稲葉山城攻略戦
1567(永禄10)年8月、斎藤家の重臣である美濃三人衆の稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全が織田家に寝返る事が判明された。これは道三が信長へ美濃の譲り状を渡したときに3人は寝返る事を決めていたようだ。ほかにも理由はあるが、それは主君斎藤龍興の無能さと織田家の軍事的圧力を背景にした調略によって、離反が相次ぎ美濃三人衆は斎藤家を見限ったとも言われる。
「これより美濃三人衆は信長様の元で働く所存、何卒宜しくお願い致します。」
「で、あるか、期待してるぞ美濃三人衆」
「「「ハハ!」」」
「これより斎藤龍興がいる稲葉山城を攻める!法螺貝を吹け!具足を用意しろ!」
「「「ハハ!」」」
「高崎!例の策、今回は使うな。よいな?」
「承知」
信長が言った例の策というのは墨俣で実践した鉄砲三段撃ちからの弓の斉射、怯んだところを織田騎馬隊の追撃という策であったのだ。しかしこれ以上この策を見せてしまっては他国に警戒が張られ、失敗となってしまうためあまりこれより先はあまり使わなくなるのであった。
そして稲葉山城城下町に到着すると、稲葉山城付近に鹿垣(柵)を組み立て包囲し攻める準備を作っていた。
「サル!お主は裏手から回って攻めろ」
「かしこまりました!」
「高崎は表門を強行突破した後指揮に当たれ」
「承知!」
「勝家と長秀は高崎の援護!以上をもって作戦会議を終える!皆の者明日の朝決行といたす!では解散!」
「「「ハハ!」」」
今回の策はこうだ、高崎が表門を強行突破した後斎藤軍は必ず次の門を壊される前に死守しようとかき集めるだろう。そこに秀吉を使っての裏手の門から攻めるという至ってシンプルな作戦だった。しかしこれが失敗すれば戦は長引くであろうと信長は思っていた。
しかし今回は高崎自らの攻撃は表門の破壊だけだ。これだけなら次の門でもその次の門でも破壊ができる体力は残っているのだ。
翌日の朝ついに織田軍は動き出す。
「いけ高崎!皆の者!高崎に続け!表門を破壊した後高崎は下がる!そのまま攻めろ~!」
「「「「おおおお!!」」」
ついに斎藤家と織田家の最後の戦が始まった。
「しゃおらあ!」
ドガーン!と大きい音をたてながら表門は破壊されそのまま織田軍は流れ込んでいった。ここまでは作戦通り。あとは裏門の兵がこちらに来ることを願うのみとなったがそれは叶った。高崎の開幕の一撃が斎藤軍に影響されたためこれ以上暴れさせはせぬとし裏門から表門へ急いで向かってる様子を忍びの報告により確認された。
「裏門の兵全て表門に向かっております。そろそろかと秀吉殿」
「そうじゃの半兵衛!よし全軍突撃じゃ~!」
裏門を突破されたことにより斎藤軍は混乱。次の門また次の門を突破されついに本丸だけが残った。そしてついに斎藤龍興は自刃し稲葉山城は陥落、織田家の勝利となった。