9.「メタファーとしての井戸と顔のない羊」
「井戸、あったね」と夏が言った。
小屋から出ると、深く積もった雪の中に埋もれるようにして、古ぼけた井戸があった。小屋に入る前は無かったはずだが、見逃していたのだろうか。井戸の上には滑車があるが、縄も桶もなく、使用されなくなってから久しいもののように思われた。
「長く使われていないみたいだな」と赤鼻が言った。
「水の汲めない井戸は、井戸と言えるのかな」概念としての井戸。メタファーとしての井戸。しかし、形而上学的な井戸には程遠いものに見える。僕は雪を足でかき分けながら井戸に近寄り、中を覗き込んだ。
「かなり深そうだ」
冬の薄日のせいか、黒く塗りつぶしたような穴はどこまで続いているのかわからない。どれだけ目を凝らしても底は見えず、もしかしたら底など初めから無いのかも知れなかった。あるかも知れないし、無いのかも知れない。どちらにせよ、その意味するところに変わりはない。結局のところ、それはそれだけのことなのだ。
「完璧な井戸などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」と僕は呟いた。
赤鼻はじっと僕の方を見て、深いため息を吐いた。僕は咳払いをしてごまかした。
雪の塊を手に取り、落としてみた。白い塊が黒く染まり、すぐに見えなくなった。風の音だけが聞こえる。
僕は闇の奥を見続けた。遠くで夏の声が聞こえた気がした。あるいは、それは風の音かも知れなかった。
僕はじっと、闇の奥を見続けた。闇の奥から誰かが僕を見つめている気がした。深く、深く、どこまでも。ああ、そうか、それはそんなところにあったのか。
「ねえ、大丈夫!?」
ふと我に返ると、僕は夏に肩を揺さぶられていた。魂を別の人間と入れ替えられたみたいに、意識が自分の体になじんでいなかった。夏が何か言っているが、頭にうまく入ってこない。
「もう、しっかりしてよ。危うく井戸に落ちるとこだったじゃない」夏が心配そうな顔をしている。
小屋の向こう側から、赤鼻が歩いてきた。赤鼻は神妙な顔をして、「おい、大変だ。なんて言ったらいいのかわからないんだが」と言った。
「どうした?」
「顔のない羊がいた」
やれやれ、と僕は思った。
◇◆◇
「鍵が開いているな」
薄く雪が積もっているが、二人分の足跡と蹄の跡がはっきりと残っていた。戻った形跡はなく、森の奥にいるであろうことが伺えた。
「あとで軍曹の家にも寄らなきゃならんか。ったく、仕事の多い日だ。今日は」
門番は吐き捨てるように門を蹴った。痛かった。
次回掲載予定、第10話「顔のない羊はデレク・ハートフィールドの夢を見るか」