第十八章 一緒にいたいだけだった
楽しかった思い出はたくさんあるはずなのに、なぜだか思い出すのは出会ったあの夜だ。
滑り台の上で月を眺めながら、一緒に〈死ぬやり〉を叶えたいと伝えた。
「私ワガママだよ?」全然気にしないよ。むしろ言ってくれていいよ。
「突然電話したりするかも」いつでも出るから任せて。
「講義休んででも来てくれる?」それは要相談だけど。あー、行くよ。必ず行く。
「……ノートに書いたこと、全部叶えられるかなあ?」二人だったら、できないことないでしょ。
そしてちなは泣き出した。うれし泣きだと、思っていた。
だけど。
全て、俺は自分に都合のいいように解釈していなかっただろうか。
あの日見せた涙が、残された日々への未練だったら。
あと一か月で死ぬとしたら? それが本当にちなを襲っている現実だったら。
水槽の中ででもいいから生きてたい。時折見せる切なげな表情の理由。
ちなには時間がなくて、〈死ぬまでにやりたいこと〉がそのままの意味だったら。
ひどい悪寒がした。呼吸の仕方が分からなくなって必死で息を継ぐ。
「なんで、ちなが消えなくちゃいけないの」
まゆさんは顔を隠すようにキャップを目深に被った。
「そういう治療なの。主人格の〈さよ〉だけを残して、〈ちな〉も私も消える。無理やりじゃないよ? 〈ちな〉だって了承してるんだから」
「まゆさんも消える……?」
「あら、私が消えるのも悲しんでくれるの? ありがとう」
茶化すみたいに言って、いつもちなが明るく振る舞っている姿とやたら被った。
「いなくなるっていうのに、なんでそんな普通でいられるんすか……」
「普通に生きてきた人には分からないかな? ……私たちはね、今日が最後かもなあって思って毎日を生きてきたから、そんなに後悔はないの。きっと〈ちな〉も同じじゃないかなあ」
あと一か月で死ぬとしたら? 俺を救ってくれたはずの言葉が違う形でよみがえる。
「〈さよ〉はいい子だよ。とても繊細だけど、人のことを想ういい子。君は知らないよね、話したことないんだから。でもいい子すぎて結果的に自分の殻に引きこもっちゃった。それを、〈ちな〉と私で支え合いながら、生活を安定させて、ようやく〈さよ〉も一人で健やかに過ごせるようになってきたの。ポッと出てきただけの幹人くんに、邪魔されたくないかな」
「俺は、邪魔なんか、してるつもりなくて」
「あのね、私だって意地悪してるわけじゃない。私たちが望んだの。ようやく〈さよ〉が一人でも生活できるようになってきて、私たちのせいで〈さよ〉がいつまでも解離症状に悩まされるのは見てて苦しかった。そもそもね、〈ちな〉も私も〈さよ〉のために生まれた人格。言ってしまえば偽者。必要ないなら消えるべきなの。それが私たちが長年悩んで決めた未来。〈さよ〉の明るい人生。そこに、私たちは必要ないから」
本物と偽者。空と海。さよとちな。目を逸らしてきた現実が浮かび上がってくる。
「必要ないなんて言い方、悲しすぎるって──」
「そういう同情もいらない。今までずっと最良の方法を考えてきた。これからも三人の人格を分け合って生きていく治療法も選べた。でも、私たち二人は消えることにした。それが〈さよ〉にとって一番いいことだから」
「なんでよ。今まで通り三人で生きていけばいいじゃん。できてたじゃん、俺とも普通に会えてた。このままでいいじゃん」
「──しつこいね君は。ほんと、無知って罪だよね。想像してみてよ。たまに記憶がなくなる〈さよ〉のことを。辛いことがある度に呼び出される〈ちな〉のことを。私は、〈さよ〉が不安にならないように約束を決めて、逐一ノートに書くようにして、内容を必死に覚えて、人間関係が上手くいくように、生活に支障が出ないように、何年もそういう生活を送ってきた。ずっと耐えてきた。君にこの辛さが分かる? それでもこの生活を強いる? ……それにね、人格を分け合うって言うのはね、自分の身体を記憶のない間別の人格に好き放題に使われるってことなの。想像してみて。あーできないよね。分かりやすく言うね。幹人くんが〈ちな〉のことがどれだけ好きで一緒にいたいと思っても、〈さよ〉はそもそも君のことを知らないってこと。意味分かる? 冷静に考えて生活できると思う?」
「だって、ここ最近は生活できてたし──」
「──違うよ。あと少しで〈ちな〉と私は消えるから、最後の一か月だけ決めたルールを緩めてただけ。いわば死ぬ前の思い出作り。本当だったら、こんな風に自由に生活なんてできない。そもそも、もう綻びが出始めてる。幹人くんも昨日ケンカしたんでしょ? あのね、今まで〈ちな〉がそんな不安定になることなかったの。なのに君と出会ってからあんなふうになって。君たちは、最初から出会うべきじゃなかったんだよ」
何も言い返せなくて、代わりにぼろぼろと涙が出てきた。
ちなに寿命があるなんて分からなかった。楽しそうな雰囲気に引っ張られるだけで、彼女を知ろうとしなかった。彼女の苦しみを少しだって考えず、自分に都合のいいことばかり求めていた。
「──ちながいなくなるなんて考えたことなかった」
「だから。そうやって君が乱れると、〈ちな〉もおかしくなるの。順調だった治療にも弊害が出る。もう、そっとしておいてくれないかな」
「それでも俺はちなを消させたくなくて……」
「何の苦しみも知らない君が口を出さないで」
「だって俺はちなの恋人だから──」
「〈ちな〉は君のこと好きみたいね。でも、私は、君のことちっとも好きじゃないよ」
ちなの顔から放たれた言葉に視界が揺れた。
「もちろん〈さよ〉だって君のことなんて何も知らない。好きになるはずもない。もう、ほんとに諦めて」
ちなはどういうつもりで俺と付き合ったんだろう。終わりが分かっていたのに。どうして俺の目の前に現れたんだろう。
「ちながいなくなった後はどうなるの」
「〈さよ〉が一人で新しい人生をしっかり生きていくだけ」
「……俺のことは?」
「もちろんどこかで会っても気付かないよ。気付くわけないでしょ、〈ちな〉と私にある記憶は、〈さよ〉のもとには残らないんだから」
何も考えられなくて、思ったことが全て漏れる。
「離れるって分かってて、ちなはなんでわざわざ俺と付き合ったの」
「知らないよ。そもそも、特定の人には深入りしないって約束してたんだから」
ちなの顔をもう一度見る。いつもみたいに笑ってほしかった。えくぼが見たかった。
そこには、不快さを隠さない、心底呆れたような表情があった。
「いい加減理解して。もう一度言うね。君が好きだった〈ちな〉はもう消えるの」
まゆさんはバーコードを持って会計へ歩いていく。後を追おうとして転ぶ。しわくちゃになったストローの包装がある。立ち上がるともう彼女のシルエットはどこにもなかった。口の中が乾いてしまった。残りのメロンソーダを飲み干す。氷で薄くなってしまっている。
ちななら絶対に頼むアイスクリームを、まゆさんは食べていかなかった。それだけで、さっきまで目の前にいた人がちなじゃないんだと本気で思う。
気付いたら下北沢の商店街を歩いていた。雨が降っていた。Tシャツが濡れていた。どうやって電車に乗って帰ってきたかも分からなかった。歩く気力もなくなって地べたに座り込む。ズボンから染みてお尻が冷える。
ちなと離れなきゃいけない。好きな人と一緒にいることすら叶わない。そもそもちながこの世から消えるなんて信じられないし信じたくもない。
勇気を出して近付けば、その人の色んなとこが見えるのが嬉しかった。手を繋げば体温が分かった。顔を覗けば髪に隠れたほくろの位置を知れた。
ちなのことがもっと知りたくなって、気持ちを伝えた。近付くほどいいと思っていた。そして、彼女は思いに応えてくれた。
でも、近付かなければよかったのかもしれない。ちながいなくなるなんて、そんな悲しいこと知りたくなかった。こんなキラキラした日常があるなんて知らなきゃよかった。
出会わなきゃ、こんな思いしなくて済んだ。
俺は自分の星の生まれを憎む。濡れたアスファルトを叩く。イラついて何度も叩く。血が渗む。ジンジンする。叩き続ける。痛い。生きている。ちなは消えるのにこんなどうしようもない俺が生きている。
どうして俺が叶えたいと願ったことは上手くいかないんだろう。言葉にしたら全て希望ごと奪われるんだろう。
俺はただちなと一緒にいたいだけだった。




