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2、心が映える夜空/身体が沈む青空


        2、心が映える夜空/身体が沈む青空


         《1》


         *

 ブランコが大きく揺れていた。自分はそれに乗っている。その揺れに合わせるかのように髪が重力を無視して躍る。

一人?いや、あと二人いる。右のブランコに一人、そして目の前のベンチに一人。二人とも淡い群青色のスモックを着ている。そうだ三人で来たんだ。この公園に。遠くに広がる砂場を眺めて思い出した。

 ふと隣を見る。向こうも気づいてこちらを向く。そこには無垢な純白の笑顔が存在していた。昨日テレビで見たアニメに出ていた天使にそっくりだ。

ブランコを漕ぐ手が、少しずつ湿り気を帯びる。言わなきゃ。なぜかそう思ったが、相手が誰なのか、何を言わなければならないのかがわからない。すぐそこにいるのに…。汗ばんだ右手をズボンで乱暴に拭った。

 顔をズボンから移すと隣の笑顔はこちらではなく、ベンチに座る誰かに向けられていた。鳩尾の少し上に何かが突き刺さるのを痛みで感じた。

「あゆみ、楽しい?」

 ベンチに座る誰かが俺の隣に向けて言葉を投げかける。それに変わらない笑顔のまま大きく首を前に倒す天使。太陽の光が頭の動きによって何度も屈折する。その眩しさに瞼を半分閉じた。

もう一度目を開ける。変わらずその笑顔はそこにあった。再びこちらに顔を向ける。美しい。それしか感じられなかった。

「どうしたの?」

 天使はこちらに声をかけてきた。答えようとした。だが声が出ない。話そうと声を出そうとするが、自分の耳にさえ届いてこない。もちろん向こうにも届いてないようだ。また手に汗を感じた。握っているブランコの金具がヌルヌルと滑る。生きているかのように。

 声よ出ろっ、声よ出ろっ、声よ出ろっ、声よ出ろっ、出ろっ、出ろっ、出ろっ、出ろっ、出ろっ…。

 出ない。返答のない自分に愛想を尽かしたのか、天使は笑顔を薄めて前に向き直った。そして勢いに乗ったまま、飛び立つようにふわりとブランコからジャンプした。美しくけれど力強く、天使は滑らかな軌跡を描きながら、ゆっくり地面に舞い下りた。少し長めの髪が軽く風に靡いている。

 それに合わせるかのように、ベンチに座る誰かもゆっくり立ち上がり、目の前の天使に歩み寄る。

「なんか返事してくれないんだ」

天使は少し表情を陰らせて座っていた子に話しかける。何か他にも話しているようだが聞こえない。話してはクスクスと笑うという流れを何回も繰り返していた。

何を話しているんだろう?自分もブランコから降りるべく、手と腰に力を込める。だが、うまくいかない。タイミングを見計らいもう一度挑戦する。しかし、うまくいかない。腰がブランコから離れない。手も金具から離れない。力を入れても言うことを聞かない。服と背中のわずかな隙間をつうっと汗が這う。

 なんで離れない。なんで降りられない。どうする事も出来ない自分に苛立ちと不安、そして恐怖を感じた。

 降りようと何度も繰り返すうちに、背中が攣るのを感じた。一瞬反射的に背中が丸まった。

 首だけ動かして二人に視線を戻す。しかし、天使だけがいない。蒸発したかのように、始めからいなかったかのように消えていた。座っていた子がただ一人、こちらではないどこかを見つめて立っているだけだった。真っ黒い影をこちらに伸ばしながら。群青色のスモックが淡さを失っていた。影を引き立てている。

 背中の攣りが少しずつ和らぐのと連動するように、影の主が徐々に体をこちらに向ける。なぜか危険を察知し目を閉じた。あれは怖いものだ。誰かが囁いた。

 しばらく目を閉じて、やんわりと光を帯びた暗闇の中を彷徨っていたが、それが突然ズンと光を失った。

 何が起こった?

慌てて眼を開くがそこには何もない。ベンチも砂場も公園も、空も地面も太陽も、影の主も、もちろん天使も。しかし、ブランコだけが消えずに自分を捕らえている。これだけが先程から変わっていなかった。その状況に、ただただ怯えて伏せている自分がいた。

 ア、ユ、ミ。アユミ。歩。なぜだかその名前が突然暗い胸の中に浮上してきた。それは黒い油粕のような自分の心を浄化していく。少しずつ、少しずつ。どこから出てきたのか、知り合いの名前なのか、誰のことなのか全くわからない。ただ自分の中身を綺麗にしながら広がっていく歩という言葉。

 気がつけばブランコから体は投げ出され、空中にふわりと飛び出していた。

         *


 濠は目をうっすら開けて、枕もとに置いてある時計を見た。短針は九よりも少し進み、長針は三を指していた。九時十五分か。時間を把握するのに少し時間がかかった。濠は体をゆっくり持ち上げる。上半身を起こして、着ていたジャージに大きな汗がシミを作っているのに気づいた。

 トントン、ジュウ、カンカンと朝の音が聞こえてきた。ミルファクが朝食の準備をしているのであろう。このまま寝ているとたたき起こされるので、その前に起きていくことにした。濠は立ち上がり、蕩けた視界を引きずりながらゆっくりドアを開けた。

洗面所は一階にある。ここは二階。下に降りなければならないが、部屋を出てすぐに足を止めた。目の前に広がる階段が蠢き、行く手を阻んでいるのだ。

「濠。なんだ、起きてたのか。さっさと新聞と郵便見てきてくれ」

 ミルファクが頭をひょいと出して言った。そしてすぐにキッチンの方へ消えた。

 濠は飲み込まれないように手すりに掴まり、足を一歩ずつ進めた。ギシギシ、ギシギシ。一段ずつ進む姿は弱弱しく、老人のようだった。下にたどりついたのは下りはじめてから何分後であろうか。それを考えられるほど彼の脳はまだ働いていない。

 フラフラと洗面所にたどりついた。目を軽くこするだけで、目頭とまつ毛にぶら下がっている目やにがポロポロと落ちる。

 濠は蛇口を勢いよくひねり、顔を洗った。一回、二回。徐々に視界がくっきりとしてきて、三回目にはいつもの世界といつもの自分を鏡越しに確認した。

 先程までの金属のような足とは比べ物にならないくらい軽くなった足で玄関の郵便受けに向かう。新聞が一部、くだらない広告が一、二、三枚、それと…。

「なんだ、これ?」

 新雪のような、輝く白さに身を包んだ封筒があった。そこには何も書かれてはいなかった。

「なんだそれ?」

「いやわかんない。とりあえず開けてみる」

 濠は純白の封筒の頭頂部を丁寧にあけた。そして封筒を持つ指に力を入れた。封筒の入口はあっけなく丸みを帯び、中身をこちらにさらけ出した。中にはB5サイズの紙が三つ折りで窮屈に収められている。それをゆっくり抜き出した。


             ―       ―

 昨日は生まれ変わりの申請の手続き、及び面接お疲れ様でした。そして承諾おめでとうございます。本日から十五日後に山崎様の生まれ変わりが施行されます。十五日後の正午にお手数ですがこちらの本部までおいで下さい。

 この文書は十五日前、十日前、五日前にお送りする決まりとなっておりますのでご了承ください。

             ―       ―


 こういった内容の文面がB5の用紙の真ん中にポツンと書かれているのだった。

「通知みたいなもんかな?」

 濠は眉の間に皺を作り目の前に視線を向けた。

「そうみたいだな。しかし、なんとも殺風景な文章だな。それに宛先も何もないじゃないか。普通こんなのが来たら誰も開けないぞ」

「よね。でもなんかこういうの来たら、改めて実感が湧く!」

「そうだな、本当だったんだな」

 ミルファクが少し子供っぽく笑いながら言った。

「うん。…、ん?本当だってあれだけ言っただろ」

「そうだったな。悪い、悪い」

 全く申し訳なさそうに見えない態度で、ミルファクは頭を軽く下げた。その顔には早速意地悪そうな不鮮明な色が浮かびあがっていた。両眉が力いっぱい持ち上げられている。それに気が付きながらも、濠はあえてそこに触れなかった。

危ない。もう少しで相手のペースに引き込まれ、朝から不機嫌になるところだった。少し大人だなと無駄に自負した。

「今日はどうする?」

不意にミルファクが花を飾りながら尋ねる。今日はオレンジ色の花だ。

「特に思いつかないけど」

「なら散歩にでも行かないか?」

「いいけど、なんで?」

「なんとなくだ」

 ミルファクは偉そうに腕を組みながらいった。組んだ腕に天の川のような血管がきれいに浮かび上がった。

「なんだそれ。わかった、行こう」

 濠は再び朝食に向き直り、先程の文章を封筒には戻さずに、どこともなく放り投げた。おい、という通る声がすぐに飛んできた。


         [1]


「どこからいく?」

 武内が自分のデスクに腰かけ、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けて言った。静かな煙と軽い灰が透明な灰皿を汚した。

「とりあえずもう一度現場を見に行きましょう。見落としがあるかもしれません。そのあとのことはそれから考えてはどうでしょうか?」

 どこかに消えゆく煙を目で追いながら謙輔が答えた。

「そうだな、じゃあ行くか。許可は自分が取っておくから車を頼む」

 謙輔は頷き、武内が携帯電話を取り出すのとほぼ同時に立ち上がり駐車場を目指した。

 しかし、あんなことは言ってみたが…。謙輔は昨日武内に言ったこと、今日剛に言ったこと、そして今武内に言ったことが急に不安になってきた。何か手掛かりになるものが一つでもあればいいのだが、そんなものはない。ただ柊平の言っていることを信じたい。それだけだった。謙輔は気がつけば四階の刑事課から出て、三階へ続く階段の手すりを握っていた。

 再び不安がこちらに牙をむく。人を信じたい。だけど現場なんかを洗い直して新たな何かを掴むことができるのか。第一、現場は鑑識がかなりの時間をかけて調べた。しかし…、ええと。

 記憶が曖昧で慌てて荷物の中から手帳を引っ張り出す。すでに二階を通過していた。

「あった」

 ゴムバンドを外し、シルバーの手帳を開いた。しかし、鑑識の奮闘も虚しく、現場からは他の犯人に繋がりそうなものは何も見つからなかった。被害者と柊平の痕跡しか見つからなかったのだ。

 ふと手帳から顔上げると地下駐車場に到着していた。現場の場所を確認しつつ、自分の黒のセダンを見つけて鍵を開けた。


 許可の電話を滝澤に入れて、一通りの文句を聞いたあと武内は荷物を持ってエレベーターを捕まえた。今は七階にいるらしく静かに下りてきている。

 はぁ。大きな重たい鉄のような溜息が出た。やはり上は柊平を犯人にしたいようだ。滝澤の言葉を頭で反芻した。

「現場を?なんでまた。そんな時間があるなら他に手を回せ。ただでさえ人手不足なんだからな。ん?山本がもう向かった?お前がついていながら何を勝手なことをやっ」

 そこで電話を切った。確かにそうだ。無駄なことだと思っている自分にはずいぶん前から気が付いている。だがなぜだろう。

エレベーターが四階に到着してチーンという間抜けな音を廊下に木霊させた。中には誰も乗っていなかった。足早に乗り込みB1のボタンを押した。

根拠はない。しかし、なんとなく納得がいかないというか、モヤモヤしたものが残るというか。よくはわからないが、これで終わってはいけないと思わずにはいられなかった。まるで誰かに思わされているように。

武内は左手をゆっくり警察手帳の入った右ポケットに重ねた。少しだけ熱が伝わってきた気がした。

チーン。駐車場に到着した。エレベーターを降り、エンジン音のする黒いセダンを見つけて足早に乗り込む。

地下から外に出ると冬のいつもは頼りない太陽がいささか夏の日差しのように感じられた。


 署を出て黒いセダンは西に方向を変えた。事件現場は、署を出て西に七百㍍進み、そこで北に方向をかえて二㌔、さらに西に六百㍍ばかり進んだ場所に位置していた。大学近辺であるため、学生のためのアパートが密集している地域である。

先程確認した現場の場所を目で照らし合わせながら、謙輔はハンドルを握っていた。暖房がやかましく、車内の冷たい空気を心地よく侵食していく。あっという間に車内の冷気は暖気に姿を変えた。

「現場にいってまず何を見る?」

 武内が顔をこちらに向けずに問いかける。

 心地よい空間が再び寒さを取り戻した。謙輔は体温調節ではないと思われる汗を背中に感じた。現場で何を探せばいいのか、そのとき頭の中にその答えはなかった。とりあえず順番にと思ってのことだったからだ。

「とりあえず事件を真っ白な状態で見直していこうと思うんです。今のままでは考えが偏り過ぎてしまいそうで」

「確かにそうだな。変な先入観を持たないためにはそれがいいな」

 武内は納得してくれたようだ。腕を組み、首をテンポよく縦に振っている。車内の空気が元の暖かさに戻った。右のウィンカーを点滅させて、謙輔は車体を北に向けた。

「それにしてもどういう事件なのか、全体像が見えすぎて余計にわからんな。山碕柊平が犯人じゃあなければだが。おっ、悪い」

 いえ、と謙輔は軽く笑みを浮かべてみた。

 確かにそうだ。犯人も証拠も状況も完璧すぎるのだ。だから他の観点で見ようという考えは勝手に削がれてしまう。唯一ないものがあるとすれば…、なんだろう。

「この事件にはなくて他の事件にはあるものなんてあるか?」

 まるで心を読まれたように、武内に質問を盗られた。

 そんなものあるかな?謙輔は最近読み終えた推理小説を思い浮かべてみた。その小説では確か…、主人公の探偵が実は犯人だったという落ちだった。さも「誰が犯人だ」というように捜査と推理をしていくが、それはすべて警察捜査の撹乱で、恨んでいた相手に罪を着せることが目的だったという流れだ。謙輔はずっと罪を着せられていた偽犯人を主人公と一緒に追っていたので、最後の落ちで文章を二度見したのを覚えている。今冷静に考えるとかなり斬新な作品だ。今回の事件と比べてみると…。これか。次の信号を左である。

「武内さん。柊平君は被害者を殺害する動機があったんですか」

武内は少し考えてから右の胸ポケットを探った。そして手帳を広げる。

「今のところ自分の手元にはそういう情報はないな。そうか、そういえばないな、動機が。後で課長に確認してみよう」

はい、と謙輔は静かに答えた。ここを左だ。今度は左のウィンカーを点滅させた。

「まあ、あまり期待はできないとは思うがな」

「えっ、なぜですか?」

「考えてみろ。自分がやってないという人間に動機が存在すると思うか?」

あるわけがない。身に覚えのないことの理由なんてある方が不思議だ。

「しかし、調べてみたらそれらしいものが見つかっているかもしれん。とりあえず連絡はしておく」

お願いします、と軽く頭を動かした。

このあたりのはずだが。現場に出向いたことがなかったので、謙輔は現場写真を頭に浮かべ、周りの建物と順番に照らし合わせた。違う。違う。違う。違う。違う。あれか?…、違う。

「この通りじゃないぞ。一つ奥の通りだ」

 わかりました、と謙輔はハンドルを切った。あれだ。写真と酷似するアパートを発見し、ふうとせき止められていた重たい二酸化炭素を吹き出した。

 謙輔は駐車場のような広いスペースにセダンを止めて、手帳を持ってドアを開けた。その瞬間、今度は冷気が侵食を開始した。そしてついでかのようにコートを着ている謙輔にも牙を剥いた。空を仰ぐと、太陽の光は雲によって窮屈に遮られていた。


         《2》


 濠とミルファクは朝食を済ました後、ミルファクの提案に従い散歩に出かけた。どこというわけでもなくあてもなくである。家を出て右に曲がると一本の大きな道がどこかまで続いている。それに沿って二人はゆっくりと歩いた。

「なぁ、何で急に散歩なんて言い出したの?」

 首を傾けつつ、濠はミルファクを見た。

「だから言っただろう、なんとなくだ」

「ふうん」

 なんか煮え切らないな。こういう時は大体ちゃんとした理由があるのにな。

 濠はミルファクから視線を外さなかった。じっと、張り付く視線を送り続けた。

「お前さぁ」

 それに耐えかねたようにミルファクが口を開いた。

「お前、今日どんな夢見た?」

両眉に力が入っているのがこちらからでもわかった。

「夢?」

 藪から棒にそんなことを聞かれて思考がついて行かない。

「なんだよ急に」

目の前に公園が見えてきた。道の途中に、ちょこんと誰かに置かれたようにそれはあった。人は…、誰もいない。

濠は何かに引き寄せられるように公園に吸い込まれていった。

夢か。どんな夢見たっけ?

しばらく濠は考えた。思い出せない。もう一度。何も思い出せない。夢が思い出せないということがこんなにも苛立たしく感じたことが今まであっただろうか。

「思い出せないや。でもそれがどうしたの?」

ミルファクがベンチに腰かけたのにつられて、濠もワンテンポずれてベンチに座った。濃いグリーンの色がむやみに植物を想像させる。それを掻き消すかのようにかすかにペンキの薬品っぽい臭いがした。

「そうか」

「なんだよ」

「いや。なんか魘されているみたいだったから、どんな怖い夢を見たのかと思ってな」

「俺が?」

 ああ、という返事がすぐに帰ってきた。

 そういえば、今朝はジャージに大きな汗のシミができていた。恐い夢を見たのか?全く思い出せない。

「おっ、ブランコだ。なんか懐かしいな。子供の頃よく乗ったんだよな」

 ミルファクが目の前の遊具を見つめた。それに促されて濠もそちらを向く。

「乗ってみないか?」

その問いに賛同し、二人はブランコに近づいた。

ザワザワザワ。ブランコに腰を落とした瞬間に、濠の皮膚が小刻みに波打った。なんだ、この感じ。

「気持ちいいな。小さい頃はふざけて立ち漕ぎなんかしてな」

 なんなんだ、この感じ。気持ち悪い。

「けど、結構危ないんだよな、これ。頭とか打ちそうになるし」

 まだ治まらない。何がこんなに気持ち悪いんだろう。

頭のてっぺんから始まった大きな波は順に広がり、手足の先まで到達すると再び頭部を目指した。これが繰り返されている。その速度は非常に遅く蝶か何かの幼虫が進んでいるように感じられた。

「それに、あんまり長いこと乗ってると酔ったりするんだよな」

 波がようやく小さくなってきた。幼虫がどこかへ帰っていくのが分かる。濠はやっと自分の状況を考えることができるようになった。そうだ公園にいたんだった。

「気持ちまで幼くなるな。…。どうした?」

 濠の異変に気づいたミルファクは、自分の操縦するブランコの速度を徐々に落とした。

「顔が真っ青だぞ、どうした?言ったそばから気持ち悪くなったか?」

ミルファクは鼻を擦りながら両眉を持ち上げた。

「言ったそばから?」

 小首をかしげて質問を返した。

「さっき話しただろう?」

 持ち上げられた両眉がスルスルと下に落ちた。

「ごめん、聞いてなかった。ここに座ったら、なんか変な感じがしてさ」

「変な感じ?」

「なんていうか、気持ち悪いっていうか、寒気がしたっていうか、鳥肌がずっと止まらなかったんだ。なんだったんだろう。ただブランコに…」

「どうした?」

「ブランコ。ブランコだ。そうだ、ブランコだ」

 はっ?とミルファクがこちらを覗きこむ。

「今日見た夢だよ。確かブランコの夢だ」

「どんな夢だったんだ?」

 ミルファクが落ち着いた口調で先を促す。二つのブランコはすでに動くことを止めていた。目の前のベンチを見据えながら濠は続けた。

「それがなんていうか変な夢でさ。はじめ気がつくと俺はブランコに乗っているんだ。で、隣のブランコには別の子が乗ってて、俺はその子を知ってるんだ。それともう一人、向かいのベンチに腰かけて、こっちを見ている子もいてその子も知っている子なんだけどこの二人が誰かはわからない。それで…、確か隣の子がブランコから降りて、ベンチの子のところに行くんだ。そいつらに向かって喋ろうとするんだけど、声が出ない。何回も声を張り上げるけど、全然声にならなくて。それから、…、あっそうだ。ブランコから俺も降りようとするんだけど、降りられない。お尻が張り付いてるみたいに。そのあとは、…、どうだっけ。思い出せない。暗くて怖かったことしか思い出せないや。だけど最後だけははっきり覚えてる。ブランコから飛んでるんだ。というより投げ出された感じかな」

 忘れかけていた夢を断片から復元する作業は思いのほか精神をすり減らした。ただ話していただけなのに、ひどく体が重たい。

「確かに変な夢だな。その二人知っているんだろ?」

「けど、わからない。特徴はちょっと覚えてるな。隣の子は純粋な感じの子で天使みたいに可愛らしかった。ベンチの子は…、何だろう。説明しづらいけど、怖かった」

 また頭頂部で幼虫が疼いた。が、今回はすぐに落ち着いた。

「何歳くらいだ?」

「たぶん五、六歳だと思う。幼稚園か保育園かはわからないけど、スモック着てたから間違いないと思う」

会話が途切れた。一陣の風が公園に舞い降りる。それに合わせて濠は地面を蹴った。ゆっくりブランコが半円を描きだす。

「俺、昔ブランコ大好きだったんだ。なんかさ他の遊具って意味もなく、それを考えずに遊ぶけど、これはさ、違うじゃん。未知の体験ができるっていうか、空飛んでるって考えなかった?」

「確かにな。他のとは違うよな」

「だろ?公園来たら絶対乗ってたもんな。スゲェ好きだったもん。でもいつからか乗らなくなったな。よく覚えてないけど。だから怖いなんてことないと思うんだよね。たぶん関係ないただの夢だって。ごめん。忘れて」

「わかった」

 ブランコを漕ぐ濠の傍らで静かにミルファクの表情が歪んだ。再び公園に風が舞いこみ花壇の花々を撫でていく。そちらに気を取られて、濠はミルファクのそんな表情には気がつかなかった。


         [2]


「被害者の遠藤翔吾はここで首を吊っていたんですよね?」

 謙輔が部屋の天井を指差し、こちらを見つめる視線に言葉を投げかけた。眉間に皺を寄せ、腕を組みながら武内がゆっくり肯定する。

「だから発見当初は自殺だと思われていた。首吊りだからな。しかし、それにしてはあまりに状況が不自然なので調べた結果、部屋にいた山碕柊平が殺したのではないかということになったんだ」

 区切りのいいところで質問を挟む。

「不自然というと?」

「自分で首を吊るのに必要なものがなかった」

 武内は事件当初の現場写真と資料を渡した。そこには今も部屋に置いてある縦横一メートルほどの小さなデスクと星座に関係のある本が置かれた本棚、そこに置かれた小さなアナログテレビ、それに折りたたまれたベッドが移っていた。その他にもゴミやらが散乱している。今と違うものは部屋中央より少し右にずれたところに大きなポールが接続されているのだが、そこから下に延びる純白のロープだった。頼りなさそうなポールだが、以外に強度があるらしく、人一人くらいならぶら下がれることも検証済みだと資料には書かれていた。

「下に何もないですね」

 武内が右手の人差し指を上に立てた。

 確かにこれでは自殺は無理だ。四、五㍍はありそうな天井なのだ。踏み台なしでは首を吊るどころか、ポールにロープも括れない。

上が柊平君を犯人にしたいわけだ。彼が犯人でないなら自殺の線が濃くなる。しかし、そうなった場合、その方法を明らかにしなければならない。不可能に見える自殺を証明しなければならない。自殺説を捜査しないわけだ。どうして地位が上がると汚いことを平気で出来るようになるのか不思議でならなかった。

 そうはいってもこのような無理難題が横たわっているとは思ってもみなかった。暗闇の先のゴールがさらに自分から遠のいた気がした。その感情の傍らに少しの気がかりを感じたがそれが何かはよくわからなかった。

「柊平君の容疑を晴らすと、遠藤の自殺説に直結するわけですね」

「今の段階ではそうなるな」

「けれど、柊平君が犯人だったとしたら、なぜ踏み台を残さなかったんでしょうね。自殺に見せた方が自然なのに」

 謙輔は黒縁の眼鏡を右手で軽く直した。そしてじっと脳の回転に集中する。だめだ、情報をもっと集めよう。

「武内さん。このアパートの管理人に会いに行きましょう」

「ああ。わかった。確かここの一階に住んでいるそうだ」

わかりました、と返事をし、入口の方へ体の向きを変えた。


ドアを抜け、下に続く階段を目指した。

武内は謙輔の頭の中でどんな構想がなされているかを考えながら、修復したての階段を下りていく。

築数十年であろうか。雨風の攻撃を受け、壁の白がドブの色に侵され、グリーンだったであろう屋根も初々しさを失い、抹茶に黒の油絵具を混ぜたような色になっていた。それが階段の新しさと噛み合っていないため、微妙な居心地の悪さを漂わせている。

下の階に下りた二人は奥に五つのドアを確認しつつ、管理人という看板のかかった一番手前のドアの前に立った。

「ここだな。しかし、何を聞くつもりだ?」

武内が謙輔に顔を向ける。

「大体の聞き込みは終わっていることは知っています。でも直接話を聞きたいんです。聞き洩らした事を聞き洩らさないために」

 軽く二回頭を振り、なるほどと思った。

 資料がすべてではない。あくまで資料は聞き込みをした答えなのだから、こちらの聞き洩らした事があればそれは永久にそこには記されない。それがない場合もあるのだが、謙輔の顔を見る限り何か気になる節があるのだろう。それが何なのかは全く見当がつかなかった。

「行きます」

 語尾と重なるように目の前のチャイムを鳴らした。ピンポーンという音がこの前のインターホンと違って綺麗に響く。中で反響しているのであろうか?小さなホールさながらである。言い過ぎだ。自分の考えに鋭く訂正を加える。

 ほとんど時間を要せず、玄関のドアが開いた。

「何だ、あんたら?」

 中の男が不機嫌を露わにする。五十代くらいだろうか。見事に禿げあがった頭がどうしてもそれくらいの、それ以上の年代を臭わせる。背は小さく、丸い顔、そしてドアをつかむ小さな関節が太くなった手。中年太りの丸々とした体は歳とともにオヤジという言葉を連想させた。

「突然すみません。警察のものですが、この間の事件のことでもう一度お聴きしたいことがありまして」

 武内が手帳を見せると、男の顔の不機嫌があっという間に媚びに塗り替えられた。何かやましいことがあるのだろうか。

「何でしょう?最近物忘れが激しくて、覚えてないんですが答えられる範囲で答えましょう」

その返事を聞き、武内は隣に目を向けた。

「以前の証言で、あなたは山碕さんを見たそうですね?」

 山碕柊平の写真を取り出して柔らかく尋ねる。ええ、と男は謙輔を見たまま即答した。

「それは何時頃だったか覚えていますか」

 ええっと、と腕組みをして宙を見上げた。それにつられて武内も上を見た。そこには蜘蛛の巣があり、巣にかかった獲物を蜘蛛がせわしく平らげていた。小さな悲鳴を咽喉の奥で飲み込んだ。

「夜の九時頃だったと思いますよ」

 そうですか。いつの間にか手にしていたシルバーの手帳にボールペンを走らせている。

「ところで管理人さんはすべての来客を確認しているんですか?」

「いや、それは無理ですわぁ。だいたい、見ても初めての人なんかはすぐ忘れてしまうんでね。あの日はたまたまその時間に彼らが帰ってきたものですから」

 ペンを走らせる手が止まった。

「今の言葉をそのまま受け取ると、たまたま彼らが、いつも通り帰ってきたあなたに遭遇したと取れますが」

「ええ、そうです。私はいつも八時から九時、十時までコンビニに出かけています。まあ一日の日課みたいなものですかね。そこの店長が幼馴染なんでつい喋りに」

 丸い顔に笑顔が宿り、さらに丸くなった。

「なるほど。他の時間に外出はなさりますか?」

「日中はここの掃除やらをしていますし、夜中もこの歳になると早く寝てしまうので特にはしませんね」

謙輔は再びペンの動きを再開させた。

「管理人さんは大体何時くらいにご就寝ですか?」

「日によって違うけど、大体十一時か十二時には寝てるよ」

 少しずつ敬語が外れていることに気が付き、武内は不思議に思いながらそのやり取りを聞いていた。

「なるほど。あの日もそのくらいの時間には寝ていましたか?」

「ええ、確か」

「上の音なんかは聞こえてましたか?」

「いや。ここの壁、防音なんでね」

「ほう。どのくらいの音なら聞こえないかはご存じですか?」

「いや。業者にそういうふうに言われただけなので、詳しいことはちょっと…」

 急に質問に参加した武内だったが的を射ていたかは隣のペンの動きを見ればわかる。止まっている。重要なところではなかったらしい。

「とても参考になりました。お忙しいところ、どうもありがとうございました」

 深々と頭を下げてドアを閉じた。そして謙輔はおもむろに携帯電話を取り出してどこかに電話を始めた。要件は短かったようですぐに電話を閉じた。

「ビックリしましたよ。急に質問するんで」

「スマン。で、何かわかったか」

 その答えは返事ではなく笑顔で返された。笑顔の向こうで何かが輝いた。雲にせき止められていた太陽の光がいつの間にか地上に降り注がれていた。


         《3》


 濠は静かに窓の前に立ち、下を見下ろした。ミルファクがいつものように花壇の手入れをしている。始めここにやってきたときから比べると随分賑やかな花壇になった。チューリップや向日葵といった有名な花から植え始めて、今は名前の良く分からない花がほとんどになっていた。

 ん?何か新しい花を植えている。あれも名前がわからない。というよりどれも同じに見えてしまう。確かに花見ていると落ち着くし、癒されるがそんなにいいものなのだろうか。楽しいのだろうか。いつも不思議でしょうがない。

 それにしてもあの夢。ミルファクにあんな風にいったものの、それが嘘だということはほかでもない自分が一番分かっている。何というか、気持ち悪い夢。ブランコに嫌な思い出はないはずだ。ではどうしてあんな夢を見たのだろう。あれは、あの夢で感じたのは純粋な恐怖だ。

 窓に背を向けて室内に目をやった。昼食の後の食器がまだ残っている。

 これだけ考えて思い出せないということは、完全に忘れてしまっているのだろう。それが偶然…。

 〝偶然〟という言葉がズルズルと自分の中を這いまわった。もうすぐ生まれ変わるこのタイミングであの夢を見た。それがどうしても引っかかる。

「もしかして」

 無意識のうちに言葉が漏れていた。

 俺の死に関係がある?だから思い出せないのか?どうなんだ、俺?そうなのか?

 答えない自分に問い続けた。しかし、それらの答はなぜかわかっていた。答えが返ってこないということが答えだとなぜか思ったのだ。

 あのブランコは、あの二人は自分の死と関係がある。きっとある。だけど、どんな?わからない。

 再び窓に向き直り外の友人を眺めた。新しい花は植え終わったようだ。黄色い花弁がふわふわ揺れている。周りの景色からくっきりと浮き上がったその花は、濠の視線を独占していた。

 どうしよう。相談するべきだろうか。もし今考えていることが事実だとしても、それだけの話だ。そうかと言われれば終わってしまうほど話題性は乏しい。

しかし、立ち込めた邪悪な紫煙に彼の心は救いの光を求めていた。誰かに聞いてほしい。そう訴えている。

「よし」

 小さく拳を握り、濠は揺らぐ気持ちを制止させた。


         [3]


「何がわかったんだ?」

 車に戻った武内がドアを閉めるのと同時に質問をとばした。ドアを閉めて鍵を差し込む。エンジンがかかり、暖房が再び冷気を消していく。謙輔は手帳を広げて武内の方を見ていた。

「わかったといっても大したことではないんですが。一つ目は犯人が柊平君以外でも居得るということです。管理人の話にもあったように来客にいつも目が行き届いていたわけではないですし、部屋が防音なら殺人が行われていてもおそらく気がつかないでしょう。ですから他の犯人がいても不思議ではないですよね。二つ目に管理人は柊平君と顔見知りであったということです」

「なぜそう思う?」

「柊平君の名前を出した時に僕は写真を取り出しました。普通知らない人なら名前だけで顔までわかりませんからね。けれど、彼は写真には目もくれず、そうだと答えました」

「しかし、以前聞き込みもしたんだろ?その時のことを覚えていたかもしれない」

「それはありません。彼は自分で否定したんですから。覚えていますか?会話のはじめに彼が言ったこと」

 武内は先程の会話を順番に思い出した。そして答えを見つけた。

― 最近物忘れが激しくて、覚えてないんですが答えられる範囲で答えましょう ―

 そう言っていたのを思い出した。

「思い出しましたか?そう、確かに覚えてないと言ったんです。時間を覚えていたのは日課だったからに過ぎない。決して彼の記憶ではない。それにさっき確認をとりました。聞き込みをした時に写真を持ち合わせていなかったそうで、その時も名前だけで質問したそうです。ということは、彼は知っていたということになります。山碕というのが柊平君のことだということを。昼間に掃除なんかをしていてよく来る人だから覚えていたのか、そのあたりのことまではわかりませんが」

 先程の電話はそれか。ただただ感心させられるのみだ。

「そして最後にもう一つ。ただこれは気になっただけなんですが」

先程まで饒舌だった謙輔の舌の回転が鈍くなる。

「なんだ?」

 武内は先を促した。

「言ってましたよね?自分が返ってきた時にたまたま彼らが帰ってきたと。ほんとに〝たまたま〟なのかなって思ったんですよ。管理人の言い方からすると、あの時間に彼らに会ったことが今までなく、初めてその日あったことは間違いないと思うんですが。もちろん偶然だろうと思います。けれど違うのなら誰がと何のためにというところが謎になってくるんですよね」

 先程のやり取りで謙輔が唯一聴き返した箇所。なぜ聞き返したのか疑問には思っていたが、そんなことを考えていたなんて。そう言われてみれば確かに引っかかる。なぜ初めてがあの日だったのだろう。なぜ彼は山碕柊平を知っていたのだろう。不思議な点が湧き水のように次々に溢れ出してくる。

 それにしても、これだけのことをあの会話の中で読み取り、考え、整理していたのか。彼が少しだけ大きく見えた。

「今考えられるのはこんな感じですかね。あとは関係者の過去を見てみないとなんとも言えませんね」

「そうだな。二手に分かれるか?そっちの方が効率がいいだろう」

 提案をしておきながら少しだけ後悔した。確かに効率は上がるが、果たして自分は先程の彼のように質問し、そこから不自然な点を読み取り、考え、整理することができるだろうか?言い知れない不安があっという間に自分を支配した。

「そうですね、そうしましょう。それでは僕は山碕兄弟について調べ直しますね。武内さんは遠藤翔吾の方をお願いします」

 さらっと肯定の意を示されて、武内の中の不安は羞恥を残して消え失せた。

「それでは署でまた合流しましょう」

 返事を返すことができず、無言のまま武内は車から降りた。黒いセダンは発進した。

 凍てつく外の空気が武内の中に安堵と心地よさを施した。空の太陽は西に傾きかけ、うっすら琥珀色に染まっている。質の良い紅茶が頭の中に突然浮かんできた。


         《4》


「なあ、ちょっといい?」

「ん、どうした?」

夕食の片づけをしていたミルファクは濠の声でテーブルのほうに体の向きを変える。濠は真っ直ぐミルファクの澄んだ黒い瞳を見据えた。

「なんだ?恐い顔して。お前らしくないな」

 両眉をあげていつもの子供っぽい笑みを浮かべた。指で鼻まで擦っている。いつものミルファクに対して反抗するのが普段の濠だが、それが出来ない。薄暗いフィルターに邪魔された心が自由な感情をきつく、きつく縛りあげている。いつもと違う彼を目の前にしてミルファクの笑みは静かに退いて行った。

「散歩の時に話した夢のことなんだけど」

 目の前の顔が俊敏に反応する。あっという間にその顔は光を奪われていった。濠は静かに顔を伏せる。

「やっぱりミルには嘘をつきたくない。今朝は、あの夢はただの夢で何にも関係ないって言ったけど、やっぱり関係あると思う」

「なんでそう思う」

 顔を上げるとミルファクは片づけを中断し、濠の前に座っていた。

「わからない。でも頭から離れない。だから考えちまう。その度に思うんだ。これは偶然じゃない。俺の生まれ変わりの決まったのと、この夢を見始めた時期が重なるのは偶然じゃない。関係があるんじゃないかって」

 一息ついた。一気に話してしまわないと、薄暗いフィルターが似合わない速度で言葉を取り込みそうで、形を変えられそうで。恐ろしかった。初めて自分にこんな感情を抱いた。眼前の表情は微動だにせずこちらに向いていた。

それで?ミルファクは瞳に鋭さを加えた。

「まだ思い出せないしわからない。でも、自分の死に何かがあったんじゃないかと思う。あの二人に、ブランコに関係した事があったんじゃないかと思う」

「例えば?」

「…。た、例えば、ブランコのそばで殺されたとか。あの二人といざこざがあって殺されたとか、殺されたときブランコが見えたとか」

 自分で言っていて変な気分になった。自分がどうやって死んだか。そんなことを考える日が来るとは思わなかった。というよりそんなこと普通は考えない。そんな必要がないからだ。普通がどんなものかはわからないが。

「なぜ、殺されたと思う?」

「えっ?」

 腕を組み、瞳の鋭さを増して口を開いた。

「今お前はすべて殺されたと言った。なぜ殺されたと思ったんだ?」

「それは…」

 言葉を見失った。自分で言ったはずなのに、なぜそう思ったのかが皆目見当がつかない。

「殺されてないかもしれないじゃないか。事故にあったのかもしれないし、もしかしたら…、自殺だったのかもしれない」

 何かが鋭く自分を突き抜けた。濠はフィルターが機能を失い崩壊していくのを感じた。じさつ。ジサツ。自殺。その〝意味〟が理解できなかった。

「例えば交通事故にあったのが公園の前で、その二人の友達を最期に見たのかもしれない」

 ミルファクの声は聞こえているが全く届かなかった。次第にそれは反響し、幾重にも重なりただの音となった。それが思考掻き乱す。

「その二人は友達じゃなくて家族で、大好きだったが自殺したのかもしれない。何かを苦に」

 掻き乱された思考は居場所を失い、混乱を生みだした。それはとても強引で理不尽なものだった。もはや人格は存在していない。

「他にもいろいろ考えられるじゃないか。その二人は実は」

 混乱に満ちた体は突然両腕を宙に引きずりあげた。

「やめてくれっっ」

 濠は力いっぱい、力いっぱいテーブルに両拳を叩きつけた。ズンと鈍い音がテーブルに、部屋に、そして自分の耳に伝わる。混乱は存在していなかったかのように自然に見えなくなった。思考が働きを取り戻す。目の前に焦点を合わす。ミルファクの瞳はぶれてはいなかった。

「こんな事を考えてる俺がバカだった。もう忘れるよ。だからこの話は終わりにしよ」

「そうだな」

 ミルファクは瞼をそっと下ろして、もう一度上げた。そこには鋭さは全くなく、いつもの暖かい眼差しがあった。

 ミルファクはすっと立ち上がり再び片付けを始めた。

「ごめん、今日はもう寝る。おやすみ」

おやすみ、と帰ってきた声は少し震えていた。

階段を上り、部屋に入る。窓辺に立ち、カーテンを開けた。シャシャという音を静かに立てた。そして窓を開けた。

 なんであいつは自殺なんて言ったんだろう。それがわからない。なんであんなに強い衝撃を受けたんだろう。それもわからない。

 下の花壇を見ると今日彼が植えていた黄色い花がこちらを向いていた。リビングの光で照らされたそれは昼間より鮮やかに写った。

 突然目の芯がキンと痛みを持つ。ポツ。頼りない音をたてて涙が窓枠を湿らせている。本当は話の最中で泣いてしまいたかった。

けど、あそこで泣いてしまったら、あいつが今夜涙で一夜を過ごさなくちゃならないからな。そんな姿は見たくない。

重力に従う涙を頬につたわせながら空を見上げた。相変わらずの暗闇がじっとこちらに向けられていた。


 食器を棚に仕舞い、いつものように椅子に腰を落ち着けた。

今日はどの本を読もうか。昨日までの本は読んでしまったからな。今度はミステリーじゃなくて、なんかこう感動できるような作品を読もう。そんな本あったか?

ゆっくりと腰を上げた。ギギッという軋む音がなぜか心地よい。ミルファクはよろよろと本棚に近づいて行った。そして棚に並べられたタイトルを順に左に流していく。

『聊斎志異』。中国の怪奇小説集だったはずだ。「人間の皮」という話があったな。乞食のたんを妻が飲んで、それが心臓に変わるんだったかな。そこまでして夫に生きてほしかったのか。

人間はすぐに愛だの憎しみだのを心に芽生えさせる。そして生にしがみつく。生物には平等に死がやってくるというのに、人間だけはそれが分かっているようで、解っていない。死は恐ろしくはないのに。

『安部公房全集』、『新エロイーズ』、『シャーロック・ホームズの冒険』、『ベオウルフ』。ん?『お伽草子』。こんなものまであったのか。

 流れていく視界がピタリと止まった。

「これは」

 一冊の本が視界の中心を独占する。ゆっくり、左手を伸ばす。本を持つ手に力を入れる。少しざらつく感触を確かめながらさっと引き抜く。

タイトルのない本。タイトルのつけられない本。作者が嫌がって作者名の記されていない本。薄い檸檬色の表紙のハードカバーの本。栞を必要としない本。そして、誰のためでもない本。作者が相手のためではなく、自分だけのために描き記した本。だから誰にも理解できない本。それが目的の本。

久しぶりだな、この本を見るのは。久しぶりに〝読む〟か。いやまだだな。だけど、そのうちに〝読む〟時が来るだろう。涙はその時まで取って置こう。我慢することにしよう。さっきは危なく泣くところだった。あいつも泣くかと思った。そうしたらつられた振りをして泣けたのにな。

さてどうするか。夜はまだ長い。そうだ。紅茶でも入れてゆっくり考えよう。いつものようにアッサムにするか?ミルクもあったしな。それともこの前仕入れたリゼにするか?砂糖をたっぷり入れて飲むんだって言ってたな。あれ、それはウバだったかな。一緒に買ったから覚えてないな。

本棚の前で考えるのに限界を感じ、フフと口元の力を緩めた。くるりと向きを変えて台所へ向かう。手には檸檬色の冊子が握られたままだ。

流しの上の戸棚を開けて紅茶の容器をあさった。そして手当たり次第にテーブルに並べていく。アッサム。シッキム。ニルギリ。キャンディー。リゼ。ウバ。それから…、ダージリン。

おっ、まだあったのか、ダージリン。これにするか。

右手であさっているときには気がつかなかったが、蓋を開けようとして左手に握られている薄い檸檬色の本に気がついた。

しまった。持ってきてしまった。

急いで本棚まで戻って『お伽草子』の隣に差し込んだ。不意に部屋の暑さを感じ窓辺に赴く。カチャ。キュキュ。木片と金具が人工的な音を鳴らした。ふわっと柔らかい湿気を帯びた風が忍び足で入ってきた。それに合わせてカーテンとテーブルクロス、飾ってあったオレンジ色の花びらが舞い始める。

窓枠に手をつき下を眺めた。

今日も綺麗だな。イルミネーションが瞬いている。こっちもこんなふうに見えるのか。昨日読んだ小説に書いてあったな。青い空。宝石をちりばめたような星空。なんだそれ。

一人誰かに文句をぶつけた。空を見上げた。ぽっかり抜け落ちたような漆黒がぶちまけられていた。

そういや明日は雨って言ってたな。

窓をそのままにしてミルファクは再びキッチンに吸い込まれていった。


         [4]


 セダンを発車させ武内と別れた謙輔は一路、署を目指した。剛と柊平の事を調べるためである。ふと先程の武内の顔が思い出された。らしくない顔をしていた。いつもドスンと構えられた厳しい表情が全くなく、先に不安を抱えた少年のようにこちらを向いていた。どうしたのだろうか。

 なんかまずいこと言ったかな?その自問自答の答は芳しくなかった。気になる節どころか、それを臭わせることをいった記憶もなかったのだ。


 先程来た道を帰るのは大した労力も時間も要せず、半分余りの時間で署の駐車場に到着した。

車から降り、ちょうど開いているエレベーターに乗り込んだ。中には女性が一人すでに乗っていた。何階ですか?と尋ねられた。白い足がスラっと伸びている。綺麗な人なのかな。興味はあったものの持ち前の人見知りが素直にさせてくれない。

「四階をお願いします」

 顔を見ずに答えた。はい、と小さな声が聞こえた。それに連動してカチッという音がした。階を知らせるランプの4がクリーム色を纏う。もう一つ、5も同じ色をしていた。

 五階。交通課か。こんな人いたんだ。

 彼女に急に親近感が湧く。声をかけようとした。話が合う人かもしれない。同じ課だったのだ。会話を続ける自信が奥から湧き上がってくる。

「あの」

チーン。到着を知らせる間抜けな音に邪魔された。彼女は声を発しようとしたことには気がついてないようだ。それなのに額の奥が溶けそうなほど熱を持った。扉が開くと足は驚くほどの素早さを見せた。

はあ。様々な感情を含んだ溜め息を力いっぱい吐き出した。疲労が一気に数倍に跳ね上がり体を蝕んでいるのが疲れた頭でも容易にわかった。

ん?

課長の視線が鋭くこちらに放たれていた。暴力的な、攻撃のための視線であった。敢えて謙輔は気付かないふりをする。それでもなお攻撃は止む気配がない。謙輔は逃げるように山碕兄弟の資料のファイルを開いた。

剛ちゃんのことはよく知ってる。知らないのは柊平君のこと。どこまで掘り進めればいいだろう。彼ら兄弟が親を亡くしたあたりまで戻らなければならないのか。確か交通事故で亡くなったんだよな。剛ちゃんに聞いたことがある。事故なら記録には残っていないか。いや、新聞記事なら。後で確認するか。その後は二人別々の親戚に引き取られたんだっけ。そっちの方に聞きにいってみるか。えっと、剛ちゃんは母方の叔母夫婦に、柊平君は…。わからないや。資料に載ってるかな。そこまでは載っていないか。剛ちゃんに来てみるか。

謙輔はコートのポケットをまさぐり携帯電話を開いた。電話帳の機能で目当ての名前を探す。

あ、か、さ、た、な、は、ま、や…、ま、あった。

通話のボタンを押す。すぐに呼び出し音が鳴り始めた。


         [5]


 入口の扉が昼間より重量が増している、そんな錯覚に襲われた。靴を適当に脱ぎ捨て、のっそりと中に入っていく。まだ五時過ぎだというのに部屋の中は薄暗く外と変わらないほど寒かった。気温がというのももちろんだが、それ以上に雰囲気が寒く感じられた。まるで知らない空間に首を突っ込んでいるような、自分がここに居てはいけないような気持ちにさせる。自分の中のどこかを集中的に攻撃してくる。

 部屋の電灯を点けた。暗闇が瞬時に弾ける。剛は今日の講義を終えて、たった今帰宅したのだった。とはいうものの講義をきちんと聞いていたわけではなく、例の如くそれを子守唄に変えて寝息を立てていたのだ。一度注意され飛び起きたが、無意味なことでまた夢の世界に落ちていく。教授も呆れてそれ以上起こそうとはしなかった。

 ドスンとベットに倒れこみ横向きになった部屋を眺めた。その間にそのままの体勢で器用に靴下を脱ぎ去り、エアコンのリモコンを足元から手繰り寄せた。無論手は使っていないのだが。

 運転のボタンを押すとエアコンが不自然な音を立てる。やれやれと重い腰を上げているのがそれだけで分かる。ゆっくりと下の蓋が開き、少し時間を開けて綿菓子のような暖気が舞い降りてきた。狭い部屋なのですぐに空気が染まっていく。

 リモコンを枕元に置き、うつ伏せから仰向けに方向を変えた。低い天井に思考が映像を張り付けていく。

 俺はあいつが嫌いだ。無神経な態度を神経質にこなすところが。初めて会った時もそうだった。あの時もあいつはそんな素振りを見せた。自然に、自然に。それが不自然に見えることを知ってて。あれは高校生の時だったな。

 そんなことを考えていると不意にポケットに入れたままになっていた携帯電話が震えた。片手で開き着信の相手を確認する。―山本謙輔―そう表示されていた。

「もしもし」

《あっ、剛ちゃん?今、大丈夫?》

 その質問に対して肯定の返事と無意味なジェスチャーを返した。

《事件を調べてて、ちょっと聞きたいことがあって。剛ちゃんは確かお母さんのお姉さん夫婦に引き取られたんだよね?》

 そや、と短く答える。どうやら俺らのことを調べているらしい。

《柊平君は?》

「あいつは妹夫婦に引き取られたんや」

《今はどこに住んでるの?》

「姉夫婦も妹夫婦も、もう死んでんで。だいぶ前に」

少し声のトーンを落としていった。

《そ、そうなんだ…》

 向こうの声も急激に沈下した。こちらのことを考えてくれたのだろう。見えない心遣いが目の前に届いた。

「妹夫婦はバラバラにされて粉砕機に、姉夫婦は」

《いいよ、それはこっちで調べる。ごめんね、そんなこと聞いて。どうもありがとう》

 ここで通話は途切れた。携帯電話を閉じ、それを枕元に置いた。そこには充電器、携帯ゲーム機、コンタクトレンズのケース、そしてクシャクシャに丸められたティッシュペーパーが置かれていた。

 一呼吸置き、スクリと起き上がる。そして昨日着た洋服がかかった黒いケースに近づいた。乗っかっているものをベッドに投げてケースを持ち上げた。

 久しぶりに吹くか。最近全然吹いてないからな。

 それには高校時代、部活で使用していた楽器が入っていた。剛が吹いていたのはトロンボーンだ。なんといってもスライドの長さで音を自由自在に変化させる姿がカッコイイ。それに憧れてこの楽器を選んだといっても過言ではなかった。

 ケースを横にし、金具を外し、ゆっくりと開く。中にはかつての兄弟が収められていた。そっと手を伸ばす。隅に収められているシルバーのマウスピースを軽く吹いてみた。中で唇が震える感触が何とも心地よい。余韻に浸りながら全体を見渡した。

 サーという軽い雨の音が聞こえてきた。大学帰りに見た空がオレンジ色から徐々に濃いグレーの雲に変わってきていたので心配はしていたが。ついに降ってきたようだ。洗濯をして出かけた人にとっては、そして帰り道に出くわした人には厄介な雨だろう。

 楽器を一通り眺め、スライドを取り出し、丁寧に調整をした。ここが一番大事だ。普段の彼からは想像もつかない集中と丁寧さで作業をした。そしてベルを取り付けた。

 よし。組み終わった楽器を持ち上げて上部にあるチューニング管の迷路を肩に預ける。

唇に意識を集中させ、空気をそこから吹き込んだ。出そうと思っていたBの音より数段低いFの音が間抜けにベルから零れ落ちた。


         *

 女性に小さな客間へ通された剛と母は用意されていた座布団に足を折った。

なぜここに来たのか、ここが誰の家なのかを剛は知らされていなかった。というより教えてはもらえなかった。昨日の夜、今朝の食卓、ここへ向かう新幹線の中。幾度となく尋ねたが、結局その口が開かれることはなかった。その代わりに母はどこか寂しげで儚く、ここにはないものを見ていた。レースのような綿雲をかけた青空を背景に。

そして連れられるがままにここまでやってきた。 E駅から電車に乗り、O駅で降りた。そこから徒歩で数十分歩いたところにある家だった。近くに神社が見える。朱色を帯びた橋と臙脂色の門が堂々と聳えていた。母に問うと、あれは○○神社よ、と教えてくれた。なんでも須佐之男命を祀っているそうだ。スサノオノミコト。聞いたことはあるが何の神様だったかが思い出せなかった。しかし、剛は見栄を張り、うんうん、なるほど、といかにも知っているふうに装った。

ここまでのことを思い返していると、すっと襖が開き、この部屋へ案内してくれた女性と一人の少年が入ってきた。女性と少年はいかにもお金持ちの家ですというような服装と態度で身をくるんでいる。お世辞にもそんな家ではないこちらに見せつけるかのように。

「剛、あの子は山碕柊平君」

 母が相手の方に手をかざしてこちらを見た。ふと見ると向こうの少年は眉間に皺をよせて居心地悪そうな表情をした。母の言葉に疑問を持ったような。

 続いて向こう女性が口を開く。おそらく彼の母親であろう。

「柊平さん、あちらの方は山碕剛さんとおっしゃいますの。その隣は私の姉ですわ」

 不可思議な表情に蓋を被せて、彼が一礼した。深々と、何もかもが行き届いた行為だった。

 ん?山碕?俺の名前は…。

「おかん。うちの名字って高橋やろ?山碕って?」

 俺は今日まで高橋剛だった。小学生の時も中学生の時も先程までも。しかし、母が紹介した自分は聞き覚えのない苗字をしていた。

「お母様、僕の苗字も山碕ではないはずですか。叔母さまは今、確かに」

「ええ、山碕ゆうたわ」

 彼の言葉を母が引き継いだ。そして再び口を開く。

「今日はそのことで二人に大事な話があります。実はな、あんたたちの本当の家族は私たちでも」

「私たちでもないの」

 テンポよく向こうの女性が続けた。母はおもむろに一枚の白黒写真を取り出した。

「あなたたちの両親は幼い時に交通事故で亡くなってん。で、本当の母親は私たち三姉妹の次女、香澄や。この三人並んでいる一番左が私。その横が柊平君の隣にいてる彼女、朔羅。で、右端があなたたちのお母さん、香澄」

 そのセピア色に写されている三人の女性を母は順番に指差した。時代を感じる風景がそこには広がっていた。今こんな世界が自分の目の前に広がっていたら、たとえそこが地獄でも躊躇わずそこへ向かうだろう。ふとそう思った。

「今日はちょうど香澄が亡くなった日。十五年前のことですわ」

 朔羅という女性が話しだした。十五年前に交通事故で父と母は亡くなってしまったこと。身寄りのない彼らを母の姉妹である彼女らが自分達を別々に引き取り面倒を見ようと決めたこと。そして、今日すべてを俺たちに打ち明けることを相談していたこと。

 二、三時間があっという間だった。語られる話はまるで物語のようで、すらすら自分の中に入ってきた。なんとなく他人事のように感じた。いや、そう感じることに集中していた。少しでもそれが途切れたら自分はどうなってしまうか知っている。

「そういうわけですの」

 二人の女性の物語の朗読は終わった。向こうの少年、柊平だっけ。そいつはぽっかりしていた。体の中心を抉り抜かれ、そこに何か別のものが埋め込まれていたのに今気がついた、そんなふうがこちらから見てとれた。

「ちょっと、お茶の準備をしてきますから」

 向こうの女性が立ち上がる。私も、と隣の女性もわざとらしく立ち上がった。この空間に二人になった。

 空気の澱んだ部屋は何というか気持ちが悪かった。透明な蛞蝓のようなものが空気中にごまんと存在していた。這いずり回ったり、転がってみたり、体を合わせてみたり。体の粘液をまき散らしながら踊り狂っている。そんな空気が空間を支配していた。

 柊平がさっとこちらを見た。

「何かまいっちゃうよね。こんな話突然されて。知ってた?自分の親のこと?」

「知らんかった。というか、知りたくなかった。このまま、あの人をおかんやと思ってたかった。家でふんぞり返っている男性をおとんやと思ってたかった。父の日と母の日をあの人達を思い浮かべて礼を言いたかった。誕生日を、記念日を、クリスマスを、正月を今まで通り普通に、自然に、いつも通りに祝ってたかった」

 胸の中の壊れたパーツを急いで入れ替えるように、早口で、しかし、しっかりと目の前の家族に伝えた。そしてすぐに視線を下の畳に落とした。次々と流れ出る言葉に向こうも圧倒の色を見せたが、それよりもそんな自分に剛は驚いていた。だから他人ごとのように話を聞いていたのだろう。自然に自己防衛が働いていたのだろう。

そう言えば、こんな話を聞いたことがある。ある日母親が先生に相談を持ちかける。自分の子どもが急に幼くなった、と。ままごとを一緒にしようといってきたり、夜怖いから一緒に寝させてといってきたり。母親は自分の子がおかしくなってしまったのかと思ったそうだ。しかし、そうではない。あなたの子どもさんはおかしくなったのではない。日々のストレスから身を守ろうしているのですよ。先生はそう言ったという。幼いころは母親が守ってくれる、という経験と本能が子どもには備わっているため、現実から幼い自分へ逃避したのだ。そう語ったという。

人間には誰しもストレスや精神的に問題を抱えている。それらから本能で守ろうとするのだ。自分を。その話が今の自分に重なったのを畳の升目を数えながら感じた。

「そうだよね。僕もそうだ」

 粘液の海をかき分けてその声がこちらまでようやく飛んできた。その言葉にそしてこのときの柊平の目に何かを感じた。同情のようで、悲しみのような。悲しみのようで、怒りのような。氷のようで、焔のような。凍てつくようで、焼き尽くすような。感じたことのないような感覚。自分の世界には何となく無縁な感情だ。そう思うことにした。

 やがて再び襖が開かれ、二人の女性が入ってきた。片方はお茶をお盆に乗せて、もう片方は茶菓子をお盆に乗せて。その二つのお盆のうち、一つは小刻みに揺れていた。細波が湯飲みの中に生まれ、そこには見たことのない少年が二人写りこんでいた。

         *


         [6]


 翌日、武内が刑事課に入るとデスクに上半身を横たえるコート姿の男が目に入った。それが謙輔であることはすぐにわかったが、理由がわからなかった。徹夜したのか、彼の周りは事件の現場さながらの散らかりぶりをみせていた。デスク中に広げられた資料、それに関するものなのかはわからないが幾つかのメモ、事件のファイル、そしていつ入れたかもわからない、ひんやりしたホットコーヒーが置かれていた。

 やれやれ。それだけ必死なんだな。外された眼鏡から覗く寝顔にしばし見とれた。可愛らしい寝顔だ。こちらまでそちらへ吸い込まれそうな純粋さが溢れていた。

「おはようございます」

 他の同僚が入ってきた。

「お、おはよう」

 武内は謙輔から視線を彼女の方へ移して慌てて挨拶を返した。そして、謙輔の肩に手を置いた。

「おい、山本。起きろ。朝だぞ」

「ん~、ん?た、た、武内さん。おおお、おはようございます。今日もいいお天気ですね」

 飛び起きた謙輔は焦り一色で窓の外をバッと見た。

 雨だ。静かに武内は言った。昨日の夕方から雲が湧き始め、夜には真っ暗だった。月や星の光は完全に遮断されていた。そして朝起きると、これだった。昨日見た琥珀色の空が急に懐かしくなる。重圧を醸し出す濃い灰色をした雨雲から落ちる雨は、土砂降りとまではいかないものの、止む気配はなくサラサラと地面と人を意味もなく濡らしていた。

「寝ぼけてるのか?」

「すみません。遅くまで調べ物をしていまして。時間があれだったもので、その、もうそのままここで寝てたみたいです。帰るつもりだったんですけど、なんか、あれで」

 あれ。これ。ここ。頭が回っていないのだろう。説明の語彙が乏しく、うまく日本語にもなっていない。そんな彼を初めて見た。そんな一面もあるのか。軽く火照りを感じた。

「どうしたんですか?」

「な、なんでもない。それより顔でも洗って来い。まともな話も出来やしない」

 わざと腕と組み、椅子に思いっきり体重をかけた。

 はい、と寝癖頭を掻きながら謙輔は部屋を出て行った。

 はあ。朝から気が重たい。しかし、いいもんだな。あそこまで必死で守ろうとする大切なものがあるというのは。

 武内は右の胸ポケットから警察手帳を取りだし、そこから一枚の写真を抜き出した。両手でそれを包み、視線を緩めた。それは暖かく、柔らかい慈しみの眼差しだった。


「先程はすみませんでした。どうぞ」

 寝癖をすっかり直し、シャツを肘まで捲った謙輔は武内の前に立った。両手には湯気が漂うコーヒーが握られていた。その片方を前に差し出した。

「その写真は?」

 持っている写真に目を落とす。

「ああ、これか?ありがとう。これは私の子だ。アユミという。歩くという一文字で歩だ」

「可愛いいですね。えっ、武内さん、お子さんがいらっしゃったんですか?ということはご結婚も?」

「何か問題が?」

 ひらりとこちらに向けられた目に先程まで雰囲気はなかった。キンという冷たい視線が送られてくる。

「いえ、そんな。ただ、そういう話をお聞きした事がなかったのでビックリしただけです。あれっ。でも武内さん一人暮らしだって前に言ってませんでしたっけ?」

「ああ。別れたんだ。この子が小さかった頃に、な」

 鋭さを秘めていた目は次に悲哀の色に変わった。まずいこと聞いちゃったな。

「すみません、変なこと聞いちゃって。それで、お子さんは今、」

 武内が遮る。

「死んだんだ」

 武内が下に顔を落とした。霞むような声だったのに周りの音よりもはっきりと聞こえた。そう、確かに〝死んだ〟と。謙輔はとたんに次の言葉を失った。何を言えばいいのか、何を言えば普通か、必死に思索したがこれといって何も浮かんでこない。それを読まれたかのように、武内が先を続ける。

「別れたときはまだ幼稚園だった。その後は仕事が忙しいながらも時間を作って、月に三回程度会っていた。けれど、それは突然だった。次に会う予定を決めるために主人に電話をかけたが、なかなか繋がらない。仕事が忙しいのだろうと思った。だが、違った」

 いつの間にか彼女の瞳の中に涙が生まれていた。静かにゆっくりと透明な波が引いたり、満ちたり。じっと見て不謹慎ながらも美しいと思った。いつもの武内からは全く想像させられない姿だからだったのか、それはよくわからない。しかし、目の前にいるのは間違いなく刑事としての武内ではなく、歩の母親としての蓮という女性だった。体の中心が、不思議だが安堵する暖かさに満ちていく。おそらくこのときの表情はかなり緩んでいたのであろう。

「気持ち悪いな、お前がそういう顔を見せるとは」

 すぐに指摘を受けた。謙輔はパリッといつもの自分に戻る。武内は顔を上げた。頬に三本の道ができている。少し節くれた指がそれを掻き消す。

「私が夫からの電話をとったのはそのすぐ後だった。向こう側が妙に騒々しくて。その日は雲ひとつない星空がまるで宝石箱みたいにきらきら輝いてたっけ。歩は死んだ。その日の朝は普段通りに家を出た。けれど帰ってくると家に灯りが灯っていない。不審に思いつつ家の中を捜すと、歩は死んでいた。風呂場で体のいたる所を切り刻んでいたそうだ。見つかったときにはかなりの時間がたっていて、飛び散った血が床や壁ですっかり固まっていたらしい。すぐに救急車で病院に運ばれたが、さっきも言ったように時間がかなりたっていたから…。電話を受けすぐに病院に向かった、一週間ぶりの我が子は、人とは思えない姿だった。冷たく、目も開けず、息もせず。ただ、そこに、歩の体はあった。死体は見慣れているはずなのにな。大事なものが枯れ果てると人間はそれが別のものに見えてくるみたいだ。な、泣きつくと、余計に、冷たさがこちらに染みてきて。こみあげてくるのはなんだかよくわからない感情だった。悲しみか、怒りか、疑問か、やるせなさか、喪失感か」

 ポケットからハンカチを取り出して、彼女は湧き出してくる熱い涙を拭く。ハンカチに吸収されて、紺色のハンカチは徐々に濃い別の色に変わっていった。謙輔は複雑な想いでその光景を見ていた。そんな過去があったなんて、自分はそれを掘り起こしてしまった。悲しみよりも罪悪感が犇いていた。

「遺書は見つからなかった。だからなぜかというのはわかっていない。というよりわからなかった。結局それは自殺と断定された。死んだのは確か十二月だったな。空が澄んでいるから星がそんなに綺麗に見えたんだと考えたのを覚えている」

 ハンカチに再び目を埋めた。謙輔は彼女から空へ視線を移した。相変わらず雨は降り続けている。外の風景は武内と同じなのに、どことなく違う気がした。小説や漫画には情景描写というものがある。これが何かの物語だとしても、これは決してそれではないと思った。何かが、何かが違うのだ。そう思わされるのだ。

「悪いな、湿っぽい話をして」

 いいえ、と謙輔は返した。

 しばらく二人は沈黙した。短いものだったが、長く、長く感じた。謙輔は頭を螺旋階段のように回る武内の話を見返していた。

― 事件なんて次々出てきて忘れられていくんだぞ ―

 いつかの武内の声が聞こえてきた。そう。事件は毎日起きて、世間では過去のものはどんどんそれらに塗り潰されていく。歩ちゃんの事件のように。人間はどうしてこんなにも他人には無関心なのだろう。自分の番にならなければわからないのだろう。社会はどうしてこんなに個人に対して無関心なのだろう。そしてどちらも利益という餌がなければ働かないのだろう。こみあげてくる何かに突然押し潰されそうになる。

「こんな話をしている場合じゃない。おい、山本」

 空から目を移すといつもの武内がいた。目のまわりを赤く残して、毅然とこちらを見ていた。


         [7]


 先程手渡されたコーヒーをわざと音を立てて啜る。湯気が出るほど熱々だったのに、今では入れ直す前の謙輔のコーヒーとさほど変わりはない。

 ハンカチをしまい、謙輔の方を向く。今の話が重たすぎたのであろう。すっかり表情に輝きがなくなっていた。こっちから切り出すか。デスクに両肘をつき、両手を組んだ。

「ところでどうだ?徹夜の成果は。申し訳ないが、こちらはまだ話ができるほど色々集まってないぞ。何しろ昨日の今日だからな」

 できるだけ柔らかく見つめながら、慎重に言葉を選んでいく。

「まあそうですね。といってもこっちもまだまだ何にもわかっていませんよ。山碕家のご両親が亡くなった事故の記事とその後どこに引き取られたかというのははっきりしましたが、それ以外はまだです。というよりどうしようかと思っていたんです」

 なんだかいつもの感じを取り戻したようだ。眼鏡の奥に火が灯っているのが分かる。

「もう少し時間をかけないとな。とりあえずわかったところでいいから教えてくれるか」

 わかりました、と広げられた資料とメモを探りながら口を開いた。

「ほんとにまだ何にもわかっていないんですが、ご両親の事故は確認しました。これです」

 そういわれて取り出されたのは一枚の新聞記事のコピーだった。そこには小さくではあったが、事故の記事が載せられていた。

「名前は山碕浩平、山碕香澄。居眠り運転のトラックが突っ込み、即死か。しかし、息子のことは一切書かれていないな」

「ちょうど近所の家に預けられていたそうです」

 なるほど。それで事故とは何の関係もないわけか。納得だ。運がいいんだか、悪いんだか。口には出さなかった。

「それで、事故の後に剛は母親の姉夫婦に、同様に柊平君も妹夫婦に引き取られたそうです。まだ幼かったので、当時本人たちには知らされてはいなかったようですが」

「そんなことまで」

 どうやって調べたのか皆目見当がつかない。資料にそんな私的なことまで載っていたか。

「過去に聞いた話を覚えていただけですよ。それと引き取られた概要については本人に聞きました」

「そういうことか。それで?」

 先を促す。

「いや、困ったことにですね、その姉夫婦と妹夫婦、それに彼らの親戚はもう亡くなっているんですよ。いろいろ話を聞きに行こうと思っていたんですが。調べたところ間違いないようです」

 と、謙輔は別の記事のコピーをこちらに差し出した。こちらも小さい枠を探すがなかなか見つからない。上ですよ。そう言われ、上にある大幅なスペースを使っている記事を見た。出だしを見て視界が弾けた。

「い、一家心中!?」

 理性を完全に無視し、勢いよく言葉が唾液と一緒に飛んだ。視線がこちらに向くのが見なくても分かる。感じるのだ。

「声が大きいですよ。ただでさえ昨日から滝澤部長に睨まれているのに」

 もちろん滝澤もこちらを見ていた。気がついたが叱声がこちらに向けられる前に視線をこちらに戻し記事を見た。

「犯人である永倉勉は妻と二人の息子を務めていた工場内にある粉砕機で粉々にし、自らも飛び込んだ、か。強烈だな」

「ちなみに息子さんは双子だったようです。一卵性の。永倉リント君とエイ君」

 謙輔のメモには『双子→永倉燐人、永倉影』と書かれていた。一枚の写真が手渡された。

「中央の子が燐人君です。近所の方にお借りしてきました。心中した時に永倉勉は家族の写真をすべて焼いてしまったようで影君の写真はありませんが。影君は小さい頃とても病弱でなかなか学校に顔出さなかったそうです。友達もいなかったようで。しかし、双子なので同じ顔だとは思います」

 写真で微笑む燐人は一緒に写っている子どもを陰らせているように映っていた。眩しすぎるのだ。群を抜いて明るさが際立っていた。

「でこちらが姉夫婦です」

先程のコピーは二枚重ねで、下から別の記事が出てきた。

「こっちは殺人か。一家全員か。しかし、またあの二人のことは載っていないな」

「そのころには二人とも家を出て一人暮らしをしていたそうです」

 二つの記事に記された過去を目の前にして不思議な感覚が横切った。

「十二月?なあ、これ時期はちょうど同じ時期だよな。なんか変じゃないか?」

「やっぱりそう思います?だからまいったなと思って。はじめはこんなことになるとは思っていなかったんですが、掘り進めて見ると…でして。それで色々考えていたら、徹夜しちゃったんです」

「偶然にしちゃあなあ。出来過ぎな気がするな。姉夫婦には子どもがいなかったんだな」

「ええ、妻の凛は不妊症だったようです」

 それでか。どこかがチクリと刺されたような痛みを覚えた。ならば山碕剛は本当の子ども以上に、というのは少し失礼かもしれないが、大事に育てられたのだろう。そして、親も相当な苦労があっただろうなとその姿を想像した。どこかで見た映像とぶれて重なった。合わせ鏡の鏡像のように曖昧なものではあったが。

「とりあえず今はそんなところです。けれど想像を膨らますにしても、推理するにしても情報が」

「足りんな」

 続きを汲んだ。確かにこれでは何にも見えてこないどころか、違う事件を追っているようである。テレビドラマの主人公に感服する。よくあんな難解で複雑な謎を次々解いていけるなあ、と。

「ところで武内さんの方はどうです?今持ってる情報でいいんで教えて下さい」


 謙輔は内心ホッとしていた。あんなことを聞いたのだから、武内は自分のことをよくは思っていないだろう。けれど、会話をする限りそんなふうは見えなかった。罪悪感が安堵と絶妙に中和していった。よかった。

 謙輔は持っていた資料とメモを端に置き、武内の情報を待った。

「遠藤翔吾についてだな。さっきも言ったがそんなに進んでないぞ。ええと、年齢は二十歳。帝星大学に通う大学生。出身はここ埼玉県。埼玉北小学校、及び埼玉北中学校を卒業。高校は海生高校だそうだ」

 あれっ?

「埼玉北中学ですか?」

「ああ。それがどうしたんだ」

「いえ、たいしたことではないんですが。剛も同じ中学なので」

 いや。そうは言ったもののそうは思っていなかった。真っ白い紙の上の細かいゴミクズのようにどうでもよいことなのだが、気になった。これは偶然ではないとそんな気がしてしまう。

「今はそんなところだな」

 武内の色が不自然に陰る。今の自分もあのような顔をしているのだろう。何かが気になるようなそんな顔だった。気になる?何が?

 考えるより先に言葉は出ていた。何か気になることがあるんですか、と。

「ああ、いや、その…。歩が通っていたのが、…埼玉北小学校だったんで少し気になったんだ」

 その刹那、


ゴガアアアアアアアアアアアアアアア グギャアアアアアアアアアアアア

グオオオオオオオオオオオオオオオオ ドグオオオオオオオオオオオオオ

 

人ではない、声ではない、人知を超えた凄まじい塊が下の方から這い出てきた。

 

        ― ― ―


 相変わらずの風景に感情は死にかけていた。ついに先程からコンクリートの壁と鉄格子が会話を始めた。奴らは僕を誘っている。看守の人にも言ったけれど、信じてくれる様子はない。小馬鹿にしたように見下していた。なんて冷たい目なのだろうと思った。

 だから、食事も取らずにじっとしている。動いたら、また話しかけられそうでとても恐い。動くことは負けを意味する。彼らに引きずり込まれることへの同意となってしまう。それは嫌だ。そう考えていた。

助けてお兄ちゃん。こんな僕を助けて。ダメで、どうしようもなくて、弱くて、みすぼらしくて、迷惑ばかりかけているけど、それでも生きていたい。自由に生きていたい。そうなれる筈だったのに。お兄ちゃん、お願い。もう悪いこともしません。だから許して。僕を開放して。自由にして。これ以上苦しめないで。

僕は翔吾を殺してない。翔吾は自殺してもいない。殺されたんだ。仕組まれていたんだ。ずっと昔から。たぶん僕が生まれるずっと前から。あいつは悪魔と契約していたに違いない。僕はそれに巻き込まれたんだ。そして僕の家族も。もちろんお兄ちゃんも。

うな垂れていた頭をからくり人形のように持ち上げる。首もとで木片の噛み合う音が聞こえた。からくり人形は格子の外に視点を合わせる。相変わらず壁と格子は会話を続けている。薄暗く、湿気を帯びた空気は同じなのにこちらには重力が倍かかっているように思えた。

 視線に気が付き、彼らがこちらを向いた。それと同時に感情が脆い音とともに炸裂した。無我夢中で助けを求めた。そういう生き物であるかのように身体をくねらせて、叫んだ。言葉でも声でもない。ただの音だった。それが狭い留置所の空間いっぱいに飛び爆ぜた。

 助けて。許して。お兄ちゃん。お兄ちゃん。

 爪がコンクリート喰い込んだ。いや、そう思ったが、正確には刺さりきらず爪の方が指から剥がれ落ちた。

 得体のしれない絶叫に気が付き警官が顔を青くして飛んできた。それに連なりどこかから足音が近づく。この声は上まで聞こえたのだろう。

 目の前に人がいることに気がつかず吐き出されるがままに声を発し続けた。が、電源が落ちたようにそれはプッツリと途絶えた。一瞬の出来事だった。全ての人にとって。

 武内と謙輔が駆け付けたのはすぐ後だった。



         《5》


 夕食を目の前にしてミルファクと今日初めて会話をした。というのも、濠が起きると、ミルファクは花や花壇に使う肥料を見に出かけており、一日留守だったので顔を合わさなかったのである。濠は一日暇で、ミルファクの小説を読み耽っていた。自分の小説はつい最近読み終わってしまったのだ。読み始めると面白く、気がつくと時間も忘れて貪り読んでいた。『安部公房全集』だったかな。「棒」という話は面白いな。どこかで読んだ気がするが。確か授業で取り扱ったんだっけ。教科書に載っていた気がする。昔はチンプンカンプンだったのに、今は何か深く、今の日本を見ているような気にさえなってくる。もちろん生前のだ。結局夕食前まで本を離さなかった。

「悪いな、肥料やらが切れかかっていたもんだから。起こそうかとも思ったんだが、あんまり気持ちよさそうに寝てたから」

 鼻を擦りながら謝罪してきた。もちろんいつものように子どもっぽい笑みを浮かべながら。

「いいよ、別に」

「濠。その、なんだ。今日は、その、あの夢は」

「見なかったよ」

 しどろもどろの彼を見かねてサラッと答えた。彼なりに気を遣っているのは分かるが、いつもと違うとやりにくいし、何より気持ち悪い。この言葉を待っていたかのように、彼の両眉はグイッと天井に引き付けられた。

「そうか、よかったな。また魘されたりしてたらどうしようかと思ってな。ずっと心配してたんだ」

 眉は上がったままだが、瞳は真剣さを盛大にアピールしていた。本当に心配してくれていたのだろう。なんだか、なんだろう?無性に。

「アハハハ」

「おい、どうしたんだ?何もおかしくないだろう?人が真剣に心配してやっていたってのに。全く失礼なやつだな」

 止められなかった。こいつはいつもこんな感じなのか。いつもと立場が逆転して妙な感じだったが、不快ではなかった。特に目の前のミルファクが困った顔をしてこちらを見てくるのがたまらなく可笑しい。

「チッ、紅茶淹れてくる」

 居心地が悪くなったのか、立ち上がりキッチンの方へ向かって行った。

 なんか普通に戻った感じだな。昨日までのことを考えると、もうこんなふうに話せないと思っていたけど。よかった。

暖かい色が体を内側から飲み込んでいく。昨日見た、花壇に植えてあった花と一緒の色だ。今日は彼が一日いなかったため、飾られているのは昨日の花のままだ。オレンジ色が恐ろしいほど眩い。いつしか笑いのツボから脱出していた。

「なあ、ミル」

―どうした?

「この花、何て名前?」

―この花?

 渋面を引っ提げて帰ってきた。トレーにはカップとポット、そしてミルクの入った小瓶と砂糖の入った小瓶が並んでいた。透けそうなほど白いティーセットに寒気がするほど芳しい、妖しい香りを絡ませている。

「ああ、これか。スマン、今日は変えられなくて。これはマリー・ゴールドだ。マリーっていうのは聖母マリアからきているらしいぜ」

 マリー・ゴールド、か。名前負けしてないな、素人ながらそう思った。ふんわりと柔らかく、負の感情を洗い流してくれそうな外観。まさに聖母だ。急に目の前の花が光を増したような気がした。

「なんかよくわかんないけど、納得。花言葉とかってあるの?」

「ああ、確か。何だったかな」

 おもむろに立ち上がり本棚の前に立った。

「ええっと。おい、読んだらちゃんと返しとけよ」

 ソファに投げ出された本を棚に戻す。

「これだ」

 檸檬色の冊子の隣に手を伸ばした。『花言葉辞典』、なんだそりゃ。背表紙のタイトルを見てそう思った。ストレートにもほどがある。

「マリー・ゴールドはっと、あった。おっ、カッコいいな」

「なんだよ」

「なんだと思う?」

 始まった。意地悪さを剥き出しにしてこちらを見つめてくる。

「いいから、教えてよ」

「マリー・ゴールドの花言葉は〝勇者〟だ」

 おおっ。目の前の花の印象がまた変わった。先程までの包容力は微塵も感じさせない。そこには勇敢さと粋さが滲みだしていた。キリリと引き締まった面構えに見えてくる。聖母は戦いを覚えて勇ましくなった。

「こういう楽しみ方もあるな、花には」

「じゃあ昨日ミルが植えてた花は?」

「あれはジニアだ。ジニア・リネアリス」

 マリー・ゴールドと違って何とも複雑な名前である。なんの印象も受けない。ただ並んでいるだけ。もっと分かり合える名前だと思っていたのに。突然興味が失せた。

「これはな」

「いいよ、もう」

 ポットの紅茶を自分のカップに注いだ。マリー・ゴールドのようなオレンジ色がカップ染めていく。それをミルクで程よく汚す。あっという間にミルクが馴染んでいった。

 ミルファクは窓辺に近づき窓を開けた。カチャ、キュキュ。なんとも耳障りな音だが嫌いではなかった。今日は無風のようだ。カーテンが礼儀正しく垂れている。

 カップを持ったまま窓辺に近づき、一口啜った。聞いてみようか。誰も答えてくれないと捨てていたけど。

「なあ」

 ミルファクがこっちに近づいてきて、どうした?と尋ねる。

「ここの空ってさ、どうして朝も昼も夜も、ずっと真っ暗なんだ?」


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