第四章
一
僕たちは宿舎で三人で早い夕食をとっていた。
アタランテの中にある隊員食堂は、それ程広いという訳ではないが(そもそも、普段は半数以上が配達に出かけており、全部の隊が集合する事など稀だ)、早めの夕食だったので人はまばらだ。
アーガイルとカロンさんが、どこか居場所が悪そうな様子でいるのを僕は感じていたけど、そこに触れる事が出来なく、少し困ってしまう。
アーガイルが昼間話すと言っていた事を、なかなか話そうとしないので、流石の僕も少し気がかりになっていた。それを察してか、他の隊のメンバーも、僕たちから少し距離を置いて座っていた。
「三人とも、仲良くやってるか?」
見れば分かる事をわざとらしく聞いてきたのは、クルウェルさんだ。
クルウェルさんは時々わざとらしく聞いてくる事がある。普段であれば問題ないけど、こんな緊張状態では、余計に部屋の空気が重くなると思う。
「二人が協調を取れないと、シロンが困るだろ。同じチームなんだから、もう少しうちとけたらどうかな?」
クルウェルさんは、それが簡単に出来ないと分かっていて話し続ける。このあと問題にならなきゃいいけどと思う。
「問題があるなら、この際ここで言ってみたらどうかな。仲裁役でよければ買って出るが?」
クルウェルさんの言葉に、アーガイルがやっと重い口を開いた。
「カロンさん、悪いが同じチームとなると、どうしてもあんたを信用出来ない」
昼間言っていた事と、少し違う言い方をしたので、僕は困惑する。そんな言い方をすれば相手の反発は必死だと思った。
「私も、君の事を信用している訳ではないよ。特に、昼間ああいった反応をされてはね」
やはり反発された。思ったとおりだ。でもカロンさんからも同じような台詞を聞いて少し驚く。カロンさんがアーガイルの事を嫌っているとは、思っていなかったからだ。
「俺は両親を蜥蜴野郎……竜族に……ドラゴンに拉致された。未だに行方不明だ。もう数十年探しているのにだ! 何の手がかりもない。あんたは軍の人間の筈だ。何か知っているんじゃないか!」
アーガイルの声は、だんだん悲鳴のようになっていくように思えた。
「そうか……それで、私にあんな反応をしたんだな。気持ちは分かるが、私は知らないし、もし知っていたとしても言えない事もある」
「言えない事って何だ!」
アーガイルの荒げた口調に、周囲の人が驚いたみたいだけど、気にしないように勤めている。だけど、視線が集中している事は僕にもはっきり分かった。遠くでひそひそ声もする。
「正直に話そう。確かにドラゴン――竜族と我々は呼んでいるが、竜族は我々竜人族の一員だ。今はそれ以上の事は言えない。君のご両親がなぜ連れ去られたかは、私には分からない。これは本当だ。必要があれば調査はさせるが、すぐに分かるかどうかは、私に分かる筈もない」
カロンさんの口調は、冷ややかそのものだった。これではむしろまずいと思う。
「君の家族が不幸な事になっているのは、竜人族の一員として、大変残念に思う。しかし私に言いがかりをつけられても、何の答えも出てこない」
それを聞いたアーガイルの顔は、高潮していた。
「アーガイル、君だって大人だろう。君の気持ちは分かるが、彼の言うとおり彼をどんなに責めたところでご両親が帰ってくる訳じゃない。今は三人が協力し合う事が、今は必要なんだ」
クルウェルさんの言葉に、アーガイルは動揺しているのは明らかだった。
「こいつらは……こいつらは……」
「アーガイル、しつこいぞ。そんな事でチームをまとめられるのか!」
ついに、クルウェルさんが怒り出す。僕はなんと言ってよいのか分からずに、ただ黙っている事しか出来なかった。
「俺は、君がこのチームのリーダーに相応しいと思っている。個人的感情を捨てろとは言わない。そんなのは無理な事だと、俺だって知っている。しかし多少は我慢しろ。シロンだって、本当なら自分の過去を知りたいのを我慢して、今までついてきているんだ!」
クルウェルさんの思いがけない言葉に、僕は一瞬考えが混乱したけど、すぐに何事も無いように振舞う。それが何より今は必要だと思ったからだ。
確かに、僕自身の過去を知りたいとは、何度も思った事だけど、アーガイルと同じ気持ちなのだろうかと疑問に思った。
自分の事なのに、どこか真剣に探してこなかった自分がいたからだ。なぜそうなったのかは分からないけど、それで今まではうまくやってこれたような気がする。
「カロン君……カロンさんのほうがいいかな? アーガイルの気持ちが分からない訳でもない。どうだろう、ここは君の力で少し調べてもらえないだろうか? それまではアーガイル、君も協力し合うんだ」
「クルウェルさん、あなたの呼びやすいほうで結構だ。ついでに言わせてもらうと、アーガイル君については、身辺調査をするよう伝えてある。これで少しは怒りを納めてくれるかな、アーガイル?」
「お前、どこまで喧嘩を売るつもりだ!」
アーガイルの手は、腰の短刀に手が伸びている。
「アーガイル、いい加減にしろ! それ以上言うとお前を降格させるぞ。もうシロンにだって馬車長を任せてもいいんだ!」
さすがに、その言葉を聞いたアーガイルは黙ってしまう。と、同時に僕にも視線が向いている事に気が付いた。
「カロン君の方から調べてくれているんだ。君の両親が不幸な目にあったのは事実だろうが、彼の責任ではない。お前はもう少し冷静になれ。頭が冷えるまで暫くシロンが馬車長だ」
アーガイルは、何かを言おうとしていたけど、クルウェルさんは足早にその場を去ってしまった。
「アーガイル、少し落ち着いて」
僕はさすがにアーガイルを落ち着かせようとしてみたけど、どう言ったらよいのか分からない。
「ふ、お前はうまく立ち回ったよな。沈黙は金か。よく言ったものだよ」
アーガイルの言葉には、悲壮感が漂っていた。
「さて、シロン『臨時』隊長殿、これからどうするのかな?」
カロンさんは、軽いジョークのつもりだろうけど、アーガイルの顔は怒りで高潮していた。今言うべき事じゃないって僕だって思う。
「あんた、喧嘩売ってるのか!」
アーガイルの怒りは、どう見ても頂点に達している。
「アーガイル、見ちゃいられないよ。落ち着いて。カロンさん、申し訳ないんだけどちょっと外してくれるかな?」
「ああ、その方がよさそうだ」
カロンさんは、僕の言葉におとなしく従い、食堂を出てくれた。それを見とどけて部屋のドアを閉める。
一息つくとアーガイルを見た。そこには、以前までの僕を引っ張ってくれたアーガイルの影はないように思う。それを思うと、余計に寂しかった。そして、遠くから僕らを見ている人たちが何人もいる。
「アーガイル、気持ちはよく分かるよ。でもカロンさんに責任がある訳じゃない。それに捜索の協力をしてくれていると言っているじゃないか。それを台無しにするつもり?」
「シロン、お前……」
「少し落ち着いたらまた来るから、アーガイルは暫くここにいて」
そう言い残すと、カロンさんの元に向かった。
僕が部屋を出ると、廊下の端でカロンさんが待っているのが見える。カロンさんは、やっぱりと言わんばかりの態度だった。
「元は悪い奴じゃないんだろうが、家族の事だ。私だって気持ちが分からない訳じゃない」
「副長に言われたんだから、アーガイルも二、三時間もすれば冷静になるよ。暫く落ち着くまで待つように伝えたから、大丈夫だとは思うけど……」
そうは言いつつ、どこか胸騒ぎのようなものを覚えた。
「シロンは相変わらずやさしいな。私にはああいった芸当は出来ない」
「そんな事はないと思うけど、まあいいよ。それより二人っきりで話をしたいんだけど、構わない?」
「ああ」
色々聞いてみたい事はあったけど、今聞いてみたい事に絞ってみようと思う。いきなり質問を矢継ぎ早に浴びせても、答えてくれないと思うから。
「ちょっとお茶でもしながら、竜族と竜人族について、もう少し教えてくれないかな。気になる事もあるし」
「気になる事?」
カロンさんは、僕の顔を見つめていた。
そう、今気になっているのはあの箱だ……
「馬車に積んだ二つの箱、一つはあなたの服だよね。もう一つの中を見たとき、違う服だけど、僕はなんとなく竜人族の、それも相当身分が高い人の服じゃないかと今は思うんだ。多分カロンさんが言っていた以上にだけど」
僕は、少し悩んでから続けた。
「レンさんは、竜人族に返す物だって言ってたけど、あの箱はずっとあそこにあったのは知っている。あなたが来たから返すのだろうと思ったけど、そうじゃなくて、あなたも一緒に行動するなんておかしな話だよ。それで考えてみたんだ。あの服は僕と何か関係があるんじゃないかなって」
「もしそうだとしたらシロン君、君はどうするんだい?」
「今は分からない。だけど、いずれ竜人族の国へ行かなければならないと思うんだ。前にカロンさんに言われたようにね」
「シロン、君の直感はなかなかのものだよ。いずれ我々の国へ来てもらいたいとは思う。それは前も言ったね。しかし、今はまだ、私はまだその時ではないと思う」
「その時じゃない?」
「物事には順序というものがある。それを乱せば、自ずと結果も乱れる。そして、まだそのときではないという事さ。まだ、君自身で答えが出ていないのではないかな。結論を急ぎ過ぎるのは良くない」
カロンさんは、僕の問いには素直に答えようとはしなかった。
何かを隠しているとは僕にも分かったけど、それ以上は答えてくれないだろうし、まだ時間もあるように思える。今はこれ以上聞いても、仕方がないと思う。
「分かったよ。それじゃあ、そのときが来たら必ず教えてね」
問いに答えてもらえなかった事を分かってはいたけど、これ以上深く追求しない事にした。今はこれで満足するべきだと思う。
「それにしても、アーガイルのあの怒りは相当なものだ。だからか、最初に私に出会ったときも攻撃的な態度をとったのは」
「僕も知らなかったんだ。まさかあんなに思い詰めていたなんて」
「君の所為じゃない。私も、もう少し用心しておくべきだったな」
「アーガイル、大丈夫かな? 一人にしておいて……」
妙に不安になった。何だろう、この不安は。
「今は、そっとしておくべきだと思うが?」
「さっきまでは、僕もそうは思ったんだけど、また取り乱したら何をするか分からないよ……」
アーガイルを一人にした事を、後悔しはじめていた。
最近のアーガイルの様子が少しおかしい事は、薄々気が付いていたけど、まさか相手に斬りかかろうとするまでとは、思っていなかったから。
だから余計にアーガイルの事が心配になる。少なくともカロンさんと出会う前までのアーガイルとは、少し違う気がしていた。
「そこまで言うなら、ちょっと見に行こうじゃないか」
カロンさんが先導する。僕は、黙ってそれについて行く事にした。
「この部屋だったよな?」
食堂の前の扉に来ると、ドア越しに聞き耳を立てる。
「うーん、音はしないな。シロン、開けてみてくれ。私が開けると、また騒ぎ立てるかもしれないしな」
そう言われて、黙ってドアノブに手をかけた。ドアはスッと抵抗なく開いた。
「アーガイル、いるの?」
僕は不安げに声を出す。だけど、それに対する返答は無かった。
ドアをそっと開けると、中の様子をうかがってみる。ドアは抵抗なく開き、しかも部屋の中にアーガイルはいなかった。中の人たちは開いた別のドアを見ている。
「え、そんな……」
なんと言ってよいか分からず、絶句する。
「まさか、逃げ出すとはな。行きそうな場所は分かるか?」
「し、知らないよ。とにかく探そう! 二手に分かれたほうがいいね」
「そうだな。まずは建物の中から探そう」
僕はそう言うなり、別々の方向に走っていった。途中途中のドアを開けては、中を確認したけど、そこにアーガイルの姿がある事は無い。
「そんなに君は追い詰められていたの? あの時相談してくれれば良かったのに……」
一人呟き、次のドアを開けた。そこは副長室だ。
「シロンじゃないか、急に入ってきたりして、どうしたんだ?」
大きな音を立てながら入ってきたので、クルウェルさんを驚かせたようだ。
「それが、アーガイルがいなくなったんです!」
「何時いなくなった?」
「ほんの数分前です。それまで食堂で反省するように促したんです。でも心配になって見に行ったら、いなくなってて……」
「細かい説明は後だ。みんなで探すぞ。全く手をかけさせやがって。見つけたら降格物だ!」
明らかに、クルウェルさんは怒っていたけど、それを静める術を、僕は持ち合わせていない。
アーガイルがいなくなった事は、すぐに全員の耳に入り、建物中を探し回ったけど、どこを探しても、その影は見当たらなかった。
「全く、アーガイルも年甲斐の無い事をするね」
レンさんは、呆れ顔になっている。
「これから町の中を探してもらう。各班二名ずつになり、いそうな場所を探してくれ。あと一時間ほどで日も暮れてしまう。出来ればその前に見つけたい」
全員が了解とばかりに頷くと、それぞれ建物から出て行く。
「カロン、僕たちも行こう」
「シロン、ちょっと待て」
レンさんが急に呼び止めたので、少し驚いてしまった。
「廃墟の側を捜索してくれないか。以前同じような事があって、廃墟の入り口で保護された事があったんだ。今度も同じ行動に出ているかもしれない」
「分かりました、レンさん」
僕は、カロンさんと共に詰め所を飛び出した。遠くに見える町の東側の廃墟は、今日は余計に遠くに見えた。
二
廃墟の入り口に近づくと、急いで入り口を見張っている衛兵に声をかけた。
衛兵の後ろにある町の東西を分け隔てる城壁は、今日は一段と高く見えた。
衛兵は全部で三人いた。どれも腰に剣を携えている。
戦時中でないから軽装備の鎧だけど、それでも一般人から見れば十分に重装備だ。三人とも、この町の衛兵の色である緑色に塗装された鎖帷子を器用に着こなしていた。
僕には、町中で重武装しなければならない理由が、いまいち理解出来なかったけど、今はそれど頃じゃないと思う。
「ウェアウルフ族の男性が来ませんでしたか?」
「ああ、来たとも。知り合いかね?」
犬族の衛兵に、少し睨み付けるような顔で言われる。
「ギルドの仲間が行方不明なんです。もしかしたら、こちらに来たかもしれないと思いまして」
出来るだけ冷静に対処しようとした。
こういう時こそ冷静さが必要だ。廃墟に来ているとすれば、一番近い入り口はこの場所しかない。他はどの入り口もギルドからは距離があった。
「なるほどな。だとしたら君の仲間だろう。同じような服装もしていたしな」
隣にいた人族の兵士が答えてくれた。何だか嫌々そうに答えるので、不思議に思う。だけど、思ったとおりだ。後はアーガイルを引き取れば解決する。
「会わせては、いただけませんか?」
「悪いがそれは出来ない」
衛兵の口調はとても冷たい。それに、なぜ会えないのだろうと疑問に思う。
「おい、君。それは無いんじゃないか?」
カロンさんが、さすがに返答に待ちきれなくなり、ムッとした表情で言う。
「勘違いしないでもらいたい。出来れば会わせてやりたいのだが、我々の制止を振り切って、中に逃亡した」
衛兵の顔は呆れ顔だ。文字通り問題を起こさないでくれと言わんばかりだ。
「多少は追ったが、見失ってしまった。我々にも、ここを見張る仕事がある。もし見つけたければ中に入るがいい。特別に許可しよう。しかし用心する事だ、中に入ったまま戻らぬ者も多い」
それを聞いて、武器を持って来るべきだったと思う。カロンさんも武器は携帯していないようだった。
町中での武器の携帯は合法だけど、だからといって常に携帯するのは町の兵士以外まず見ない。一般人が武器を携帯する筈もなかった。そして僕の持つ槍は携帯するには大き過ぎた。
「中はそんなに危険なのか? 私はこの町が初めてでね」
「危険と言えば危険だ。入ったまま行方不明になる者が後を絶たない。トレジャーハンター気分で、自分の意思ではいる者を我々は止めないが、かといって、面白半分で入られては困るので、我々が警備している」
「分かりました。武器を持って出直します」
カロンさんを見つめる。
「どうせ時間は大分たっているのんだし、武器を持ってくる位の時間はある筈だよ」
「そうだな。丸腰では何かあっても対処出来ない」
「君たち、日没まで後四十分もないぞ。夜に探すのか?」
衛兵は少し驚き顔だった。確かに言われるとおりだけど、探さない訳にはいかない。
「昼間のほうが安全だし、探しやすいのも分かります。でも、急いで探さないとならないんです」
衛兵は少し考えるが、直ぐに頷いてくれた。
「どちらにしても、早くしたほうがいい」
衛兵の言葉を後ろに、僕らは急いでアタランテに戻った。
「レンさん、大変です!」
シロンはギルドに戻るなり大声で叫ぶ。シロンが焦っているのは分かるが、今焦っても仕方ないではないかと思う。
「シロン、そんなに大声を出すんじゃないよ。どうしたってんだい」
ドアを勢いよく開けたものの、シロンは息絶え絶えですぐに返事が出来ないでいる。
「アーガイルが廃墟の方に入ったみたいです」
隊長室には、すでに何名かが戻っていた。
全員がシロンを見ていたが、すぐに言葉を発する者はいない。私が話すべき事ではないだろうし、ここはシロンに任せる事にする。
「レンさん、どうしたらいいんですか? 衛兵には、武器を持ってきた方が良いと言われました。」
シロンの顔には、焦りの色が見えたが、レンは落ち着いて構えていた。
「そんな事だろうと思ったよ。私らも捜索隊を出すが、シロン、先に捜索に行くんだ。日没も近いからね」
レンの言葉に、シロンはまだ焦りを隠せないようだ。
「衛兵に武器を持ってくるように言われたんだろう? さっさとおし。カロン、シロンを補佐してやるんだ」
「はい、分かりました」
シロンは仕方ないにしても、アーガイルは幼稚だと思えて仕方がない。私としてはアーガイルの評価は落第点だ。
私は、シロンの背中を押すように部屋を後にする。なぜシロンは、アーガイルのような者と一緒にいるのだろう。
シロンはそれなりに自由を持たせれば、もっと伸びる人間だ。
アーガイルがそれを邪魔しているようにしか見えなかった。もし私がシロンを使うのであれば、もっとうまく使えるのにと思う。そうすれば彼はまだまだ伸びる筈だ。
「アーガイル、大丈夫だよね?」
シロンが心配そうに武器を取り出しながら言う。こんな時でも仲間の心配を出来るシロンの方が、よっぽど隊長に相応しい。
「いくらなんでもそんな簡単には死なないだろう。衛兵が言っていたからといって、真に受ける事はない」
そうは思いつつも、我を忘れて飛び出したアーガイルの事を思うと、やはり多少は心配だ。
「シロンはやさしいんだな。大丈夫、必ず見つかるさ」
自分の短刀を腰に納めると、シロンと共に馬車房を後にした。
シロンたちはそれぞれの武器を馬車から取り出すと、隊長のいる部屋へ戻る。
「シロン、あんたの事だから大丈夫とは思うけど、間違ってもパニックになるんじゃないよ。こういう時こそ冷静さが大事なんだ」
カロンは実力もありそうだし、シロンはいざというときには強い。まあなんとかなる筈だ。シロンたちが部屋を出て行くのを見送る。
「全く、アーガイルは。これで三度目だね。三度目は無いといった筈じゃなかったかしら?」
「レン……どうなさるおつもりで?」
クルウェルが分かっているとばかりに聞く。ならば、聞かなければよいだろうに。
「当然だろ、約束は約束だ。馬車長からは降りてもらうよ。もうシロンに任せても大丈夫だしね。カロンもその方が動きやすいだろうよ。まあ、アーガイルは面白くないだろうが、縄で縛っても、言う事は聞かせるよ」
それにしても、アーガイルには後で説教が必要だ。帰ったらただでは済まさないよ。
僕たちは再び廃墟に通じる検問に来ていた。太陽も大分落ちており、日没まであまり時間はなかった。
「分かっているとは思うが、この先は我々の管轄外だ。よって身の安全は保証出来ない」
犬族の衛兵が、冷淡に言う。だけど、僕は管轄内でも、身の安全をどれだけ守ってくれているのか疑問だった。
クアラルンプールは比較的広い町だ。それゆえ色々な事件がある。
稀にだけど、殺人事件なども起きていた。もし彼らが守ってくれているなら、殺人事件など起きないのではとも思ったけど、今は黙っておいた方がよいと思う。
「はい、分かっています」
僕も、大分冷静になってきた。先ほどまでは慌てていたけど、レンさんに一喝されたのが功を奏したようだ。
「入るのは二人だけだな?」
「後から仲間が来ると思います。その時は、よろしくお願いします」
「いいだろう。しかし気をつけろよ。さっきも言ったが行ったまま戻らぬ者は多い。危ないと感じたら、すぐに戻ってくるんだ」
「分かりました、気をつけます」
僕たちは、町を隔てている城壁の中へと踏み出した。まだ数歩しか進んでいない筈なのに、全く違う空気が流れている気がする。
「シロン、緊張しているな。大丈夫、お前なら乗り越えられる」
「カロンさん、あなたのように僕は兵士じゃないんだ。怖いものは怖いよ」
「私だって怖いさ。怖いのは悪い事じゃない。逃げ出さなければ恐怖は克服出来る」
「カロンさんは強いんだね」
廃墟に入ったのは初めてだった。文字通り、大きな建物がそびえ立つその区域は、それ自体が異様な空気に包まれている。
一つ一つの建物はどれも大きく、一体何の目的で造られたのか知る人なんて、聞いた事がない。
五分ほど歩いて、僕らは衛兵が見失ったという建物の前まで来る。
その建物はまるで雲を突くような高さだったけど、外壁があちこち剥がれており、今にも崩れるのではないかと思えた。
一辺が五十メートル近くもあるほぼ正方形の土台にそびえているといった感じだ。
昔の文明が残した物とは聞いているけど、近くで見るととても恐ろしげに見える。特に夕暮れの中では、異様にすら思えた。
建物の正面には巨大なガラスがはめられており、どのようにしてそんなに大きなガラスを作ったのか、僕たちには分からない。
そもそもこんなに巨大な建物をどう作るのか、想像する事も出来なかった。
「ここって言っていたよね?」
そびえ立つ建物を前にして、震えている自分に気が付く。アーガイルが一人で入ったとは到底思えなかった。
「ああ、間違いない。中に入って調べるしかなさそうだな。あまり気は進まないが」
「カロンも怖いの?」
自分の手が少し震えている事に違和感を感じながらも、カロンさんがいるから大丈夫だと腹をくくる。
「そりゃそうだ。これは文字通りの廃墟だ。こんな所に好んで入るやつの気が知れない」
「カロンさんにも、怖いものがあるんだね。ちょっと安心したよ。怖いものなんか無いと思ってたから」
「はは、私だって化け物じゃないんだ。怖いものなど、いくらでもあるさ」
ぽっかりと口を空けたようにある建物の入り口に、そう言い合いながらも、僕らは慎重に、建物の内部へと入って行った。
明かりの届かない内部は暗く、まるで洞窟のようだ。すぐさま持ってきたランプに、明かりを点けた。
恐らく長い間誰も入っていなかったためだろう、床は埃まみれで、通るたびに足跡がつく有様だった。それが幸いして、アーガイルの足跡と思われるものはすぐに見つけられた。
「この足跡をたどった方が早そうだ。衛兵の奴らめ、面倒でここで追うのを止めたな」
入り口すぐまであった衛兵の足跡は、中に入って数十メートル行った所で戻っていた。明らかに途中で止めた事が分かる足跡だ。
「仕方ないよ。彼らの責任じゃないからね。それよりも僕が心配しているのは、今度の件でアーガイルの立場が悪くなるんじゃないかと思うんだ」
多分悪くなると確信しているけど、それを認められない自分が嫌だった。
アーガイルの代わりは誰になるのだろうと、そればかりが頭をよぎる。
「それはそうだろうな。なにせ今は非番だとはいえ、職場放棄したんだ。それなりの制裁はあるだろう」
「カロンさんはどう思う?」
「制裁の内容か? ならば恐らくあいつは馬車長から降ろされるな。後任はシロン、君だよ」
「え!」
驚きのあまり、カロンさんを見つめてしまった。そして何を言ってよいのか分からなかった。
いくら臨時隊長を命じられたとはいえ、正式の馬車長になるにはあまりに経験が浅過ぎると思う。まだギルドに入ってから、二年しか経っていないのだし。
「そりゃそうだろう。副長が本人の前でシロンも馬車を任せられると言っていたんだ。そんな中で問題を起こせば、当然導かれる結果だ」
「アーガイル……」
僕は、何と言ってよいのか分からなかった。馬車長になれるのは喜びたかったけど、このような形でなるとは思ってもいなかったから。
アーガイルは、あと三年程で引退する予定だった。
もしここで降格となれば、当然給料にも響いてくる。給料だけではないかもしれない。立場的にも危ういのではないかと思う。
「それよりも、今はアーガイルを探す事に専念しよう。奴め、かなり奥まで行ったようだぞ。しかもこの建物は何だ? あちこちに階段がある。私たちに感づいて、逃げ出したらまずいな」
カロンさんの言うとおり、建物の一階にあたる場所は、大きな広場のようになっていた。そのあちこちに二階や恐らく三階へと通じるであろう階段がある。
ランタンの明かりは広間全体を照らす事が出来ずに、明かりは深淵に飲み込まれている。でも、アーガイルの物であろう足跡を追うには十分な明るさはあった。
「ここを通っているね」
僕は、上のフロアへと続いている階段に、足跡が残っているのを見つけた。埃があるおかげで、足跡を見つけるのは容易い。
「そうだな、ここで間違いないようだ」
カロンさんは足跡を丹念に調べていた。しかし、他に足跡も無く、目の前にある足跡を追う事しか、今は出来そうもない。
「思ったよりも暗いな。明かりが遠くまで届かない」
階段は暗く、ランプの明かりは階段の奥までは届かない。階段が永遠に続くようにすら思える。
「とにかく先に進もう。ここでじっとしていても、何にもならない」
カロンさんと共に、僕は一歩ずつ踏み出す。しかし相変わらず足は震えていた。
「心配しなくても何とかなる。武器もあるんだ。それに、アーガイルも突然襲ったりはしないだろう。ゆっくりでいいから、確実に進もう」
カロンさんにそうは言われたものの、やはり僕の足取りは重かった。
「先に行こうか?」
「大丈夫、進めるよ」
勇気を振り絞って、歩く速度を速めた。ランプが揺れ、周りの景色も歪んで見える。その風景は、何か恐ろしいものが先にあるようにさえ思える。
「直線だけど、かなり登るね。一体何のために作られたんだろう?」
登っている階段は長く、規則正しく続いていた。
「さあ。私にも分からない。古代人の遺跡だという事以外は」
何かの儀式に作られたにしては、あまりにもその建造物は大き過ぎ、複雑だ。
「アーガイルは怖くなかったのかな……」
「ウェアウルフ族は、暗闇でも目が利くと聞く。恐らく怖くないのかもしれない。しかし、このような何も明かりが無い所で目が利くのだろうか……」
率直な言葉に、僕も疑問に思う。
だけど、この先にアーガイルがいる事はほぼ間違いないのだし、ここを明かり無しで通ったという事も、事実だと思うと訳が分からなかった。
暫く階段を登ると、やっと階段の終わりが見える。
「お、やっと終わりみたいだぞ」
「そうだね。でも変わった階段だと思わない? 最後の段だけ高さが違う」
「ああ、古代人のやる事は、よく分からないな」
その階段は、確かに最後の段だけが低くなっており、階段の奥行きも少し短かった。階段の一段一段も変わった作りで、各段に小さな溝が何十本も彫ってあり、しかも歩くたびに、ふわふわする感触を受ける。
階段を登りきった先は、ちょっとした広さの広場のようになっていた。
周囲は色々なものが散乱しており、かなり以前に枯れた植物なども放置されていた。
明かりで周囲を照らすと、一本の大きな木が目に入る。枯れたその木は、どこか恐ろしげに見えた。
僕たちは、それらを慎重に避けながら、足跡を追っていく。
「ところでシロン、アーガイルの過去について、何か知らないか?」
暗闇の中で、突然カロンさんが聞いてきたので、驚いてしまった。話そうかどうか迷ったけど、隠しても多分何のためにもならないと思う。
「状況が状況だし、きちんと話した方がいいよね。本当は、アーガイルが自分で話すって言っていたんだけど……」
僕は立ち止まり、アーガイルから聞いた過去の話をカロンさんに教える。
近くにちょうど座れる高さの椅子のようなものがあったので、埃を払うとそこに二人で向かい合って座った。
カロンさんは、前にアーガイルから教わった事をそのままに聞いている。特に最後のドラゴンの話が興味深そうだった。
「……そうか、それであんな態度をとったんだな。まあ分からないでもない。そうか、それ以降、アーガイルは配達屋をやっている訳か。しかし竜族に拉致されたのか……確かに恨まれるまれるかもしれないな」
何かを知っているような顔をしていたけど、すぐに元の表情に戻る。
「うん。でもアーガイルはあと三年で定年なんだ。もう三十二歳だからね。ウェアウルフ族は、人族よりも寿命が短いから。蓄えは大分あるみたいだから、定年後もそれで家族を探すかもしれない……」
「確かウェアウルフ族の寿命は、四十五歳位だよな」
「そうだね。僕ら人族の寿命が六十歳位だし、竜族はもう少し長いの?」
「一概には言えないが、人族と同じ位だな。ただ、中には長生きする者もいる」
長生きとは、どの位だろうと思う。人族で長生きといっても、せいぜい八十歳が限度だ。それよりも長く生きるのだろうか?
「そういえば、カロンさんの歳は聞いていなかったね」
「私は三十四歳だ。シロンは、歳が分からないんだったよな?」
カロンさんが、僕の事を見つめるので、少し恥ずかしくなった。
「うん。見た目二十歳位らしいけど、そんな実感は全く無いよ。実際二十五歳位じゃないかって言われる事もあるしね。特に、言葉なんかが二十歳には思えないって言われるよ。十六歳に間違えられた事もあるし」
「そうだな、私も人族の事はよく分からない。人族から見てシロンが二十歳位というなら、きっとそうなのだろう」
「そうだね。でも今は、記憶が戻ってほしいよ」
記憶が戻れば、年齢もはっきりすると思う。
でも、記憶が戻ったときに、今の経験を忘れずにいられるのだろうかと不安になった。
せっかくアーガイルやカロンさん、そしてアタランテのみんなと出会えたのに、それを忘れてしまったら、どうなるのだろう。
「そうか、まだ記憶が戻っていなかったんだよな」
一呼吸おいてから話を続けた。
「アーガイルには教えていないんだけど、僕は竜人族と何か関係があると思っているんだ」
「腕輪や槍の事か?」
勿論それは気になっている。特に以前カロンさんから竜人族に関する事を聞いてからは気になっていた。でも、それ以上に気になる事がある。
「それもあるけど……最近気になっている事があって」
「私でよければ相談にのるが?」
「いや、そうじゃなくて。相談する事の程じゃないんだ。ただ、最近夢に竜人族やドラゴンがよく出てくるんだ。だから、何か関係があるんじゃないかと思って」
ここ最近悪夢のように、何度も同じような夢を繰り返し見ていた。
内容がよく理解出来ないので、最初は放っておいたけど、連日続くとなると嫌になる。内容はすぐに忘れてしまうけど、それでも繰り返し見ているから、その内容が記憶に残るようになっていた。
「なるほど。それなら、その夢をよく覚えていた方がいい。もしかしたら何かの役に立つかもしれない」
「そうだね。よし、先に行こう。こんな所で道草を食ってる場合じゃないよね」
「そうだな」
とは言いつつ、私はシロンの夢について気になっていた。
数回ならまだしも、何度も同じような夢を見るのは、何か理由がある筈だ。
しかし、シロンに聞いても、多分分からないだろうと思う。それに、シロンは人を騙せる性格ではなさそうだ。
「アーガイルは、どこまで行ったんだろうね。よくこんな暗い所を一人で行けるよ」
シロンは半分ぼやいていた。
確かに実際、通路は真っ暗で、ランプの明かりが無ければ何も見えないのは明らかだし、それにいつから建っているかも分からない廃墟に、一人で入る事自体、信じられない。
「なあシロン。アーガイルとは二年の付き合いなんだよな?」
「うん、そうだけど?」
「以前にもこんな事はあったか?」
「うーん、僕と組んでからは初めてかな。それ以前にあったらしいんだけど、その事は知らないんだ」
「そうか、それならいいんだ。前例があれば対処法があると思ったんだが、そう簡単にはいかないかもしれない」
以前はどのように保護したのか知りたかった。もっと早く気が付いていれば、対処方法もあったかもしれないが、今となっては後の祭りだ。
慎重に、しかし当初よりも確実に、早足で移動していた。
アーガイルの事が気になっていたのは勿論だが、目が暗闇に慣れた所為もある。何より、早く見つけてこの建物から出たかった。
いくら元兵士とはいえ、初めて入る所、何よりそこが廃墟だと分かっていれば、入りたくはない。夜ならなおさらだ。
足跡を辿ると、かなり上の階まで登っていた事が分かる。
階段の踊り場のような所には必ず数字が書かれており、今は十二と書かれてある。恐らく十二階という事だと思うが、そんな高さの建物に入った事がない私は、いまいち実感がわかない。
アーガイルの足跡は、時々行ったり来たりもしていたが、確実に上の階を目指していた。途中途中で休憩を挟みながら登ってはいたが、流石に疲れが色濃く出る。
「十六って書いてあるから、十六階って事かな? カロンさんはこんなに高い建物に登った事はある?」
一息ついていたシロンが聞いてきた。
「本国の城で、高さは六階だ。私もこんなに高い建物は初めてだ」
入った事はないが、遠くから見た事はある。どちらにしろ、一般兵士には関係のない所だった。
「そうだよね。古代人のやる事は分からないよ。古代人は疲れなかったのかな?」
階段の先にあるアーガイルの足跡を見て、アーガイルも疲れなかったのだろうかと思う。階段をこれだけ登ると、流石にかなり疲れてきた。シロンは、あのような槍を持って、よく疲れないものだと思う。
「もしくは、この階段以外に、別の道があるのかもしれないが……アーガイルを追っている以上、他の道は通れない。とにかく先に進もう」
ランプに照らされる通路はどこまでも薄暗い。
階段を上ったり通路を行き来していたりすると、ドア越しに薄明かりが見えた。
ガラスのような物で出来ているドア越しに見えるその影は、どこか不気味だ。
透明なガラスではないようで、薄明かりが漏れている事しか、部屋の様子は分からなかった。アーガイルの足跡もそのドアの向こうに消えている。
「あのドアの先みたいだね」
「ああ、しかし慎重に行こう」
足音を消すように静かに我々は進むと、ドアの両側に立った。それぞれの武器を確認し、私がドアノブに手をかける。
「開けるぞ」
シロンだけに聞こえる程度の小声で言う。シロンはそれに無言で頷くと、そっとドアを開けた。
ドアを開けた瞬間、中の様相に息を飲んでしまった。
中は壁一面が粘液状の物で覆われ、その上を何かの触手のような物が縦横無尽に張り巡らされていた。
触手は太さ三センチから十センチはあろうかと思うような物まであり、所々脈打っている。うす赤いその色は、何かの生物から出ている事は容易に想像出来たが、その主がどのような物かは想像出来ない。
さらに所々に薄緑に発光する、石のような物があり、それが余計に部屋を不気味にさせている。
触手はよく見ると、壁だけでなく天井や床にまであった。
「と、とにかく奥に進んでみよう」
私は思わず後ずさりしてしまった。しかし、ここまで来た以上引き返す訳にもいかない。シロンも震えているようだ。
部屋の中は湿気が充満しており、何か異様な臭いもしていた。鼻をつく臭いは奥に行くほど強くなっており、咽せるような感じがする。
「湿気も臭いもきついな。大体何の臭いだ? こんな臭いは初めてだ」
初めて嗅ぐ臭いだった。何かの腐臭のような気もしたが、それが何なのかは分からない。
十メートルほど奥に行った所で、広い部屋に出た。その瞬間私たちは凍り付いてしまった。
奥には幾つもの白っぽい繭のような物が天井からぶら下がっていたり、壁、床に張り付いており、それらの繭の奥のほうに緑色に光る物体と、何か動く物があった。繭の数はざっと見ただけでも、百以上はある。
「何だこれは……」
何を言ってよいか分からない。純粋に恐怖を感じる。
「虫……?」
シロンが奥の方を指して、震えた声で言う。
その先には、十メートルはあるかと思える、黒い巨大な虫のような物がいた。
頭から胴体の付け根にかけては、黒光りしているが、その後ろの腹付近からは、気色悪い内臓のような赤い色で脈打ってさえいる。
虫のように思えたが、あまりに巨大過ぎるのと、その『虫』から伸びる異様な無数の管状の物が、虫であるのかどうかを分からなくさせている。
どう考えても虫の大きさではないし、何より腹と思える所から無数に出ている触手が脈打ち、気味が悪い以外の何物でもない。
さらに、その触手からは、常に粘液状の物が滴り落ちていた。一応足は六本のようだが、どれも大木並みに太く、それに支えられている体は、胴回りが三メートルはあるかと思える大きさだ。
頭もそれ自体が一メートル近くあるように見え、とてもではないが生物とは思えない。脈打つ触手がなければ、何かの作り物と思える大きさだった。
「一体どこからこんな物が……」
どう考えてもおかしな大きさだった。今来た道からは通れる大きさではないし、かといって他に出口もありそうにない。ただ唖然としてしまう。
注意深く巨大な生物に近づくと、思わず声を上げてしまった。
「シロン、あれを見ろ」
指した先には、何か半透明の粘着質で覆われたアーガイルが、頭から天井にぶら下がっていた。アーガイルは、なぜか微動だにしない。
どうして、天井からぶら下がっていられるのか不思議でならなかったが、とにかく助けなければと思う。
「カロン……どうしよう、助けないと」
アーガイルに近づこうとするが、無数に地面に這う触手の所為で、なかなか前に進めない。
「不味いな。早く助けないとああなるぞ」
先には繭のようなものが幾つかあった。近くの繭を見てみると破けていたり、萎んでいたりしる。
「恐らくだが……あの『虫』の養分にされているんだ。破けている方は、何かを寄生させたな。内側から何かが飛び出した跡がある。それに破けている方の繭は、触手が二本刺さっている。卵を植え付けたんだろう」
「早くアーガイルを助けないと、大変な事になるよ!」
我々が手をこまねいて見ているうちに、『虫』から触手のような物が伸び、アーガイルの背中に刺さる。一瞬アーガイルがピクリと動いたが、すぐに力が抜けたような状態で天井からぶら下がっている。
「くそ。アーガイルはまだ生きているよな? このままだと不味い!」
アーガイルが生きているという保障は、どこにも無かった。しかし生きている事を前提で、助ける以外に方法は無い。
どうして良いか分からないうちに、触手のような物から白い糸状の物が出てきて、アーガイルをゆっくりと覆い始めた。
「冗談だろう……」
自分の声にも震えが出ている。そうしているうちに、アーガイルの全身は白い糸に覆われて、繭のようになってしまった。
「助けないと、アーガイルが……」
そう言うシロンも、どうすれば良いのか分からず、声も震えている。
「私たちの身を守るのが先決だ。シロン、周囲に目を配りながら、ゆっくり近づくぞ」
慎重に一歩ずつ歩み寄るのを見て、シロンもそれに続く。しかし、無数に床にある触手の所為で、なかなか前に進めない。
そうしているうちに、さらに一本、天井を這うように、新たな触手がアーガイルの方にゆっくりと伸びてくる。
「やばいぞ、シロン」
触手に気が付き、足が早まる。それにあわせてシロンの足も早まった。
「早くアーガイルを!」
シロンの声は殆ど悲鳴だ。
「分かっている、しかし!」
そうしている間にもアーガイルの繭に新たな触手が確実に伸びてくる。無常にも時間だけが過ぎてゆく。
「くぅ、間に合わない。ここまで来て!」
慌てて声を出したが、それでどうなるものでもない事など分かっている。
しかし、あと数メートルの所で、アーガイルの繭に新たな触手が無慈悲にも突き刺さるのが見えた。
「とにかく助け出そう。まだ間に合うかもしれない」
そうは言いつつも、なかなか前に進めずにいる事に、苛立ちを隠せなかった。
やっとアーガイルが包まれている繭の下に来たときには、見つけてから五分以上経過した後だった。繭はいつの間にか真っ白になっており、外見からはその中にアーガイルが入っているとは思えない。
「とにかく早く下ろした方がいい。シロン、天井と繋がっている部分を切れるか?」
シロンが槍の長さを利用して、繭と天井とのつなぎ目を切り離そうとする。しかし粘つく粘液が邪魔して、思ったように切れないようだ。
ようやく天井とのつなぎ目を切ると、私がその繭を受け止めた。すぐに二本の触手を切る。触手からは大量の黄色い液体が流れ出した。
「な、何これ……」
それを見て、シロンが立ちすくんでいた。
「ここにいたら危ない。このままドアの向こうに運び出すんだ」
私が繭の足側を持つと、シロンは気を取り直して、頭側を持った。
アーガイルの入った繭は思ったよりも重く、ゆっくりとしか歩けない。壁にあるドアがとても遠くに思えた。重さだけなら何とかなったかもしれないが、床中にある触手を避けて歩くのは、至難の業だ。
「くそ。何でこんなに重いんだ!」
繭の重さに思わず呻く。実際、アーガイルが入っているだけにしては異様に重く、二人で持ち上げるだけでもかなりの力が必要だった。ドアまでの距離が永遠に思える。
ドアまであと一メートルほどの位置まで来ると、先にいたシロンが繭を床に置き、ドアを開けた。ゆっくりとドアの外に運び出そうとする。
その瞬間天井から触手が突然伸び、私の体を縛り付けた。体は宙に浮き、天井に張り付いてしまう。
「くぅ、油断した。シロン、とにかくアーガイルを外に出せ」
シロンは必死にアーガイルの入った繭を引きずり、ドアの外に出す。そして私を助けに中に戻ろうとしていた。しかし、新たな触手がシロンを狙っているのが分かる。
「来るなシロン!」
シロンが言葉に反応した瞬間、天井から触手がシロンの首を捕らえ、巻きついた。
「くそ、遅かったか」
そう言いながら思わず呻く。触手がきつく締め付けている。
シロンは慌てて私の締め付けている触手を、槍で切ろうとしてくれた。何とか触手を切ると、床に大きな音を立てて転がった。
その音を聞きつけるかのように何本もの触手が再びこちらに向かってくる。手助けもむなしく、再び何本もの触手に捕らわれてしまった。
「ごめん、カロンさん」
シロンも、かなりきつく首を絞められているようだった。
「いいんだ、気にするな」
四方に引っ張られ、正直痛いなどというものではない。
「もう一度、何とかしてみるよ」
シロンは、苦しいながらも槍で触手を一本ずつ切り離してくれた。次第に締め付けが楽になる。しかし、最後の一本がどうしても届かない。結局、宙ぶらりんの状態で動けずにいる。
「ギルドの仲間が、早く気が付いてくれるといいが。でないと我々が不味い」
そうしている間に、シロンの首に巻きついている触手から、液体のようなものが出てくる。
「シロン、今度はお前が不味い! その触手を切り離すんだ!」
シロンはそう言われて、慌てて触手を切り離そうとしていた。しかし、槍だと長過ぎてうまく切り離せないようだ。その間にも、触手から液体がじわじわと出てきている。液体は粘々しているようで、次第に自由が利かなくなっているのが、こちらからも分かる。
「くそ、離せ、この!」
シロンは、必死に触手を切り離そうとしていたが、動くと触手が余計に強く首を絞めているのがこちらからも分かる。しかも、その間にも粘液が体中を覆い、動きが取れなくなってしまった。
「カロンさん、動けないよ。どうしよう……」
シロンは、苦しいながらも必死に声を出していた。
「下手に動くな。くそ、助けは来ないのか」
「ベトベトして気持ちが悪い……それに、何か変な臭いもする」
「不味い、シロン! 触手がお前を狙っているぞ!」
シロンはそう聞くと上を見た。一本の触手がシロンの体を這って背中の中央部付近で止まる。
「シロン……」
「助けて、カロンさん!」
その声虚しく、触手はシロンの背中を捕らえ、一気に突き刺した。シロンが呻き声を上げる。しかし、首を絞められているためか、あまり大きな呻き声にはならない。しかも、触手の外からも、何かを入れられていくのがありありと分かる。
「カロン……背中から何か入れられているよ……だめだ、気が遠くなってきた……」
アーガイルと同じ事が、シロンに起きていた。シロンの体が次第に繭に包まれ、1つの大きな繭になるのに、そう時間はかからなかった。
「シロン……」
繭の中で気を失うまいと、僕は必死にもがいていた。だけど、目の前が真っ白に覆われて、完全に動けなくなってしまう。
「た……すけ………て……」
何とか声を発してみるけど、あまりにか細い声で、外に聞こえたとは思えなかった。
そうしているうちに、感覚が次第に無くなってくる。それに繭の中が何か臭ってくると、足元の方から、液体が染み出るのが分かった。
「……!」
別の触手が口の中に入り込む。抜けずにもがいているうちに、その触手から何かが流れるのが分かった。意識がだんだん遠くなって……
シロンの繭は出来上がると、二本目の触手が繭を突き刺した。その度に繭が少し動くが、私はただ見ている事しか出来ない。
何も出来ない自分を悔しく思うが、自分も危ない状態に代わりが無い事を、すぐに認識させられる。天井から私めがけて別の触手がゆっくりと動いているのが目に付いた。
だからといって、そこから逃げる手段はなかった。
繭の隙間から出ている槍が、それがシロンであった事を示す唯一の証拠となってしまう。繭から突き出る槍は、それ自体異様に見える。
私はとにかく動く事を止め、少しでも脱出のチャンスをうかがう事にした。
しかし体に巻きついた触手はきつく、天井から宙ぶらりんの状態では何も出来ない。力を入れようと思っても、空中に浮いた状態では、力の入れようが無かった。
そうしているうちに、私の体も粘液に覆われ始め、手足の自由が全く利かなくなる。しきりに叫んでみたが、周囲に誰かいる訳もなく、絶望感に覆われる。
繭の糸が頭から覆い始め、外の景色が見えなくなるのに、それ程時間はかからなかった。
最後に誰かが呼ぶ声を耳にした気がしたが、真っ白な世界に覆われる中で、次第に気が遠くなっていった。
三
僕は何か懐かしい感じがした。どこにいるのか分からないし、目も開けられなかったけど、感覚的にとても懐かしかった。
重大な事を忘れている気はしたけど、この際どうでも良かった。
その懐かしさが心地よかった。何が起きているかどうでもよかったし、そもそも自分がどういう状態にあるかも、あまりよく分かっていなかった。
体に何か管が刺されているような感覚はあったけど、それはこの際大きな問題ではない。
考える力もあまりなく、ただ、ぬめり気のある液体の中に浮かんでいる事だけは、直感で分かっていた。
そのぬめり気がむしろ気持ち良さを更に増してくれている気がした。
管が何を意味しようと、もはやどうでもよかった。心地良いこの空間がすべてを満たしてくれ、余計な事など何も考えずに、ただ気持ちよい感触に溺れる事を楽しんだ。
刺さった管からは何か定期的に体の中に送られてくる物を感じたけど、それがなんだか分からなかったし、それに送られてくる物はとても気持ちがよかった。
そんな楽しい空間の外から、何か音が聞こえた。その音も何か懐かしかったけど、一体何なのか、僕には良く分からなかった。
むしろ、今は邪魔な音な気がしたけど、それが止む事は無かった。
液体は気持ちよく、全てを忘れさせてくれる気がした。再び管から液体が送られてくると、僕の気持ち良さは更に増した。全てがどうでもよくなり、再び深い眠りについた。
誰か僕を呼んでいる。でもそれが誰なのかはよく分からないし、心地よい眠りを邪魔された事に若干腹が立つ。
口から何か引き出される感触があったけど、それが何だかはよく分からない。
むしろ、今まで気持ちのよいものを提供してくれた管を、抜かれる事の方が抵抗があった。抜かれまいと抵抗しようとしてみたけど、全身に力が入らない。それよりも口から引き出される痛みで涙が出た。
それと同時に、切ったり割ったりするような音がした。何かを音はするのに何をされているのか分からず、嫌な感覚に陥っていたけど、抵抗する事は全く出来ない。
「くそぉ、完全に固まっていやがる。それに、この触手は何だよ。どこまで入り込んでいるんだ!」
口から管を完全に抜かれたとき、少しむせてしまった。今まで気持ちの良いものを送り届けてくれた物から引き離されるのを、とても嫌に感じた。
「とりあえず生きてはいるみたいだ。医者はまだか!」
口以外からも、体の中から何かを引き出される感触が全身からあったけど、それがどこなのかよく分からない。
「手遅れで無ければいいが。とにかく引き抜くんだ!」
誰かの声がする。手遅れとは何の事だろうと考えてみるたけど、考える事が出来ない。
それに何かを引き抜かれる感触が、時間と共にとても痛くなってきた。
「う、なんだこりゃ!」
「なんて事だ、こんな事があるのか……」
聞いた声がしたけど、誰の声か分からず、むしろイライラする。大体会話の内容が全く理解出来ない。
「シロン、起きてくれ、頼む!」
かけ声があったけど、むしろ眠りたかった。それでも体を揺さぶられては、目を覚ますしかない。ゆっくりと目を開けて、ぼやけた外の景色を眺めた。
「シロン、シロン!」
目を覚ますとウェアウルフ族の男がいる。見た顔だけど、誰だか良く思い出せない。その他にも何人もが自分を見ていたけど、誰だか良く分からない。そもそもぼやけた目では顔を判別する事も難しかった。
「シロンだよな、よかった。心配したんだぞ」
竜人族の男の人だ。見た事はあるけど、やっぱり誰かは分からない。
男は僕を抱き上げるように持ち上げた。背中に何か変な感触があるけれど、よく理解出来ない。
「背中のも、完全に引き抜いてくれ、頼む」
男の声がする。何かが体から引き抜かれ、とても痛かった。その度に体がピクピクと動いてしまう。
「よし、これで全部だ。とにかく医者を早く呼べ!」
それよりも、今は再び眠りにつきたかった。僕は再び目を閉じる。遠くで誰かの声が聞こえる。
「今はそっとしておいたほうがいい」
そうだ。そっとしておいてほしい。今は眠りにつきたかった。
明かりが眩しく目を覚ます。ここはどこだろうと思いながら、状況を確認した。
ベッドの上だ。なぜベッドの上にいるのだろうと、一生懸命に考える。何か大変な事があった気がするけど、どうしても思い出せない。
「シロン、気が付いたか?」
ベッドの横にはアーガイルが座っていた。
「シロンのおかげで、俺は助かったよ。カロンも無事さ。話す事は出来るか?」
僕は何かを言おうとしたけど、何を言ってよいのか分からなかったし、ひどく疲れているのか声を出す事も難しい。その所為で喘ぎ声のようなものが出た。
「無理はするな。お前がいなければ、俺たちは助からなかったんだ。感謝するよ」
「お、シロンが目を覚ましたのか。大丈夫か、シロン?」
そこに来たのはカロンさんだった。手に水差しとコップを持ち、ベッドの横にある机に置く。
「あの後すぐに助けが来てな、俺たちは何とか無事だった。ただな……」
カロンさんは、何か浮かない顔をしている。それがよく分からない。
「お前をすぐに助ける事が出来なかった。繭に覆われたお前の繭は、触手の主を殺すまで何も出来なかったんだ。それで、お前を触手から解放するまで、三日もかかってしまった。町の守備隊が出動してくれたんだが、それでも三日だ。もう少し早ければ……それに、触手を取り除いても、お前の繭はすでに固くなっていて、中から出すのが遅れてしまった。だから、だから……」
カロンさんの目から、涙が溢れていた。カロンさんらしくないと思う。普段のカロンさんなら、泣く事は無い筈だから。
「思ったよりお前が重体で、心配したよ。とりあえず意識が戻ってよかった。お前は何も心配しなくていい。今はゆっくり休め」
アーガイルも、同じように浮かない顔をしていた。何故だろう。
「どこか痛む所は無いか?」
全身が痛んだけど、特に背中の痛みが激しかった。だけど、それを口にする事が出来ない。
「たぶん全身痛いとは思うんだがな。傷口がきちんと閉じるまでは、暫く痛いだろうと医者が言っていた。一応痛み止めを打ってもらったから、幾分かはましな筈だが、痛かったらすぐに言ってくれ。飲み薬も貰ってあるから」
本当は、痛み止めの薬をすぐにでも飲みたかったけど、どうしても声が出ない。
「とにかく今は休め。他の事は気にするな。俺とカロンも今度の事で良い関係になれた。それもシロン、お前のおかげだよ」
「アーガイル、その辺にしてやれよ。シロン、痛み止めが飲みたかったら、私の手を握ってくれ。多分声も出せないんだろう?」
黙ってカロンさんの差し出した手を弱々しく握った。手が何か違う感触がしたけど、それがよく分からない。
カロンさんは、そっと薬と水を飲ませてくれた。
「今すぐには痛みは引かないと思うが、徐々に痛みは引く筈だ。暫く我慢してくれ」
僕は再び目を閉じて眠りの中へ落ちていった。
四
「シロン、回復おめでとう。一時はどうなるかと思ったぞ」
クルウェルさんが僕の肩を叩く。僕はそれに笑顔で答えた。
「クルウェルさんが見舞いに来られるなんてびっくりですよ」
「はは。本当はみんなも来たがっていたんだが、なかなか抜け出せなくてな」
「いえ、そのお気持ちだけで十分です」
「ところでシロン、これからどうするつもりだ? 今までとは、感覚が違うだろう?」
確かに感覚は違うけど、体が動かせない訳ではなかったし、少しは慣れたつもり。
「あの『虫』だが、他にも沢山いたよ。行方不明者は殆どが、あの『虫』の犠牲になっていたらしい。お前が最後の犠牲者にならずに良かったよ。まあ、その所為でお前の体も変わっちまったがな。医者もなぜそうなったのかは分からないと言っていた」
クルウェルさんは、少し悲しそうな顔をする。
「クルウェルさん、そんな顔しないで下さい。助けてくれただけでも感謝してます」
「シロン、お前……」
「副長、お見えになっていたんですか!」
アーガイルが僕の病室に入ってきた。隔離病室になっていたので、他の患者との接触は無い。
僕に会える人物は、医者を含めてごく限られた人に制限されていた。
アーガイルの手には、僕の食事が載せられている。隔離病室は不便な面もあったけど、しかし今はそれよりも大事な事があった。
「カロンが、自分と同じような物ならと言っていましたよ。ここで手に入れるのはちょっと大変らしいですが」
「それじゃあ、カロン君が来るのを待つしかないな。ところでシロン、本当に大丈夫なのか?」
「あ、はい。僕は健康だと思いますよ。まあ確かに、これはびっくりしましたが、それ以外は多分大丈夫です」
そのとき、ドアをノックする音がした。
「どうぞ」
僕が答えると、数名の医師が入ってきた。
「シロン君。君には残念な結果を知らせねばならない。我々には、なぜ人族だった君が竜人族に変わってしまったのか、皆目見当もつかない」
僕の体は全身真っ白の白い竜人族の体になっていた。
身長こそ以前とそう変わらないけど、青い目の色、青の頭髪と青い背骨に沿った体毛。どこからどう見ても竜人族だ。
「もう暫く、検査は受けてもらうが、今のところどの検査も、君が竜人族である事を証明する結果になってしまう。君の仲間のカロン君が協力してくれているが、結局のところ、これからは竜人族として生きなければならないと思う」
牛頭族の医師は、大きくため息をついていた。
「本当に申し訳ない。何か協力出来る事があれば出来るだけさせてもらうよ。それでは失礼する」
数人の医師が、部屋から出て行った。その直後カロンさんが部屋に入ってくる。医師団は面白そうな顔をしていなかった。
「なんだ奴らは、私に喧嘩を売ってるのか?」
「カロン、連中も疲れているんだ。大目に見てやれよ。シロンがここまで回復したのは、連中のおかげなんだから」
クルウェルさんにそう言われて、カロンさんも黙ってしまった。
「それよりシロン、これ使ってみてくれ。私たち竜人族が使う服なんだが、これなら大丈夫な筈だ」
ベッドサイドボードに置かれた箱を覗き込んだ。中には白い長い布一枚と、大きめのスカートのような物、上着が入っていた。
「我々の間では白い布は褌、そっちのスカートのような物を袴と呼んでいる。元々は人族の物らしいのだが、我々にも使い勝手が良くてな。普段着はその格好が多い。褌というのは先端を腰に巻いて、途中から下に出す。一度見本を見せるからその通りやってくれ。で、お二人さん。いくら男といえど、ちょっとはカーテンの向こうに行くなりしてくれるとありがたいんだが?」
それを聞いたクルウェルさんとアーガイルは、そそくさとカーテンの外に出て行った。それを確認したカロンさんは、自分の褌を一度外し、つけ方の講習をしてくれる。講習は五分ほどで終わり、新しい着物を着る事が出来た。
「まさに竜人族そのものだな。根元の部分はきちんと見えなくなるのか」
クルウェルさんが、感心したように見ている。
「我々竜人族では、基本的には男も女これと同じような格好です。これからは竜人族の町を旅する事が多くなると思うので、これで大丈夫と思います。私だって、この格好なら見分けがつきませんよ」
「俺は、竜人族がまた増えて面白くないがな」
アーガイルが不満を漏らす。それを見ていたクルウェルさんは、クスクス笑っていた。
「だったら、アーガイル、いつからそんなにカロンさんと仲良くなったんだよ」
「そりゃぁ、あの一件で……」
アーガイルは、頭をかきながらカロンさんを見た。
「だな、アーガイル」
カロンさんもクスクス笑っている。その言葉にアーガイルは反論出来なかったようだ。実際、僕らが助けてくれなければ、アーガイルは死んでいたかもしれない。
繭にされていた人々の大半は、すでに死んでいた。多くは『虫』に体液を吸い取られており、ミイラ化していた。
数名ほど生存者もいたけど、いずれも重体で、未だ意識が戻らない者もいるらしい。
「それは私も同じだよ。シロンが俺の変わりに繭にされたんだからな」
カロンさんが付け加えたように言う。
「シロンが触手を切ってくれなかったら、多分私が真っ先に繭にされていた。今考えたらゾッとするよ。その所為でシロンがこんなになってすまないとは思っている。だから出来るだけサポートはしたいんだ」
「でもよ、お前のその体本当に大丈夫なのか。俺が馬鹿な事を最初にしなければ……」
「そう思うなら、今まで僕がやってた分、しっかり働いてよ」
アーガイルは涙目で笑っている。
「それに、案外気に入っているんだよ。尻尾って便利だよね。もう一本足が増えたみたいだ。何で人族に尻尾が無いのか、今じゃむしろ疑問だよ」
「そんな事言うなよ、シロン。俺ももう少し注意していればな……あの時部屋に入るのを止めていれば、そうならずに済んだかもしれないんだ」
今度はカロンさんがすまなそうに言う。
「そしたらカロンさん、あなたがどうなっていたか分からなかっじゃないですか。助かった事に感謝すべきです」
「シロン、その明るさだけは変わらないよな」
カロンさんの言葉にその場の全員が和んだ。
「シロンはもう少し休んでいたほうがいい。繭の中で、何をされたのかよく分かっていないんだ。他にも変化が出るかもしれないからな」
「分かりました、クルウェルさん。僕のためにわざわざすみません」
「なに、お安い御用だよ。また来るつもりだ。次も元気な姿を見せてくれよ」
「はい!」
それを聞くと、クルウェルさんは部屋を後にした。
「カロンさんからプレゼントをもらうとは、思わなかったよ」
クルウェルさんが部屋を出るのを確認して、カロンさんを見ながら言う。
「この程度しないと、せっかく助けてもらった借りが返せないからな」
カロンさんは少し照れくさそうだ。
「おや、これで僕に借りが返せたと思っているの?」
笑顔で言うと、カロンさんもそれを分かって笑っていた。
「一番礼をしなきゃならない俺からは、渡せるものがないからなぁ」
アーガイルはばつが悪そうに頭をかいていた。
「借りは、後でしっかり返してもらうよ」
微笑みながらアーガイルを見つめる。アーガイルはそれに苦笑していた。
「俺とした事が、全くドジをしたよ。おかげでレン様には大目玉を食らうし、副長もかなり怒っていたからな」
アーガイルは頭をかきながら、ちょっと反省しているような顔をしている。
「当たり前だよ。いい年して何やってるんだか」
「シロンには当分言い返せそうも無いな。ま、仕方ないか」
「さて、アーガイル。そろそろ戻るぞ。今日はお前の処分決定の日だろ」
「処分?」
何の事だか分からず、二人を見る。
「そりゃ、こんな大失態をやったんだ。処分を受けるのは仕方ないさ」
そう言って、アーガイルは再び頭をかいた。
「じゃあシロン、また来るからな」
カロンさんはそう言い残して、アーガイルをつれ病室を後にした。
「シロン、復帰おめでとう!」
僕を取り囲むように、アタランテの仲間が何人も祝福してくれる。
「でもよシロン、お前どうするんだ? 竜人族の知識はあるのか?」
「ヨジュエル、余計な事を言うな!」
「いいよ。こうなったものは仕方ないから」
笑って答えた。
「カロンと同じ白とはな。まるで兄弟みたいだ」
何人もの人が、僕の復帰を待ちわびていたかのように話しかけてくる。
「なあシロン、今まで無かった尻尾を持った感想は?」
「どうって言われても、分からないなぁ。なんて言うか、足が増えた感じかな」
僕は尻尾を少し動かす。その動きに一同感心する。
「まあ、僕の新しい足みたいなものかな」
「さ、新車長就任式だ。前に出た、出た」
後ろの方でまたしても声がする。
アーガイルは、今回の一件で馬車長を解任させられてしまった。それは誰もが予想していた事だったけど、一番意外だったのは僕が後任に就いた事だった。経験からいえば、僕なんか、まだまだの筈なのに。
「新馬車長就任おめでとう」
クルウェルさんが僕の肩を叩く。黙ってアーガイルを見た。
「俺がやったヘマだ。文句は言わないよ。これからはシロン、お前が俺たちの隊長だ」
そう言いながら、アーガイルが頭をなでてくれる。以前とはちょっと違う感覚に戸惑うけど、そのうち慣れるだろうと思った。
「隊長って柄じゃないと思うけどな」
アーガイルの皮肉に、僕は笑顔で答える。
「アーガイルだって、飛び出してヘマをしたんだから、言われたくないな」
さすがのアーガイルも苦笑している。勿論、痛いところを突かれたからだろう。
「さ、シロン。これが車長証だ」
レン隊長の手には、鷲が翼を広げた幅五センチ、高さ一センチほどの飾りがあった。
僕はそれを受け取ると、胸にあるアタランテの胸証の上に付ける。
「これでシロンも馬車長だよ。アーガイル、カロン、しっかりサポートするんだよ」
僕は、じっくりと馬車長証を見つめた。それは僕にとってとても欲しかった物だったけど、まさかこのような形で手に入るとは思ってもいなかった。
再びアーガイルを見る。アーガイルは、素直に喜んでくれていた。
「さ、これで解散だよ。シロン、今日から馬車長だ。頑張りな」
レンさんの言葉に頷くと、みんなそれぞれ自分たちの部屋や馬車に戻っていく。
「シロン、これから色々大変な事もあると思うけど、頑張りな」
レンさんもそう言い残し自室へ戻っていった。
「さて、隊長殿。俺たちも馬車に戻ろうか」
アーガイルが、からかい気味に言ってきた。
「ああ、それがいいな」
カロンさんも賛同し、僕の背中を押す。
「シロン、本当にありがとうな。お前が助けてくれなければ、俺は今頃……」
アーガイルが涙目だ。
「いいよ、助かったんだから気にしないでよ」
アーガイルが涙を拭きながら、僕の背中を押した。
「さ、早く戻ろうぜ」
カロンさんの言葉に、僕たちは馬車へと戻っていった。
五
またこの夢だ。僕は眠りながらそう思う。
これで何度目だろう。なぜか同じ夢を見る事が多い。
カロンさんはきっと理由があると言っていたけど、そんな理由があるなら早く知りたかった。
今日の夢も空を飛んでいる。なぜ空を飛んでいるのだろう。高い所はあまり好きじゃないのに。でも、夢の中なのに風を切る気持ちよさを感じられる。
大体これは夢なんだ。気持ちよいなんておかしいじゃないか。何時もそう思いながら夢は続いていく。それに空を飛んでいるって、何で分かるんだ。分からない事ばかりで頭が混乱する。
雲の間を縫うようにして進んでいくと、陸地が見える。何時も見る陸地だ。一体何処なのだろう?
陸地に近づくにつれ、だんだん地上に近づいていく。
地上には、人が何人も見える。人が逃げているようだ。なぜ逃げているのだろう? まるで、僕から逃げているようだ。でも、なぜ逃げているのか分からない。
町の上を周回する。一軒だけ屋根が吹き飛んだ家があった。僕はそこに近づいてゆく。中にはウェアウルフ族の人が二人いた。
記憶が途切れた。僕は二人を抱き上げている。いつ抱き上げたのだろう?
二人は気を失っているようだ。僕は町から離れてゆく。数分すると竜人族が集まっている場所に降り立つ。そこで二人を放した。
夢が突然切り替わる。青い竜人族の男がいる。
「我々にとって君は邪魔なのだ。だからこうさせてもらう。これで二度と会う事は無いだろう。恨むのなら自分の運命を恨むのだな」
何を言っているのだろう? 意味がさっぱりだ。そうしているともう一人の青い竜人族の男が近づいてきて、何かを話している。
一体、何度意識が飛ぶのだろう。今度は明るい所だ。誰かの声がする。
「しっかりしろ。大丈夫か!」
何の事だかさっぱりだ。
「こんなになっちまって。とにかくここから離れよう。今なら誰もいない」
誰もいない? あなたがいるじゃないか。全く訳が分からない。こんなになっちまってって言っていたけれど、どうなっているんだろう?
どこかに運ばれていくのが分かる。何処に運ぼうとしているのだろう?
「あなたの服だ。きっと将来役に立つ筈だ。私はこれ以上ここにはいられない。君の家族も捕らえられた。しかし君ほどひどい目に合わされている訳ではない」
君の家族? 僕に家族がいるの? 何を言っているんだ。誰か説明してほしい。
「反乱は失敗した。関係者は捕らえられているが、君の救出が遅れてしまった」
反乱。反乱があったのか。どんな反乱だろう。
「君が反乱の首謀者と思われている。しかし、我々には君が関係ない事が分かっている」
首謀者? 僕が反乱軍の首謀者? 関係が無い? 全く訳が分からない事ばかりだ。
「陛下には私の方から報告する。君への誤解は解ける筈だ。しかし今は時間が欲しい。だから安全な所にいてくれ」
安全な所……ここがそうなのだろうか? 分からないことだらけで、頭が混乱する。
「人をすぐによこすから、どうか暫くここにいて欲しい」
足音が遠ざかる。何が一体どうなっているんだ?
僕はフラフラと立ち上がる。明るい所へ向かっている。そう、明るい所に行きたい。
どこかの町だろうか。建物が立ち並ぶ。誰か呼ぶ声がする。何を言っているのだろう?はっきりと聞き取れない。
「誰か来てくれ、助けが必要だ!」
助けは必要なのだろう。そんな気がする。
そして夢は終わる。何時もこんな夢が連続する。少しずつ違うときもあるが、基本的には同じ夢だ。
また夢が始めから始まる。これを悪夢というのかな? だったら早く終わってほしい。
しばらくしてはっきりと声がした。僕を呼ぶ声だ。まだ夢を見ているの?
「シロン、起きろ。朝だぞ」
ウェアウルフ族の男だ。そう、アーガイルだ。
「またうなされていたぞ。最近多くないか? 大丈夫なのか?」
「あ……うん、多分。僕は大丈夫」
ふぅ、何時もの夢を見てしまった。全く嫌な夢だ。
「シロン、馬車長集合だってよ。早く行った行った」
アーガイルが背中を押す。さて、今日も一日の始まりだ。一体何の用だろう。馬車長ってのも結構忙しい。
そう思いながら部屋を後にした。