戸惑いの目覚め
目が覚めた僕は必死になって着るものを探した。幸いそれはすぐに見つかったが、見つかればいいというものでもない。きれいに畳まれたジーパンの上に、これまた畳んでおいてあるパンツは暗闇に慣れた目でもすぐにわかった。
シャツが見当たらないが、せめてパンツとズボンを履けばまあカッコはつく。僕は大急ぎで着替えてからおそるおそるキッチンの入り口から咲の様子を覗いた。
するとそこには鼻歌交じりで調理をしている咲の姿があった。どうやら随分ご機嫌なようで一安心だ。ついさっきは機嫌がいいのか悪いのかさっぱりわからずどうしたらいいのかわからなかったが、今なら普通に声をかけても大丈夫だろう。
「咲…… あの、おはよう、なのかな」
「あら、目を覚ましたのね。
気分はどうかしら?
今夕飯作っているからリビングで待っていていいのよ」
「うん、ありがとう。
それと、僕のシャツ知らないか?」
この記憶の無い間何があったのか知りたいとも思ったが、起きた時の状況を考えるとわざわざ聞くことはためらわれた。
「ああ、キミのTシャツはびしょ濡れになってしまったので洗濯して干してあるわ。
まだ乾いていないから何か着るものをと思ったのだけど、あいにく私のシャツじゃ入らないでしょ?
しばらくはそのまま我慢なさいよ」
「う、うん、パーカー持ってたはずなんだけど、僕の鞄どこだっけ?」
「もう、キミったら甘えん坊なんだから。
玄関わきの帽子掛けに下げてあるんだけどわかる?
もっていってあげるからソファへ座ってもいいわよ」
「大丈夫、と思ったけど電気のスイッチがわからないや。
ごめん……」
まるで僕は幼い子供の用に情けない態度で咲へお願いしている。何かを火にかけているのに中断させては悪いと思うんだが、火を止めて振り返った先の笑顔を見るとそんなことをさておいて幸せな気持ちになる。
「今行くわね。
うふふ、そうやっていつまで顔だけ出しているのよ。
恥ずかしがっちゃって、かわいいわね」
そういって近づいてきた咲は、僕の立っているすぐわきにあるスイッチを操作して廊下に電気が灯った。上半身裸があらわになった僕は思わず下を向くと背中から咲が腕を回してきた。
「恥ずかしがらなくてもいいわ。
私とキミの間にはもう何の障壁もないのよ?
少なくとも私はそう思っているわ」
もう? それはどういうことだろう。もしかして目が覚めた時に裸だったことと無関係じゃないとか、まさかそう言う意味じゃないだろうな…… それよりもさっきから背中に当たっている柔らかい感触が気になって仕方ない。
「あのさ、その…… 背中に…… 当たってるんだけど……」
「キミと違って柔らかいでしょ?
女の子の柔らかさを知ってしまったキミはこの先どうなるかしらね。
意外と苦労するかもしれないわよ」
「しっ、知ったって! 僕が!? 何を!?
大体なんで僕は裸で寝てたんだよ。
いったい僕に何をしたんだ?」
「何をしたかですって?
まあ覚えていなくてもいいのだけれど、私も気持ちよかったわよ」
僕は背中に咲の感触を感じたままで頭を抱えてしまった。何をどこまでしてしまったのかわからないけど、きっとかなりヤバいことをしてしまったのだろう。なんでそんなことを……
「うふふ、冗談よ。
そう言うことにしておきましょう。
バッグはそこよ」
結局どういう意味か分からないままはぐらかされたが、あまり深く聞いても自責の念に押しつぶされそうな気もするし、今は気にしないように努めるしかない。
咲が絡めた手から解放された僕は自分の鞄を取りに行った。その間に咲はリビングの電気をつけておいてくれた。パーカーを着ながらリビングへ向かうと咲が僕へ聞く。
「カフェ・オレ入れてあげるわ。
温かい方がいいかしら?」
「ありがとう、ぬるいくらいがいいかな。
何だかお腹が冷えてる感じがするんだ」
咲はわかったといってキッチンへ引き上げる際に僕の耳元へキスをしていった。そのキスは僕の力を奪っていったのか、少しだけめまいがするように感じる。
ソファで抜け殻のようになって待っていると咲がカフェ・オレをもってきて目の前のテーブルに置いてくれる。一口飲むとすごく甘くてちょうどいいぬるさだ。
「はあ、生き返るよ。
寝起きだからなのか体が重くて仕方ないや」
「そうね、明日はしっかりと休んでおいた方がいいわよ。
本当なら朝からトレーニングするつもりだったんでしょ?」
「うん、小学生のころから何もしない日は一日もないんだ。
風邪ひいて寝込んだ時くらいかな?」
「小学校へ上がる前は何もしていなかったの?
その頃はまだお父様も現役だったからさすがに一人でランニングはしないわよね?」
「そうだね、さすがに保育園へ行っていたときは母さんに連れられて歩いてただけだったかなあ。
咲も保育園に行ったりしてた?」
「私は小さい頃体が弱かったから家にずっといたのよね。
だからそう言うのちょっとうらやましかったかな」
なるほど、体が弱かったというのは納得できなくもない。色白で運動をするようにはとても見えないからだ。でもハーフだから色白なのかもしれないし、今健康ならそれでいいのかもしれない。
僕がそんなことを考えながら咲を見上げると、それを察したように説明じみたことを言い出した。
「今は心配いらないわよ。
十分健康で元気だから。
それにキミに力も貰っているから余計にね」
「力かあ、今日のピッチングを考えると、力を貰っているのは僕の方だと思ってるんだけどな。
抽選に当たったのだって、咲のおかげなんだしさ。
咲にはすごく不思議な力があるように感じるんだ」
「前にも言ったでしょう。
私が力を与えているわけじゃないのよ。
キミの潜在的なものを引き出すお手伝いをしているだけなのよ」
咲はそう言っているが、きっとなにか超常的な力があるに違いない。そうでないと今まで説明がつかないことが多すぎるのだ。
そんな感じで雑談をしているとキッチンでタイマーが鳴った。
「あら焼きあがったみたいね。
夕飯、すぐに食べられるかしら?」
「うん、実は腹ペコなんだ。
何も手伝えなくてごめんよ。
後片付けは手伝うからさ」
「今日は何もしなくていいのよ。
きっとそんな余裕はないと思うから気にしないで」
余裕がないとはどういう意味だろうか。しかし確認する間もなく咲はキッチンへ向かってしまった。
いつもの食卓へ移動して待っていると、いつものようにワゴンを押して咲がやってきた。そこからテーブルへ料理を並べていくところを見ていると何とも言えない幸福感に包まれる。
今日の夕飯は、オーブンから取り出したばかりのグラタンのような焼き物に何かわからないけど透明っぽいスープ、それにあのじゃがいも団子のクロースだ。そこにはサラミっぽいやつとピクルスが添えてあった。
「今日もおいしそうだ。
お腹が鳴って仕方ないや」
「ふふ、喜んでくれるのは嬉しいけど、無理して食べすぎないようにね。
今日はデザートもあるのよ」
「でもおいしいとつい食べ過ぎちゃうんだよ。
普段家ではそんなに食べないんだけどね」
「そう言ってもらえるのは有難いわね。
さあ、冷めないうちに食べましょうか」
こないだ食べて以来気に入ってしまったクロースだが、今日のは中にほうれん草が詰められていた。嫌いなはずのほうれん草がおいしく食べられてしまうのは咲が作ったからなのか、本当に味がいいからなのか、おそらくその両方だろう。
プレートに乗ったアツアツの料理はグラタンだと思っていたが、実は野菜を細かく切ったものに平たいパスタをとチーズを乗せてオーブンで焼いたものらしい。これもまたうまかった。
しかし何より変わっていたのはこの透明がかった薄い緑色のスープだった。少しだけとろみがついたような不思議な触感と甘みのある変わった味だが、いったい何でできているのだろう。
「ねえ、このスープは何のスープなんだい?
今まで食べたことのない味で想像もつかないよ」
「これね、なんだと思う?
ドイツ瓜っていう瓜だったんだけど、ドイツでは見たことなかったわ。
私も初めて食べるのだけど、茹でてから裏ごししてスープにしてみたのよ。
まあまあおいしくできたんじゃないかしら?」
「ドイツ瓜なんて聞いたことないなあ。
でもメロンみたいな風味でおいしいよ。
そう言えばアンデスメロンもアンデスにはないらしいよ」
「なんだかおもしろいわね。
こういうのが料理の面白さでもあるわ。
だから和食にもまた挑戦したいわね」
おっと、この話題はまた機嫌が悪くなる可能性があるから気をつけないといけない。たしかみりんが手に入らなかったから肉じゃががおいしくできなかったって言っていたはずだ。僕にとっては十分おいしかったけど、料理が得意な咲にとっては納得いかなかったのだろう。
もし思い出して不機嫌になったら困るので、ここは思い切って話題を変えることにする。
「そう言えばさっきさ、明日は休んだ方がいいって言ってたじゃん?
でも僕は今そんなに疲れてる気もしないし元気なんだけど、なんでそんなこと言ったの?」
「そうね、きっと明日の朝になったわわかるわよ。
それより早くわかるかもしれないけど、とにかく明日は体を休めることを考えておいてね。
うちに泊まって行って構わないから」
「と、と、泊まるって、そりゃまずいよ。
さっきだって僕は……」
「平気よ、別に泊まらせて何かしようなんて気はないから心配しないで。
もちろんキミが私に何かする、できるとも考えていないわ。
だってもうキミは抜け殻のようなものだもの」
「抜け殻? それってどういう意味さ?
なんだか役立たずみたいに思われてるみたいで嫌だな」
「気を悪くしたならごめんなさい。
もっと違う言い方があるかもしれないけどうまく説明できないわ。
簡単に言えば、今日のキミには精気がもうほとんど残っていないの」
そういえば、咲は僕の精気を吸うとかなんとかって前にも言っていたな。それと裸だったことを結びつけてしまった僕は急に恥ずかしくなってしまいうつむいた。
そんなことはお構いなしに咲の話は続く。
「だから今のキミは普通に動くことは出来ても、トレーニングするほどの力は残っていないはずよ。
わかったらそこでおとなしく座ってなさい。
今デザート持ってくるわね」
そう言って、ワゴンへ食べ終わった食器を乗せてキッチンへ去って行った。身も心も置いてきぼりになって何が何だかわからなくなった僕は、とぼとぼと移動し壁沿いのソファへ腰を下ろしたのだった。
その横では、肖像画に描かれた幼かった頃の咲がこちらを見ているような気がした。




