第十七章 真実
ちょうど停車していた京王線の電車に飛び乗って吊革に五分揺られる。改札を走り抜けて、エスカレーターの右側を駆け下りる。人に肩がぶつかりながら走る。ビルのエレベーターを昇る。
ガストはピーク時を過ぎて閑散としていた。視線を上げてちなの背丈を探す。
テーブル席の四人席の端っこで、ちなは黒いキャップを目深に被って俯いていた。軽く覗き込むと目が合う。いつもより鋭い目線だった。
「ごめん、お待たせ」
「全然。私ドリンクバー頼んだけど、何かご飯頼む?」
「お腹空いてないし、ドリンクバーだけにしようかな」
タッチパネルから単品のドリンクバーを選択する。
「じゃあ取ってくる。ついでに何か飲む?」
「大丈夫」
さらりと断られて、ドリンクバーに行きグラスに氷を入れてメロンソーダを注いだ。炭酸が飲み口まで上がってきて、入れるのをやめる。落ち着いたらまた入れる。三回繰り返す。
あまりにもちなの態度が冷たくて悲しくなった。昨日のことを怒っているのかと思ったけれど、それもまた違う気がする。意識して距離を取られているんじゃなくて、実際に距離が遠くなってしまったよう。積み重ねてきた思い出と温度感を全てなかったことにされたような。
満タンになったグラスをテーブルに持っていって対面のソファに座る。ちなは退屈そうに手元にあるカフェオレをぐるぐると機械的にかき混ぜている。
視線が上がって、蛇みたいな目が胸元を貫いた。
「君が幹人くんかあ。案外かっこいいじゃん」
そう言われて、俺はまだふざける余裕があった。
「かっこいいのは前からだよ。って、なにその初めて会ったみたいな言い方」
「ふふ、ごめんね。おかしくって」笑い方に違和感を覚える。
「その、昨日責めすぎたこと──怒ってる?」
「私は怒ってないよ。でも〈ちな〉はすごく悲しんでたみたいね」
会話が成り立っているようで──芯が噛み合っていない。言葉の意味は分かるのに──いつものノリじゃない。
顔は普段のちなそのものだ。でも表情が──違う。向けてくる視線の温度も、言葉も。
「……誰? ちな、なんだよね?」
「さすが、〈ちな〉が選んだだけあって鋭いね。初めまして。私はちなの姉の〈まゆ〉です」
「えっと──ごめん──どういう冗談なの、これは」
「ふふ。戸惑うよね。〈ちな〉とまったく同じ顔の人が来て、突然『私は〈まゆ〉です』なんて自己紹介してきたら」
「うん──え? 何も呑み込めてないんだけど、まゆって誰?」
彼女は問いに答えず一方的に喋る。
「〈ちな〉と付き合ってて不思議に感じること、一度もなかった?」
「そりゃ気になることはあったけど、今のこの意味分からん状況とは何も繋がらないって」
「はあ、やっぱり難しいか。〈ちな〉からも何も聞いてない?」
「聞いてないよ。──って、まゆ姉……?」
カフェでちなが言っていた。〝自慢のお姉ちゃんなんだ〟って。
「ちな、たしかお姉ちゃんがいるって言ってた」
「うん、それはわたしのことだね。他にも、〈ちな〉は君に何か大切なこと伝えてなかった?」
考え込む。ちなが俺だけに話してくれたこと。
「もしかして──長い間、病気していたこと?」
「正解。じゃあ話は早いかな、よく聞いててね。君が好きな〈ちな〉は──ううん私たちは ──長い間ある病気なのね。解離性同一性障害っていう、精神的な病気。多重人格って言ったら、君でも聞き馴染みあるかな」
多重人格。
現実味のない用語を頭が理解しようとしない。
「多重人格って、人格がいくつか分かれてる、みたいな──」
「その通り。じゃあもう理解できるかな? この身体の中には、三人の人格が共存してるの。もともとの人格だった〈さよ〉と、記憶の調整役をしている私〈まゆ〉と、君と付き合っていた〈ちな〉。だから、私と幹人くんは初めましてだね」
理解できなかった。したくなかった。頭が抗った。
「ごめん──なんの冗談? 俺たち昨日まで普通に会ってたじゃん。そりゃあ昨日言い合いにはなったけど、いくらなんでもわざわざこんな芝居みたいなことするなんて──」
まゆと名乗る彼女がテーブルを強く叩いた。
「そういう反応だけはやめて。自分の知らない世界だからって、嘘扱いして済ませないで」
「いや──だって、多重人格なんて突拍子のないこといきなり言われても」
「君はさ、人によって態度とか口調変えたりしない? 親に見せるどこか作った自分と、仲の良い友達だけに見せられる自分、そして恋人に見せる自分」
「それは、もちろんキャラクター変えたりはするけど」
「そう。君の言う通り、みんなこの世の中を少しでも生きやすくしようと必死にキャラクター作って生きてる。君はさっき信じられないって言ったけど、解離性同一性障害も理屈は一緒。辛いことが起きたとき用の自分、乗り越えなきゃいけないことがあるとき用の自分。たくさんの人格が存在して、その時々の記憶が分断されちゃう病気なの」
納得なんて到底できなかった。でも頭の隅で、一つピースがハマった音がした。
「信じたくないけど……もしかして、ちなと三日に一度しか会えなかったのは」
「君に連絡できなかったのは、そもそも〈ちな〉の人格が出てくる日じゃなかったからだね。 君が知らないだけで、私たちは三人でこの世界をなんとか生きてきたの」
「……じゃあ、ほんとに、人格がいつも」
「そう。ずっと苦しんできた。茶化すのだけ、やめて」
「……うん、ごめん」
視線に耐えられずメロンソーダを見る。鮮やかな緑。
まゆさんはお構いなく言葉を続けた。
「もともとの人格だった〈さよ〉は弱い子だったの。少しでも嫌なことがあると殻に引きこもっちゃう子だった。その辛いことを乗り越えるために生まれた人格が末っ子の〈ちな〉。君の彼女。明るくて、ちょっと子供っぽいところもあるけど、周りのことをよく見れる子。私〈まゆ〉は、〈ちな〉の前にぼんやりとできた、二人の記憶を取り持つための人格」
「ストレスっていうのは?」
「さあ? 〈さよ〉も自分のことあまり話してくれないからね。でもちらっと聞いたことあるのは、男の人と話すのが怖いって」
「そしたら、学校とかも通うの難しかったんじゃ」
言ってからハッとする。ちなは言っていた。
〝病院に通ったり治療受けたりで、思うような自由がずっとなかったんだ〟
「もちろん、高校もほとんど通えてないよ。──多重人格ってね、普通の生活がまったくできなくなるから。行動に一貫性がないせいで嘘つき、気持ち悪いって思われたり。記憶を引き継げないせいで大切な約束を忘れたり。だから、私が中心になってスマホの使い方とか約束ごとを決めて、長い間治療して、なんとか今生活が成り立つようになってきた」
信じられない。信じたくない。でも、そうだと思えば腑に落ちることがあまりに多い。
「三日に一回しか会えなかったのは、人格を交代してたから?」
「そう」
「門限があったのは」
「必ず夜に日記を書く時間を設けて、朝見返して記憶を共有するため」
「ちなが頑なにLINE教えてくれなかったのは」
「履歴に知らない男の人の名前が残ってたら、〈さよ〉が不安になるでしょ。そもそも、男の人が原因で引きこもるようになったんだから、なおさら」
ちなは名前を偽っていたんじゃなかった。彼女はさよでもあり、目の前にいるまゆさんでもあり、俺といるときは紛れもなくちなだった。
ちなは、裏で俺を裏切っていたわけじゃなかった。
視線を上げる。ちながいる。でも彼女はちなじゃない。頭がバグりそうだ。
口が乾いて、ストローに口をつける。
「よかった。俺、勝手に不安になって、ちなと喧けん嘩か 別れしたばかりだった。早く謝らなきゃ」
「あー、そのことなんだけどね」
まゆさんがテーブルの下に視線を落とした。その方向をなんとなくなぞる。しわくちゃになったストローの包装が落ちている。
「申し訳ないんだけどね、〈ちな〉とは今すぐ別れてほしいんだ」
一瞬、言っている意味が分からなかった。
「ごめんね。別れてほしいというか、もう決まってることなんだけど」
どうにかして頭を動かす。
俺とちなが、別れる?
情けない声が漏れた。
「……へあ?」
「……幹人くん、本当に〈ちな〉から何も聞いてないの?」
「昨日会ってから、私はもう一緒にいられないって言われたけど──それは彼女の隠し事について軽く言い合いになったからで──そもそも付き合ったばかりだし、これからも一緒にいるって──」
「……あのね。──〈ちな〉は、あと少しでこの世からいなくなるんだよ」立ち上がって、身を乗り出していた。
「は?」
「は、じゃなくてね」
「そういうの、冗談でもマジでやめてよ」
まゆさんは頭を抱えた。
「もう、これだから嫌だったんだよ」
「何を言って──」
「動揺しないで聞いて。君にだから誠実に事実を話してるの。──君の彼女は、〈ちな〉は、あと数日で消えるの」




