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観測 ~プロローグ~  ・  1、生を飾る夜空/死を育む青空

         観測(プロローグ)


 地上は夜という概念を全く無視する。暗く静かで、呼吸を必要とする者たちが安らぎを求めて夢を見る。そんな夜は珍しくなった。外を見てみればわかる。街灯やネオンで無理やりに眩く改造された街々が当たり前になった。街はとても迷惑そうだ。

 人間はモノを作り変える能力に関しては天下逸品だ。ここ何年かでまた各段にこのチカラが増大してきたのではないだろうか。まさに生きた、成長するワガママだ。

けれど空は世界が生まれた時から何も変わらない。人間も自分の限界を知っているから、さすがに空についてどうこうしようとは思わないのだろう。今の段階では。

 時計の短針は十を指していた。霞がかった、しかし、どこまでも透きとおった青黒い夜空を見上げながら、彼は窓辺に頬杖をつき座っていた。片腕には黒い大きなケースが抱えられている。部屋には明かりが灯っておらず、月が彼に向けて道を作っていた。空を見つめる彼の目は少年とは思えないほど真っ直ぐ、そして冷たく、空以外のなにかを捉えていた。そこに明るいものは存在しておらず、ただただ闇が広がっていた。

 夜空は儚い星たちを捕まえて、地上を見て嘆いている。不思議がっている。ねぇ、夜はどこに行ったの?ってね。

 彼は空の星を改めて眺めた。その星々は美しく妖しく、そして残酷に彼の目には今映っていた―。


 もう十一月か。早いもんだな、もう一年が終わりそうだ。

 今日は一段と綺麗だな。昨日も一昨日もその前も、ずうっとそこから逃げ出そうとモガいていたのに、今日はそれをやめて共に歌っているみたいだ。諦めたのかい?それとも仲良くなったのかい?まぁどちらにしても綺麗であるなら俺とは違う。もう親友という称号は剥奪だな。残念、少しだけ悲しいよ。でもちょっぴり羨ましいと思う自分に腹が立つ。こんなのおかしいかな?やっぱりおかしいよな…。

 …。

 おい、だからってそんな笑うなよ。いつもそうだな。嫌いだ、お前らなんて。もうどっか行っちまえよ。

 …。

 えっ?全然変わらないなって?何が?笑ってないで言えよ。気になるだろ?

 …。

 あれっ、そうだっけ?もう十一回も言ったっけ。じゃあまた言うかもな。おいおい、ひょっとして呆れているのか?

 …。

 そう、それならいいけどさ。あぁそうだ、もう一つだけ聞いてくれるかい?

 …。

 まぁそう言うなって。親友じゃないか、俺ら。さっきのことは水に流すから。なっ?

 …。

 ん?そうなんだ、親には言えないんだ。というより、言ってもたぶん相手にしてくれないよ、あの人たち。

 …。

 そう言ってくれるのは君らだけだね。ありがとう。話ってのはね、あれをやっぱりやろうと思う。

 …。

 けどさ、もう駄目だ。仕方がないよ。だって誰も知らないんだから。俺以外。だから、俺が下さなきゃね。正義の鉄槌を。

 …。

 準備?あぁ大丈夫だよ。考えてから時間はたっぷりあったんだ。完璧さ。俺を誰だと思ってるんだ?

 …。

 うん、解ればよろしい。あのさ、今更ながらだけど…、うまくいくかな?

 …。

 いやいや別に心配なわけじゃないよ。ただ取り返しがつかないじゃん?

 …。

 またか、だから笑うなよ。ふん、どうせ俺は弱虫ですよーだ。

 …。

 本気で謝ってる?いつも言うよね、悪かったって。まぁ君らなら許すよ。

はぁ、それにしても今夜は長いな。なぁ、もっと歌ってみせてよ。そうだな、バラードがいいな。

 …。

 ん?だってお別れのときって大体しんみりした曲じゃん。


「ごはんよ。下りてきなさい」


「…」

 あんなこといって俺とは食べたくないだろうにね。

 …。

 そんなことあるよ。だって最近ごはんよって呼ばれていってみんなが食卓にいたことないし。別にいいけどね、もう慣れたし。だから行きたくないんだ。夜だけ会える君らといつまでも話していたいよ。本当に。なんで昼間は太陽に負けちゃうかな?いつも傍に居てくれたらどんなにありがたいか。君らが人間なら助けてくれるだろうに、救ってくれるだろうに。俺の世界をさ。

 …。

 いつやるかって?何を?ごめん、急に話が戻ったからわかんなくて。まだきちんとは決めてないけど。

 …。

 恐いこと言うなよ。誰も知らないさ。部屋にも入られてないし、相談は君らにしかしてないし。俺の知る限り、知り合いには心が読める奴なんていないしね。まぁ知ったところで、まず止められないさ。

 …。

 親?すぐに忘れるんじゃないかな?でもわかんないな。泣いてくれるのかな?会いに来てくれるかな?意外と悲しんでくれるのかな。意外と。


「ごはんよって言っているでしょ。聞こえないの?片付かないから早くして」


「はいはい」

 これ以上はめんどうくさいから行くね。

 …。

 うん。これがたぶん最期になるよ。急がないと殺されちゃうからね。それじゃだめだ。せっかくの準備が無駄になっちゃうよ。

 …。

 いや直接言われたわけじゃないよ。なんとなくね。けど何が起こるかわからないしさ、このご時世。

あぁそうだ、最後に一つ。君らには迷惑をかけたくないから俺のことは忘れて。でも時々でいいから思い出して欲しいな。どこまでも面倒くさくてゴメン。じゃあね。いろいろありがとう、さようなら。


 彼は少し涙を浮かべてもう一度彼らを見た。歌を止め、こちらを見下ろしていた。くしゅん、長い時間窓を開けていたため、すっかり体が冷えてしまったようだ。あとでもう一回風呂につかろう。黒いケースを傍らに置き少しだけ体を縮めながら、結露のできた窓を静かに閉じた。そのまま彼は重たい足取りを感じつつドアを開けた。


 階段の電灯に明かりが灯り、街の暗闇を少しだけ彩る。上から下に移動する一つの影が見える。階段を下りる音に合わせるかのごとく星たちは歌い始めた。なんだか切なくて悲しくて、だけど透明な歌を。それは他の誰の耳にも届かなかったが、彼には外まで漏れているであろうテレビの音量が気にならないくらい近くで確実に聞こえていた。


 彼は食卓に並ぶ自分の食事を冷めきった眼差しで見つめた。

「どうしたのよ、具合でも悪いの?」

 母が心配そうな顔で尋ねた。しかし、彼の目にはそれがどことなく怪訝そうに映った。

「なんでもないよ」

 彼は無理やりエガオを作り、椅子に座り箸を動かし始めた。

 そのエガオとは裏腹に彼の心は昨日よりも、先程よりも桁違いに生ぬるく、赤黒く瞬いていた。そのことに気づいたのは彼自身と彼らだけだった。


1、生を飾る夜空/死を育む青空


         《1》


「山崎さん。山崎濠さん」

 乾いた受付係の声がロビーに広がる。山崎濠はこの声を聞き、やっとか、と結末が気になる小説にしおりを差し込み、鞄にしまった。そして重い腰を持ち上げて受付へ向かう。

「はい」

「お待たせしました。それでは十分後に簡単な面接を始めますので、四十四番会議室の方へお進み下さい」

そう言いながら、彼女は目的地と関係ない方向へ左手を伸ばした。

「わかりました。あの、四十四番会議室へはどうやって行けばいいですか?」

 彼の質問に彼女は無表情を崩さず続けた。

「右手にありますエレベーターに乗り、四階でお降りいただきまして、つきあたりを左でございます」

「ありがとうございます」

 濠は簡単に礼を述べて言われたとおりにエレベーターに乗り、四階で降りて四十四番会議室へ向かった。

この建物には今日も合わせて四回訪れているが、温かみを全く感じない。事務的な受付の彼女らもそうだが、それ以上に混ざりものが目立つ濃いグレーの壁と陰気な空気がなんとも言えない息苦しさを漂わせている。

どうしてこんな風に作ったのだろう?濠はいつも誰か尋ねたくなるが、誰も知らないとわかっているため、すぐに勝手に捨ててしまう。その度に、この件がなければここに来るのは絶対にごめんだ。そう思わずにはいられないのだった。

「ここか」

 会議室に到着したようで濠は足を止めた。四十四番会議室。濠は腕時計に目をやり、まだ三分程あることに気が付いて近くのソファに腰を沈めた。これで四回目。そう思うと今回もこの申請が受け入れられないのではないかという考えが嫌でも頭をもよぎる。何が三度目の正直だ。誰でもない誰かに突然腹が立った。それとほぼ同時に、不安という波に飲み込まれる。気がつけば濠のシャツは雨に襲われたように体にまとわりついていた。

「山崎さん。山崎濠さん。お入りください」

 会議室内から乾いた女性がした。

「はい。失礼します」

 濠は静かに扉を開けて会議室に入った後、座るよう促された。十五畳くらいの広さに長机が一つと向かいに自分用のパイプ椅子が一つ、そして審査官が三人。今回は女性が二人、男性が一人という組み合わせだった。

いつもは男性が多いのに珍しいな。そう思いつつ椅子に座った。入るところから座るまでを観察されることに、濠は毎度のごとくウンザリしながら素直で誠実そうなそうな仮面を被った。

すぐに左端に座る眼鏡をかけた小柄な女性審査官が切れ長の目をこちらに向ける。

「それでは山崎濠さん、今回〝生まれ変わり〟の申請ということですが、間違いないでしょうか?」

 女性が事務的な質問を硬く聞いてくる。

「ええ」

濠は当たり前だろ、という言葉を呑み込んだ。

「書類のほうは先ほど拝見させていただきました。記録によると過去に三回〝生まれ変わり〟を申請なさっていますね?」

「ええ」

「申請はしなくても十年から二十年の間に生まれ変われますが、そうまでして今生まれたいのはなぜですか?」

 この質問にもウンザリした。毎回お馴染みの質問なので、録音されたもののように感じたからだ。もっとも彼の答も録音テープのようなものだが…。そう感じながら濠は頭の中の録音した台詞を再生した。

「それは関係性と体が欲しいからです。人から生まれて親と子の関係に、そして自分も生んで親と子の関係を作りたい。そして魂だけでは感じることができないことを体で感じたいからです」

「なるほど」

 その言葉が合図かのように一斉にペンを滑らせる。この姿がいつ見ても滑稽でわざとらしく思える。実は彼らは機械なのではないかという想像を掻き立てるほど、正確な動きだからだ。それが毎回繰り返される。

三人のペンが止まり、次に、

「続いて、生まれることができたら何がしたいですが?」

ともう一人の右端に座る大柄で無駄に健康そうな女性が言った。

やっぱりな。濠はまた頭の再生ボタンを押した。

「いろんなことが。魂ではできないことがしたいです。お恥ずかしいですが、一番興味があるのは男女間の関係についてです」

「なるほど」

 三人がまた一斉にペンを滑らせる。

これで終わりだろ?聞こえない声で彼らに問いかけつつ、頭の停止ボタンを押して退出を構えた。

しかし、最後にいかにも堅く、仕事一筋のような真ん中に座る痩せた男性審査官が大きな銀縁眼鏡を直しながら突然口を開く。

「それでは最後に、」

「えっ!?」

 思わず声が出てしまった。

どういうことだ?いつも質問は二つのはずだが。想定外の事に濠の手は小刻みに膝の上で踊っていた。

「どうしました?」

「いえ、何でもないです。すいません」

 必死に焦りを隠そうと、濠は無理に笑顔を作りながら答えた。

「最後の質問です。あなたの言った、生きている人々の関係性についての考えを述べてください」

「は、はい」

 完全に不意を突かれた濠の体はビクンと波打った。この後言葉が出てきたのは奇跡以外の何物でもない。

「わかりません」

 この状況に効果音をつけるとすれば、冷たい北風のような音であろう。奇跡は良い事とは限らない。濠はこんな最悪の場でそれを学んだ。そして初めて奇跡に後悔した。

「はい?」

 下を向いていた他の審査官の視線が彼に集中した。視線が凶器のように感じられた。それから逃れるため、何とか言葉をつなげなければと彼は脳を高速回転させた。寒ければ、いやこの時も頭から立ち上る湯気が見えたかもしれない。

「ですからわかりません。だから生まれて地上で感じて知りたいと思います」

 濠はそう言い終えて頭の回転が止まるのが分かった。

何とか言葉にできた、理解できる言葉に。それだけでもう金メダルものだとこの時は思った。

「わかりました。それでは少し外でお待ちください」

「はい、失礼します」

 濠は椅子から立ち上がり扉を開けた。

濠は入る前より重くなった腰を勢いよくソファに打ち据えて、汗が止まらない自分にやっと気がついた。シャツが今にも滴りそうなほど濡れていて気持ちが悪い。この建物の冷たさがありがたいと思ったのは最初で最後になるだろう。今更冷静な自分が少しおかしくて少し笑った。

 なんであんなこと言ってしまったんだろう?自分の言葉なのに他人の考えのような気がして、濠は少し怖くなった。またダメだろうな、と足早に残念会のことを考えていた。

「山崎さん。山崎濠さん」

 中から女性の乾いた声がした。小柄なほうの女性の声のようだった。

「はい」

「お入りください」

「失礼します」

 先程の予想外の事態で緊張が高まり、さらにドク、ドクという心臓の音がそれを更に煽る。

「申請書と先程の面接を踏まえた上で建議した結果、」

 やっと止まった汗が再びシャツを侵し始める。濠の心は期待と焦りで埋め尽くされていた。審査官が口を開く動作がスローモーションに見える。早く言ってくれ。濠の心臓は解放を求めて胸を叩き続けている。

「今回のこの生まれ変わり申請を承諾し、十五日後に転生させることに決定しました」

 …、ん?承諾?

濠は突然の事に呆然とし、審査官の前ということを忘れてつい仮面の下の間抜けな顔を曝してしまった。それに気がついた審査官が、

「今回の決定は…、どうかなさいましたか?」

と尋ねてきた。

「い、いえ」

 その声に濠はあわてて仮面をつけ直す。

「この決定は山崎さんの正式な申請によるものですので取り消すことはできません。よろしいですね?」

「はい」

 空返事とはこういう返事のことを言うのだろう。話を聞いているようで聞いてない彼がそこにはいた。

「それから転生前に生前の、つまりあなたが死ぬ前の名前、状況等を知ることができるという制度はご存じですか?」

「ええ、もちろん知っています」

 濠は大きく頭を縦に振った。

「そのことも頭に入れて考えておいてください。それでは以上で終了します、お疲れ様でした。退出なさって結構ですよ」

 そういって彼女は小さく微笑んだ。

「ありがとうございました」

 イマイチ気持ちのこもっていない礼を述べて、濠は浮足立ちながら部屋を出た。入る前の落ち着きは微塵も感じられず、審査官たちはその姿に顔を見わせた。


 ここは生まれる前の場所、死後の世界ということになる。死を迎えたものがこの場所にはやってくる。生前性別を持っていたものはそのままの性別で、そうでないものにはランダムに振り分けられる。

ただし、生前どうやって、いつ死を迎えたかは皆覚えていない。それらに関する記憶だけがきれいに抜け落ちているのだ。

しかし、必ずしも生前の自分のことを知らずにいるわけではない。生まれ変わる直前に知りたい情報は聞くことができるという制度があるからである。もちろん知りたい情報だけで無理やり知らされることはない。

さらに人間でなかったものもここでは人間の姿で存在しなければならない。まぁそれは話せるほうが都合がいいということらしい。ちなみにここでの名前は生前のものとは関係ない。自分の好きな名前を決めることができるのである。

 ここでの滞在年数には個人差があるが、約十年から二十年。どんなにここに居たくてもいつかは〝生まれ〟なくてはならない。

また、それとは逆に早く生まれたい場合は申請書を提出し、手続きを済ませ、面接をパスしなければならない。そしてこの申請が受理された場合、いかなる理由があろうと取り消すことはできない。絶対に ― 。

 

        《2》

 

「ただいま。ミルファク?いないの?」

玄関を開けて濠は中に呼びかけた。が、シンと静かだった。

「ミル?…、出かけたのかな?」

シャク、シャクと聞き覚えのある音が聞こえる。

「ああ、ここだ。庭だ」

 答えがやっと返ってきた。こじんまりしたキッチンを抜けた先に庭へ出る扉がある。その向こうで友の声がしたのを聞き逃さず、濠は軽快な足取りで扉を開けた。

 庭の花壇で花の手入れをしていたようだ。軍手と作業着という見慣れた姿で彼はいた。

「早かったな。どうだった?またダメだったんじゃないのか?」

 ミルファクは少し筋肉質な手で短い銀髪をかきながら、意地悪な目で言った。

「ところがさ、通ったんだ、俺。やっと、やっとだよ。メッチャうれしくてさ!あっ、鼻に土がついてるよ」

 濠はキラキラな顔で彼の鼻を指さして言った。彼は鼻を擦る癖があるのを知っていたので、その時についたのだろうと思った。

「本当か?間違いじゃないのか?」

 始めに目を見開いて驚いたが、すぐに目を細めて疑い深く濠に言った。両眉は力いっぱい持ち上げられている。

「んなわけないだろ。マジだよ!」

「おおそうか。やったな!ということは、ご馳走を作らないといけないな。今夜は盛大にお祝いだ」

 ミルファクは自分のことのように満面の笑顔で喜び、土の付いた手で鼻を擦りながら言った。また土が鼻に乗る。

「うん、お願い」

「何か食べたいものは?」

 そう言われて濠は色々考えようとしたが、すぐ止めた。

「ミルが作るものなら何でもいいや」

 彼が作るものが不味かったことがなかったからである。

「けど、ちゃんとご馳走にしてよ?」

「ああ、もちろんだ」

 ミルファクは腕を組み、透きとおった目で言った。そして再び花壇に向き直った。


 濠はミルファクとのこんなやり取りが好きだった。彼のことを親友だと思っている。ミルファクはいつも欲しい答えを欲しいだけくれるからだ。そんな人はなかなかいないし、そんなことはやろうと思ってできるものではない。才能なのだ。

それだけでなく彼には尊敬できるところが他にもたくさんあった。料理、掃除、洗濯などの家事全般。性格。すべてが完璧だった。だがその中でもこれが一番だといつも思っていた。自分の良き理解者。こんな人が父親だったら。そう思わなかったら彼と共に暮らしていないだろうと思う。

だから驚いた。最初生まれ変わりの申請書を出すと言ったとき反対されたことが。いつでもわかってくれていたのになぜ?その時初めて濠は彼が分からなくなった。

あの時の目や表情は今でも風化することなく記憶に焼きついている。

         

         *

「俺、申請書を出そうと思うんだ」

「申請書って、生まれ変わりの、か?」

「そう」

夕食の際、濠はミルファクに迷わず笑顔で伝えた。いつでも自分を理解してくれる彼のことだ。この件も喜んで賛成してくれるだろうと思ったからである。しかし、彼の反応違った。

「何!?」

眉間に皺をよせたギンとした鋭い目が、精悍な顔に似合わない青筋が怒りを沸々とさせていることを濠に知らせてくる。

彼のこんな顔見たことがない。そこに今までの彼はいない。濠は目の前の人間が本当にミルファクなのかと疑いたくなった。なぜなら彼は普段どんなことがあっても負の感情を表に出すことはない。いつでも温かい目と柔らかい笑顔を崩すことはなかった。少なくとも一緒に暮らしている間はそうだったのだ。

困惑した濠を真っ直ぐ見つめながら、ミルファクはその雰囲気を残してはいたが、少しだけ顔を歪ませて口を開いた。

「なぜそんなことを?やめておけ、濠。そんなに急がなくても、嫌でも生まれられるじゃないか。後悔してからじゃ、遅いんだぞ?わかっているのか?濠、悪いことは、言わない。考え直せ。命が、そんなに、欲しいのか?ここでの、生活が、嫌なのか?頼む、止め、るんだ。……頼む」

ミルファクは震えながら言葉を漏らした。必死だった。いつしか彼の顔に怒りはなく、どこか寂しげな、そうまるでススキのようだった。濠はそんな彼が怖くなり、ミルファクを一人残し、逃げるように自分の部屋の鍵をかけた。

なぜだ?なぜわかってくれないんだ?なぜあんなに怒るんだ?なぜあんなに必死なんだ?なぜあんな顔を、なぜ、なぜ…。

濠の中で色々な疑問がループしていた。それに合わせて時計の秒針の音がコチ、コチと時間を刻む。濠はそのまま何かに吸い込まれるように、ゆっくり眠りに落ちて行った。


時計は八時を示していた。

もう朝か。考えながら寝てしまったのか。濠はカラカラになった目を擦る。昨日のことを思い出し、濠は下に降りたくないと思った。怖かったからだ。

コンコン。ドアの向こう側から音がする。

「濠?起きているか?」

「…、うん」

「入るぞ」

そこに閻魔のような彼はいなかった。いつものミルファクがいた。そして優しいが、芯の通った真っ直ぐな眼差しで濠を見つめている。少し間を置き、口を開いた。

「昨日は悪かった。濠、お前が決めたなら、これ以上あれこれ言うのは止めにする。だが覚えておいてほしい。俺がお前のことを大切に思っているからあんなことを言ったのだということを…」

「それはわかってるけど…、びっくりした。突然怒るから。…?ってことは認めてくれるの?」

「認めるも何もお前の権利だろ?俺の意見は関係ないさ」

不思議そうにミルファクが濠を見た。

「でもミルにも賛成して欲しかったから」

「フフッ、ハハハ」

そんな濠を見てミルファクは突然笑い出した。

「な、なんだよ、突然。おい、笑うなよ」

「変わらないな、お前は」

そう言った後にミルファクの表情が一瞬だけ曇り、静かに涙が引力に負けた。その涙の意味が濠はわからなかった。

         *


「どうした?ぼうっとして?」

 濠はミルファクの温かな声で濠は過去から帰ってきた。目を丸くして、さっきより鼻に土を付けた元閻魔大王様が笑っていた。

「いや、何でもないよ」

「そうか。それより少し眠ったらどうだ?昨日から準備であんまり寝てないだろう?」

「そういえば。じゃあそうするよ。飯になったら起こして」

 軽く手を上げてミルファクは再び花壇に向き直った。その顔には少しだけ負の感情が乗っかっていたが、それに濠は気がつかなかった。


 扉を開けて家に入り階段を目指そうとして、咽喉が渇きを訴えていることに気づいた。よく考えると面接後なにも飲んでいない。あれだけ汗をかいたのに。

濠は身を翻してキッチンに戻った。綿毛のように軽い白に包まれた花がテーブルに飾られている。それを一瞥しながら水を一杯飲み、再び自分の部屋へ向かった。

部屋に入り荷物を投げて濠はベッドに吸い込まれるように倒れた。当然のように口のあいていた鞄から中のものが飛び出し豪快な音をたてる。

「やばっ、中身が」

 一瞬彼の厭みが浮かんだが、なんだかんだ言って片付けてくれるだろうと勝手に思った。

さっきの汗が今頃になって彼の鼻をかすめ出した。しかし、それについてどうこうとは思えない状態だったため無視することにした。時計を確認すると一時を過ぎていた。

「にしても通ってよかった。頑張ったもんな、俺。ってか疲れたな。ちょっ、と寝な、いと…」

濠は静かに瞼の重さに負けて暗闇に向かって行った。

          

         *

「お前今日こっちへ来たのか?」

 突然後ろから素っ気ない言葉とは裏腹に優しげな声がした。振り返るとそこには男が一人ソファに腰をおろしていた。

目鼻立ちはすっきりしていて少しだけ筋肉質な腕と足、黒いが少し透明がかった瞳、短めの銀髪、そしてその銀髪に似合う髪飾りを左側につけていた。日本人とも西欧人とも欧米人違う外見と独特の雰囲気。

絶対に見たことはない、知らない人だ。まぁ知っている人なんかいないけど。

しかし、不思議と親近感と安心感を抱いている自分に、濠は少しだけ戸惑っていた。

「ああ、今着いたばかり」

「説明は?」

 すぐに男が尋ねる。

「ここの?ああ、さっき。まだイマイチ頭がついて行ってないけど」

 当たり前である。突然、あなたは死んでここへやってきました、なんて言われて理解できるわけがない。すぐに納得しろというほうが無理な話である。

「そうか、まぁ当然か。俺はミルファク。ミルファク・アルフェラッツだ。俺も今日ここへ来た」

 ミルファクと名乗る男は言った。

「奇遇だな。同じに日に来るなんて」

「そうだな。ところで名前は?」

 濠は仲間がいたことがうれしくて、つい名乗るのを完全に忘れていた。

「ああ、ごめん。俺は濠。山崎濠。今付けたての名前だ」

 濠は頭を少しだけ下げていった。その時に、なぜだろう?彼が自分を見る目が懐かしい友人を見るようだと濠は感じたが、そんなはずないとすぐにその考えを消し去った。

「ヤマサキゴウ…。どうしてその名前にした?」

「わかんないけど、なんか浮かんだから」

 少しだけミルファクの表情が陰った。

「どうかした?」

「い、いや、何でもない。ところで住むとこ決めたか?」

 ミルファクは鼻を擦りながら聞いてきた。

「まだだけど。なんで?」

「もしよければ一緒に住まないか?話し相手が欲しいんだ。それに俺と一緒に住めば楽だぞ。俺は何でもできるからな」

 なんでこんなに自信満々に言うんだろう?自信過剰なやつだな。

これが最初の彼への評価だった。 

「いいの?俺なんかと一緒で?」

「もちろん。なんか初めて見た気がしないしさ。何より話が合いそうだ」

 輝きだしそうな笑顔でミルファクは答える。

「ってか、まだ五分も喋ってないよ?」

「そう感じたからいいんだ。一緒に住もう」

 なにがおかしいのか、顔立ちに似合わない子供っぽい笑いを浮かべて彼は言った。

「何がおかしいんだよ。おい、笑うなよ。わかったよ、一緒に住もう」

 ミルファクへの次の評価は変な奴だな、だった。

 

濠とミルファクは川の近くに家を借りた。それほど大きい家ではないが、二人で住むには十分過ぎる広さである。

一階にキッチンとリビング、洗面所、風呂場があり、二階には二つの部屋とトイレ、物置があった。そしてキッチンを抜けた先にある扉を開けると庭に通じている。

庭付きじゃなきゃ嫌だ、とミルファクが駄々をこねるので彼のその理想が最優先で叶えられた。見た目に似合わず花が好きで、どうしても花壇を作りたいのだそうだ。

濠はそんな彼のそんな一面も面白いなと改めてミルファクは変な奴だなと思った。

家に着くと彼は真っ先に庭へ行き、雪を見た南国の少年のように騒いでいた。

「やっぱ変な奴」

 濠は笑いを堪えながら静かにこぼした。

「変?何が?」

「何でもない」

 濠は平静を繕った。ミルファクは地獄耳、濠は新しい彼を静かに脳に詰め込んだ。

「じゃあよろしく、濠」

 ミルファクは拳を突き出した。

「こちらこそ。よろしく、ミルファク」

「長いからミルでいい」

 少し照れくさそうに何もない後ろに目を向ける。

「じゃあミル。よろしく」

 突き出された拳に濠は拳をぶつけた。そして川の音が二人の笑い声に重なって響いた。

         *

 

「なんだ、あの時のことか。懐かしいな、なんか」

 いつ寝てしまったのか思い出せない。濠は時計を見た。短針が寝る前より六つほど先を指している。仮眠程度のつもりだったのに。濠は自分に少しだけ呆れつつ、寝ぐせ頭を掻きながら起き上った。部屋は寝る前より片付いている。もちろん鞄も飛び出していた中身もである。誰がきれいにしたのかはいうまでもない。

「ふあぁぁぁ」

 大きなあくびが出た。

「おい、濠。晩飯だ。いい加減起きろよ」

 下からミルファクの声が通る。

「今下りてくよ」

 濠は立ち上がりゆっくりとドアを開けた。

       

「ごちそうさまでした」

 濠は持っていた食器をテーブルに置き手を合わしながら言った。かなり満足なのか少し膨らんだお腹を二度たたく。ポンポンという音が聞こえてきそうだ。

「もういいのか?」

 濠に尋ねる。

「うん、もう無理だ」

「どうだった?」

 ミルファクは濠にわざと尋ねた。この質問への答えが違っていたことはない。それでも毎回聞いてしまうのだった。

「やっぱりさすがだね、ミル。お前は料理の神だよ」

 やっぱり、心の中でつぶやいた。

「久しぶりにスゲェ食べた」

 満足そうにお腹をさする濠を見てミルファクは、呆れたように、

「よく言うな、お前。いつも食うくせに」

と両眉を持ち上げて言った。実際濠はミルファクの二倍から三倍はいつも食べていた。だからミルファクは濠の〝今日は〟の意味が全くわからなかった。そしてそんな濠を見て子供っぽく笑った。

「おいおい、なんだよ?笑うなよ」

 急に不機嫌になる。でもそこがまた面白い。

「悪い、悪い。でも…。フフッ、ハハハ」

 ミルファクは無理に笑わないようにしたのが仇になり、ツボにはまってしまった。この光景は珍しいことではなく、いうなればミルファクの癖のようなものだった。


濠はそれを見て、またかとウンザリしつつ、どこかで安心していた。しかしそれを悟られまいと、

「もういい、寝る」

 と声を張って部屋に帰って行った。これもいつものことだった。

「おい、クッ、ま、まて、よ。クク、クハハハハハ」

 まだ止まらないようだ。濠が部屋へ戻りベッドに倒れてもその声は聞こえていた。ウンザリと安心の両方を抱えて濠は静かに溜め息をついた。だが突然それが切られたかのようにピタッと止んだ。

「やっとか」

 独り言をいい、濠は静かに目を閉じた。

 

ミルファクは濠が怒ったようにあがって行ったのを見て、またかと思いながらも笑いのツボから抜け出せず、ひたすら何かに笑わされていた。しかし、突然それが止まった。途端に彼の表情は崩れ、それとほぼ同時に涙が頬を走った。その涙は幾筋もの道を作って走り続け、彼の膝を濡らした。

何また泣いてんだろ俺。喜ぶべきなのに、あいつが望んだことなのに、どうしようもないのに。肝心な時に何にもできないなんて。親友失格だ、俺。

ミルファクは泣き疲れて眠ってしまいたかった。こんな時は余計に思う。眠れたらどんなに楽か、と。

ミルファクは歌い出した。悲しくてでもどこか温かい透明な歌を。零れる白銀の雫は、そんな彼とは関係のないもののように瞬いていた。


         [1]


 ジリリリリリ。

「ん、んんん…」

山碕剛は寝返りをうった。昨日かけた目覚まし時計が頭の上で暴れている。今朝二回目のスヌーズ機能にイライラしながら手を頭の上に伸ばしたが、なかなかおとなしくさせるボタンが見つからない。なんとかボタンを手さぐりで発見し、目覚ましを再びおとなしくさせ、布団をかぶり直した。

 しかし、静かになったのも束の間。すぐにまた時計が力を取り戻した。三回目である。ジリリリリ。

剛は観念して起き上がり悪魔のような機能を目で確認し解除した。彼の頭にはたくさんの寝ぐせが渦を巻いていた。いつものことである。

ベッドの上に座り直して勢いよくカーテンを開けた。外の光が容赦なく彼を突き刺す。剛は開ききってない目でぼんやりと窓の外を見た。今日は昨日の雨が嘘のような澄み渡る晴天だ。雲が申し訳なさそうに小じんまり浮かんでいる。また、昨日作られた水溜りもキラキラと無駄に太陽を演出していた。小鳥たちも羽を伸ばし仲間と会話を楽しんでいる。

なんかいつもどおり、いやそれ以上やな。クソッ、胸がイガイガする。剛はこの新品のプラスチックのような光景に一人毒を吐いた。

剛は立ち上がり洗面所へ向かった。そして洗面所の流し台についている鏡の中の自分を覗き込んだ。

「またこんなに寝ぐせが、勘弁してや。もうすぐ警察の人が来るに」

鏡に映る自分の頭を見ながら口元をさすった。白い涎の跡が流しに吸いこまれていく。それにしても、こんなひどい寝起きは久しぶりだ。まぁ仕方ないか、あんなことがありゃ…。

「ミィヤァァウ」

その声と足に何かが走るのを感じた剛は視線を下に落とす。すると猫のチィが彼の毛むくじゃらの足に絡んでいた。

「おはよう、チィ。ちょい待ち。メシやるから」

チィが剛の足に絡んでくる。どうやら一番早起きの人に朝食をねだるのが朝の日課らしい。今日も目当ては朝ご飯のようだ。

彼は喉をゴロゴロ鳴らせて、さらに剛の気を引く。どうやらよっぽどお腹が空いているらしい。いつもはこんなに媚びることはないのに今日はどうしたんやろ。昨日エサをやり忘れたか?それともやっと懐いたか?

彼の食事処を見て剛は納得した。エサだけでなく水の容器も空っぽだったのだ。なるほど、これでか。昨日の今日ですぐに懐くわけがないと思った。

水の容器とエサの容器をつかむと彼はその行為を待っていたかのように、派手に足に絡みついた。  

「わ、わかったから絡むな。」

「ギャッ、シャァァァ」

 彼の尻尾を踏んでしまった。かなり痛かったのか、さっきまでの態度を翻して、尻尾を舐めながら毛を逆立てて怒っている。

「やから言うたに。居候やろ?我慢しい、我慢」

 そんな猫を横目に平然とエサと水を準備してやった。すると彼はさっきまで怒っていたのに、さらっと忘れさせられたかのようにエサを食べ始めた。全く気分屋なんやから、と少し笑みを浮かべつつ洗面所へ戻って行った。

 チィは元々剛が飼っている猫ではない。彼の弟の山碕柊平が飼っていた猫だ。しかし、現在彼は猫の世話が出来ない。正確にはそれどころではないのである。なぜなら柊平は現在、警察にある事件の第一容疑者として扱われていたからだ。だから猫どころではない。ただ、彼は剛と違い動物にかなり愛着があるため放っておくことができなかった。だから剛に世話を頼んだのだった。動物嫌いの剛は渋々引き受けた。

その事件のことで今日剛のところにも警察の人が来ることになっているのだった。

 時計を見ると針は約束の時間に迫っている。

「ヤバッ」

剛はすぐに顔を洗い、寝癖を直した。そして部屋に戻り着替えを始めた。この分だと朝食はひとまずお預けである。

 クゥゥゥ、とお腹が鳴った。食欲とは関係ない音だった。体は食べ物を欲してはいるが、絶対無理だと思った。それどころじゃない。頑固な寝癖が一つ復活した。


 あるマンションの前で一台の車が止まった。黒いセダンで周りの景色とは馴染んでおらず、微妙な違和感を醸し出している。山本謙輔はシートベルトを外し、車の後部座席に置いてある鞄を探り始める。

あれっ?確かに入れたはずだけど…。

コンコン。

助手席に座っていた先輩の武内蓮が、窓ガラスを叩き彼をせかす。焦りが彼の表情を支配しようとしたころ、やっとお目当ての手帳を探り当てた。シルバーの表紙に茶色のゴムバンドを纏った、この春に新調したばかりのものだ。前を向き直ったときには武内はもう車内にはいなかった。外で腕を組み、人差し指を小刻みに動かしている。生徒を叱る厳しい先生のような目元には皺が集中していた。薄い唇が文字通りへの字に歪んでいる。

「すみません。見つかりました」

軽く頭を下げた。

「よし、行くぞ。大丈夫か?」

 目元を緩めず尋ねてくる。

「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」

 謙輔は先程より下に頭を下げた。

初めての事件がこういうものなら、そして今の立場に立たされているのが自分でなくて武内だったら、自分も同じことを言うかもしれない。いや間違いなく言うだろう。

謙輔は武内と共に見慣れたマンションに近づいて行った。

新しくもなく古くもなく、部屋も狭すぎず広すぎず、この家賃なら上等やろ?彼の声が過去から聞こえてきた。

白く清純を振りまく外観、入口付近で何か守るように茂る植木。あんまり変わってないな。あの頃と少し変わったといえば、手前に広がる駐車上だ。以前より断然広くなっている。その割に車は僕のだけだけど…。

過去との下世話な比較をしつつ、二人は階段を上った。あいつの部屋は確か三階。謙輔は覚えていた。

「部屋は?」

顔をしかめて武内が振り返る。

「確か三階の313号室だったはずですが」

黒縁の眼鏡をいじりながら答える。

「流石だな。資料を?」

「いいえ。何回も訪れたことがあったので覚えていただけです」

ああ、と武内は少しバツが悪そうに小さく答えた。

「しかし、本当に大丈夫か?これから話を聞く相手、容疑者のお兄さんらしいが、山本の友達なんだろう?事件に私情は挟んじゃいけないっていうのはお前が一番分かっているとは思うし、お前に限ってそんなことはないとは思うけど…。もし無理なら今からでも…」

武内の表情から、その言葉は純粋な心配だということは十分すぎるほど伝わった。それがわかった上で謙輔はその言葉を遮った。

「心配してくださってありがとうございます。確かに全く平気かというと怪しいですが、知り合いのことだからこそきちんと明らかにしたいんです。私情は挟まないよう努力します」

謙輔の密度の高い言葉と一切不純物のない目をみて、武内は小さく、しかし、聞こえる声量でわかった、と答えた。


謙輔とパートナーになったのは約一年前のことだ。彼は交通課から移動してきた。どうやら上層部からの推薦のようだ。何でも頭がキレるから交通課ではもったいないということらしい。

始めに謙輔を見たとき武内は嫉妬に似た濃いグレーの感情を抱いた。自分は現在四十六歳。ずっとここへの移動を願っていたがなかなか認められず、ようやく四十歳の時に上り詰めたのだ。それなのにあいつは何だ?聞けば大学も行ってないというじゃないか。しかも二十一歳で刑事課に移動。こんな青くさいガキを目の当たりにして頭にこないはずはなかった。


         *

「今回の移動でこちらの刑事課に配属されました、山本謙輔と申します。至らない点が多くみられるとは思いますが、ご指導のほうをよろしくお願いします」

歓迎の拍手のなか、武内一人が非難の拍手を両手で力いっぱい鳴らした。そんな事には誰も気がつかず謙輔をにこやかに見つめている。拍手が止んだ後、刑事課課長の滝澤が厚い口を開く。

「山本君、君には期待しているよ。デスクはあれを使ってくれ。それと君の隣のデスクにいるのが君の担当、まあ指導員みたいなものだ。わからないことがあれば遠慮なく聞くといい」

はい、という声が向こうで聞こえた。武内はデスクに向かおうとしたが突然、あの…、といわれて振り返った。そこには先程遠くにいた青くさいガキが目の前に立っていた。

「なんだ?」

ぶっきらぼうに彼を威嚇した。

「あの、僕のご指導をして下さるということをお聞きしましたので。先程もご挨拶させていただきました、山本謙輔です。どうぞよろしくお願いします」

謙輔は深々と頭を下げた。

なんだと?自分がこいつの世話だと?武内は謙輔を横にどかして課長に詰め寄った。

「課長、どういうことですか。自分があいつの世話係なんて、聞いていませんが」

「じゃあ今言おう。配属されたばかりで色々わからないことがあるだろうから一緒に組んで教えてやってくれ」

「しかし、何で自分なんですか?適任は他にいるでしょう。よりによって何で自分なんですか?」

その言葉に、今まで伏せて資料を読んでいた滝澤が訝しみつつ顔を上げた。

「なんだ、嫌そうに聞こえるが。あいつが嫌いか?」

その言葉に武内の口は強制閉門を余儀なくされた。

「もしそうだとしても関係ない。これは命令だ」

滝澤は鋭く言い放った。それでも諦めがつかず、武内は食い下がる。

「しかし…」

だがそれを予期していたのだろう。

「いいな」

滝澤はこの問題に一方的に終止符を打った。こう言われては仕方がない。釈然としないまま武内は席に戻った。


あの頃はただの青くさいガキだと思っていた。決めつけていた。しかし武内はそれが間違いだとすぐに気付かされた。日々一緒に仕事をして、謙輔はどんな事件にも、仕事にも毎回同じ姿勢を、同じ眼差しを向けてこなしたのだ。

マンネリ化した日常では、当たり前のようでとても難しいことだと武内自身がよくわかっていたので少しだけこの若者を見直し、一つ疑問を持ったのだった。その疑問を武内はつい聞いてみたくなった。これが武内から話しかけた最初の言葉だ。

「山本、どうしてお前はどんな仕事もそんなに一生懸命やるんだ?適当に済ませばいいだろ。大概の奴はそうしてる。大体、事件なんて次々出てきて忘れられていくんだぞ。そんな中みんな自分の武勇伝を彩るための大きな事件を心待ちにしている。なのに…。お前みたいな奴、初めて見た」

その質問に謙輔はキョトンとした。だがすぐに顔つきを変え、こちらを見た。

「僕はこの仕事に自分なりの意義とプライドを持っています。僕にとって大事なのは事件の大きさや重要度ではありません。解決して依頼者に、被害者に安心を届けることなんです。その為にはどんなことも自分にできることは惜しみません。だからどんな事件にも全力で納得がいくまで取り組みます。他の人がどんな目で見ようとも、どんなことを言われても…」

武内はこの間までガキだと思っていた奴に度肝を抜かれることになるとは、あの時予想しなかった。なんて密度の濃い言葉をこれだけ真っ直ぐな、まるで不純物のない天然水のような眼差しで言うんだろう。それに比べて…。武内は何処にもぶつけようのない羞恥にダメージを負わされた。それほど彼は眩しかった。

そんな姿を見た謙輔は突然先ほどまでの雰囲気を捨てて、

「あぁっ、すみません。生意気なことをベラベラと。仕事に集中します」

と慌てて机の資料に視線を戻した。

大した奴だな。武内は呟いた。

「なんですか?」

武内は少し椅子の背もたれにかける体重を増やしながら、

「なんでもない。チャッチャと仕事しろ、半人前!」

と彼を突っぱねた。

         *


あの時と同じ目だった。これ以上はお節介だな。この後言おうとした言葉をそっと捨てた。

いらぬことを思い出していたおかげで、知らぬ間に目的地を通り過ぎるところだった。謙輔が武内さん?といわなければどこまで進んだことだろう。目の前の壁を見て生ぬるいものを額に感じた。

313号室、山碕剛。表札にはお目当ての人物の名前が書かれている。武内は行くぞという視線を謙輔に送ってインターホンを押す。

ピンポーン、と乾いた音が変に響く。が、誰も出てくる気配がない。しかし、いないはずはない。昨日前もって連絡を入れたのだ。しかも時間も向こうが決めたのだから、いてもらわないと困る。チッと軽く舌打ちをして、武内は左手をもう一度インターホンに近づけた。

「はい、ちょっと待って下さい」

扉の向こうから声と足音が並んで聞こえた。


         [2]


「すみません。着替えに手間取っちゃって」

中から出てきた男が後頭部をさすりながら笑顔を作る。話し方に少し関西の訛りが気になった。こいつが山碕剛か。隣の謙輔の目が少し和らいだのを見て、武内は小さく頭を縦に振る。

整えられたミディアムショートの髪とそれに似合うくっきりとした二重瞼、きれいに弧を描く眉、通った鼻筋と、まるで厳選されたパーツを集めてきたかのような顔立ちだった。ただそれらに似合わず背が少し低く、十六五センチくらいであろうか。顔だけ見ればもう少しありそうなのに不思議なバランスである。

「どうぞ入って下さい」

 剛が掌を上にして腕を奥へ伸ばした。失礼します、と謙輔が靴を脱ぐのに武内が続く。一歩進んで武内は顔が引きつるのを感じた。なんだこれは…。

無造作に置かれた何本ものコンビニのビニール傘、脱がれて様々な方向に頭を向ける靴、読まれてもいないであろう新聞紙の塊。一人暮らしの男の部屋には何度か入ったことがあるが、どうしてこうなのだろうかと毎回思わされる。みんなそうのか?ゴチャゴチャして生活感が溢れすぎている玄関を見て、武内は見たこともない謙輔の部屋を一瞬想像した。しかし、それはいつもの彼を思い出すことで容易に考え直すことができた。なぜか一人安心していた。

「汚くてすいません」

再び頭に手をやりながら笑顔を見せる。しかし、警察に緊張しているのか、友人なのが気になるのか、彼の動きは硬く、世代前のロボットを見ているようだった。笑顔もわざとらしくみえる。それこそ日本人形の顔もつロボットがあればピッタリその通りだと思った。

 部屋に通され、ここも同じように散らかっていることが想像されたので武内は身構えたが、それは見事なまでの徒労に終わった。異常に片付いていたのだ。不思議に思ったが、入口にちょこんと座る掃除機が急いで掃除する彼を思わせたので、なるほどと一人で勝手に納得した。

広さはざっと十畳くらいであろうか。小さなテーブルが中央に一つ、入って右手にはラックに乗ったテレビと本棚、左手にはベッドといった配置で家具が置かれていた。部屋の片隅には作のようなケージがあった。何かを飼っているのか。それと一つ、あの黒い細長いケースはなんであろう?着た形跡のある洋服が乗せられている。

 お茶入れます、といって彼は席を立った。謙輔がお構いなく、とぎこちなく言葉を使う。ガチガチである。

「お前が緊張してどうする」

 語尾とほぼ同時に武内の平手が謙輔の頭をかすめた。パシッと軽い音が響かずに鳴る。すぐに謙輔がすいませんと小さくなった。

しばらくしてお茶を盆に載せた日本人形がかえってきた。盆の上の湯飲み茶碗がキチキチと音を立てている。硬さはまるで衰えてなさそうだ。あまり時間をかけるのは彼にとってマイナスだと考えた武内は、重々しい要件の突破口を開くため口を開いた。できるだけやわらかく努めよう、自分にそう言い聞かせて。

「お忙しい中、時間を作って頂いてありがとうございます。お時間もないでしょうから早速本題に入りたいのですが、構いませんか?」

 剛は微かに表情の硬度を上げたが少し安心したように、はい、と頷いた。

「数週間前に帝星大学二年生の遠藤翔吾さんが死んでいるのが発見されました。それについてはご存知ですよね?」

 はい、と剛が顔を下にしたまま肯定する。

「その日以前の弟さんについて何か気付かれたことなどはありませんか?」

 そう言って剛を見た。剛は返答に少しも時間を使わなかった。

「いえ、ありません」

その彼を見て武内は目と目の間に力が入るのを感じた。そこには先程までの人形のような彼はおらず、意志を持ち、信念を従えた聖なる騎士のような別人がそこにはいた。その眼は確実に悪を見据えている。武内はそう受け取れずにはいられなかった。

 それだけですか?と敵意をわざと見せつけるかのように、彼は堂々と武内の顔を捉えた。しかし、臆することはなく、武内はそのまま続けた。

「そうですか。わかりました。あっ、すみません、あと一つだけ」

 武内は柄にもなく、可愛らしく人差し指を剛との間に立てた。

「弟さんが遠藤さんとお知り合いだったということについてはご存じでしたか?」

 こんな質問を予想していなかったのか、剛の表情は完全に敵を見失っていた。

「名前、くらいは聞いたことがあります。ですが…、よくは、わかりません」

 今度はたどたどしく返答した。武内はなるほどと軽く目を閉じて首を前に振った。チラッと隣の謙輔に視線を送るとまだメモの途中らしく、ペンを手帳に滑らせている。

「それでは今日は以上ということで。どうもありがとうございました。山本。お前はもう少しあとで帰ってこい。先に帰ってる」

というと武内は謙輔を残して立ち上がり、一人玄関へ消えてしまった。

聞きたいことがたくさんあるだろう、知り合い同士で。仕事は一旦おいて、友達としてしっかり話聞いてきな。邪魔者は消える。

このメモを立ち上がる時に謙輔にそっと渡した。

 

 武内のアドリブに謙輔は少し呆気に取られていたが、受け取ったメモから武内の真意を理解し、無人になった玄関のほうへ軽く頭を下げた。ありがとうございます。帰ったら言おう、そう思った。

「えぇの?帰ってしもうたけど。先輩なんやろ、あの人」

 以外そうに剛が問いかける。

「いいんだ。ああいう人だから。優しい人なんだ…」

 謙輔はずっと羽織っていたコートを脱ぎながら言った。それと一緒に謙輔は警察の自分をどこかに仕舞う。剛は目の前の人間が警察でなくなったのを見て、ぎこちなさも今日の空のように変わった。

「にしても久しぶりやな、謙。元気してたか?」

「うん。まあ仕事ばっかりで全然休みなくて、大変だけどね」

 肩を軽く持ち上げて謙輔が答える。 

「剛ちゃんは?大学生でしょ?そっちのが大変そうだけど」

「俺?別にそんなことないで。講義ったってつまらん話聞いてるだけやし、寝てることのが多いわ」

「なにそれ。ダメじゃん」

 それを合図かのように二人は大声で笑った。

 謙輔は数年前と変わらない剛をやっと見つけて、この部屋に居心地の良さを取り戻した。良かった、僕の知ってる剛ちゃんのままで。今日の剛を見ていて不安になっていた自分を削除した。

「あれって猫?剛ちゃん、小さいころから動物ダメだって言ってなかったっけ?」

「ああ、そいつは弟のや。仕方なくな。それにしても、謙が始めにここ来たときはメッチャ驚いたわ。交通課のまんまやと思うてたからな」

 ここに謙輔が来たのは今日を入れて二回目だった。一度目は事件が発覚してから四日後に事情を話に来ていた。もちろん遠藤翔吾の事件についてである。

最初容疑者の名前とその家族の名前を聞いた時、謙輔は顔以外から汗が噴き出したのを今も覚えている。まさかこんな形で親友に再会することになろうとは考えてもいなかったからである。剛の部屋を訪ねた時、彼の顔も相当な驚きに支配されていた。彼も思ったのだろう。皮肉なもんだな、と。

「卒業以来会ってなかったもんね。忙しくて言う機会もなかったし」

「なんかえらい出世やな」

「いやいや、そんなことないよ。それにまだまだ新米だから頑張らないと」

謙輔はおもむろに本棚にちょこんと座る卒業アルバムに手を伸ばす。

「おっ、懐かしいな」

剛が亀のように首を伸ばしてきた。一年三組と書かれたページには謙輔と剛が移っている。隣り合わせて肩を並べ、そして今よりほんのりと幼さを漂わせて…。

 

         *

「昼飯一人なん?」

授業が始まった日のこと、昼食の時間を告げるチャイムの余韻が消えたころ、前に座っている同級生が謙輔に声をかけてきた。

「…、うん」

謙輔は相手に目線を合わせずに答える。

「じゃ、一緒に食おうや!」

謙輔の返事を待たずに、そいつは当たり前のように昼食を並べた。広げられたのは弁当ではなくパンやおにぎりで、どうやら買ってきたもののようだ。変な子。でも一人にならなくて良かった。聞こえない声で呟いた。

「山本君はどこ出身なん?ちなみに俺は北中やってんけど」

「ええと僕は…」

あれっ?

「なんで僕の名前知ってるの?」

「何ゆうてんの?朝、先生が出席とってたやん」

ああ。謙輔は右上唇を少し上げて頭を大きく縦に振った。

「って、それで覚えたの?みんなの名前も?」

「さすがにそれは無理やて。山本君だけや」

「えっ、何で僕だけ?」

謙輔は弁当の卵焼きを口に運びながら問う。

「俺このクラスに知り合いおらんでさ。昨日からメッチャ居心地悪かってん」

「だからなんで?」

 弁当のおかずを取ろうとする彼の手を制しつつ、謙輔は再び尋ねる。手が自分のおにぎりに戻って行った。どうやら諦めたようだ。

「山本君もここに友達おらんのやろ?」

「! なんで知ってるの?」

「そりゃ分かるって。昨日から休み時間に席立ってないの俺らだけやし」

 全然気がつかなかった。確かに友達がおらず、しかし、人見知りをしてしまうため自分から声もかけられず、昨日も今日もずっと座っていた。まさか目の前の席の彼もだったなんて。少しだけ彼に親近感がわいた。

「俺、ヤマサキゴウや。富士山の山に、石偏の碕、で剛腕の剛や。よろしゅうな」

 ふてぶてしさに似合わずどこか礼儀正しさを臭わせるような雰囲気で、腰から折って一礼した。慣れているのだろうか。謙輔も何かに誘発されて頭を下げた。

 

この日を境に昼食はもちろん、登下校や授業の移動、そして部活動も同じ吹奏楽部に入り、クラスに溶け込む以前に彼らは共に相手を親友と位置付けていた。性格も趣味も驚くほど違うのにどうしてだろうと思うこともあった。しかし、彼らはお互いを高校生活で一番の、今までで一番の友達だと思っていた。

         *


 剛は進学、そして謙輔は憧れていた警察に就職したため卒業以来会っていなかったのである。連絡も忙しかったのとお互いメールや電話が好きではなかったため、全くとっていなかったのだ。成人式も謙輔は仕事で欠席していたため本当に久々の再会だった。

「変わらないね。あんまり」

「そりゃそうやろ。二、三年でそんなに変わるわけないやん」

 剛はいつの間にかアルバムから離れて椅子に腰かけていた。謙輔は手に持っていたアルバムを元には戻さずテーブルの上に置いた。

「それにしてもビックリしたよ、この前は」

 謙輔が剛に体を向けて言った。

「ああ、俺もや。なあ、やっぱり柊がやったんかな」

 急に萎んだ風船のように剛が小さくなる。その姿を見て謙輔は悩んだ。言うべきか、言わざるべきか。本来なら捜査に関することを一般の人に教えるわけにはいかない。しかし…。

 謙輔はカーテンの向こうの太陽を見つめながら口を開いた。今日は昨日より気温が上がりそうだ。

「今の状況では柊平君が犯人だって証拠が揃い過ぎている。現場の状況や指紋、証拠品。

全部柊平君がやったことの証明になるものなんだ。だけど…」

「だけど?」

 剛が謙輔と同じ方向を向く。

「柊平君は取り調べで殺人については否認しているんだ。でもあれだけ犯人の材料が揃い過ぎちゃってるから、上は彼が嘘をついてるだけだって吐くまで粘る勢いなんだ。決めつけちゃってるんだ」

 そうか。剛から返ってきたのはこれだけだった。ふと見ると、先程小さくなった風船は生き物のオーラを完全に失いそこにあった。昼間なのにそこだけ真っ暗である。

「でも…」

 この言葉に風船は首を持ち上げ息を吹き返した。

「でも柊平君は嘘をついたりしないと思うし、彼が違うって言うなら僕は信じるよ。今僕と武内さんだけで別の犯人の線を追ってるんだ」

「えっ、別の犯人?別の犯人の可能性があるんか?」

剛の顔は先日謙輔が久しぶりに訪れた時のそれと全く同じだった。暗闇に雷が落ちたかのように、そこはようやく光を取り戻した。

「いや、可能性どころかこれは正規の捜査でもないし、僕の勝手な意見で昨日から始めたばっかりだし…。でも信じたいんだ。君の弟の言葉を。それに事件に裏があるかもしれないしさ」

 いつもの口調より力が入っていることに気がつき、謙輔は

「でもまだ何にもつかめてないんだけどね」

と慌てて訂正した。温度計をチラッと見たが、体の火照りのわりに室温に変化はないようだ。

「サンキューな、柊のために。俺にできることないか?」

「いや一般の人にそんなことさせられないよ。剛ちゃん、まあ僕に任せてよ」

 謙輔は拳を作って剛の胸をポンと叩いた。

「わかった。じゃあ頼む」

 剛もお返しといわんばかりに謙輔の胸を少し強めに突いた。礼儀正しいあの日と同じ一礼をして。 

「ところでさ、さっき話づらくて話せなかったこととか思い出した事とかないかな?」

謙輔が少し表情を引き締めて言った。

「柊の事はよくわからへんねん。兄弟やけど一緒に暮らしてへんかったし、中、高、大と別々やし。大体あんまり仲良くないんよな、俺ら。すぐに喧嘩するし。剛君大嫌いって何回言われたことか」

 謙輔はこのときの剛の眼差しが何を捉えていたかわからなかった。けれどこれだけはわかった。このときの彼の目は虚ろで、少し恐怖すら覚えるようなものだった。あの目だ。

剛と柊平は小さい頃に両親を交通事故で亡くし、それぞれ別の親戚に幼いうちに引き取られていた。だからお互いのことはあんまり知らないんだと彼が話していたのをふと思い出した。その時の目に似ていた。あの時も謙輔はよくわからない恐怖に襲われたのを覚えている。冬なのに生ぬるい空気が彼から噴き出していて、それらに内臓を内側から撫でられるようなそんな感覚だった。

「ごめん、やっぱりようわからんわ」

あの空気を微塵も感じさせない、いつもの笑顔だ。

「あっ、そろそろ戻らんと」

剛は腕時計を見つめて慌てているようだった。

「じゃあまたなんか思い出したら、連絡ちょうだいね」

「おう」

二人は揃って玄関を出た。


             ~       ~

 埼玉県O市T町のとあるアパートで十二月二十七日に一人の首吊り死体が発見された。調べにより、被害者は帝星大学に通う遠藤翔吾さん(二十)であるということが判明した。第一発見者は同じ大学に通う大学生で被害者とは同級生であるとのこと。またこの大学生は前夜から被害者と共に過ごしており、朝起きて首を吊っている被害者を発見し、警察に通報した。被害者にその他の暴行の跡は見当たらなかったことから顔見知りの犯行であるとされている。犯行は彼らが眠っている間、深夜から未明にかけて行われたものだという線で捜査がなされている。

 現在、この大学生に前日の詳しい内容と被害者の交友関係等を調査中とのことである。

             ~       ~


「マスコミめ」

持っていた新聞を適当に折り、机に投げた。署に戻った武内は事件の事を思い返していた。

どう考えても、普通に考えれば山碕柊平が犯人だ。現場に被害者と柊平以外の指紋は検出されなかった。下の階にいる管理人も部屋へと向かう被害者と山碕柊平を目撃している。そして彼らからは大量のアルコールが検出されたため、山碕柊平の疑いは晴れるどころか底なし沼にはまったように悪くなる一方だ。

それにもかかわらず山碕柊平は覚えてない、やっていないの一点張り。確かに最初事情を聴いた時もかなり取り乱しており、あれが演技だとすればハリウッドに推薦したいものである。

しかし、これだけいろいろ揃っているのである。上はもうこの事件は山碕柊平が犯人ということにしたくて堪らないようだ。毎日とっかえひっかえお偉い方が彼の事情聴取を行っているが、ほとんど一方的なものだ。あれでは山碕柊平に同情せずにはいられない。

「この事件、他の犯人がいるかもしれません」

 昨日謙輔がそういったとき、武内は飲んでいたコーヒーを漫画のように派手にぶちまけたのを覚えている。そんな面倒なことに首を突っ込み、しかも単独で捜査しようというのだ。そんなことさせられるわけがない。

武内は言葉の意味が自分でもわからなくなるほど彼にやめるように言ったが、全く聞く耳を持たなかった。そう、自分や警察がどうこうよりまず被害者なのである。諦めた武内は彼と共に捜査を始めることにしたのだった。

武内は不意に胸ポケットにしまっていた警察手帳を取り出した。そこから一枚の写真を丁寧に優しく取り出す。

頑張るからな、歩。

静かに煙草を取り出し、火をつけた。


「すいません、遅くなりました」

 謙輔が暖房のきいた部屋にコートを着たまま入ってきた。

「先程はありがとうございました」

「で、何か聞き出せたか?」

 武内は顔を少しそらして尋ねる。謙輔が覗くと少し笑っていた。

「いえ、特には」

 そうか。そこにもう笑顔はなかった。

「これからどうする?もっともあまり派手には動けんが」

「情報が足りないので、事件について洗い直します。お手伝い願えますか?」

ああ。短く重い返事が返ってきた。

 よっし。小さく右こぶしを握り、左の掌に叩き込んだ。そのパシッという音で気持ちに

炎を灯した。


         ― ― ―

 

灰色の狭い空間が体を間接的に圧迫する。空気もそれに伴いここから逃げ出してしまった。そのためかとても息苦しい。コンクリートの壁と鉄格子が話しかけてくるのではないか、恥もせずそんなことを考えた。

 はぁ。どうしてるかな。心配してくれてるかな。それともどうでもいいのかな。もしかしたら…。それはない、彼は僕の理解者だ。どうして翔吾は死んだのだろう?

 色の代り映えのしない天井に視線が吸い寄せられた。ピタッと何もないところで何かと視線が合う。そこから目を離すことができない。

 なぜ、死んだんだろう?そのせいで僕はここから出られない。時間しか存在しない地獄だ。毎日のように質問される。僕が何をしたというのだろう。僕は何もしていない。僕は何もしていない。ぼくはなにもしていない。ボクハナニモシテイナイ…。

 誰にも届かないそんな思いを、頭蓋の中で叫び続けた。その声は狭い頭蓋の中を所狭しと這いずり回って心をオイルのように重くした。ねっとりとしたそれらが体の中心から順に染み渡っていく。それをただじっと感じることしかできなかった。鈍色の鉄格子が嘲るように太陽の光か電灯の光を拡散させて瞳を刺した。


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