3、空に臨めない空
3、空に臨めない空
《1》
*
ブランコは揺れていた。僕を?俺を?とにかく自分を乗せて。目の前には公園。隣には幼さを少し欠いた柔らかい純粋無垢な笑顔。目の前のベンチには本を読みながら影を一人だけつれている影の主。また来たのだ。
着せられていた洋服には名札が。隣の名札に目をやる。埼玉北小学校、一年三組、たけうち あゆみ。そう書かれていた。影の主が近づいてきた。彼の名札は…。雨にでもやられたのだろうか?インクが滲んでほとんど読めない。読めたのは〝え〟と〝し〟、それに〝う〟だった。これらはこの順番に並んでおり え□□□し□う□ または え□□□し□う□□ のように見えた。
隣の笑顔は幼稚園の時と変わらず、天使のように眩かった。美しさと神々しさを備えた絶対なる存在に思えた。
「おい、あゆみ。ちょっと来て」
影の主が呼び寄せる。あゆみはニコッと笑顔を返事にして、またそれを合図にしてブランコから飛び立った。いつ見てもこの風景は胸のどこかをつかみ上げる。綺麗な軌跡、靡く少し長めの髪。成長しても変わらない。美しい。
着地すると小走りで影の主に近づいて行った。そして二人で会話を始めた。クスクス笑ったり、顔をしかめたり、変な顔をしたり。
自分も混ざりたい。そう思った。自分も飛び立つため、腰と両手に力を入れる。よしっ、今だ!景色がフィードバックしていく。
いつかのようにまた降りられない。もう一度。張り付いている。いや違う。掴まれているんだ。ブランコからは黒く細い手が伸び、自分の腰に絡みついている。悲鳴も出ない。冷静にわかっていた。背中が再び攣る感触を感じたが今回は目の前から視線を外さなかった。この後確か天使は、あゆみは消える。
影の主とあゆみは依然楽しそうに会話をしている。しかし、何かが変わっていく。何が?どこが?目を皿のようにし…、影だ。主から延びる影が生き物みたいにあゆみの方へ伸びてきている。爪先、土踏まず、そして踵に到達した瞬間。あれっ。また視界に変化が表れた。今度はすぐにわかった。沈んでいるのだ。影はあゆみをすっぽり包んだ瞬間、飲み込み始めたのである。当のあゆみは何も気が付いていない様子でそのままの白さを残している。しかし、影は飲み込むことを止めない。足が沈み、脛、膝、太股、スカートに到達した。そして腰、胸、首、ついに笑顔も影にのめり込んでいった。入り込み影の隙間から光がもがきだそうとしたが、それもつかの間でそれすら許さず喰い尽した。
それが終わると影は物足りないかのように存在を広げ始めた。次々に周りのものを平らげていく。すべり台、ベンチ、噴水、砂場、遊んでいる人たち。それに飽きると影は地面と空に手を伸ばし侵食し始めた。目の前の景色がどす黒いインクに奪われていくのを喋れずに、動けずに、ただ見ていることしかできなかった。
空と大地を自分色にすると、影は闇に成長していた。最後の仕上げかのように主を取り込み始めた。歩の時とは違い、周りからじわじわと塗り潰していく。主もまたそれに気がつかない様子で、表情を変えずに消えて行った。
もうここには闇とブランコと自分しかいない。違うものが並んでいるのに同じもののような親近感に襲われる。
そうか、自分たちは同じなんだ。なぜだろう、そう位置づけることが至極自然な気がする。なにが同じなのだろう?見た目も中身も存在も違うのに。そうか。本質が一緒なんだ。だから飲み込まれず共存できるんだ。
体に巻きつく黒い腕への恐怖と拒絶は失われていた。むしろ心地よい。なんにもない。人も物も感情も地面も空も。もちろん時間も。そう、ここには時間は存在しない。
ずっと一緒だね。大きな腕は優しく抱きしめた。
*
額の汗を枕に擦りつけ濠は目を覚ました。嫌な汗が体にしがみ付いている。またあの夢だ。しかも三回目。
「おい、やっぱり…」
ドアが開き、そこにエプロン姿のミルファクがいた。料理してましたといわんばかりにフライ返しを片手に持ち立っていた。表情は曇り、両眉は垂れ下っている。
ここにきて、いつもほどの寝起きの眠気や気だるさがないことに気がついた。どういうわけかパッチリ目が冴えている。
「うん、まただ。これで三回目」
最初にこの夢を見たのは面接を受けた翌日、便箋が届いた日で生まれ変わりまで十五日前の日だった。気味の悪い内容だったが次の日には見なかったので安心していたのだが、二回目は訪れてしまった。それは一回目から五日後だった。ちょうど便箋が届く日だ。夢の内容は同じだったが、一回目より鮮明なものだったので事細かに覚えており、すでにミルファクにも伝えてあった。
一回目、二回目、ともに便箋が届く日だったので、もしかしたらという話を昨日繰り広げたのだがその通りになってしまった。
しかし。
「なあ、夢は見たんだけど、その内容が違うんだよね」
寝癖を弄りながらミルファクを見た。
「違う?」
「うん、朝食の時にでも話すよ」
「いや、それは無理だ」
そういって時計を目の前にグイッと押し出した。時間は…、!?
「えっ!?」
「もう昼だ」
濠は時間ピッタリの昼食に舌鼓を打ちながら勢いよくそれらを平らげた。朝の分まで胃は空いているようで、いつもより食べ過ぎてしまった。正直苦しい。濠はベルトを緩めの穴に締めかえた。
「お前は寝ぼすけだけど、ここまでひどいのは初めてだな」
「大体起こしに来るじゃん。なんで今日は起こしにこなかったの?」
「いや、本を読んでた。ついつい時間を忘れて読み耽ってしまった」
そういうことか。いつも朝はうるさいのに。文句を頭に並べながらソファの上に一冊の本があるのに気がついた。檸檬色の本だ。タイトルは、ない?
「なあ、あの本、タイトルがないけど」
「ああ、あれはああいう本なんだ」
そう言った時の彼は人間以外の別の生き物のようなオーラを感じさせた。温かみや冷たさ、愛情、悲しみ。そういう感情的な部分がない無機物のような、そんなオーラだった。しかし、表情は感情的で、優しい春の息吹。そんな表情だった。明確な言葉がどうしても見つからない。
「で、今日見た夢はどんなのだった?」
ミルファクはなぜかその話題から逃げるように重要な話題にすり替えた。
「ああ。ブランコが出て、隣とベンチに知ってるやつがいるのは一緒。場所も公園。違うのは時間。今日のは小学生だった。名札を付けててわかったんだけど。隣の子はたけのうちあゆみ。ベンチの子は滲んでて名前がちゃんと読めなかった。それから前の夢で周りのものがなくなった理由もわかった」
「なんだ?」
「ベンチの子の影が伸びて全部飲み込んじゃうんだ。最初にあゆみって子、次に遊具や人、それから空と地面、最後にベンチの子」
話していて生ぬるいものが背中を走る。気がつけば額もじっとり湿っていた。
「俺はそのまま。ブランコも」
低く唸りながらミルファクは下に顔を落とした。手を額につき憔悴がそこには滲んでいた。ずっとこのことを考えてくれていたのだろう。そう思った。
ふと九日前の夜、ミルファクに質問した時のことが蘇ってくる。
「ここの空ってさ、どうして朝も昼も夜も、ずっと真っ暗なんだ?」
えっ。そういう顔を彼はした。その顔の真意はわからない。ただ…。
「さあな、知らん。なんで今更そんなこと聞くんだ?ずっとだろう?下界はずっと真っ青だけどな、こっちは真っ黒なんだよ。まあ似たようなもんじゃないか。そんなこと考えたことないな」
そう言われた。やはり真意はわからない。ただ…、ミルファクに初めて疑問を感じた。何かを隠しているような、何かを知っているような。そう。重大な何かを。
「わからんな。なんですべて飲み込まれるのに、お前とブランコは飲み込まれないんだ?」
「さあね」
嘘をついた。本当はなんとなくだがわかっていた。夢の中で気がついたのだ。言おうかと思った。しかし、今思い出された彼への歪んだ感情に妨げられて、いや俺が妨げて彼に伝えないようにしようと思ったのだ。信頼。それはなんて純粋で醜く、儚い遠い存在なのだろう。彼にはそれがあると思っていた。しかし。それは勘違いだった。そう思うことにした。
「本当に、か」
心臓が握られる感触がする。まさに彼は間接的に握っていた。何を根拠に?それはわからない。しかし、鋭いギンとした眼光は細長いワイヤーのもので濠の心をなかなか解放してくれなかった。
「ほ、本当だよ。全然わからない」
苦しみに耐えながら必死に視線を逸らした。
「ならいいが」
ワイヤーはシュルシュルという音とともに心臓を開放した。目もいつもの温かみを取り戻している。
「あ、あの便箋来てたけど、見るか?」
首を左右に振り、窓辺に立った。相変わらずの黒い空が上に寝そべっていた。墨汁よりももっと黒く、新雪よりももっと冷たく、そして海よりももっと深い黒だ。それに逆らうようにいくつもの街灯が灯って昼間を演出している。これが灯っていれば昼なのだ。
太陽の光はない。なのに、どうして花は育つのだろう?どうしてミルファクは太陽光がなくても〝ここでは〟花が育つことを知っているのだろう?
濠の中を渦巻く感情は考えれば考えるほどそれを餌に肥えていくのだった。
[1]
謙輔は椅子にもたれかかり、疲れをたっぷり含んだ溜め息を漏らした。ここ何日かあの事件をひそかに調べているのがその原因であろう。日中は最近発見された自殺体の捜査で動けないため、それ以外の時間にやるしかなく睡眠や休息が十分に取れていないのだ。その遺体は線路に飛び込んだ男性で頭部だけが発見されておらず捜索が行われているのだった。
遠藤翔吾の事件は署内では解決していた。それは九日前のことだ。取り調べのため勾留中だった柊平が突然おかしくなった。留置所からとてつもない叫び声が聞こえたため武内と向かうと、うつ伏せに横たわった彼がいた。傍らには爪が嫌な光を出しながらコンクリートの床に転がっていた。
すぐに病院に搬送され、精神科に回された。診断の結果、柊平は精神病の可能性があるためこちらで預かるといわれた。上は、何かが引き金になり突然遠藤翔吾を殺したと断定した。そしてその原因は謙輔が調べた彼の育て親の死だとした。こうして半ば強引にこの事件は解決させられたのだ。
しかし、謙輔はそれが真実だと考えていなかった。それはまた根拠のあるものではなかったが、なぜか自信があった。これが刑事の勘というやつに違いない。そう思った。わからないことはたくさんある。それらを明らかにし、必ず靄にかかった部分を明らかにすると決めた。
「お兄ちゃん、か」
ぼそりと宙に向かって言った。隣に座っていた武内が首を傾ける。
「なんだ?お兄ちゃんがどうかしたのか?お前一人っ子だろう?」
「いえ、僕のことじゃなくて、柊平君のことです。あの叫び声が聞こえた日に叫び声の合間にそう言っていたと最初に駆け付けた警官の人が言ってたものですから」
「山碕柊平がか?お兄ちゃん、か。山碕剛がどうしたというんだ?」
それをずっと考えていた。剛がどうしたというんだ?それもわからないが、もう一つ。自分の中で何かが気になっている。妙な違和感。冬なのに扇風機を出して回しているようなそんな些細な違和感。だがその正体に辿りつくことが出来ない。
「ところでその後何か分かったか?」
その言葉を思考の世界から引き戻された。すぐさまシルバーの手帳を広げる。
「動ける時間が少なくてそれほどは進んでないです。とりあえず彼らの育て親が亡くなった事件について調べています」
そう言いながら栞を挟んでいるページを開く。それに関する内容をここ何日かで調べた内容を記していた。
「一家心中と殺人だったか。それについて聞きたいことがあるんだが、いいか?」
謙輔は、ええ、と答えた。
「まず、一家心中についてだが、なぜ犯人が永倉勉だとわかったんだ?全員粉砕機の中に落ちたんだろう?」
「遺書が見つかったんです。自分がやったこと、その理由などが書き連ねてあったそうです。その理由というのが、当時永倉勉が働いていた会社は倒産寸前でリストラを頻繁に行っていたようです。永倉勉もリストラにあい、家族を養っていけないため家族で出した結論だと」
坦々と説明を繰り広げる謙輔に少しだけ怖さを感じた。彼も人間だ。もちろん感情もある。しかし、彼はそれを切り離す術を知っているようだ。仕事中にそう言ったものを持ち出すことはなかった。少しだけ羨ましさを感じた。
「全員粉砕機の中へ?」
「そのようです。粉砕機の傍に靴が四足置かれていたというのと、大量の骨片、肉片が散乱していたというのがその理由らしいです。それのDNA鑑定の結果も出て確認は取れています」
「そうか」
窓の外に輝く太陽が厭味ったらしく日光を振りまいている。今だけは雲の向こうへ隠れてほしいと感じた。数日前のように。
「そんなところですかね。なかなか時間が作れなくて。武内さんはどうですか?」
「遠藤翔吾に関しては午後に彼の友人から話を聞くことになっている。お前も行くだろ?」
謙輔は大きく肯定を示した。
「それと前に管理人が山碕柊平のことを知っているというのがあっただろ?それを本人に聞いてみた。最初とてもビックリしていたがな」
「それでどうだったんですか?」
「彼が言うには山碕柊平は頻繁にそこに来ていて顔をよく合わしていたからだそうだ」
腕を組みながら話を聞く彼は黒縁の眼鏡を弄りながらじっとこちらを見ていた。いや、向いているだけで見ていないだろう。おそらく思考回路が忙しくしているに違いない。その動作が止まるのを根気よく待った。数分後口が開かれた。
「そうですか。わかりました。じゃあ行きますか、遠藤翔吾の友人のところへ」
あれ?長い思考のわりに素っ気のない返事。その返事はそれを気にするなと言っているように聞こえた。
「お前、何を考えているんだ?なんか思うことがあるんじゃないのか?お前が考えていること全部話したか?なにか隠していないか?」
「もう少しだけ待ってもらえませんか」
感情を切り離せるはずの彼が初めて見せる悲しみの表情だった。無情にも快晴の冬空は彼にそぐわない表情を見せていた。
《2》
今日は湿気をほとんど感じなかった。濠は湿気がどこからやってくるのかが不思議で堪らなかった。空がないためもちろん天気なんて存在しない。気候もない。気温は多少存在するが夏と冬ほどもなく、春や秋のようである。だからわからない。あの重い鉛のような湿気はどこで生まれてここに立ち寄るのだろう。そもそもいつも感じる重いザラザラした空気は湿気ではないのだろうか。ではあれは、何なのだろう?
外で街灯の光を浴びながら作業をする彼が目に入った。今日もまた違う花をせっせと植えている。手と足もとと顔を汚しながら。なにで?土でだ。土、なのか?花、なのか?ここは死後の世界。生前と同じようにあれらはあるのか?だいたい今植えているものを本当に〝花〟と呼ぶのか?
小さかったはずのドブ水のような感情が他の感情を飲み込むほど大きく増大していることに濠は気がつかなかった。彼の感情はすでに流されていた。下流の方で必死にしがみついてはいるものの、深き所に沈むのは時間の問題だ。
そう思うと、俺は本当に人なのだろうか。そして、人だったのだろうか。あの日、ミルファクと会ったのは偶然だったのだろうか。そもそもあの夢は夢なのだろうか。現実ではないのか。
ミルファクと会ったのは偶然だった?花が日光を必要としないのは街灯の光にそういう力があるからかもしれない。
ミルファクと会ったのは必然だった。じゃあ、どうしてあのタイミングで会った?待っていればいい。俺が現れるのをあそこで、受付の横のソファで待てばいい。
ドブ色の感情は流域面積と勢いを増して、彼の感情をついに海底に沈めてしまった。そして彼の中でさらに大きく、激しく、どす黒く変化を繰り返してゆく。
どれだけ待った?そんなことは関係ない。待っていたということはそこにいたということだ。その日にあいつはここへ来たわけではない。いたのだ。ずっと。それで装ったのだ。偶然だと。これなら納得がいく。あいつが言った不自然な言葉も不思議な特性の花を植えることも、もちろんあれも説明ができる。だけど、なんで待っていたんだろう?俺が死んでここに来るのを。どれくらい待ったのだろう。
思考がピシャリと動くのを止めた。ミルファクがこちらを見ているのに気がついたからだ。その目は透明感を失い、暖かさも失い、力も失い、光も失い、彼の顔に並んでいた。ただ悲痛な表情を表していた。死ぬことを初めて理解した子どものように、初めて裏切られた純粋な子どものように、くすんだガラス玉のような目だった。
二人の目はじっと目の前の誰かに向けられていた。その誰かはよく知っているはずなのに初対面のような面をしていた。どこかで生まれた風がミルファクだけをゆすって行った。
銀の髪が街灯の光を吸収してプリズムのように乱反射を繰り返し、濠をドブ色の感情から引きずりあげた。
[2]
車内ではお互い口を開かなかった。その原因が、自分が言った言葉のせいであることは謙輔が一番分かっていた。武内はどう思っているだろう。ここまで一緒にやってきたのに隠し事があるとわかって怒っているだろうか。それとも悲しんでいるだろうか。無言の彼女からそれを導き出すことは容易ではない。ただ、彼女は感情を切り離すのが上手ではない。一緒に組んでわかったことだ。だから、話をすればそれが分かるのだが。そんな彼女が少し羨ましかった。
横目に武内を見た。ドアに肩肘を乗せて外を眺めている。話しかけるなといわんばかりに。そうすることにした。
それにしてもわけのわからないことになってきた。柊平が精神病で倒れるまでどこかで彼が犯人かもしれないと考えていた。しかし、あれは尋常じゃない。もし、上が言うようにPTSDで情緒不安定な状態に陥って殺してしまったなら首吊りなんていう方法で殺さないだろう。一見すると自殺に見えてしまう方法だし、とても手間がかかる。情緒不安定な状態でそんな方法がとれるとは思えない。あれが演技ではないかとも考えた。しかし、果たして爪が剥がれてしまうほどコンクリートをひっかくことが演技で出来るであろうか。これらを考慮した結果、柊平犯人説はおそらくあり得ない。それが謙輔の見解だった。あとは二つの説が考えられる。これから聞く情報はどちらの説を有利にするだろう。おそらく自殺説が薄くなるのではないかと思った。しかし、この説が有力なものになると、解らないことが増えてくる。犯人はどうやって遠藤翔吾を殺した?犯人はどうやって痕跡を残さずに侵入した?どうしてあいつは遠藤翔吾を殺さなければならなかった?
金の斧にも銀の斧にも目をくれず鉄の斧を見続けている自分がとてつもなく嫌に思えた。金の斧に飛びつけばいいのに、銀の斧に飛びつけばいいのに。心からそう思った。
「遠藤翔吾君とは?」
はじめに口を開いたのは武内だった。
「小学校と中学校の幼馴染です」
春日圭というこの女性が答えた。栗色のロングの髪の毛、長そでのセーターとジーパンの裾から出ている白く細長い手足。一重の瞼と薄めの唇はどことなく清楚さをイメージさせる。読書なんかが似合いそうだ。
「小学校は同じクラスになったことがなかったんですけど、中学校はずっとおんなじクラスでした。部活動も一緒で話したりもしました」
「何をやってたんですか?」
謙輔が質問を捩じ込む。
「吹奏楽部で、楽器はユーフォニアムでした。遠藤君とは同じパートだったんで練習の事とか結構話しましたよ」
「ユーフォニアム?」
聞き慣れない楽器の名前だったのだろう。武内がこちらに歪んだ表情を向けてきた。
「中低音に位置するチューバのミニサイズのような楽器なんですが。ってそんなこと言ってもわかりませんよね」
「あれです。あのあたしが持っているやつです」
指された方には何枚かの写真が飾られていた。その一枚にシルバーのユーフォニアムを持った彼女が写っている。
「あれはマーチングのコンクールの時に母が撮ってくれたものなんです。最後の年に関東大会に行けて、北中が県大会を突破できたの初めてだったのですから家族が総出で来てくれて」
武内は立ち上がりその写真をまじまじと見つめていた。
「僕も吹奏楽部に入っていてユーフォだったんですよ」
「えっ、そうなんですか?中学は?」
「朝霞中ですよ」
「凄い!コンクールの常連じゃないですか。全国にも行きましたよね?」
「ええ、まあ」
眼鏡を軽く弄った。額の奥がなぜか焼けるように熱かった。
「それはともかく」
むっとした顔で武内が隣に帰ってきていた。
「た、武内さん」
体を剣で貫かれたような驚きだった。タルタルパニックの髭の気持ちがよくわかった。今度出会ったら刺すのを止めよう。
「タケノウチ?」
春日は開いた丸い目をさらに丸くしてこちらを見た。
「どうしました?」
「いえ。ただちょっと驚いちゃって。聞いたことがある名字だったもので」
「武内歩ちゃんですね?」
情報が噛み合ったので確信に満ち溢れた声で言った。彼女の方はというと少し釈然としないような表情を浮かべた。こちらが知ってたことに疑問を抱いたのであろう。
「はい。歩とは同じクラスだったんです。仲もよくて、そう言えば他にも近所の子と仲がいいんだと言っててそれが遠藤君だったんです。歩に紹介されて私も遠藤君と仲良くなったんですよ」
ぶったまげるとはこういう時に使うのがベストなのだろう。こんなところでリンクするとは。春日は平然と続ける。
「遠藤君、とってもモテたんです。なんかクールで、何でもこなして、でも優しくて。歩が言ってました」
「ちょっとお聞きしたいんですけど、山碕という名字に聞き覚えはありませんか?」
「ヤマサキ…、あります。確か同じ吹奏楽部でしたよ。パートはトロンボーンだったと思います」
鉄の斧はやはり転がっていた。ただ考えていたのとは違う感じだった。
「彼は遠藤君とは?」
「特には。同じ部内だから話はしていましたが、さほど仲が良かったとは」
そうですか、小さく漏らした。武内の方を見るとかなり驚いているようだ。これだけの関係者が一挙に登場したのである。当然といえば当然だ。
「すいません、もう一つだけ」
謙輔はもう一度武内の方を見た。彼女はどんな顔をするだろう?すみません、と何度も心の中で謝罪の言葉を何度も述べた。
「自殺した歩ちゃんについて教えてもらえますか?」
[3]
セダンに戻りエンジンをかけた。出発はまだだ。だからと言って話をするには暖房のついていない車内は寒すぎる。そう思った。
先程の質問の後、武内が口を開くことはなかった。ただ聞き入っているだけだった。
「自殺した歩ちゃんについて教えてもらえますか?」
謙輔はあえてそちらに確認を取らずに切り出した。
「歩のこと、ですか?そうですね、とりあえず自殺したって聞いた時は、その、すごくショックでした。普段から明るかったし、悩みもなさそうだったし。好きな人もいるって言ってました。誰なのかは聞きませんでしたが、同級生だったみたいです」
彼女が語った歩はこんな感じだった。これ以上の有力な情報は出てこなかったのである。
春日に礼を述べて二人は今ここにいる。終始無言のままで。
「なあ、なんで歩のことを聞いたんだ?」
聞かれるであろうと思っていたものの、やはり気が重い。武内の過去まで引っ張り出さなければならないことが。
「武内さんの話を聞いてから、気になっていたので今日聞いてみようと思ったんです。歩ちゃんの自殺はこの事件に関係があるように思えて」
「歩が?」
心底驚いたのだろう。寝ている最中に冷水をかけられたような顔だ。いつものクールな彼女はそこにいなかった。
「ええ、ですから武内さんの元、いやご主人にもお話を聞く予定です」
「知っていたのか」
「いえ、ご主人に今朝教えてもらいました。別れたとは言っても離婚はしていなくて、別居をしていた、と」
実は今朝、武内の目を盗んで電話をかけていたのだ。
「わかった、それも調べてみよう。もしかしたら真実に辿りつけるかもしれないからな」
武内の言う真実がどんな形をしているのかわからなかったが、口にはしなかった。
「それにしても、ここまで絡んでくるんだな。山碕剛も絡んできたということはあいつが犯人だという説も」
「浮上してきますね。ただ、遠藤翔吾と仲が良かったという感じではなかったですね。これでは動機が…」
「それに、方法がわからんな。指紋を残さずに、しかも自分以外の証拠を残して。そんなことができるのか?ポールにも山碕柊平の両手の指紋はついていたんだぞ。もし仮に手袋をしていたとしても痕跡を残さないのは難しいんじゃないか?」
確かにそうだ。多少擦れたりして痕跡が残ってしまうはずだ。しかもポールに付着していたのは一番新しい指紋でどう考えても事件当日についたものらしいと鑑識が言っていた。
「わかりませんね。なんなんでしょうね。どこがゴールなんですかね。あっ、そうだ。ついさっき、時間を下さいって言いましたよね?それについて話します」
武内は首を傾げた。
「歩の自殺を調べるってことじゃないのか?」
「いえ、違います。けど、彼女に話を聞いたあとにしようと決めていたので」
武内の表情は先を続けろと言っていた。
「で、その内容なんですけど。この前、柊平君が暴れたことがありましたよね」
武内が、ああ、と短く返答する。
「その時に現場を見ておかしいと思いませんでしたか?」
必死に思いだしているのであろう。頻りに首を傾け、腕を組み、眉間に皺ができている。
「どこかおかしかったか?」
「ええ。だってあの床、きれいだったでしょ?」
「だから、前日かに掃除でもしたんだろ?」
「ではお聞きしますが、」
謙輔は一拍置いた。呼吸を整え、夕空を見た。この前のように綺麗なものではなく、そう、まるで血のようだった。
「爪が無理に剥がれても血は出ないんでしょうか?」
《3》
夕食を並んで食べている姿はいつもと同じだった。ただ、そこに会話はない。どちらも喋ろうとはせず、ただただ居心地の悪い空間になっていた。
昼間目があったまま二人は相手を見続けた。長い時間そうしていた。呼吸音と心音だけがそこには響いていた。先に視線を外したのは濠だった。気がつけばベッドの上だった。なぜここにいるかは思い出せないが、下には行きづらく、行ったとしても聞きづらかったので夕食まで眠ることにした。夢はとくに見ず、時間を少しだけむしり取られたような感覚だった。
「お前さ、今日窓辺で何してたんだ?」
唐突に聞かれたよくわからない質問に少々困った。
「なんにも。ただ外見てただけ」
そうか、と色もそっけもない返事だった。ふと見ると、視線は下に向けられていた。
「あのさ、俺いつの間にベッドで寝てたのかな?」
「覚えてないのか?」
意外そうに視線を上げて言った。
「窓からこっち見てただろう?その後、突然消えたんだよ。驚いて中に駆け込んだら、倒れていたんだ。ここ最近眠れなかったのか?」
ミルファクは眼の下を指さして言った。窓ガラスに映る自分の眼の下を見てみる。すると、そこには薄黒い大きな隈があった。痣のように不気味な色で存在感を放っている。
「どうした?悩み事か?それとも夢が怖いのか?」
両方だった。夢も怖い。だが、ミルファクも怖い。そして、今の自分が怖い。しかし、あとの二つを言えるはずもなく、夢が怖いんだ、と囁くように言った。
「そうか、でもちゃんと寝ないと体に悪いぞ。ただでさえ、ねぼすけなんだから」
両眉がグイッと持ち上げられた。自然に振舞おうとした。
「そうだな。今日は早く寝るよ」
失敗した。言った後に気がついた。いつもならここで俺は怒るじゃないか。それを素直に受け入れてしまった。案の定ミルファクの顔は薄く曇っていた。
「本当に大丈夫か?」
うん、と自分でも力の入っていないと思うほどか弱い声だった。
おやすみ、ただそれだけ言うと濠は部屋に上がって行った。
どうしたというのだろう?何が気になるのだろう?今日のあの目。俺を見ていたあの目。砥ぎたての刀のような鋭さと凍えるほどの冷たさの中に何かもっとどす黒いものが蠢いていた。あれは殺意だった。あの目には殺意が宿っていた。それがどこに向けられたものなのかはわからない。しかし、何かに対しての殺意であったことには変わりない。あいつにここまでの恐怖を感じたのは初めてだった。仕方のないことかもしれない。だけど、怖かった。あの視線に斬り殺される自分が、血だらけで地に伏している自分が容易に想像できた。動かず、存在の消える自分が想像できた。だから目が離せなかった。見つめ返すことしかできなかった。もしこの視線が外れると脳内に見せられている映像が現実に起こってしまいそうで。
ミルファクはテーブルに飾った花を見つめた。その花は昨日のとは違い落ち着いた薄い紫の色をしていた。
今日は昨日のままではなく変えてあった。それにあいつは気がついただろうか?あそこまで何に追い詰められているのだろうか。助けてやりたい。なのに…。自分はまた何の助けにもなれないのだろうか。また見守ることしかできないのだろうか。歌うことしかできないのだろうか。
心の色が鈍い曖昧な色に変わっていく。同じことが前にもあった。初めて彼と出会ったとき。初めて人と出会ったとき。初めて彼と別れたとき。初めて人と別れたとき。同じ色が胸を一杯にしていくのをミルファクは感じた。これが感情なのかと思った。いや、感じた。
食卓から立ち上がり、庭へ出た。そこに置いてある小さな椅子に座る。ギシギシと自分を支える音がする。眼前に広がっているはずのミルファクの花畑は暗闇に沈んでいた。街灯はとうに消えてしまっているからだ。ぼんやり慣れてきた目でこの間植えたジニアを摘み取り顔に近づけた。匂いはしなかった。それはただ花弁をこちらに向けて広げているだけだった。
あいつはまだ気がついていないだろうな。いや、気がつかない方がいいのかもしれない。そのまま、生まれていった方がいいのだろう。俺の感情は関係ない。これは無いはずのものなのだから。
ジニアがこっちを見つめている気がした。しかし、そんなはずはない。なぜならこれは…。そしてここは…。
一筋の涙が音を立てずに落ちていく。まるで音が闇に飲み込まれたかのようにそれは存在を感じさせずに流れた。その瞬間、涼しくも温かくもない風が吹き抜けていくのを感じた。
[4]
「義手ねえ」
武内は謙輔が借りてきた義手をまじまじと見つめた。
「何かの事故で切り落としたのか?」
「カルテを見せてもらったところ事故ということになっています。何でも機械で手首から上を切ってしまったのだとか」
手元の資料に目をやりながらスラスラと進めた。
謙輔は柊平のもとに駆け付けたとき、どうしてもその部屋と爪が気になった。それの不自然さに気がついたのは自宅についてからだった。遅めの夕飯の準備をしていたところ、誤って指を切ってしまっていた。彼の切り傷からは生き物のように赤黒い血が流れ出し、その場を汚した。その時気がついた。あの床はきれいすぎる。爪が強引に剥げたのなら必ず血の跡が残るはずだ。しかし、現場も剥がれ落ちた爪も付け爪のようにきれいに剥がれていた。
翌日、爪を調べるとそれはよく似ているが、違うことがわかった。それは本物の爪ではなく偽物、つまり義手の爪だったのだ。それならば血が出ないのは不思議でもなんでもない。作りものに血は通っていないのだから。病院の方にも確認を取り、柊平は義手であることが確認された。
カルテを読み終えた後、今までの整理をした。まだ全体像がほとんど見えない。そう言えば剛の資料をきちんと見ていないな。なんとなく記憶の中の情報と本人からの情報を信じ切っていた。二つは合致していたからだ。
デスクの奥にある剛のファイルと柊平のファイルを取り出した。開いてみていく。
「あれ?」
「どうした?」
「この資料の、ここ。間違えていませんか?」
指の置かれている場所を見て、武内は大きく首を横に振る。
「そんなはずはない。そこは出生届を基に作られた資料だからな」
しかし、これではまるで…。
騙し絵の種明かしをされたときのような衝撃が脳を襲った。思い描いていた世界がガラガラと音をたてて自分を飲み込んでいく。
「おい、山本?大丈夫か?」
武内の声を受け、世界を取り戻すことができた。ただし、それは数秒前とは違う世界だった。新しい自分の世界は衝撃のわりには落ち着いており、澄み渡っていた。
「武内さん、ご主人に話を聞きに行きましょう」
武内の言葉に返答している余裕は今彼の中にはなかった。なぜなら、彼の中の気味の悪いくらい澄み渡った世界は、暗闇の先のゴールを明瞭に照らし出そうとしていたからだ。
「わかった」
機敏に立ち上がる謙輔につられて武内が続いた。
車内でも謙輔は自分から話しかけてこなかった。何かを考えているようなそんなふうを臭わせながら運転に集中している。そんな彼を武内は何とも言えない気持ちで見ていた。彼の考えは自分などがついていけるレベルのものではない。違う速度で、違う視点で、物事を考えている。そして今、彼の頭の中でどういうことが考えられているのか?あの資料を見て何かしら気になる点があったのだろう。自分に質問した時の彼の顔は組んできて初めて見せる驚愕の顔だった。普段からそういった感情を表に出さない彼がそこまで衝撃を受けることとはいったい何であろう。
「山本?」
「何でしょう?」
「何に気がついた?」
謙輔の身体が彼の意志に逆らっているかのように不格好に撥ねた。
「どうした?」
「いや、その…。事件とはそれほど関係のないことだと思いますが、そう思っていなかったもので」
「だから何がだ?」
「あの資料の最初の欄です。生年月日が書いてあったでしょう?」
「ああ」
確かに書いてあった。そこを指さして彼は質問した。
― この資料の、ここ。間違えていませんか? ―
「僕、ビックリしたんです。だって、彼らは兄弟だと思っていましたから」
「兄弟だろ、血の繋がった」
「そうじゃなくて、年が離れていると思ってたんです。でも、生年月日が同じだったんで…。剛が兄弟、兄弟って言うから勘違いしてて。彼ら双子なんですね」
「ふ、双子!?」
思考のブレーカーがものすごい勢いでおちた。武内も謙輔と同じだった。謙輔が兄弟と言っているのを聞いて彼らは何歳か年の離れた兄弟だと思っていた。だから、生年月日の欄も大してきちんと見なかった。どこかでそう決めつけていたのだ。
「出生届を基にしているなら間違いないでしょう。彼らは双子です。一卵性か二卵性かは調べないとわかりませんが、まあすぐわかるでしょう」
「おい、ひょっとして大発見じゃないか?」
武内の夫が働いている会社が見えてきた。それなのに興奮しきってそれに気がついていなかった。
「何がですか?」
「双子なんだろ?もし一卵性なら山碕剛が犯人の可能性が高くなる」
「なぜですか?」
「一卵性双生児のDNAは同じなんだろ?前に何かの本で見たことがある。だったら山碕柊平がやったことにできるじゃないか」
誇らしげに言った。普段は謙輔の考えばかり聞いて、感心させられてばかりいるが、今回は違う。微力ながらも力添えができる。
「それはあり得ませんよ」
膨れ上がった感情は少しの衝撃で悲しい音と共に崩れ落ちた。
「なんでだ?」
不機嫌に問う。
「それは後にしましょう。着きましたよ」
前を向くとセダンはすでに停車していた。
*
「うまくやったか?」
そう言われ、影は目の前の相手に一枚の写真を手渡した。そこには女性とホテルに入る一人の男性が写っていた。影にはこの男性が誰だか分かっていた。この街の医師だ。病院で何度か会ったこともあるし、診てもらったこともある。それにしても目の前の顔を見ているとつくづく思う。どっちが剛でどっちが柊平なのかと。
「どうするの、こんなもの?役に立つの?」
影にはその理由がイマイチよくわからなかった。数日前に、こいつがホテルに女の人を連れ込んでいる写真を撮ってきてくれ、と言われた。どうやら医師が浮気をしていることを知っていたらしい。だがそれと計画が繋がらない。ただ、何が何でも必要なのだそうだ。それが僕のためであるのも分かっていたので、影は素直に従った。
「よし、これで準備は整ったな。これから何をするかはわかってるよな?それでいいんだよな?」
影は小さく頷いた。そうすることしか許されない。もう引き返せない。そんな勇気は何処にもない。ただ用意された道を進むしか僕に道はない。
「わかった。じゃあ早速実行だ。いいか、まずは僕が向こうの家族を殺す」
実行される内容を知っていても妙に落ち着かない。殺すなんて言葉、肉声で聞くことなど普通あり得ないのだから。画面の向こうの言葉だといつも思っていたのに。今聞こえてきたのは間違いなく目の前の彼が言った。思考回路に不純物が流れ込んでいるのが分かった。
「お前はこっちでみんなを殺すんだ。方法は任せる。あっちが済んだらすぐ帰ってくるからそれまでにしっかりやるんだぞ。その後のことは考えてあるから心配しなくていい」
「ねえ、お兄ちゃんも?」
「ああ、当然だ。だってそれが一番の望みだろ?」
そうだ。僕はお兄ちゃんが嫌いなんだ。家にいても、学校にいても、お兄ちゃんがいると僕はその影。いつも光のあたる場所にいるのはお兄ちゃん。僕はそのすぐ後ろの闇なんだ。そんなお兄ちゃんが羨ましくもあり、同時に憎かった。僕はそちらに行けない。体も弱いし、友達もいない。お父様もお母様もお兄ちゃんを可愛がって僕のことは二の次だ。同じ顔、同じ遺伝子。でもこんなに違う。それがもどかしくて、もどかしくて、変になりそうだった。
影は自分の中にある底のしれない沼をひたすら見つめていた。重たいモスグリーンのそれは何でも飲み込めそうだった。現に様々なものを今までに飲み込んでいたに違いない。そう思うと、それは得体のしれない恐ろしいものではなくて、どこか懐かしい故郷のような気がした。
「うん、わかった。やるよ、絶対に」
影の中身は沼と逆転していた。彼自身がそう望んだのだ。暗く、生ぬるい感情を持つ自分を、彼の中に受け入れてしまったのだ。その時、彼にとって人を殺すことは善行為のように感じられていた。怯みも恐怖もない。何も感じなかった。
「それが終わったら、もう一つやることがあるから。これは大事なことだ。これをやらないと後々困ることになる。だが、体にとても負担がかかる大変なことだ。それでも…」
「いいよ、大丈夫。やる。これで僕は自由になれるんだ。そうでしょ?」
そうだよ。たったそれだけの言葉がとても暖かかった。この人は僕の一番の理解者だ。僕のことを必要としてくれるし、僕のことを大事に思ってくれる。それだけで僕は光にあたることができる。この人になら付いて行ける。そう確信した。
「じゃあ、しっかりやれよ」
そう言って彼は向こうの家族のもとへ向かった。影はその姿が角の向こうに消えるまで見ていた。その向こうで日が傾きはじめている。琥珀色の夕日が鮮やかだ。圧倒的なその美しさにひたすら見とれた。
「空ってこんな色にもなるんだよな」
当たり前のことを声に出していた。そう思えるのが最後になるかもしれない。そう言えるのが最後になるかもしれない。
今日は日曜日。幸い、みんな出かけずに家にいる。
影は自分の部屋に戻り引出しをあけた。この間ホームセンターで購入した鋸と包丁がそこには入っていた。そのうちの包丁の柄に手を伸ばす。家庭科の授業や家で使っているものより少しサイズが大きい。柄を握り、持ち上げると思ったほど重くはなかった。鈍色に光る刃の部分に影の歪んだ笑みが醜く映っていた。
*
武内の夫である隆から得られた歩の情報は、死の様子、死ぬ以前についてだった。死の様子については手首から指から体から、意識があるうちに様々な場所を切り裂いて風呂場に倒れていたそうだ。始め見たとき自分の子だと分からないくらいに自分を刻んでいたという。そして、救急車を呼んだものの発見した瞬間に死んでいることが分かったという。死ぬ以前はそのような感じもなく、いつも通りだったとか。ただ気になることを言っていたそうだ。謙輔たちは一枚の便箋を渡された。
「好きな人ができたら言った方がいいのかな…、か」
亡くなる数週間前に歩が隆にそう言ったのだそうだ。
「武内さん。歩ちゃん好きな子がいたんですかね」
「話を聞く限りそのようだな。自分は知らなかったが」
渡された便箋は捜査が打ち切られたあと部屋で見つけたものらしい。封は開けられていた。それは隆が開けたものではなく見つけた当初かららしい。
「読んでもらえます?」
武内は便箋を取り出した。真っ白い封筒に花のシールで封をしてあったようだ。今は、それは半分に分断されていた。
~ ~
突然こんなのもらってビックリしてるよね。ごめんなさい。でも、ちゃんと言おうと思って。あのね、君のことが好きなんだ。ずっと前から好きだったんだけどなかなか言えなくて。だいぶ混乱してると思うけど、返事を下さい。待ってます。
歩
~ ~
歩が書いたラブレターだった。おそらく隆の話にあった、意中の相手に送ったものだろう。相手に思いを伝えることはかなり勇気がいる。これを書いた時どんな気持ちだったのだろう。それとこれを渡した相手とはどうなったのか。…、あれ?なぜ歩の部屋にあったのだろう。書いたまま渡さなかったのだろうか?いやそれはない。隆によれば、封は見つけたときにもう開けられていたのだから。自分で?それもないだろう。では…。
「武内さん、なんでそれ…、武内さん?」
武内は便箋の差出人の名前を見て固まっている。視線がそこに固定されているかのようにそこを見つめていた。その表情には複雑なものが見てとれた。彼女は母親に戻っていた。
「どうしたんですか?」
「差出人の名前、見たか?」
首を振り否定した。隆からあれを受け取ったのは武内だ。それをすぐにしまったので確認できてはいなかった。
「誰です?」
「遠藤翔吾だ」
「へええ、仲良かったって春日さんも言ってましたもんね」
なんとなく予感はしていた。小中学生でとても仲がいい、または異性に嫌がらせを受けるというのにはほとんど例外なく恋愛関係の感情が絡んでくる。春日の話を聞いたときなんとなくそう思っていたのだった。
ん?武内はなぜこんな顔をしているのだろう。それがさも誤ったもののような目だ。とりあえず署に帰ったら剛たちの出生届と歩の事件の資料を探してみよう。
もう一度隣を見る。先ほどと変わらず宛名の文字を見据えていた。その文字を何度も確かめるように。それが彼女にはどう映っているのか、見当もつかない。
太陽は西に落ちかけ、辺りに薄闇をもたらそうとしていた。どうやら今日は、夕焼けは見えそうもない。青空は車の排気ガスの煙に巻かれてさらにトーンダウンして見えた。
《4》
濠は窓辺に立ち、外の花壇を眺めた。ミルファクの姿はない。
外出のときは必ず書置きが置いてあるのだがそれも今日はない。ただ朝食がテーブルに並んでいるだけだった。どこへ行ったのか、考えるもすぐに断念した。
今日も真っ暗いなか、街灯に照らされた花が花弁を広げている。それに今日は風があるのか少しだけ揺れている。手前の小さな椅子には黄色い花が置かれていた。ジニアなんとかという花だ。昨日ミルファクが庭に出てそれを摘んでいるのが見えたのでそれであろう。あの時あいつは泣いていた。何を考えて泣いたのだろう。何に対して泣いたのだろう。
以前なら自分のためかもしれないと思えた濠だが、今はそう思えなかった。
あいつは何かを隠している。どういうつもりかは知らないし、どこまでが嘘でどこまでが本当かはわからない。ただあいつがここの住人だというのははっきりした。そうでなければあんなことは言わない。
濠は拳をギュっと握った。掌に何を入れたのかはわからない。だが、何らかの感情が彼の中では押し潰されていた。
なんとなく外の空気が吸いたくなり庭に通じるドアへと向かった。手が付けられていない朝食が冷たくこちらを見ていた。ドアのノブを回し外へ出た。
ミルファクの作った庭。彼の楽園。なぜだかその美しさに無性に腹が立った。今ここでこれを踏み荒らして、グチャグチャにしたら彼はどういう反応をするだろう。怒るだろうか。許すだろうか。悲しむだろうか。嫌われるだろうか。衝動がものすごい勢いで理性のドアを叩いていた。濠の理性は頑なにその衝動の侵入を拒否していた。
椅子に近づき昨日のジニアを手に取る。何かが不自然だ。今、敏感な彼の思考はすぐに違和感の正体に辿りついた。昨日摘まれたジニア。しかし、それは依然としてその生命力を失っていなかった。綺麗な花弁を広げこちらに顔を向けている。
なんだこれは。普通、花を摘んでこんなところに置いておいたら萎れるだろ。なんで萎れない?もしかしてこれは花じゃないのか?これも嘘なのか?
ジニアをゆっくり鼻に近づけてみる。何の香りもしない。一日たったからかもしれない。濠は目の前に咲いている花を乱暴に千切り取り鼻に押し当てる。やはり何の香りもしない。造花か。花弁に触れてみる。見た目に反してそれは砂のような感触がした。生命を冒涜するかのようなその存在を目の当たりにし、濠は何かを失くした。
これも嘘なのか。もしかしたらこれがここの真実なのかもしれない。普通なのかもしれない。しかし、これもなのか…。そう感じた瞬間、抑えていた理性の扉の鍵を開けて抑えることを止めた。
ふと気がつくと、濠は庭の真ん中にいた。あたりを見渡すとあれだけ綺麗に育てられていた、いや、陳列されていた花々が一輪も立っていなかった。すべての茎が折られ、花弁は踏まれ、それらはすべて土に伏していた。しかし、なおもそこには生命力を感じさせる色があった。それに気がつくと目に入らなくなるまで力一杯踏みつけた。次第に鮮やかな色は土色に染まり命を失くした。衝動は彼をようやく解放した。もっともこれを望んだのは他でもない自分だということはよく分かっていた。
土色に染まった花々の中にマリー・ゴールドが見えた。勇者という花言葉を持つ花だ。
なにが勇者だ。
濠はしゃがみこみ手近にあったスコップを手に取り思いっきり突き刺した。勇者はあっけなく地に沈んだ。
立ち上がり部屋の中を見る。テーブルの朝食の隣に黄色い花が並んでいる。それが目に入った瞬間、彼の身体はドアへ向かっていった。ノブを回し中に入る。そして、活けられてあるジニアをつかみ上げる。床に叩きつけようとしたがピタッと体が動きを止めた。先程外にあったジニアとは何かが違ったからだ。それが何なのか今度はすぐにわからなかった。ただ何かが違う。じっと握られたものを凝視していた。
感触だ。外のモノと違ってちゃんと生きている感触がする。花弁に鼻をそっと近づけてみる。ほのかに甘い香りが伝わってきた。
これは生きている。外のモノとは違う。命を感じる。俺の知っている〝花〟だ。すうっと不鮮明な感情が穏やかさを取り戻していく。
濠は掌に締めつけられているジニアを活けられていた花瓶に戻した。窓辺に向かい鍵を開けた。カチャ、キュキュ。
窓の向こうにはいつもの景色はない。殺風景な土砂の荒波がミルファクの楽園を飲み込んでいる。街灯の光は淡くそれをただ照らしていた。誰だと言及もせず、見て見ぬふりもせず。ただただ照らしていた。空は漆黒の表情を崩さずにそれを見ていた。何も変えることなく、ただじっと。
濠は何もないそこを睨みつけた。
「お前が悪いんだ。お前がそんなんじゃなければ俺は自分の世界を崩すことなくその世界の中にいられた。何の心配もせずに、快く生まれることができた。全部、全部お前のせいだ」
声を張り上げ目一杯叫んだ。自分の頭蓋の中で振動して、反響して、鼻の奥を細かく揺さぶった。息苦しさを感じて叫ぶのを止めた。それでも鼻の奥は余韻を感じていた。
ゴクリ。わざと音をたてて水を飲んだ。濠の感情は平穏を取り戻しつつあった。飲み終えたグラスを流しに置く。椅子に座り、花瓶に活けられたジニアを見つめた。
なぜこれだけ〝花〟なんだろう。外のは違った。しかし、これは手に持った感触も、匂いも、萎れ具合も、完璧に〝花〟だ。今までのはどうだっただろう。
濠は立ち上がり、キッチンに供えられたごみ箱の中を覗き込んだ。昨日の夕食の生ゴミや容器などが捨てられている。その奥に…。
「あった」
薄紫色の花が寿命を迎えた体を横たえていた。濠は彼を抱えあげた。しわしわの彼は微かに香りを発していた。
やはりこれも命を持っているようだ。あのジニアと同じだ。どこから…。
今立っている足元に何か違和感がある。他場所の床と違い、妙に硬さが足の裏から伝わってくる。踏み比べてわかった。そこだけ異常に平らなのだ。しかし見た目には分かるはずはない。敷物がそこには敷かれており、実際に踏みさえしなければこの違和を感じることが出来ないのだから。
濠は薄紫の花をごみ箱に寝かし、膝を床につけた。そしてそれをゆっくり捲っていく。そこには一㍍四方の枠組みがあった。左右の金具を引っ張り出すと取っ手になるようだ。それを引っ張り出した。掴み引き揚げる。
倉庫なら埃っぽい臭いが漂ってくるはずだが、それとは違う。この香りは…、花だ。花の甘美なる匂いに誘惑されるかのように濠はその中へと吸い込まれていった。
[5]
謙輔は山碕兄弟の出生届のコピーに目通していた。これを見る限り彼らが双子であるのは間違いないらしい。生年月日は資料に書かれているとおり同じ日になっていた。少しだけ胸に痛みを感じた。何でも知っていると思っていたのに、知らないことがあった。なんで話してくれなかったんだろう。
「おい、山本君」
顔を向けると不快感を顔の前面に表している滝澤がいた。
「それは何かね?」
「ええと、これはこの間の資料です。片付けずに放りっぱなしだったもので机に物が散乱してしまいました。だからそろそろ片付けようと思いまして」
「そうか。私はてっきり君たちがまだあの事件を調べているのかと思ったよ。念を押しておくがあの事件は終わったのだ。もうすべきことは何もない。わかったな」
威圧的なその態度はすべてを見透かしているようだった。実は知っているのかもしれない。もう少し慎重に進めようと思った。
「それではしっかり職務を…、これは?」
「剛、山碕剛です。山碕柊平の双子の兄にあたります」
「双子。しかしあまり似ていないな」
「二卵性なんですかね」
なるほど、と呟きながら彼は自分のデスクに帰って行った。
滝澤は柊平の事情聴取やらで彼の顔をきちんと見ていた。滝澤がああいうのだから二卵性で間違いないだろう。それより気になるのは武内の表情だ。
先程預かった便箋を取り出す。表に書かれた差出人は確かに遠藤翔吾になっている。平仮名ではあるが間違いない。しかし、それ以外に気になる点はなく、というよりその宛名もそれほど不思議なものではない。ではなぜ武内は…。
歩の事件の資料は見つからず、新聞記事と春日から借りてきた文集くらいしか手元に役に立ちそうなものはなかった。
まず新聞記事を取り出した。しかし、幼い自殺の記事だったためか名前等は伏せられており、しかも内容は隆から聞いたものと同じだった。新しい情報を見つけられず意気消沈した。
続いて文集を手に取った。索引から、遠どうしょう吾、たけのうち歩、山さきごう、春日けい。関係者すべての名前を発見した。ところどころ平仮名なのが少し懐かしい。いつ頃から皆自分の名前を全部漢字で書けただろう。まずは遠藤翔吾。
「へえ、将来はパイロットになりたかったのか」
文面には拙い文章で精一杯になりたい理由やなってからのことが書かれていた。大学に通っていた時も、つまり生前もそうだったのだろうか。そう思うと心が痛む。過去の彼の夢はもう一生叶うことはないのだから。
続いて武内歩。
「ほう、刑事か。武内さんを見てそう思ったんだろうな」
母親のようになりたい、そう思っていたに違いない。しかし、この夢も叶わなかった。こちらの場合は自分で叶わない道を選んでしまった。それが何とも物悲しい。なぜ自殺を選んだんだろう。なぜ自分を切り刻んだのだろう。
次は山碕剛。
「獣医?へえ、なんかに合わないな。たぶん真面目に勉強しないだろうし」
あれ?獣医?なんでだろう?この職業は選ばないはずなのに。後でまた聞いてみようか。
最後に春日圭。
「歌手か。この頃から音楽に興味を持っていたのかな」
「何を見ているんだ?」
武内が帰ってきていた。腕を組みこちらを見ている。いつから居たんだろう。
「文集です。春日さんから借りてきていた」
「ああ、それか。何を読んで百面相をしているのかと思ったぞ」
悲しみ、疑い、喜び。この四人を考えてすべての感情が表情に出ていたようだ。
「相当気持ち悪かったぞ」
「それはないでしょ。せっかく歩ちゃんのことを調べていたのに」
「スマン。ところでそろそろ歩ちゃんは止めないか?」
よく意味が分からなかった。馴れ馴れし過ぎただろうか。歩さんぐらいにした方が良かったのか。武内は釈然としないような表情を浮かべている。聞いてみよう。
「なんでですか?」
「なんでって、男にちゃん付けはあまり聞こえよくないぞ」
「ああそういう意…、え!?」
「だからな、男にちゃん付け…」
何ということだ。歩はあの写真と名前の感じから女の子だと思っていたのに。男の子だったとは。そういえば、さっきの武内の表情どこかで…!圭だ。確かこの間尋ねたときもあんな顔をしていた。あれは歩をこちらが知っていたことに対して不思議に感じたとばかり思っていたのに、そうではなかったのか。僕が男の子にちゃん付けをしていたから変に思ったのか。男にちゃん付けなんて自分で考えてもなんか…、変な感じだ。あれ?なにかが音をたてて重なりあった。そういうことか。
「ん、どうした?」
「いえ歩ちゃ、じゃなかった。歩君をあの、その、女の子と思っていたので」
「ああ、それでちゃん付けだったのか。この前見せた写真も少し前のものだからな仕方がないな」
武内はクスクスと笑いながら必死にフォローをしてくれたが、あれだけ笑われれば説得力も半減してしまう。
「まあまあ、そうへこむな。そうだ。山碕兄弟のことだが、医師に話を聞いたところやはり双子だったようだ」
「みたいですね。出生届ももう一度確認しました」
「それで彼らはやはり自分が睨んだ通りだった」
「と言いますと?」
「一卵性だった」
一卵性。つまり双子の中でも特に外見的特徴や内面的特徴が酷似するタイプ。しかし、それでは滝澤の話と噛み合わない。
「やはり山碕剛が犯人だろう。同じDNAなんだから現場に痕跡は残し放題じゃないか。っておい、聞いてるのか?」
謙輔は武内をデスクに放置し、滝澤のもとへ歩み寄った。
「部長。山碕柊平に会ったんですよね?」
「ああ。それがどうした」
「特徴を教えて頂けませんか」
「なぜだ?」
滝澤は毅然とした態度でこちらを見据えていた。しかし、不思議と敵意や攻撃性はなかった。
「本当のことを言います。今私はあの事件を調べています。どうしても納得できないんです。解決のためには重要なことなんです。お願いします、教えてください」
「やはりな。上はそうじゃないかと危惧していた。だから私に釘を刺すように言ってきたんだ。だが、私もあの事件は妙に釈然としない。やるならもう止めはせん。そのかわり中途半端だけは許さん。私の納得できる答えを出せ」
「はい」
謙輔は滝澤の瞳をじっと見返した。
「私に聞くより本人を尋ねてみるといい。ただ話は出来ない可能性があるがな」
「はい、わかりました。どうもありがとうございました」
深く、深く頭を下げた。こういう格好いい大人になりたいと心底思った。
「武内さん、部長から許可を頂きました。山碕柊平に会いに行きましょう」
窓の外をふと見た。霞のような雲が青空を覆い尽くし、淡いパステルブルーに見える。単色ではなく雲の濃い部分や薄い部分で様々なグラデーションが生まれていた。同じ晴天でも、同じ青空でも違う色なんだよな。当たり前のことをしみじみと感じた。
[6]
「ここですね」
白い壁に身を包んだ大きな建物。柊平が入院している帝星大学付属病院だ。彼にきちんと会うのは謙輔も武内も初めてであった。一度会ったがあのときはうつ伏せで倒れていたため、それに状況が状況だったため顔を見るどころではなかったのだ。
エントランスを進み、真っ直ぐ受付を目指した。平日だというのにかなりの人がいた。もちろん入院しているであろう患者もいたが、それよりも外来患者が多い。今日しかいない先生でもいるのだろうか。
「すみません。入院している山碕柊平という患者の病室を教えてもらえませんか」
「少々お待ち下さい」
女性の看護師がパソコンをシタシタと弾く。ものの数秒で回答が返ってきた。その声には疲れから来たものなのか分からないが、感情が全く込められていなかった。顔は笑っているのだが、どこか冷たく乾いた声だった。
「お待たせしました。山碕柊平さんの病室は五階の5303号室になります。しかし、こちらの病室は面会謝絶になっておりますので、誠に申し訳ありませんが面会の方はできません」
「大丈夫です。中を少し覗かせて欲しいだけですから」
そう言いながら謙輔はポケットから黒い警察手帳を見せた。
「それと彼の担当の医師にお会いしたいのですが、今いらっしゃいますか?」
「はい。それでは呼んで参りますので病室へどうぞ」
「どういうふうに行けばいいですか?」
「あちらのエレベーターで五階に行って頂きまして、降りられましたら左へお進み下さい。その突当たりのお部屋になります」
看護師は目的地とは関係のない方へ左手を伸ばした。
「ありがとうございます」
礼を軽く述べてエレベーターへ向かった。
「どうして急に山碕柊平に会おうと思ったんだ?」
エレベーターの前に着き上を向いた矢印を押す。現在エレベーターは八階にいるようだ。
「剛の顔を見て滝澤さんが言ったんです。『双子。しかし、あまり似てないな』と。だから武内さんが帰ってくるまで彼らは二卵性双生児だと思っていたんですが…」
「違った」
チーン。二人の会話を中断させるこの場の空気に似合わない間抜けな音。その音と共に目の間の扉が大きく開いた。中から様々な人が降りてくる。それを避けながら中が空くのを待った。そして二人は乗り込んだ。そして五階のボタンを押す。
「なるほど。だからこのタイミングで会いに行くことにしたのか。それにしても良くわからんな。一卵性双生児なのに顔が似てないというのは」
「ええ。ただ整形しただけかもしれませんが」
「どんどん複雑になるな、この事件は」
「ですが、結末には近づいているように思います」
「何か分かったことでもあるのか」
「まあ、一応。まだ推測の域を超えませんが」
武内は無言で先を促した。
「歩君の自殺の原因です」
「なに!?わかったのか?」
「まだ少し曖昧ですけどね。歩君は男の子だった。だから不思議だったんでしょ?宛名が」
「わかっていたのか」
「あれだけ顔に出ていればわかりますよ。最初女の子だと思っていたため分からなかったんですが、男の子だとわかればあの顔の意味は簡単です。なぜ男の遠藤翔吾にこんなものを、でしょう?」
謙輔はあえて武内を見ずにここまでを、そしてこの後を続けた。
「男の子が男の子に送ったラブレター。そのままですよ。おそらく彼は遠藤翔吾を好きになってしまった。仲が良かったと春日さんも言ってましたしね。だけどそんなこと経験したこともない歩君は困惑した。だから武内さんのご主人に聞いたんですよ。『好きな人ができたら言った方がいいのかな』と。そして彼は気持ちを伝えるために彼にラブレターを認めた。きっと不安だったに違いないでしょうね。だけど返事は思わしくなかった」
チーン。再びこの音で現実に引き戻される。もっとこの場に合った音はないのだろうか。謙輔は何気なくそう思った。
「なぜそんなことまで分かる」
エレベーターを降り、受付で言われたとおり左へ歩を進めた。武内の方を見るとうっすら涙を浮かべて、いや、堪えていた。先の廊下は窓から差し込む光に照らされていた。
「ずっと気になっていたことがあったんです」
「なんだ」
「どうして手紙は彼の部屋にあったんだろうって。渡してないのなら封は開けられずに見つかるはずですよね。けれど開けられていた。誰が?本人は開けるはずないですよね。きちんと封がされていたのを開いているんですから開けたのは」
「遠藤翔吾…、か」
「おそらくそうでしょう。けれど遠藤翔吾が開けたはずの封筒がなぜ歩君の部屋にあったのか。それはおそらく…」
ちらりと隣を見た。武内さんはこれを聞いたらどう思うだろう。いや気がついているかもしれない。
「おそらく返されたんだと思います。普通受け入れる場合そういうことはしない。断る場合も普通はそんなことはしませんが、あり得るとすれば後者でしょう。その後自殺したというのならば、その原因はその断り方にあったんじゃないかと」
「どういう意味だ。はっきりと言え」
武内の声は震えていた。通りすがる人がこちらを訝しんで見ていく。
「その、自分を切り裂くほどのことです。例えば…、気持ちが悪いとか、男なのに男のことが好きなのか、とか。だから歩君は切り裂いたんだと思います。自分を。男を好きになった自分を。男である自分を。そういう自分を否定するために、切り刻んだと思います」
隣を見ると武内はいなかった。振り返る。すぐ後ろで立ち止まり俯いている彼女が目に入った。顔は見えない。しかし、震える肩が、握られた拳が、廊下にくっきりと残る涙が彼女の気持ちを代弁していた。
「武内さん」
彼女の気持ちは分からない。自分に子どもができたら分かるだろうか。同性を好きになってしまい、勇気を振り絞って告白するもひどい断られ方をされ…、自殺。今武内の中にはどんな感情が渦巻いているだろう。怒りか、悲しみか、それとも憎しみか。
「すまない、取り乱してしまって」
真っ赤に充血した瞳にハンカチを押し当てて顔を上げた。ふわっと微かに甘い香りがした。
「そうかもしれないな。いやそうだろうな。なぜだろう。知りたかったはずの真実なのに、突きつけられると受け入れがたいな。残酷だな、真実は。現実は…」
「すみません。こんなことになると思っても見なくて。自分の親友の事件に武内さんの過去まで持ち出して、引っ張り回して、それでこんなに傷つけてしまって。本当にすみませんでした」
病院の廊下であるということも忘れ、道のど真ん中で足を揃え、膝に付くほど大きく。大きく振りかぶり頭を下げた。
「なぜお前が謝る?それは今までの中で一番納得のいく真実だ。仕方がなかったんだ。それにそれが知れて私は感謝してる。ほら、みっともない。早く頭を上げろ」
顔を上げると武内は涙を溜めたままほんのりと微笑んでいた。不鮮明な感情は孕んでいるものの、それはとても暖かいものだった。まるで廊下を照らす陽光のように罪悪感に満たされていた彼の心に降り注いだ。
[7]
謙輔と武内は病室の号を確認した。5305号室―山碕柊平。ここだ。謙輔は面会謝絶と書かれたプレートを眺めた。陶器のような少し濁り気を含んだ白に臙脂色で書かれている。この先にいるあいつの弟はどんな顔をしているのだろうか。剛と似ていない双子。どれだけ似ていないのか、それがどうしてなのか、いくつかの答は準備出来ていたがどれも今の情報では嘘臭く感じてしまう。
「警察の方ですか?」
突然後ろから呼ばれて振り返る。真っ白い白衣を羽織った男が立っていた。ネームプレートによれば神田というらしい。歳は四十くらいだろうか。身長は高く、大きな眼鏡をかけていた。皺はないわけではないが、あまり目立たない。そういう顔のつくりなのかもしれない。
「ええ、刑事課の山本と武内です。遠藤翔吾の事件を調べています」
「山碕君の担当の神田です。あれは解決したのでは?新聞やニュースではそうなっていますよね?」
「はい。しかし、気になる点が浮上してきまして極秘に捜査をしているんです」
納得はしてくれたらしい。神田は大げさに首を縦に振り、なるほどと呟いた。
「すみませんが中に入れてもらえませんか?話が出来ないのは知っています。顔を見たいだけなんです」
「わかりました」
そう言って神田は5305号室の扉を開けた。
中には物はほとんど置いてなく、殺伐としていた。他の病室もこんな感じなのだろうか。
「ここは精神科の病棟なのであまり物を置かないようにしているんですよ」
キョロキョロ見回している謙輔を見て、考えていることがわかったらしい。
「今は眠っていますね。彼が山碕柊平君です」
スースーという寝息がベッドから漏れている。彼はそこにいるようだ。神田の立っている位置まで歩み寄り、寝ている人物の顔を覗き込んだ。
確かに違う。剛とは違う顔のつくりをしている。剛がくっきりとした二重瞼、きれいに弧を描く眉、通った鼻筋という顔立ちで背が少し低いのに対して、柊平は一重瞼ではあるが目は大きく、眉はしっかりとしているが太すぎず、そして鼻も小さかった。そして身長は一七五くらいありそうだ。剛とは違うタイプの男らしさを漂わせる風貌。しかし、初対面のはずなのになんとなくどこかで会ったような気がした。
「違うな」
「ええ、全く。あのすいません」
謙輔は窓のカーテンを開けている神田の方を向いた。
「なんでしょう?」
「柊平君のカルテを拝見したいんですが」
「すぐには準備できませんね。あとでFAXかメールで送りましょう」
「お願いします。じゃあ武内さん行きましょう」
「ああ」
謙輔は新たな情報がなんとなく気になっていた。顔が違うのは聞いてきたため、さほどの驚きはない。問題はどこかで似た顔を見た気がするということだ。同じ顔ではない。なんとなく雰囲気が似ている顔を最近見た気がする。しかし、それが思い出せない。
「どういうことなんだろうな。これからどうする?」
「そうですね…。カルテが届かないことにはどうしようもないですし、一旦署に戻りましょう。別件の書類整理なんかも残っていますし」
と口を動かしてはいたものの、頭の中では柊平の顔のビジョンが何度も何度も写されていた。
《5》
「あれはどうしたんだ?」
ミルファクの瞳には濠の苦手なあの鋭さが宿っていた。その原因は言わずとも分かる。彼の庭の有様が原因だ。綺麗な彼の花園は彼が留守の間に濠が破壊した。
「ゴメン。あんなにするつもりじゃなかったんだけど」
「そんなことは聞いてない。なぜだ。その理由が知りたい」
額には青筋が浮かんでいる。これほどの怒りの顔を見たのはいつぶりだろう。ああ、そうだ。申請を出したとき以来だ。なぜだか濠はそんなことを冷静に考える余裕があった。
「理由か。そろそろお別れだもんな。全部聞いて行こうか。理由は飽き飽きしたからだよ。ここに、それからお前に」
「どういう意味だ?」
まだ彼の表情は崩れない。変わらない表情のままこちらを見ている。濠はそれを飲み込むくらいの勢いで見据えた。
「なあ、ほんとのことを教えてくれ。これ以上嘘が出てくるともう花壇じゃ済まなくなる」
「だから何が…」
「ミル、死んでここへ来たって嘘だろう?」
「な、何を言ってるんだ?」
少し表情がぐらついた。それだけで十分だった。
「あの日に死んでここへ来たんじゃなくて、あそこで待ってたんだろ?違うか?」
「なんでそう思う?」
「ミルファク詳し過ぎるもん、ここのことに。花はさ、育つのに必要なものが三つあるんだけど、分かる?」
腕を組んだ。眉間に皺が集中していく。
「土と水と…、あれだ。その…」
「日光」
濠は彼の返答に付け足した。
「そうだニッコウだ。あれが必要不可欠なんだよな。それを忘れるなんて」
「どこでそれは手に入れてるの?」
「買い出しの時にな。適当に見繕ってくる」
いつの間にかミルファクの怒りは無くなっていた。それどころではないといったような表情だ。何に必死になっているかは考えずとも分かる。
「そう。やっぱり嘘だったんだ。日光は買えるものでもないし、見繕えるものでもない。自然からもらうもの。降り注ぐもの。太陽…は分かる?その光のことを日光っていうんだ」
「…。しかし、ここではそんなものがなくても花は咲く」
「ここの花は日光がなくても育つみたいだね。でもなんでそれを知ってるの?ここに来てそんなにならないよね?死んでここに来たなら絶対に疑問に思うはずなんだ。それが普通だから」
ミルファクの瞳にもはや鋭さはない。諦めに似たそんな色が滲みはじめていた。
「それからここの花は〝命を持ってない〟んだね。匂いもしなければ感触も砂みたいだ。水をやる必要もないし、ひょっとしたら土もいらないのかな。それはわからないけど。命がないから死ぬこともないんだね。だから昨日摘んで椅子の上に置きっぱなしになってたあれは萎れてなかったんだね」
「しかし、ここにある花は」
テーブルに活けられている花に目をやり、再びこちらを見た。
「ここのは生きているね。どうして生前の世界の花がここに?地下にもいくつか水きりされてたけど、あれは?」
「見たのか」
掠れた、隙間から洩れるような声だった。それに対して肯定を示す。
「もういいな。隠す必要はないな。わかった。全部話す。その前に教えてくれ。他にも何かボロを出していたか?なんとなくそれだけじゃない気がするんだが」
「流石だね。うん、あるよ。決定的なのが。覚えてる?俺がここの空のことを聞いた時のこと」
― さあな、知らん。なんで今更そんなこと聞くんだ?ずっとだろう?下界はずっと真っ青だけどな、こっちは真っ黒なんだよ。まあ似たようなもんじゃないか。そんなこと考えたことないな ―
「そんなこともあったな。それのどこが…」
「有り得ないよ」
それの意味するところが分からないと言わんばかりに彼の顔は俊敏に歪みを見せた。
「有り得ないよ。生前の世界の空はずっと真っ青なんかじゃない。時間によって違う顔を見せるんだ。日中は晴れなら青空、天気が悪ければ雲で灰色になる。日が沈む時にはオレンジや赤、朱色を淡く表現する夕焼け空になる。夜になれば黒に包まれる。でもそれも一様じゃない。青空だって同じ青の日は一日でさえない。雲に装飾されたり、霞まされたり。夜空だって星がいつも同じところにいるわけじゃない。曇れば見えなくなるし」
「そうなのか。じゃあ宝石をちりばめたような夜空は?」
「星が綺麗に見える夜の空のことだと思うよ。冬は空気が澄んでるからいつもより綺麗に星が見えるんだ」
なるほどな。ミルファクは腕を組みつつ大きく頭を振る。本当に知らないようだ。
「わかった。今度は俺の番だな。何でも聞いてくれ。それについては答えられる範囲で答えよう。嘘はもう疲れた。疲れた、か。こういう感情が疲れたというんだな。そんなことまで思ってしまうようになっていたんだな」
哀愁を孕んだ眼差しが捕らえているものを濠は追うことができなかった。初めて見る親友の表情だ。こんな顔もするんだ。
「こんな顔もするんだ」
考えていることがするりと口から滑り落ちた。
「いや、それはちょっと違うな。こんな顔をするのはこれが初めてだ」
言っている意味がよくわからない。それが何かに引っ掛けていった比喩なのか、それともそのままの意味なのか。どちらとも取れないような気がするが。
「ここの住人には、というよりここのモノにはお前がさっき言った通り命がない。だから死ぬことも老いることもない。もう一つだけここにはないものがある。それは…」
この言葉を言う彼はそれに反して何かに悲しんでいた。自分の中の大事なものが引き裂かれるようなそんな表情だと思った。
「それは…感情だ」
[8]
「来たぞ」
数枚の用紙を手に武内がデスクに戻ってきた。おそらくそれは先程神田に頼んだ柊平のカルテであろう。手渡されたカルテのコピーを覗き込む。
「何か分かればいいんだがな」
その言葉はもはや彼には届いていなかった。謙輔の中で大量の得体のしれないものが生まれゴソゴソと動き始めた。いつからこの卵があったのかはわからない。しかし、それは急速に成長し、一斉に羽化を始めた。その虫は全身を這いまわり、彼の身体を何度も何度も羽ばたいた。
違う。彼は山碕柊平じゃない。じゃあこれは誰だ。誰なんだ。
謙輔は一心不乱にそこらの資料を引きずり出した。乱暴に開かれる勢いでデスクの上のものがいくつも飛ぶ。
「どうした?山本」
これは誰だ。この中にいるのか。どこだ、出て来い。
ひらっ。一枚の写真がしたに舞い落ちた。どうでもいいのだが、それがどうしても気になり資料を置き去りにして拾い上げる。…!?
「彼だ」
「なんだ?ああこの写真か。これがどうした」
「これを見て気がつきませんか」
首を捻りこちらに目を向けている。
「たぶん僕たちはものすごい勘違いをしていたんだと思います」
「はっ?ど、どういうことだ」
なるほどだから『お兄ちゃん』に引っかかったのか。けれど、これは事件に何の関係もない。彼らの過去に繋がる話だ。過去。待てよ。昔のあいつの名字は。しまった。なんてミスを犯したんだ。
春日圭に借りた文集を開く。
「おい、何なんだ。それが今さら…」
「ない」
「えっ?」
「ないんですよ」
じゃあどういうことだ。落ち着け、落ち着け。あっちがないということは…。
こっちか。
乱暴にページを捲っていく。
「あった」
「いい加減にしろよ。何が」
「武内さん、遠藤翔吾の事件のファイルどこにありましたっけ?」
「それよりこっちの質問に答えろ。どうしたんだ?」
「説明している時間がありません。それより資料を」
「んん、確かここだろ。あった、これだ」
それをかすめ取り必要な点だけを見返していく。見つけた。
「じゃあ彼は犯人じゃない。だとすると…、やっぱりあいつか。でも動機がない」
そうだ。春日圭だ。謙輔はコートの中にあるはずの携帯電話を漁った。ない。苛立ちがこみ上げてくる。机の上にそれを見つけた。登録はされてないため、一つ一つ番号を押さなければならない。押し間違えた。苛立ちの中、何とかすべて押し終わり、呼び出し音が聞こえてきた。
自分がこれだけ取り乱している理由。それは自分でも冷静に理解することができる。そう、鉄の斧。鉄の斧が転がっていた。だが、先程まで見ていたのとは違う鉄の斧。同じなのに違う、それに気がついたから自分はこれほど興奮している。慌てている。もうさっきの鉄の斧の形を覚えてはいなかった。
どうしてしまったのだろう?この先程送られてきた柊平のカルテを見た瞬間彼のすべては豹変した。こちらの言葉も届いてはいないようだ。時々洩れる代名詞が誰を指すのかそれもよくわからない。そうかと思ったら突然電話をかけ始めた。コーヒーでも淹れてこようか。
武内は立ち上がり給湯室へ向かった。インスタントだがここのは結構いける。これを飲ませて落ち着かせよう。そうすれば落ち着いて彼の話が聞けることだろう。
コーヒーを入れ終えてデスクに戻ると謙輔の電話は終わっていた。そしてまた資料にかじりついていた。
「まあ、飲め」
差し出したコーヒーに気がついていないようだ。
「おいっ山本!」
声を張り上げて呼びかけた。あまりに大きな声だったため謙輔以外の他の者たちの注目を浴びることとなった。
「あっ、武内さんどこ行ってたんですか?行きましょう」
「は?どこへだ?」
「犯人のところへ、です。おそらく犯人は柊平君です」
車へ乗り込み聞きたいことを頭の中で整理し順序をつけた。
「なんでそう思うんだ?そもそもあのカルテに何が書いてあったか?」
「ええ。見ましたよね」
「ああ、だが特には…」
「名前なんかの欄も?」
「おお、そう言えばなんとなくしか。今見てみる。なにか変なところが…、ん?血液型は山碕剛は確か…」
「A型です。彼はO型。一卵性なのにおかしいですよね。それに山碕夫妻の血液型からみてもO型はあり得ません。彼らはA型とAB型なのですから。生まれるならA、B、AB型が生まれるはずでしょう。顔はまだ整形なんかで説明がつくにしても血液型はそういった説明はできません」
口を一文字に結び武内はしきりに首を縦に振る。
「だから思ったんです、彼らは双子じゃないのかもしれないと」
「!?」
脳髄が自分の耳元で豪快な音をたてた。それほどの衝撃を感じた。こちらのことはお構いなしに謙輔が続ける。
「しかし山碕兄弟は一卵性双生児だという記録が残っている。ということは残された答えは一つ。武内さん、柊平君の顔を覚えていますか?」
「ああ、もちろんだ」
「見たときから思っていたんですが、なにか感じませんでしたか?僕は何となく最近見た顔に似ている気がしました。それが誰なのか思い出せませんでしたが…」
謙輔は写真を一枚武内に渡した。あの時落ちた写真だ。
「これは確か」
「燐人君です。この顔似てませんか?柊平君に」
今まで気にも留めていなかったが確かにそっくりだ。雰囲気は違うものの顔のつくりなどはよく…、えっ?
「おそらく今まで僕たちが山碕柊平だと思っていたのは、永倉影です」
目の前の流れゆく景色が一瞬で色を失った。彼女の世界はセピア色に色変化した。
そんなことがあるというのか?
「じゃあ永倉影は生きていたというのか」
「というよりおそらく彼が殺したんでしょう、家族を。証拠はありませんが、一家心中に見せかけて殺したんでしょう。その協力者が柊平君だと思います」
「待て待て、そもそもなぜ永倉影なんだ?永倉燐人の可能性は…」
「ないと思います。根拠は『お兄ちゃん』です。ずっと引っかかっていたんです。なぜだかようやくわかりました。剛が言っていたんです。仲が悪いから柊平君が自分のことをお兄ちゃんとは呼んでくれず、いつも剛君と呼ぶと。つまりあの時、留置所の中で叫んでいた『お兄ちゃん』は剛のことではなく、燐人君のことだと思います」
だからこの言葉を気にしていたのか。聞き慣れないことなら違和感を覚えるのは当然である。
「山本、お前さっき柊平が協力したといったな?今入院しているのが永倉影としてじゃあ本物の山碕柊平は…」
「剛です。おそらくあいつが柊平君なんです」
「なんだと!?」
セピア色の世界が今度は暗転した。くらくらする。脳がオーバーヒートしそうだ。
「その根拠もあります。剛の名前が文集にはなかったんです」
「ん?あったじゃないか」
「いえあれは剛じゃありません。あの頃は生みの親が違うと確かまだ知らなかったはずです。だから山碕という名字であるはずがないんです。これは完全に僕のミスです。ついつい春日さんにも山碕で尋ねてしまって。そうしたら本当にいたんです。全く別のヤマサキゴウが」
そんな偶然があるのか、驚愕の事実とはこういうもののことを言うのだろう。
「文集を見たとき変に思ったんです。将来の夢が獣医なんて彼にはあり得ません。剛は動物が小さい時から苦手で、ふざけて近づけた子を殴ったこともあったほどなんです。だから文集を前の名字で見てみました。でも高橋剛という名前はありませんでした。そのかわりにあったのが…」
「永倉柊平か」
ええ。返事はこれだけだったが十分だった。
「春日さんに確認したところ柊平君はトロンボーンを吹いていて歩君とも幼稚園からの仲だそうです。それが動機ではないかと」
つまり、過去の育ての親や家族を殺して山碕兄弟として生きてきた柊平と影。その目的は遠藤翔吾に復讐すること。歩を殺したと言っても過言ではない遠藤翔吾に。待てよ。
「ちょっと待て。永倉影はなぜ家族を殺したんだ?それに今の話がそうだったとして事件の解決にはならないぞ。ポールには山、違うな。永倉影の指紋が残っていたんだぞ。一卵性ならまだしも、関係のないあいつらにどうやって」
「影君の方はわかりません。だからまだ推測の段階なんです。しかし、もう片方なら。そもそも、一卵性だといっても現場に指紋を残さないなんてできません。なぜなら、一卵性双生児のDNAは確かに同じですが、指紋は違います。だから痕跡はどうしても残ってしまう」
なるほど。だからこれまで何回か提案したその説が相手にされなかったのか、ようやくわかった。
「じゃあどうやって?」
「これは飽く迄推理だということを忘れないでください。まずはっきりさせておくべき所があるんですが、影君にはこの犯人は無理です。なぜならポールの上に指紋は両手分残されているんですから」
それの意味するところが分からなかった。両手の指紋がそこに残るのは確かに疑問だが、それがどうして影の犯行ではない証拠に…、
「義手か」
「そうです。左手はまだしも、彼の右手は義手なので指紋はありません。だから両手の、右手の指紋が残るというのはあり得ないことなんです。犯人、柊平君は…」
この先の言葉はどんなに時間が経過しても風化することなく私に衝撃を与えてくることだろう。そう感じた。それだけの力があった。これから行く場所にそうだと証拠があることが少し怖かった。
今日は琥珀色ではなく、血のような赤黒い色で空は焼けていた。この先の彼女らを象徴しているかのように、それはそれは気味の悪い色だった。
[9]
一段上がった。
ああ、そろそろだろうな。影は病院に搬送された。あいつが気がつくのもそろそろだな。いや、もう気がついてここに向かっているのかもしれない。ゴメンな、謙。今までの俺は嘘だった。僕を隠すための鎧だったんだ。でも全部じゃないんだ。だから勘弁してほしい。
また一段上がった。
昔の話は全部ほんとだ。ただ、お、僕に関することだけは変えてある。だから、複雑な気分になっただろう。裏切られた気分になっただろう。ゴメン。でもそれが精一杯だった。俺に初めてできた親友に対して曝け出せる精一杯の自分だった。わかってくれないよな。もし俺やったら許せへんし。けどいいんだ。そうしたのは僕だから。
もう一段上に上がった。
影にも悪いことしたな。知ってた。あいつが燐人のことを羨んで、同時にあの年頃に抱きたくなる嫉妬によく似た憎しみっぽいものを胸の中に持っていたことも、あいつがこんな俺を慕ってくれていたことも。知っていた。だから、俺は僕のために利用した。悪いとは思わなかった。ただ可哀相だとは思った。こんな俺を理解者だと思ってくれて、信頼してくれて。その気持ちが僕に使われるのが、そんな僕に使われることに選ばれたことが可哀相だと思った。
さらに一段上がった。
それしかなかった。そうするしか自分を許す方法が思いつかなかった。いろいろな人を僕の身勝手な思いで巻き込み、苦しめ、傷つけ、そして消し去ったことは本当に申し訳ないとは思っている。けど、そう決まっていたんだと思う。きっとこれはこうなるようになってたんだと思う。あの日から。俺が歩に会って、仲良くなってそれで…。
足が動きを止めた。何か物音が聞こえた気がしたからだ。しかし、気のせいだったようだ。今日は風が強い。からっとした風ではなく、鉛のような湿気をたっぷり染み込ませたような風だ。その音かもしれない。前に向き直り、さらにもう一段上に上がった。
全部僕が悪いんだ。そうなるように俺を作り上げてきた。俺は悪者。悪魔。僕はそれに耳を傾けてしまった。契約してしまった。ゴメンね、剛君。あんたの名前まで一緒に汚しちゃった。まあ、仕方ないよ。僕ら血の繋がった、双子だからね。双子って昔は凶兆を連れてくるものって言われてたらしいね。今ならなんとなくそれも分かる気がする。たぶん怖かったんだね。同じ顔のものが生れてくるってのが。普通違う顔だもんね。僕らが双子だったから、影と燐人も双子になったのかもしれない。大凶のお御籤が大凶を呼んだんだ、きっと。でもそれも仕方ない。そればっかしは僕らにもどうしようもないもんね。剛君。最期にもう一度だけ会いたかったよ。影には言ってないんだ、殺せなかったって。そうはいってももうやばいよな。まだ生きているといいね。心からそう願っているよ。
もう一段上へ。
歩、ゴメンね。もっと早くにやれば良かった。だけどダメだな。どうしても自分がかわいいみたいだ。俺は僕に酷にはなれない。本当に弱い人間だよ。自分は大切なのに他人はどうなってもいいんだ。自分のためなら。同じなのに、いや、むしろどうなってもいいのは僕の方だろうに…。今の、本当の俺を知っていたらお前はどうだったかな?それでも俺を親友だって呼んでくれるかな?わからないな。でもな、今の親友はたぶん、たぶんだけど僕の味方でいてくれると思うよ。だから、お前もそうなんだろうな。だって似てるもん。お前ら。じゃなかったら声なんてかけないよ。友達をもう一度作ろうなんて…、絶対に考えない。
柊平は一番上まで辿りついた。ふと先程開けた窓の方を見る。今日の空はいつもと違う。紅い食紅のような、血のような、上質な赤ワインのような。好き嫌いが分かれる妖艶な魅力を持った夕焼けだ。柊平は安堵していた。自分を見送る空がそんな色に染まっていることが彼に安らぎを齎した。
空も気を遣っているのか。こんな空を最期に見れるなんてな。好きだな、この色。残酷に写りがちだけど僕にはそうは見えない。優しい色だと思う。どんな汚いものでも醜いものでも包み込んで受け入れてくれる、そんな色だと思う。僕もこんな色に抱かれてこれから先の夢を見たい。永遠の夢を。
脚立の一番上で柊平は手に持っていたそれを、兄弟を下に叩きつけた。金色のボディが柔らかいもののように歪み、少しだけ醜く砕けた。だが、まだ原形をとどめている。それが気になりもう一度下に降りてそれを掴んだ。再び上に上り、また下に叩きつけた。もう三回も落としているのに中々いい具合に粉々にならない。
仕方なく工具を入れてある引き出しに手をかける。中からハンマーを取り出した。拳二つ分くらいのサイズのハンマーは存在がすでに暴力的だった。その柄を両手で持ち、頭の後ろまで振り上げ、筋力とハンマーの重みと重力に任せてトロンボーンに振りおろした。
グギャガシャン。交通事故を起こした時のような鈍い、けたたましい音が部屋をいっぱいにする。手にはその音の代償が伝わっていた。もう何かを握れたものではない。
ゴメンな、兄弟。お前をここに一人残していく俺と僕を、できれば許さないでほしい。憎んでほしい。恨んでほしい。ずっと、ずっと…。
立ち上がると握力が麻痺した両手からハンマーが床に滑り落ちる。雫のように滑らかに真っ直ぐに。柊平は硬化した足を引きずりながら窓を目指した。
ゴメンなさい、この世界。僕の勝手で汚してしまって。結果、こんなになってしまいました。それでも受け入れてくれてありがとう。居場所を与えてくれてありがとう。その壮大なあなたを忘れません。だから僕はあなたを嫌います。できるだけいっぱいのものを総動員して嫌います。それが僕があなたにできることだから。迷惑でも諦めてください。これは僕の、俺からの自分勝手なプレゼントですから。
ベランダの柵に手をかけた。そして足をそこまで持ち上げる。片足。そして両足。柊平は自分の身体を力一杯柵の向こうへと蹴り出した。
思った以上にふわっと外に飛び出すことができた。まるでブランコから体を投げだすようボャ…。
卵を落とした時のような呆気ない音と共に、彼の血が、肉が、内臓が、脳髄が、骨が地面をグチャグチャに汚した。そこら中に爆ぜた彼は人間、というよりはプラモデルの残骸のようだった。生き物の最期とは思えない有様だった。生臭い彼の匂いは幸か不幸か強い湿気風によって次々に洗い流されていく。彼は誰にも見られることなく、誰にも止められることなく、誰にも知られることなく自分の命という核をこの世界から自分の意志で消し去った。
しばらくして道の向こうから盛大で仰々しいサイレンの音が聞こえてきた。




