気の合う二人
夕飯を囲む食卓はいつもと違う緊張感に包まれていた。なんといっても目の前には咲が座っている。これで平常心を保つなんてとてもできないだろう。
母さんはなぜか知らないが異常なくらいにご機嫌で、咲も楽しそうに話をしている。僕はその話の輪に入ることができずに、黙々と肉じゃがを食べながら耳を傾けるのみだ。
「吉田君、肉じゃがおいしくできているかしら?
シャケにはこのアボカドのタルタルを合わせて試してみて」
咲が僕の事を吉田君と呼ぶなんてなんだかむず痒い感じがするけど、ここは僕の家で母さんもいる前では仕方ない。
肉じゃがはこの前よりもまろやかでとてもうまい。アボカドのタルタルなるものはクリームみたいなまろやかさにパセリとお酢の風味が効いていて意外な味だがこちらもうまかった。
「うん、これはうまいね。
アボカドってあんまり食べないけど魚にあうもんなんだなあ。
肉じゃがもうまいよ。
なんというか普通の味って感じでさ」
「カズ、そんな言い方。
まったく褒め方がなってないわよ。
咲ちゃんが初めて作ったんだからもっと気の利いた言い方しなさいよ」
母さんはそう言うが、これが初めてじゃないことを僕は知っている。確かに褒め方はいまいちだったかもしれないが、こないだのようにしょっぱい感じじゃなくて本当に普通の、安心できる味だったのだ。
「カオリ、気にしないで。
私は上手に出来たと思ってるし、おいしくないってことじゃないならひと安心だから」
「あらそう?
でも咲ちゃんは凄く手際がいいわね。
包丁の使い方もきれいで驚いたわ。
お母さんに教わったのかしら?」
「ええ、母はあまり料理はしないけど、するときは結構凝ったものを作るの。
でも父は食べることにそれほど興味を持たない人なので、手をかけるのはもっぱらホームパーティの時くらいかしら」
「ホームパーティ!
なんだか素敵な響きねえ」
そんな感じでまた女子トークに突き進んでいく二人だった。僕はまた食べることしかすることがなくなり、ご飯をおかわりしつつ満腹になるまでほぼ無言で食べ続けた。
夕飯が終わりお茶を飲んでいると、また咲から話しかけてきた。
「吉田君、英語の勉強はどうする?
今日はお休みにするかしら?」
「あ、ああ、僕としてはあまり気が進まないんだけど、やらないと真弓先生がうるさいしなあ。
しかもいつまで経っても幼児教育から進めなそうで気が重いよ」
「あらカズったら勉強まで教わってるの?
咲ちゃんは英語もできるのね、すごいわあ」
まったく、容姿端麗で頭も悪くないようなのになんでナナコーへ入ったのか不思議なくらいだ。自分が通っている高校を悪くいうつもりはないが、お世辞にも学業に力が入っている学校ではない。
家から近いから選んだのか、それともまさか僕がいるから入って来たのか。いや、それは考えすぎだとしても本当に不思議な選択と言えるだろう。
「じゃあこれから家でお勉強する?
カオリ、一時間くらい大丈夫?」
「そうね、カズなら女の子になにかする心配もないし、咲ちゃんがいいならいいんじゃない?
帰りにみりんとお茶を持っていくの忘れないでね」
「ありがとう。
みりんがないとおいしい煮物ができないことがわかったわ。
これからもお願いします」
「もちろんよ、無くなりそうになったら遠慮しないで言ってね。
それと一人の時はうちに来て夕飯一緒に食べていいからね。
どうせうちの人が帰ってくるのは遅いし、めったに夕飯も食べないから作り甲斐もないのよ」
「うふふ、ありがとう。
でもそうしたら毎日来てしまうことになるかもね」
「毎日でもいいわよ。
私も洋風でおしゃれな料理教えてもらえるし大歓迎」
こりゃいつまでたっても話が終わりそうにない。僕は時間が遅くなるからといって口を挟み、まだしゃべり足りなそうな母さんを置いて家を出た。
◇◇◇
咲の家のリビングで改めて紅茶を出された僕は、なんと言ったらいいか考え込みながらカップに口をつけていた。
まったく母さんがやたらめったらに話しかけて咲も大変だっただろう。そう言えば久美義姉さんが家に来た時もあんな感じだったなと思い出し思わず顔がにやけてしまった。
「なあに? へんな笑い方して」
咲が教材をもってリビングへ戻ってきた。
「いやさ、母さんがあんなにしゃべりまくってるのに普通に受け答えしてた咲は凄いなって思ってさ。
迷惑じゃなかったならまあ良かったよ。
意外だったけど結構話好きだったりするの?」
「そんなこと?
私は別に無口なわけじゃないわよ。
学校では話すことも相手もいないだけ、かな」
「そっか、そういや小町とも結構話したみたいじゃん?
ボランティアって言ってたけど、咲もなにかするつもり?」
メールでは何となく聞いていたけど、実際に咲が何か行動するのかには少し興味があった。
「今のところ聞いているのは翻訳のチェックだけよ。
あの子ってすごく真面目な子なのね」
「小町が?
でも聞く話だと繁華街うろついて遊んでることが多いって話だけどな。
人の噂なんてあてにならないもんだね」
「そうよ、私だって周囲からなんて思われているかわからないわよ。
誰とも話をしない近寄りがたい転入生って扱いに感じるわ」
そう言いながら僕のすぐ近くまで近寄ってきた。
「本当は、クラスの中でただ一人とはこんなに近い存在なのにね」
咲の顔が僕にゆっくりと近づいてくる。そして数日の間久しかった咲の唇の柔らかさを改めて感じた。
「少しだけよ。
キミはじっとしているだけでいいの」
いったん唇を離した咲がささやくようにつぶやいた。僕は無言で頷き、咲のするままに身を任せた。
触れたり離れたりを数度繰り返しながら咲の吐息で僕の頭の中が満たされていく。そんな感覚が心地よくてたまらないのだ。
最後に僕の唇を軽く噛み、戸惑う僕の顔を見つめてから少し長いキスをして咲は体を離した。
「はい、今日はこれでおしまい。
明日からも練習あるしね」
「練習? ああ僕の部活の事か。
それって本当に関係あるの?」
そう言いながらも、僕は確かに力のみなぎり方が変わってくることを知っている。一体どういう仕組みでそうなるのかはわからないが、咲とキスをした翌日は調子の良し悪しがはっきりと表れるのだ。
「関係あるかどうか、それはキミが自分の調子を見て信じるかどうか決めたらいいわ。
私はキミから精気を分けてもらって、それをまた戻しているだけよ」
相変わらず訳が分からないが、それが僕自身の調子に影響しているのは事実だし、このことに関しては咲の言う通りにしておこうと思っている。
「でもさ、僕は僕の力で高みを目指したいしそうしているつもりなんだよ。
咲の力を借りないとこの先勝ち進んでいくことができない選手になんてなりたくないんだ」
「それは違うわ。
あくまでキミの力はキミが持っている以上に出せるわけじゃないの。
ただし、いざという時に持っている力のすべてを出し切れるかと言うのは別問題でしょ?」
「う、うん、まあそうだけどさ……
それは前も聞いたからわかってるつもりだよ」
「だからね、キミはいつもと同じかそれ以上に練習に励めばいいの。
その積み重ねがきちんと発揮できるよう、私はほんの少しお手伝いをするだけよ。
君の好きな言葉、自分を知って信じて、そして過信しなければ結果はついてくるんじゃないかしら」
ここで咲の口から僕の座右の銘が出てくるのは意外だった。自分が掲げていること、心に誓っていることを人から言われるとまた違う印象を受けるものなのか、妙に説得力を感じて僕は納得することにした。
真剣に頷いている僕へ咲が再び声をかける。
「さあ、自分を信じてお勉強しましょうか。
積み重ねていけば英語だってきっと簡単よ」
たった今納得し誓いなおしたはずの座右の銘は、英語に関しては僕を苦しめる言葉に変わっていた。