第1話 領主不在の領地
「――今年の小麦の収穫量は、昨年からさらに三パーセント増える見込みです」
ロレンス侯爵家の執務室で、領地管理人が帳簿を読み上げた。
マリナ・ロレンスは机の上に広げた別の帳簿と数字を照らし合わせ、小さく頷いた。
「北部の農地はどうですか? 春先に雨が少なかったでしょう」
「新しい用水路が間に合いましたからね。むしろ去年より出来はいいくらいですよ」
「それならよかったです。来年は東側の古い水路も直しましょう。あちらは途中で漏れている箇所がありますから」
マリナはそう言って、帳簿の余白に書き込んだ。
五年前、二十歳でロレンス侯爵家に嫁いできたころと比べれば、この領地で収穫される農作物の量は、ほぼ二倍になっている。
最初から、それを目指したわけではなかった。
嫁いだばかりのころ、マリナが気になったのは、働き盛りの領民がずいぶん簡単に働けなくなってしまうことだった。
農作業中の怪我を放置して歩けなくなる者がいる。治療費が払えないため、病気になっても医師にかからない者もいる。汚れた井戸から病が広がり、一家全員が寝込んだこともあった。
医師の父と薬師の母のもとで育ったマリナには、それを放っておくことができなかった。
診療所を増やし、金のない領民も治療を受けられる仕組みを作った。井戸を調べ、汚染されていたものは使用を止めた。農繁期に怪我人が集中すれば、農具の使い方と休息の取り方を見直した。
水が足りないと言われれば用水路を調べ、収穫した作物が冬まで持たないと言われれば保存方法を見直した。
一つ問題が見つかるたびに、一つ直した。
それを五年間続けていたら、いつの間にか収穫量が二倍近くになっていただけだ。
「奥様がいらしてから、ずいぶん豊かになりましたな」
管理人が帳簿を閉じながら言った。
「私一人の功績ではありませんわ。皆さんが働いてくださった結果です」
「またまた、ご謙遜を」
「謙遜ではありません。私は悪いところを一つずつ直しただけですから」
マリナも自分の帳簿を閉じた。
「では、今日はここまでにしましょう」
「――ところで、奥様」
管理人が立ち上がった。
報告は終わったはずなのに、なぜか帰ろうとしない。
マリナは愛想笑いを浮かべて管理人を見つめた。
「何でしょう?」
「旦那様は、今年も王都からお戻りにならないので?」
「そのように伺っています」
マリナは苦笑した。
夫であるロレンス侯爵――リュシオンは、遠い王都にある屋敷にいたまま、領地のこの屋敷には長いこと帰ってきていない。
「もう何年になりますかなあ」
管理人は笑いながら、机の横へ回り込んできた。
マリナはさすがに愛想笑いを消し、眉を寄せた。
「何のお話でしょうか」
「いやね。奥様もお寂しいだろうと思いまして」
「……は?」
「まだお若いのに、旦那様はずっと王都でしょう?」
管理人はずいっと距離を近づけた。
マリナは無言で椅子から立ち上がったが、男はさらに一歩距離を詰めた。
「旦那様とレベッカ様がいい仲なのは、この辺りでは皆知っていますよ。なにしろ、血のつながらない兄妹ですからねえ」
――レベッカ。
王都のロレンス家の屋敷に暮らす、リュシオンの年の離れた妹だ。
ただし、妹といっても、リュシオンとは血が繋がっていない。
レベッカは、亡き前ロレンス侯爵の再婚相手の連れ子である。
《鋼心病》という病に侵されているレベッカを支えるため、リュシオンは妻のマリナを領地の屋敷に置いたまま、ずっと彼女と王都の屋敷で過ごしている。
――それは、屋敷に関わりのある人間には周知の事実だった。
「……奥様だって、少しくらい遊んだって罰は――」
男の手が、マリナの手に伸びてきた。
触れられる寸前、マリナはその手を強くはたいた。
「……仕事上必要のないことで私に触れないでください」
マリナは男を睨んだ。
「そんな怖い顔をなさらなくても。ちょっとした冗談じゃありませんか」
「面白くありません」
管理人の男はばつが悪そうな顔で肩をすくめた。
「怖い顔だ。だから旦那様も――」
「――口をわきまえた方がいい」
聞き慣れない男の声がした。
マリナと管理人の男は同時に扉の方を見た。
いつからそこにいたのだろう。
開いた扉の向こうに、背の高い男が立っていた。
銀色の髪に青い瞳。
仕立てのいい濃色の上着を着ているが、貴族らしい華美さより、どこか実務官僚めいた隙のなさがある。
男は管理人を見て、露骨に顔をしかめた。
「……主人の妻に言い寄る管理人を初めて見た」
「な……どなたですか、あなたは」
焦った表情の管理人の横で、マリナは目を細めた。
銀の髪に青い瞳。その端正な容貌は、どことなく夫のリュシオンに似ている。
「奥様! すみません、旦那様の叔父様でいらっしゃる、ルーク・ロレンス様です。お訪ねになったので、上がっていただいたのですが……」
慌てた様子のメイドの言葉を聞いて、マリナは頷いた。
リュシオンの叔父のことは、名前だけは知っていた。
リュシオンの父親の異母弟にあたるが、祖父が後年、侍女との間にもうけた庶子で、リュシオンとは五つほどしか年が違わないはずだ。
「――ルーク様。お初にお目にかかります……リュシオンの妻のマリナです」
マリナはルークを見つめて、一礼してから、苦笑した。
ルークが庶子という複雑な事情はある。それでも、リュシオンの親族と結婚して五年も一度も顔を合わせていないこと自体、自分たち夫婦のありようを示しているような気がした。
「突然の訪問、すまないね。私は王宮で財務を担当していて――こちらのロレンス領について確認したいことがあって――」
ルークは言葉を途中で止めると、唖然とした表情でこちらを見つめる管理人の男を睨んだ。
「――仕事の報告が終わったなら出ていきなさい」
声を荒らげたわけではない。
それでも管理人は何かを察したらしく、顔色を変えた。
「……失礼いたしました、奥様」
管理人の男は頭を下げ、逃げるように部屋を出ていく。
ルークはその背中を見送ってから、呆れたように息を吐いた。
「なんて管理人を置いているんだ。……リュシオンは何をしている」
「――夫は、王都の屋敷におります」
マリナは肩をすくめた。




