10.「顔のない羊はデレク・ハートフィールドの夢を見るか」
赤鼻に小屋の向こうへと案内されると、そこには確かに顔のない羊が座っていた。頭はあるが、顔の部分が深い空洞になっていて、底の見えない闇で覆われていた。柔らかく傷つきやすい、デリケートで臆病な井戸だった。
「なんだこれ」
「俺が知りたいよ」
夏が近づき、羊の背中をそっと撫でた。
「夏、危ないよ!」
「大丈夫、この子、たぶんいい子だから」
羊は静かになされるがままにされていた。幾分気持ちよさそうにも見える。
「ありがとう」と羊が言うと、おもむろに立ち上がり、ブルブルと震えだした。どこから声が出ているかはわからなかった。気のせいだったのかも知れない。とにかくそう聞こえた気がしたのだ。それから羊の首元から闇が隆起し、ひと際盛り上がったかと思うと、中から1人の少年が出てきた。
赤鼻が珍しく緊張した声で、「何がどうなってやがる」と言った。
「初めまして、僕は夢読みです」少年は爽やかに言うと、手を差し伸べ、握手を求めた。僕は握手をするにはいささか混乱し過ぎていた。いきなり現代の大都会にタイムスリップしてしまった原始人のように。
「夢読み?」
「ええ、夢読みです。古い骨から何処にも行き着かなかった夢を拾い集めています」
少年は僕が混乱していることを確かめると、言葉を付け足した。
「夢を読まなければならないのです。冬が来る度、解放されない思念は淀みとなって積み重なってしまうので。思念のみが存在し、表現が根こそぎもぎ取られた状態というのを、あなたは想像できますか? 万物は流転しなければならないのです。川の流れのようにね」
何かを隠している、と僕は思った。爽やかな笑顔と丁寧な言動をする人間は、たいてい何かを隠しているものだ。言葉の端々に自信が満ちているのは、若さゆえのものではない。相手の知らない有利な手札を握っているときに人間が見せる、陰湿な笑みだった。そして厄介なことに、たいていの場合そういった人間の思う通りに動く羽目になるのだ。姿を見せた時点で勝負は決まっているのだから。
「気をつけろ」と赤鼻が言う。
「わかってる」
「そう警戒しないでください。あなたにとって悪い話をするつもりはないですから」と、親しみやすい詐欺師のような顔で少年が言う。
「ここから川沿いに西へ進むと、大きな湖があります。一見すると、水の流れはそこで止まっているように見える。表面上は、です。湖底に注いだ水流は、勢いをそのままに地下洞を流れ続ける。つまり」
「そこから外に出られる」と僕は続けた。
「そのとおり」
悪くない話だった。少年の姿をした悪魔が微笑む。
「見返りは?」
「必要ありません。あなたが外に出てさえくれれば、ですが」
僕は迷った。迷ったところで選択肢はないことがわかった上で、それでも迷った。掌の上でいいように転がされるのが癪だったからだ。僕は無性にパスタが食べたくなった。沸騰した鍋の中でいいように転がされる可愛そうな僕のパスタ。やれやれ、と僕は思った。
見透かしたように少年が口を開く。
「デレク・ハートフィールドの小説に、こんな台詞があります。『人生は配られた手札で戦うしかない』」
「タフな台詞ね」と夏が言った。
「デレク・ハートフィールドなんて小説家はいないよ」と僕が答えた。
「いますよ、この街には」
「完璧な街だから?」
「完璧な街など存在しません。完璧な絶望が存在しな「あ、そういうのいいんで」
少年は咳払いをした。
「とにかく、人生は配られた手札で戦うしかないんです。残された時間はそう多くない」
その時、「おい、お前ら!」と、遠くから呼ぶ声が聞こえた。野太い声は門番に違いない。殺意を込めた声に足がすくんだ。手には大振りの鉈を持っているように見える。
「ほら、早く行かないと」と少年が優しく諭す。癪に障るが、従うしかない。外に出るかどうかは別として、門番の殺気はただ事ではない。捕まったら無事ではすまないだろう。
赤鼻が前に出る。
「ひとまず俺が食い止める。お前たちは先に行け」
「わかった、なるべく時間を稼いで死ね」
「もう少し気遣えよ」
僕と赤鼻は視線を交わし、頷いた。
「達者でな」
「お前もな」
心配そうに後ろを振り返る夏の手を取り、僕は川沿いに駆け出した。少年と羊は、いつの間にか消えていた。
次回掲載予定、第11話「蟹の子どもたちはみな踊る」




