引き破る。今ではすっかり墨の乾いたそれをくるくると巻きつけると、店主の前へと静かに置いた。そして、間髪置かずに部屋の外から声がかかる。


「お茶をお持ちしました」


 女中が障子を開け、部屋の中へと入ってきて、作法通り店主の前へと茶を出す。同時にその隙間から、もふもふした生き物がするりと身体を滑らせ、とととっとすずりのほうへと向かった。


 それは清潔に毛並みを整えられたてんだった。長い尻尾の先を揺らしながら近づき、眠っているすずりの頬をちろりと舌で舐める。


 文机の上へ硯箱と並べて残りの巻紙を置くと、青墨は畳に転がったままのすずりを横抱きに抱き上げ、器用に片手で文机の上の眼鏡を拾い上げた。茶に手をつけることもしない店主をそのままに、すずりを抱えた青墨が一礼して客間を出ると、貂がその後に従う。


 女中によって障子は開け放たれ、鳥のさえずりがのどかに響く庭の景色が、ひとり残されたしぐれ堂の店主の前にふたたび披露された。

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