干からびたアスリート
結局僕は家へ帰らず咲の家に直接向かった。いつものようにインターフォンを押す前に扉を開けてくれた咲が出迎えてくれる。
「おつかれさま、思ったより早かったわね。
やっぱりどこかの記者だったのかしら?」
「うん、記者と言うかインターネットの何かだってさ。
ボールパークウェッブってサイトをやっている普通の人らしい」
僕は自分のスマートフォンで検索をして咲へ見せた。どうやらチーターズのファンサイトと言うわけではなく、全球団まんべんなく色々な情報を載せているようだ。
「今日の事記事にしないって、ちゃんと約束してもらったのよね?」
「うん、約束はしてもらったけど、すでに噂は広まり始めてるみたいなんだよね。
SNSっていうの? あれにちらほら書かれてるの見せてもらったんだ。
僕たちのことまで特定できなくても、そんなことがあったって言うのは秘密には出来ないだろうな」
「まあそれは仕方ないないわ。
いい思い出になったかしら?
それともここからが始まりと捉えたかしらね」
咲の言うようにいい思い出にはなった。でも思い出で終わりなんて小さなものじゃない、これからどうするかに繋がる出来事だった。野球のことがわからないといっている咲でもそれがわかっているのだ。
僕の球が現段階でプロに通用するはずはない。今日は一発勝負だったから何とかなっただけだ。しかしこのまま研鑽を積んでいけば可能性は十分にあるんじゃないだろうか。そんな風に思えた。
「あのさ、最後にこそこそ帰るようになってしまってごめんよ。
帰りにどこかでご飯でも食べようとおもってたのにそれもできなくてさ。
どうにか埋め合わせしないとって思ってるんだけど、どうしたらいい?」
「あらそんなのお気にしていないわよ。
だって今日これからは、キミが私の言うこと聞いてくれる番でしょ?
約束したんだからきちんと守ってもらうわよ」
そう言ってから咲は台所へ行って飲み物を持って戻ってきた。
「なんにせよ少し休憩しましょう。
レモネード冷やしておいたけど、これでいいかしら?」
「もちろんさ。
ちょうどレモネードが飲みたいと思っていたんだよね」
「うふふ、随分と口が達者になって来たのね。
あまり走った様子はないのね。
運動後だと思って念のため砂糖で作っておいたから、この間とは味が違うと思うけど勘弁してね」
咲はそう言ってから、両手で持ったグラスを片方こちらへ伸ばす。僕は礼を言いながらそれを受け取った。グラスと咲の指先は水滴で濡れていて、その水滴が僕の指先へ蔦って来るとなんだかくすぐったさを感じる。
カラランと氷の音を鳴らしながら一息でグラス半分ほどを飲み、続けてもう一息ですべて飲み干した。なんだかんだんでのどがカラカラだった僕には至福の一杯と言ったところか。
「あら足りなかった?
私の分も飲んでいいわよ」
そう言いながら、一口程度しか飲んでいない自分のグラスを差し出してきた咲の目はごく自然で素直な雰囲気だ。最近はなにか含みを持たせたり打算が含まれていたりする時と、そうではなく素直に本心で言っている時の区別がつくような気がしている。
かと言って、なんの裏もなく出されたグラスは、たった今咲が口をつけていたものであるからして、そう簡単に受け取るというのもはばかられる。
そんな僕のためらいを察したかのように、咲の目がいたずらっ子のそれに変わってしまった。
「ねえ、そんなに気になるの?
もう何度も唇を重ねた仲じゃないの。
それとも潔癖症なのかしら?」
「もう、からかわないでくれよ。
咲だってのどが渇いているはずなのに貰っちゃって大丈夫なのかなって思っただけさ」
「ふふ、やっぱりキミはかわいいわね。
こっち飲んでる間におかわり入れてくるから構わないのに」
そういうと水滴のついて指先を僕に向かってはじき、顔に当たった滴で僕は思わず目を閉じた。またこんな悪戯をしてなにをするんだ、と言おうとした瞬間にはすでに僕に発言の余地はなく、口はきっちりと塞がれていた。
事前に咲が口へ含んでいたのだろう。冷たい氷が僕の口の中へ押し込まれてきた。
お互いの口がお互いを黙らせるように塞ぎ、聞こえてくるのはかすかな息遣い。それに、氷から解けだした水と二人の唾液が混ざりながら口からあふれそうになり、それに抗うために口の中へ戻そうと吸い込む音くらいだ。
だんだん力が抜けていくのを感じながら僕は床に腰を下ろしてしまった。咲はそんなことに構わず唇へ吸い付いたまま離そうとしない。いや、もししたら僕が咲を離していないのかもしれない。
床に寝そべった僕の上に咲が圧し掛かってくる。しばらくしてようやく唇同士が離れたが、その時、咲の口からは僕の口や首元へ向かってレモネードなのか水なのか、それとも唾液なのかわからない液体が滴り落ちていた。
僕の口の中にはもうほとんどなくなりかけている氷があり、その部分だけがやけに冷たく感じる。咲がもう一度僕に覆いかぶさってキスをしようとしている。僕はそのまま受け入れても良かったが、なんとなく自分でも顔を上げて咲を迎えに行こうとした。
その際、思わず口の中に含まれたままの液体を氷とともに自分の胸元へこぼしてしまった。まったく何をしているんだ僕は。おかげでTシャツが広範囲に濡れてしまった。
「あらあら、こんなに濡らしてしまって大変よ。
ちょっと起き上がってちょうだい」
「う、うん」
僕がその場に座り直すと、咲は僕の腿の上あたりに座ったままで抱き付いてきた。これじゃ咲のシャツも濡れてしまうじゃないか。そう思った矢先、目の前のいたずらっ子は言った。
「これでおあいこね。
でも水遊びにはまだ早かったかしら」
「確かにまだちょっと冷たいね。
風邪ひいたら大変だから着替えた方がいいよ」
僕が笑いながらそう返すと、咲は頷いて少し体を離した。そして僕のシャツの中へ手を差し入れてきたのだ。
ちょっと!? 予想外の行動に僕は焦って咲の手を掴んで止めようとするが、そのまままた体を寄せてキスをされたところで抗う力が無くなっていくのを感じる。
これは一番最初に学校でキスされた時と同じような感じだった。
「大丈夫よ、強張らないで身を任せて。
いい子だからそのまま、ね」
僕は頷くことすらできずにされるがままになっていた。シャツの中から背中に回された咲の手は、くすぐったいような心地いいようなおかしな感覚である。
口元には咲の吐息が常に感じられて僕は変な気持ちになっていく。いつの間にかTシャツは脇の下あたりまでたくし上げられている。
咲がいったん口を離し万歳してと言い、それになんの抵抗もできずに両腕を上げた。真上に挙げた手に沿ってTシャツが脱がされていく。
人前で裸になることなんて練習中や着替える際にはよくあることなので今更恥ずかしくもないはずだったが、それを見ているのが咲一人だと思うと今までにない感覚なのは間違いない。
「さすがにすごい筋肉ね。
羨ましいくらいに無駄な肉もついてないし、いかにもアスリートだわ。
とてもきれいな身体よ」
僕はそう言われて悪い気はしなかったが、返事をすることも抵抗することもできずまるで彫像にでもなったようだった。
咲は僕の上半身を隅から隅までチェックするように撫でたり摘まんだりしている。そしてまた僕を床へ押し倒し、自分の体を預けるように乗せてくる。
寝転がった僕の腕はまだ万歳をしたままだった。なんという間抜けな恰好だろう。でも咲はそんなことお構いなしのようで僕の頬や首元をなでまわしている。
僕の口は相変わらず咲の口で塞がれていて声を出すこともできない。かといって何か言いたいことがあるわけでもなく、僕はされるがままで構わないと感じていた。
いつの間にか外から差し込む光が夜のそれになっていて、玄関とリビングの間辺りに転がっている二人は暗闇に包まれようとしていた。
相手の顔がギリギリ判別できる程度の闇の中、咲は僕の手を取って自分の背中側に回しシャツの中へ導いていく。そしてそこにはすべすべとして柔らかな咲の肌があった。
これはどうすればいいのだろう。声は出せないし体の自由も効かない。できることと言えばその手に触れている肌触りを感じるのみくらいか。
「ねえ、キミとは全然違うでしょ?
でももっと私の事を想って、もっと感じて欲しいの」
言われなくてもどうしようもないくらい咲の事を愛おしく想っているし、今直接触れている咲の肌の感触はこの世のものとは思えないほど滑らかで心地よいものだ。
僕は頷きながら思わず咲を引き寄せるように両手に力を込める。それは大した力ではなかったかもしれないが、咲が僕に向かってすることの切っ掛けを作るには十分な返事だったようだ。
咲は僕と合わせている唇を少しずつずらして、首元から鎖骨、そして大胸筋へとその対象を変えていく。くすぐったくて気持ちいいのだが声を出すことすらできない僕はどうすることもできず大きく息を吐いた。
両手で頬や髪の毛をまさぐられつつ、裸の上半身を嘗め回されている。これはいったいどういう状況なのだろう。一方的にされるがままになっているが、そもそも抵抗する気なんてない自分に自分で問いかける。
頭がおかしくなるくらいに気持ち良くて、咲のやることに抗うことのできない僕は、先ほど誘導された両手すら咲の背後へ回したままである。
もうどのくらいこうして抱き合っているのだろうか。部屋中の明かりはすべて消えているため、玄関扉の上にある窓に差し込む街灯の光が、天井の一部を照らすのみだ。
僕のお腹の辺りに触れている咲のシャツはまだ濡れているが、先ほどまでの冷たさはなく温かいくらいである。
咲の顔が段々と下がっていき、やがて胸板から腹筋の辺りにやってくる。つい先ほどまで咲のシャツが触れていた箇所なのだが、そこまで来てようやく気が付いたのか咲が口を開いた。
「そう言えば私のシャツも濡れたままだったわね。
押し付けていたから気持ち悪かったかしら?
ごめんなさい」
僕は声にならないままに首を横に数度振って返事をする。それを受けて咲は僕にまたキスをした。その長い長いキスの後、顔を上げて体を起こした咲は、こともあろうに自らの手でシャツを脱いだ。
「これでおあいこかしらね。
あ、でも……」
そう言いながら僕の顔にそのシャツをかぶせる。暗闇の中で行われている非日常的な現実に僕は頭が混乱していたが、それに追い打ちをかけるように僕の手に何かが触れた。
先ほどまで咲の背中へ回されていた僕の手は、咲が起き上がる時にだらしなく床に投げ出されていた。その右手を咲の左手が握り、左手には今まで触ったことのない布のようななにかが握らされた。それはシャツにしては固いし、そもそも咲のシャツは僕の顔に乗ったままだ。
「さあこれで本当におあいこね。
今日は本当に恰好良かったわよ。
とても力がみなぎっているのがわかったわ。
だから約束を守ってもらうわね」
咲の姿は暗いのとシャツをかぶせられているため見ることはできない。しかし僕の上に座っていることは当たり前だがはっきりとわかる。本当はそこへ座ってほしくないのだが……
咲が左手で僕の右手を握ったまま体を乗せるように密着してきた。右手は僕の顔の横に触れている。そしてその全体重が圧し掛かった際、そのやわらかな感触に僕はもう意識を保っていられなかった。
◇◇◇
あれからどのくらいの時間が経ったのかわからないが、先ほどと同じ位置に寝転んだまま、タオルケットをかけられた僕がそこにいた。咲の姿はすでにそこにはなく、キッチンに明かりが灯っているのでそこにいるのだろう。
僕はと言えばまだ身体に力が入らないまま、まるで干からびた干物のように横たわり、しかもなぜか裸だった。